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第22話 彼女とはんぶんこ

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「美味しい」
「良かった!」

 いつものように彼女の手作り料理をご相伴に預かり、食の幸せを噛みしめる。

 よく耳にしていた、店の料理よりも家庭の味の方が美味しいという声は大抵、作り手の愛情が篭っているからという非科学的な根拠によるもので僕は懐疑的だった。
 しかし、彼女の作る夕食に関してはそもそも料理のレベルがお店のそれを凌駕するというレアケースであるため、僕は納得してプロ顔負けの料理を堪能することができる。

 本日の献立である『ローストビーフ丼』を咀嚼しながら、そんなことを考えた。

「これは確かに神作だね」

 それが、1口目を飲み込み終えた僕の率直な感想であった。
 器に盛られたご飯に、赤いドレスのように被せられたローストビーフは一枚一枚にちゃんとサシが入っており、口にすると溶けてしまうほど柔らかい。
 肉は歯ごたえのあるタイプよりも柔らかい方が好きという僕の意見を尊重してくれたらしく、朝から仕込みをして極限にまで柔らかくしたんだとか。

 このお肉と卵黄を一緒に食べたら絶対に美味しいに違いない。
 自身の確信に従い、てっぺんに添えられた黄身を崩してみる
 黄色に染まった肉を箸で持ち上げ、控えめに口を開けて頬張った。
 思った通り、とろりと卵黄と絡み合ったローストビーフはマイルドながらも深いコクを生み出してくれた。
 自然と、頬が緩んでしまう。

「もー、褒めすぎっ。あんまり言いすぎるとお世辞だと思っちゃうぞー」
「自分で神作って言ってなかったっけ」
「あは、そうだっけ?」

 肩幅の狭い身体が左右にゆらゆら揺れている。
 彼女が嬉しいと感じている時によくする動作であることを、この1週間で学んだ。

「ヨーグルト、あった方がよかったでしょ?」
「ん、ああ……」

 赤い火山にかかった白いソースに関しては彼女に同意する。
 ローストビーフ丼には醤油ベースの甘辛いタレともう一つ、さっぱりとしつつもクリーミーなヨーグルトソースがかけられていた。
 確かに、この二つのソースごとに別々の風味を堪能できて、味に飽きが全く来ない。
 どちらのソースと絡めて食べたとしても絶品なのは言うまでもなかった。
 箸休めのシーザーサラダも、カリカリパンとチーズがたっぷりとかかっていて堪らない美味しさである。

「それにしても望月くん、食べる量増えたよね?」
「え、そう?」

 言われて、器に盛られたローストビーフ丼を見下ろしてみる。
 確かに、以前に比べると白米の盛りの主張が激しくなっているような。

「ふふっ、毎晩少しずつ量を増やしていった甲斐があった」
「確信犯か」

 ぺろっと、彼女は色の良い舌を出した。
 僕は不可解な面持ちを浮かべる。

「なんでそんなことを」
「だって望月くん、男の子なのにすごい少食だからさー。細くて今にも折れそうだし、なんだか心配になっちゃって」

 セリフとは対照的に、彼女は富士山のように盛られたローストビーフ丼をバクバクと頬張っていた。
 
「君の食べる量を一般基準としたら誰でも少食になると思う」
「流石に自分の食べる量は基準にしてないわよぅ」

 なんだ、自覚はあったのか。
 むぅーと口を膨らませる彼女は一体何を恥じているのだろう。

「上京する前は人並みくらいには食べていたよ」
「へえ、そうなんだ! どうして食が細ったの?」
「毎晩さして美味しくもないカップ麺ばっか食べてたら、身体がだんだん食に対する欲求を失っていって、しまいには胃袋が縮んでいった」
「うっわそれまじで成人病一直線じゃん。良かったねー、私が料理作るようになって」

 感謝しなさいよーほれほれと高飛車気味な彼女に、僕は何気ない一言を口にした。

「うん、感謝している。いつもありがとう」

 僕の崩壊していた健康状態が良い傾向に転じたのは食生活の改善が要因だろう。

 顔色が良くなったと涼介に言われた。
 身体の調子が良いことも実感している。
 それもこれも、バランスの良い彼女の料理のおかげだ。
 仕事も捗るようになったし、僕が謝辞の意を表すことはなんらおかしくない話なのだ。

「……」

 てっきり、彼女は僕の返答に一層得意になって顔にドヤを浮かべるものかと思っていた。

 違った。
 
 一文字に結んだ唇を小さく震わせて、彼女は居心地が悪そうに目を泳がせていた。

「……なに、その反応?」
「やー、もしかしなくても望月くん、不意打ちが得意だったりする人?」
「なんの話?」
「んんー、なんでもないっ」

 珍しく彼女はしてやられたような表情をしていた。

 悔しそう、というか。

 なぜ?

 この話は終わりっ、とでも言うように、彼女はローストビーフ丼を乱暴に頬張り始めた。
 僕の疑問が昇華される機会は失われる。

 なんだか釈然としなかったが、こういうことはたまに発生する。
 まあいつものことかと軽く流すことにした。

 彼女も、機嫌を損ねたというわけではなさそうだ。

 なぜなら彼女の身体がゆらゆらと、左右に揺れていたから。

 ゆらゆら、ゆらゆら。

◇◇◇

 料理を作るのは好きだが片付けは苦手というタイプの人間がいる。
 予想通りというか、彼女はそれに該当するようで、僕が食器洗い当番を担うのはとても助かるとのことだった。
 僕は食器洗いのように地味な作業は嫌いではなく、むしろ得意な方。
 仕事でもクリエイティブな作業よりも、エクセルで資料をまとめたり業務の合理化をしたりする方が向いている。

 正反対がプラスの方向に働いたねと、彼女が嬉しそうにしていたが僕はスルーした。
 同意するのは癪だった。

 というわけで、食べ終わった後に食器を洗うのは僕の役目で固定された。
 僕としても何もしないというのは気がひけるので、それはそれでありがたい。

 今晩も今晩とてじゃぶじゃぶと器を洗っていると、彼女がひょこひょことやってきて戸棚からお皿とフォークを取っていった。
 ああ、そういえばシュークリーム買ってきたんだっけと思い出す。
 150円にしては結構美味しそうだし、今度自分用にも買ってみるかなんて思いながらリビングに戻ると、彼女がソファに腰掛け「おかえりぃ~」と間の抜けた声をあげた。

「今日も洗い物ありがとうねー」
「このくらい造作もない」

 対面に座ると、机に置かれた二つの小皿が目に入った。
 不思議に思って彼女の方に視線を移すと、繊細な手のひらがシュークリームを半分にちぎっていた。

「はい」

 二つに分けたシュークリームの、大きい方を小皿に乗せて僕の方に寄せてくる彼女。

「これ、君に買ってきたんだけど」
「こういうのは分けあった方が美味しいでしょ?」
「シュークリームって二等分にした方が美味しくなるの?」
「本気で言ってる?」
「誰かと一緒に食べた方がセロトニンが分泌されて幸せだと錯覚するらしいね」
「前半合ってるけど後半の言い方がなんかやだ!」

 彼女がフグみたいに頬を膨らませる間に、僕は無言でシュークリームを取り替えた。

「え、いいの?」
「買って来た僕が大きい方を食べるのはおかしいでしょ」
「でも」
「いいから」
「……ありがとう」

 遠慮がちだけど、嬉しそうに、彼女はシュークリームを口に運んだ。

 シュークリームを一齧りした彼女は頰に手を当て「んんーっ」と幸せが溢れんばかりの顔をする。
 この表情を見ると、幸せは錯覚では無いのかも、と価値観が新たになりそうだった。

 僕も続いてシュークリームを手に取る。
 ふと断面を見ると、白と黄色のクリームが綺麗に二つに分かれていた。
 ダブルホイップってそういうことかと新たな発見に感心しながらシューを口にする。

 あまり甘いものが得意ではなくすぐに胸焼けをしてしまう僕だけど、このくらいの量だとちょうど良い。 

「テレビ見ていいっ?」
「テレビつけながら言うこと?」
「一応、礼儀はちゃんとしないとね」
「許可を得るまでが礼儀だと思うんだけど」

 僕の小言に聞く耳なぞ持たない彼女は、我が家の32インチテレビに電気を流しお笑い番組を見ながらけらけらし始めた。

 すっかりセカンドハウス気分でくつろぐ彼女に、僕は小さなため息をつく。
 最初の頃は食事を済ますとすぐに自分の部屋に戻っていた彼女だったが、ここ数日は夕食後にしばらく居座るようになった。
 大抵はテレビを見たり、僕に雑談を振ってきたりと、何でも無い時間を過ごしている。
 僕個人としては読書に集中できないためお帰り願いたい気持ちも無くはないが、その胸のうちを彼女に切り出すことは無かった。

 彼女と言い合う労力を使いたくないのか、それとも……案外この時間が嫌いではないとか?

 まさか。
 
 考えても曖昧な思考に結論が出ないだろうから、僕は諦めて読書を再開することにした。
 少々ノイズがあるものの、読み進めることはできるだろう。
 人生は意外と短いのだから、コンテンツはスピーディに消費しなくてはならない。

 なんて思っていた矢先、彼女が「ねぇねぇ」と声をかけてきた。

「望月くんって、お笑いとか見る?」
「見ると思う?」
「んー、見ないと思う!」
「じゃあ何で聞いたの」
「一回くらい見たことあるかなーって」
「そりゃまあ、見たことはあるけど」
「誰が好き?」
「……アンチャッシュとか陣外智紀を見てる時期があった」
「あー、なるほど! 頭使う系ね!」
「君はその逆?」
「だねぇ、ノリと勢い系が好きかなー」
「まあ、君がノリと勢いで生きているようなもんだからね」
「褒めてる?」
「たぶん」
「わーい」

 こんな調子のやりとりを、何度か繰り返した。
 彼女と言葉のキャッチボールをしつつも、僕は今日買ってきた本の1冊目を読み進める。
 気がつくと、物語は早くも終盤に差し掛かっていた。

「望月くん望月くん!」

 物語もクライマックス。
 主人公が、プロローグから行動を共にしていた幼馴染みに背後から刺され血まみれになる的な展開で興奮度が上がってきた時、彼女が最後のトドメとばかりにボールを投げてきた。

 僕が気の長い人格者で良かったと思う。

 モヤモヤをうまく処理し、僕は彼女に視線だけで「なに?」と返答する。

「テレビ、ほら!」

 ぴしっと差された人差し指の先を辿ると、僕の中でイメージとして残っていた血塗れ主人公の赤が、美しく燃え彩る紅葉の赤に上塗りされた。

 画面上では秋の行楽特集が放送されていた。
 都会の日常生活では馴染みのない山を美しく彩る赤。
 なんでも、高尾山では例年よりも早い紅葉シーズンを迎えており、連日観光客で賑わっているらしい。

 高尾山は標高600mほどの低山で、都内からでも気軽に行ける登山スポットとして有名である。
 
 だからなんだというのだろう。

 有名であろうがなかろうが、そもそも山なんて僕に一生縁がないと思えるもの。
   こと身体を動かすという点においては大の苦手分野とする僕にとって、登山なぞ最も唆られないジャンルであった。

「綺麗だね」

 とりあえず、差し支えのないコメントを返しておく。

 よくもまあ自ら重力に抗い身体を痛められるもんだと、気配を消して首をゆっくりと元の位置に戻し、何事も無かったかのように読書に戻ろうとすると、身を乗り出し瞳を爛々と輝かせる彼女の顔が視界を覆った。

「週末、高尾山に行こう!」
    
 薄々、いや、色濃く予感はしていたものの、いざ言われてみると事の重大さに背中から冷たい汗が滲み出る。

 僕が登山? 
 いや、無理だって。
 なんとしてでも彼女の思いつきを阻止しなければならない。

 僕は頭をフル回転させ、彼女への反論を開始した。
   
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