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第56話 彼女と梅酒とドリームカー

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 散策し終える頃には、空はすっかり闇に包まれていた。
 時間を確認すると5時を回ったばかり。

 随分と早く日が落ちるようになったと、一抹の驚きを覚える。
 普段はオフィスの中にいて日没を拝むことがないので、この感覚は妙に新鮮だった。

「そろそろ帰ろっか!」

 彼女の一言で、帰路につく流れになった。
 駅に戻り、ICカードをチャージした後にふと、電子案内板を見上げる。

 小田原行きの箱根登山線は10分後の発車。
 新宿行きの特急「ドリームカー」は20分後の発車予定だった。

「あのさ」
「んぅ?」

 彼女がこちらを向いて、こてんと小首を傾げる。
 
「帰りは特急に乗らない?」
「ドリームカー?」
「そう」

 織田急電鉄は、箱根湯本から新宿までの間に「ドリームカー」と呼ばれる特急列車を運行している。
 これに乗っていけば、通常列車に乗って帰るより20分ほど早く下北沢に着ける。
 織田急ユーザーであれは、颯爽と走り去るオレンジ色の車体を何度も目にしたことがあるだろう。

「急ぎの用事でもあるの?」
「いや、ないけど」
「じゃあ」
「特急だと席指定だから確実に座れるし、席もゆったりしてるから良いかなと」

 なぜか説明が早口になる。
 彼女は目を丸めてきょとんとしていたが、端正な顔立ちに喜怒哀楽の1番目の感情を浮かばせ、ゆっくりと頷いた。
 
「うん、確かに、望月くんの言う通りだね」

 頬を緩ませた彼女が、僕の言葉を指先でなぞるようにして言う。

「じゃあ、ドリームカーで帰ろっか」

 賛同を得ることができたので特急券を購入する旨を伝えると、彼女がいそいそと財布を取り出した。
 ドリームカーに乗るには特急券が必要で、追加で1000円ほど支払わなければいけない。

「いいよ、僕が提案したんだし」
「ええっ、悪いよそんな。温泉代まで出してもらって」
「いつも夕食を作ってくれる分ってことで」
「材料費は割り勘じゃん」
「手間賃と付加価値も含めてだよ。君、自分がどんだけ美味しいものを作ってるか、自覚ないの?」

 言った途端、彼女の顔がボッと赤らんだ。

「その不意打ちはずるい!」

 ぽかぽかと間抜けな効果音が聞こえてきそうな力加減で、両拳を肩に叩きつけてくる彼女。
 事実を述べただけなのに予想外の反応を示され、少しばかり面食らう。

「地味に痛いんだけど」

 抗議すると、彼女はぷくーと頬を膨らませそっぽを向いた。
 意味不明ここに極まれりだったが、本気で怒っているわけではなさそうだ。

 特急券を買い求めた後、改札をくぐり、ホームに降り立つ。

 ホームの売店で飲み物を買ったタイミングで、ドリームカーがやってきた。
 特急券に記載された座席番号を確認し、新幹線を彷彿とさせるオレンジ色の車体に乗り込む。

 彼女は窓際、僕は通路側に腰掛けた。
 腰から伝わってくるクッションの弾力は、普通列車のそれより格段に良かった。
 席は通路を挟んで左右に二列ずつなので、見ず知らずの乗客に気を遣う必要もない。

 発車時刻となる。
 あまりに静かなもんだから最初、列車が動き始めたことに気づかなかった。

 ほぼ無振動でぐんぐん速度をあげていくドリームカー。
 なるほど、確かにこれは追加料金を支払うだけの価値はあると、ささやかなブルジョワ気分に浸っていると、

「ありがとね」

 彼女が、ぽつりと呟く。
 ドリームカーの快適な乗り心地に気分を良くしていた僕は、珍しく軽口を叩いた。

「何に対して? 普段から徳を積みすぎてるからわからないよ」
「思い上がんな」
「すんません」

 くすくすと、彼女が口を覆って笑う。

「あの力、一回使ったらガッツリ消耗するからさー。正直、助かった」

 思えば、彼女の力の副作用についてちゃんと話を聞くのは初めてかもしれない。

「どのくらい消耗するの?」
「んー……使ったその日、自分でも予想がつかないタイミングで寝落ちするくらい?」
「それは相当だね」
 
 以前、彼女が部屋で急に意識を遮断したことを思い出す。

「うん、だから、ありがとう」

 春の陽だまりみたいに笑う彼女の表情を、僕は直視できなかった。
 今考えうる最も最適な避難路として、売店で購入した梅酒のソーダ割り缶のタブを起こす。

「あ、そうだそうだ。乾杯しよ乾杯!」

 彼女も、缶コーラのタブをぷしゅりと起こす。

「かんぱーい」

 陽気な声を合図にお互いの缶を軽く触れさせた後、梅酒を一口。

 梅の香りが鼻腔を抜け、シロップの甘みと炭酸のしゅわしゅわ感が喉を通り過ぎる。
 動き回った身体にキンキンに冷えた梅酒は格別だった。
 普段、アルコールは摂取しない主義だが、こういう時に嗜むくらいは良いだろう。

「いいなーお酒」

 人差し指を口に当てるという、わかりやすい羨望のポーズをした彼女が視線を注いでくる。

 そういえばまだ、未成年だっけか。

 時々忘れそうになるのは、僕が彼女との年齢差に関してさほど興味が無いからだろう。

「あまり期待しないほうがいいよ。いざ飲んだところで、特別美味しいわけでもない」
「味よりも酔った感覚? に興味があるの。ほら、よく酔った勢いでやってしまいましたーってニュースあるじゃん。あれ、本当なのかなって」
「まあ、アルコールで理性が弱まるのは確かだけど」
「私には、都合の良い言い訳にしているようにしか聞こえないんだよねー」
「逃げ道にしている人はいるだろうね」
「でしょー? なんでもお酒のせいにするのは良く無いと思うんだ」
「酒がその人をダメにするんじゃなくて、もともとダメだった人を酒が暴く」
「そうそれ!」

 ぱんっと手を叩き、彼女が人差し指を向けてくる。
 
「お酒でやらかしたことは?」
「無いよ」
「おっ、さすが」
「もしそういう失敗談の一つや二つ持っていれば、場を盛り上がる一つの持ちネタとして使えたかもしれないね」
「それよりも、自制出来てる方が偉いよ!」
「飲む相手がいなかったから、そういう機会に恵まれなかっただけ」
「あっ、そゆことか、さーびし」
「君から聞いておいてひどくない?」
「でも、つまりそれって、望月くんはまだ自分の限界値を知らないってことだよね」
「限界を知ろうとも思わないけどね」
「ふーん」

 意味深な相槌を打ったあと、彼女は「そうだ!」と余計な事を思いついた時の笑顔を浮かべた。
 
「私がハタチになったら、真っ先に望月くんの限界値を調べてあげる!」
「いきなり何を言い出すの、君は」
「一緒に飲みたいって意味! 言わせないでよ、もう」

 後半の声は小さくて聞き取れなかった。
 まるで何かを隠すように、彼女は缶コーラを口につけた。

「僕なんかと飲んでも面白くないよ」
「大丈夫、私が面白くするから!」
「嫌な予感しかしないんだけど」

 彼女が笑う。
 うははっと、酔っているかのようなテンションで。

「3年後かあ……」

 不意に彼女の口から、どこか物寂しい言葉が溢れた。
 その表情には、仲の良い友人が転校してしまう時みたいな寂寥感があった。

 僕がその呟きを拾おうか迷っている間に、彼女は表情をいつもの快活な笑顔に変え、溌剌とした声で言った。

「どうなってるんだろうね、私たち!」

 その言葉は、僕に明確な答えを求めているというより、軽いノリで流して欲しいと言っているようなニュアンスに取れた。

「まあ、それなりにぼちぼちやってるんじゃない?」

 煮ても焼いても食べられなさそうな味気ないコメントを返す。
 彼女は「そうだねぇ」と呟き、それ以上なにも言ってこなかった。

 会話休憩のつもりで缶に口をつけ、底を上に向ける。

 大分緩く(温く?)なった梅酒で喉を潤しながら、ふと思う。

 ──3年後、自分はなにをしているのだろう。

 ちょうどそのタイミングで、列車が、最初の停車駅である小田原に到着する旨のアナウンスを車内に響かせた。

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