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第60話 彼女のおかげで

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「んぅーー!」

 自宅のリビング。
 顔いっぱいに幸せを描いた彼女が、はむはむと小動物のようにシュークリームを頬張っている。

「これ、やばい、超美味しい!」
「そんなに?」
「うん、生地が甘くてサックサクで、クリームもすごく濃厚! 今まで食べてきたシュークリームはなんだってくらい」
「まあ、駅デパの結構値が張るやつだからね」
「一個いくら?」
「800円」
「たかっ!?」

 彼女がぎょっとして、シュクークリームをまじまじと見つめ、すぐに僕のほうを向いた。
 このシュークリームにそこまでの価値があるのか、という疑問ではなく、なぜそんな高価なものをいきなり買ってきたのかという疑念を孕んだ視線。

「……ただの気まぐれ」

 短く応じる。
 直前まで喉に居た返答は、お腹の中に引っ込んでしまった。

「衝動買いってやつ?」
「かもしれない」
「うぅ……なんか急に食べるのが申し訳なくなってきた」
「気にしない」
「と言われてもー……むむう……なんにしても、ありがとう」

 彼女がふたつめのシュークリームに手を伸ばす。
 僕は安堵して、自分のぶんを一齧りする。

 香ばしさを感じる生地はクッキーのように甘く、サクサクとした食感が小気味良い。
 とろりと舌触りの良いカスタードクリームは、卵と牛乳本来の甘みが合わさってとても濃厚な味わいに仕上がっていた。

「うん、美味しい」
「だよね!」

 僕が一口齧っている間に、彼女は二つ目を胃袋に収めていた。
 だから魔法だろ、それ。

「残り1個、食べなよ」
「ええっ、ひとり2個ずつ買ってきたんじゃないの?」
「夕食後にシュークリームをふたつ入れられるほど、僕の胃袋のキャパは広くない」
「むむう。まだ盛りが足りないか……」
「なにか言った?」
「ううん、なにも。それじゃ、遠慮なくー」

 素知らぬ顔で最後の一つを手に取り、生地とくちびるをはむっと触れさせる。

「んんぅーー」

 キラキラと幸せエフェクトを振り撒く彼女は、食レポ番組に出演したとしても補正入らずに違いない。

 ……そろそろ言うか。
 半分ほど齧ったところで、彼女に尋ねる。

「今週土曜の夜、時間ある?」
「んぅ? ふぃふぁあふぇほぉ」
「ごめん、とりあえず飲み込もうか」
 
 もぐもぐ、ごくん。

「暇だけど、どして?」
「……新宿に、美味しい焼肉屋さんがあるんだけど、君がよければどうかなと」
「ふぇ?」

 なんだその声。
 彼女は呆けた表情を、すぐに驚き一色に染め上げた。
 
「どどどどうしたのいきなり!?」
「そんな動揺すること?」
「するよ! だって今まで、一度も……」

 言わんとしていることはわかる。
 休日は外食に出かけているが、毎度のごとく彼女が勝手に襲来してきて「さあ今日はどこへ行こうか!」と言った具合だ。

 つまり、僕から自発的に彼女を誘ったことはない。
 故に僕の提案は、彼女にとって青天の霹靂以外なにものでもないのだろう。

「どういう風の吹き回し?」

 尋ねられるも、喉まで来ていた返答が再びお腹の中に引っ込んでしまったため、お決まりのフレーズを口にする。

「気まぐ」
「はいダウトー!」

 流石に無理があるか。
 胡散臭い通販を見るような目をじっと向けられ、参ったな、と思う。

 とはいえ、ご飯に誘ったくらいでここまで驚かれるのは、今まで受動的すぎた僕の問題だ。
 そのしわ寄せは、どこかのタイミングでしなければならない。

 息を吸って、心をできる限り平穏にしてから、口を開く。

「今日決まったんだけど、来月から給与が上がるらしい」
「え、すごいじゃん! おめでとう!」

 僕の宣言に一転、彼女はまるで自分ごとのように喜びを露わにした。
 わー、ぱちぱちと、子供がはしゃいでいるかのようなジェスチャー付きで。

「あ、わかった。そのお祝い会ってこと?」
「それもあるかもだけど、本質ではない」
「あや、そなの? じゃあ真の目的は?」

 まるでアクション映画のヒーローが、悪の親玉に問い詰めるのようなフレーズを受けて、ぽりぽりと頬を掻く。
 いざ言うとなると、緊張していた。
 でも、ここまできたら言わないわけにもいかない。

 キッチンの換気扇の音、こんなに大きかったっけ。
 全く関係ないことを考えながら口を開く。

「今回の昇給は、どうやら僕の成長が評価されて執り行われたらしい」
「成長! すごいじゃん!」
「どうも」
「なにが成長したの?」
「人間的な部分だとか」
「にんげんてきな、ぶぶん?」

 こてりと、彼女が首を横に倒す。
 
「人を思いやる気持ちとか、他人の立場に立った行動とか? そういうのが、この二ヶ月で伸びた、らしい」
「あっ、なるほど。それなら私も納得かな!」

 うんうんと腕を組んでしきりに頷く彼女。

「君も、そう思うの?」
「そりゃ思うよー」

 具体的にどこが、とは聞けなかった。
 聞いたらまた、全身がくすぐったくなるのが目に見えていたから。

「君はさ」
「んぅ?」

 嬉しげに手足をぱたぱたさせる彼女に、尋ねる。

「僕が変化した理由の一端に、自分が絡んでいるとは思わないの?」
「へ?」

 道を歩いてたらヤシの実が降ってきたかのような表情をして、彼女の動きが止まる。
 勢いに任せて、告げる。

「たぶん、君の影響だよ、これは」

 言った。

 彼女は、どんな反応をするだろう。

 まっさかーと、けらけら笑うのだろうか。
 そうだね私のおかげだねと、えへんと得意げに胸を張るのだろうか。

 どちらでもなかった。

「……そう、なんだ?」

 彼女はぽりぽりと、頬を掻いていた。
 口元は緩ませ、どこが気恥ずかしげな彼女はゆらゆらと、身体を左右に揺らし始めた。

「なんか、嬉し恥ずかしいね」
「なんで」
「あ、これ、嬉しいと恥ずかしいのミックスジュースだよ」
「いや、それはわかるけども」

 自分で言っておいて受けたのか、彼女がけらけらと笑う。
 僕は妙にやきもきした。

「あのさ……」
「私が君の役に立てたことは、嬉しい、でも、いざそれは君の口から言われると、なんか照れくさいなーって」

 また、彼女は反則的な表情をした。
 今度は僕の顔が熱くなる。
 はにかんで照れ笑いを浮かべる彼女は、どうしようもないくらい可愛かった。 

「そっかー。お礼って、そういうことかー」

 身体をゆらゆら足をぱたぱた。
 彼女はすっきりした様子だった。

「でも、焼肉かー」

 福引で微妙な商品を引き当てた時みたいに言う。

「気が乗らないなら別に、お寿司とかでもいいけど」
「や、そういうじゃなくて。ご飯はぶっちゃけ、休日に一緒に行ってるじゃん?」
「ああ……」

 言わんとしている事はわかった。

 確かに外食は、お礼としては微妙かもしれない。
 彼女から誘うか、僕から誘うかの違いにしかなっていない。

「そこでなんだけど」

 彼女が例の表情を浮かべて、悪魔のような提案をしてきた。

「お礼として、私のお願いを一つだけ聞くってのはどう?」
 
 その条件を飲んだら最後、とんでもない目に遭わされる予感しかなかった。

 即座に首を横に振ろうとした。
 しかしかといって、美味しいお店を紹介する以外に僕ができる事があるかと聞かれると……思い浮かばない。
 魂が削れるかと思うくらい葛藤して、妥協案を提示する。

「僕が、身体的にも精神的にも被害を被らないお願いだったら」
「どんな鬼畜だと思われてるのよ私ー」

 むうーと、彼女が頬に空気を入れる。

「それで、僕に何をさせるつもりなの」

 どうせ拒否権は無いんだろうなという諦めと、彼女のお願い事に対するちょっとした興味から、尋ねる。

 僕の質問に、彼女はんんーーっと難しい表情を浮かべた。
 腕を組み、首を傾げ、身体を左右に捻って、最終的にこう言った。

「急には浮かばないから、思いついたらまた言うね!」
「なんだそりゃ」

 思わず苦い顔になる。
 断頭台を登っている途中、刑は延期ですと告げられたような気分だ。

 ……まあ、いいか。
 奇行に走りがちな彼女だが、一定ラインの線引きは案外しっかりしている事をこの3ヶ月で知った。
 
 なので間違っても、雪山に連行されるなんてことはないだろう。

 ない、よね?

 僕の不安をよそに、彼女は上機嫌のマーチを鼻で唄い始めた。
 まるで、大きな楽しみができたと言わんばかりに。

 ここで僕は、お礼をしたいという意向は伝えられたものの、とある気持ちを言葉として伝えられてないことに気づいた。
 
 むしろ順番的に逆だったんじゃ無いかすら思う。
 今更言わなくてもいいんじゃないか、とすら思ったが、ちゃんと言葉にしないと相手に伝わらないという彼女の教えに従うことにした。

 先ほどの勢いの余韻で押し出すようにして、言う。
 
「ありがとう」

 僕の言葉に、彼女はぴたりと鼻唄を止めた。
 そしていつもの、明るく快活で、生命感にあふれた笑顔を僕に向けて、おそらく一番ふさわしいであろう返答を口にした。

「どういたしまして」
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