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第118話 いい人と、出会えたな
しおりを挟む「そうか」
僕が放ったストレートすぎる言葉に対し、父親はほんの少しだけ、笑ったように見えた。
その微粒子のごとく小さな笑みの意図を考えるより前に、
「いいんじゃないか」
一年前。
僕が上京したいと申し出た時と、父親は、同じ返答を口にした。
「え……いい、の?」
思わず、聞き返す。
狐に包まれたかのような感覚。
今の僕の表情を端的に表すなら『ぽかん』だろう。
「いいと言った」
返答は素っ気なくも、確かな肯定の意味を含んでいた。
次の語が浮かばず、また、沈黙。
「あー……えっと……」
まさか、こんなにもあっさり許可が出るとは思わなかった。
後ろ手で頭を掻き、心の持って行き場におろおろしていると、
「好きな子と離れたくない、そんな利己的な理由で許可されると思っていなくて困惑している」
胸の内をそのまま言い当てられた。
当たってるか?
と言わんばかりに、視線を向けられる。
こくりと、ただ頷くことしかできない。
静かに、親父は口を開いた。
「利己的か利他的かで言えば、利己的な理由だ、自分勝手極まりない。だが別に、そこは大学を辞める、辞めないの判断基準ではない」
自分勝手極まりない。
淡々と並べられた言葉は、やけに大きく鼓膜を震わせた。
しかし、
「まず前提として、父さんの願うことは一つ。治に幸せな人生を送ってもらいたい、それだけだ」
この言葉は、胸を大きく震わせた。
父親の、僕に対する願い。
今までそんなこと言わない人だったから、その言葉は衝撃となって胸を打った。
「確かに、大卒という資格を持っていた方が就職にも有利に働く、給料にも良い影響を与える。余裕のある暮らしは、少なくとも不自由さを感じる機会は減り、いわゆるひとつの幸せとしての形を為すだろう、だが……」
それよりも、と言い置く父親の声は、ほんの微かに高揚している気がした。
「大切な人と日々を過ごす、これも幸せのひとつだ。そしてこれはお父さんの主観だが……お金がたくさんある、社会的地位が高い、という事よりも、幸せなことだと思う」
父親の言葉に対し、頭の中で持論や反論を展開することはなかった。
ただただ、耳を傾けていた。
「長いように思えて、人生は意外に短い。好きな子との過ごす時間を優先し、人生における幸福値を最大化させるのも、良い選択のひとつだ」
するすると、胸に降りてくるような感覚。
息を吐き、父親は結論を口にした。
「以上のことから、大学を辞める条件として、治の主張は妥当だと判断した」
しばらく、口を閉ざして居た。
父親が説明した内容を、ゆっくりと噛み砕いて居た。
頭が追いついてから、自分の主張が、想いが、父親を納得させることができた。
というよりも、これこそが父親が求めていた言葉だった。
それがわかった途端、全身からへなへなと力が抜けた。
「ただし、大学を辞めるにあたって、二つ条件がある」
「……条、件?」
緩んだ背筋が再びぴんと伸びる。
ごくりと唾を飲み込み、注意深く耳を澄ませる。
「治はさっき、その子に”感情”を学んだと言った」
小さく頷く。
「引き続き、たくさん教えてもらいなさい。そしてその感覚を、大事にしなさい。治が得たその感覚は、勉強では決して学ぶことのできない、人との関わりでようやく得ることのできる、尊くてかけがえのないもの……そしてそれは、幸せな人生を送る上で最も重要な感覚だ」
ちらりと、父親の視線が一瞬だけ母親の方に向いた、ような気がした。
「お父さんは、それをとてもよく知っている」
父親の隣で、母親がほんのわずかに顔を伏せる。
まるで、緩んだ口元を隠すかのように。
──私も若い時は、おさくんみたいに都会に憧れていたものよ~。
──なんで出なかったの?
──簡単なことよ。東京よりも、ここに居たい、そう思ったから。
空港から大学へ向かう途中、母親と交わしたやりとりが、なぜか頭でリピートされた。
「もう一つの条件は……」
変わらず、都会から遠く離れたしんとした森の中みたいな声。
「今度帰省するときは、その子も一緒に連れてきなさい」
僕をこんなにも変えてしまった人物を、この目で見たい。
そう、言っているように受け取れた。
返答は、決まっていた。
「……うん、わかった」
父親は満足そうに頷いた。
今度こそ、全身から力が抜けた。
背中はぐっしょり濡れていて、思わず大きく息を吐き、目線を下に落とした。
「治」
名を呼ばれ、面をあげる。
改めて、父親に向き直る。
父親は、今度ははっきりわかるくらいの笑顔を浮かべて、
「いい人と、出会えたな」
感情の篭った、優しい声で言った。
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