苺のクリームケーキを食べるあなた

喜楽直人

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本編

第一話 それは雪崩のように

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「くっ」

 あとちょっとで手が届くのに。サリは必死にその手を伸ばした。
 目当ての本に、中指の先は届いているのだ。ならば、このまま棚から引き出して、本が自然とその重みで前に傾いてくるまで頑張ればいい。筈だ。

「……あ、あと、もう少し」
 意地を張らないで踏み台を借りて来ればよかったと後悔する気持ちが芽生え始める。大柄な家族たちの中でひとりだけ背が低い事を気にしていたサリは「絶対届くもの」と爪先立って、自らの腕を限界まで伸ばすことを選んだのだ。

 そうしてついに、目当ての一冊が大きく前へと傾きだした時、サリは自身の努力が実ったことを誇らしく感じた。
 ほんの一瞬だけ。
 ずるりと動き出した本は、しかし隣り合わせた本まで一緒に前へと動かした。

 つまり、サリの頭の上で、本が雪崩を起こしかけている。

「え、嘘。……やぁっ!!」

 思わず伸ばしていた両手で自分の頭を隠してしゃがみ込んだ。
 しかし、一向にサリの頭には衝撃が降ってくることは無かった。
 恐る恐る目を開けてみると、何やら大きな影が、サリの身体の上からかぶさるように立ち塞がっていた。

「ひぇっ」
 ぽすん、とサリは思わずそのまま床へと尻もちを付いた。

 目を見開いたまま動けなくなっているサリの上で、その大きな影は蠢くと、すっと大きな手が差し伸べられた。

「大丈夫かい?」
「……あり、がとう、ございます。Sirサー
「僕はこの学園……高等学部で教鞭を取っている。Sirサーではなくて教授プロフェッサーと読んでくれ給え」
「失礼致しました、教授プロフェッサー。高等部秘書課のサリ・ヴォーンと申します。助けて下さってありがとうございました。教授が来て下さらなかったら、私、本の雪崩に埋もれる処でした」
 サリはドキドキしながら目の前に立つ教授に向かって淑女の礼を取った。
 まだ令嬢になって日の浅いサリのそれは、目の前の偉そうな教授のお眼鏡に適うだろうか、無理よねと思いつつ、揺れそうになる身体を必死に留めた。

 視界に入るのは、男性の着ている仕立ての良さそうな光沢のある生地のスーツ。その下に来ているワイシャツの襟にさえ無粋な皺ひとつ寄っていない。ノーマルなプレーンノットで結ばれただけのタイに浮かぶ優美なラインは、それがどれだけ厚みのある絹でできているかを示している。
 つまりすべてがこの教授は上級階級の存在だと示している。

 サリは知らなかったが、この学園の教師陣は全員が貴族位にある。
 教師に任命された時点で准男爵を得られる為であるが、高等部に至っては伯爵位以上を持つ者のみが教鞭を取っていた。これに関してはそれだけの高等教育を受ける為には実家からの支援が必要だということが大きい。学問を究めるには金銭が必要なのだ。

(このスーツ一着で、我が家の食費何日……いいえ、何か月分かしら)

 ぽーっと見つめるサリに、目の前のその人が苦言を口にした。

「ここは静かに古の知識と向き合う為の場所でね。礼儀正しく振舞って貰わねば困る。初等部の子供と見間違えたが、高等部ならば一応は貴族令嬢レディとして礼儀も教えられているのだろう?」

 その薄くて形のいい唇は片側だけ歪んで持ち上げられていた。つまり、その言葉には蔑みと、たっぷりとした皮肉が込められているのだ。

 反射的に言い返そうとしたものの、どう見てもサリの方が分が悪かった。
 踏み台を使う事を厭い、無理に背伸びをしたのがいけなかったのだと謝罪の言葉を重ねることにした。

「……申し訳ありませんでした。ちゃんと、手が届くと思ったのです」

 一応は届いたのだ。指先一本ではあったが。
 ただし思った以上に本はその棚に詰め込まれていて、一冊だけを引き出すのは無理であったと気が付くことがサリにはできなかっただけだ。

「次回からは、横着しないで踏み台を使うのだね。君には……棚の一番上を自力で扱うのは無理だろう」

 温度を感じさせない濃い灰色の瞳に不躾な色を乗せた視線が、サリの頭から爪先までを往復する。瞬間的に頭が沸騰した。黙って頭を下げようと思っていた筈のサリが言い返していた。

「失礼だわ! 私だって、ちゃんと本棚くらい扱えます!」
「静かに。何度も言わせないでくれ。ここは静かに勉学に努める場所だ。そんなキンキン声で当然の苦言へ反発したり、いかがわしいと疑われるような変な声を上げて周囲を惑わすような真似はしてはいけない」

「な?!」

 思わず口を両手で塞いで周囲を見渡せば、慌てた様子で本のページを繰る音や、不自然にペンを取り落として慌てふためく雑音が鳴り響いた。

 常ならば、この学園の図書館は、ただひたすら、ぶ厚い紙をめくる音とカリカリと一心不乱にノートに書き記すペンの走る音が聞こえるばかりの静かな空間だ。

 そこに、高所にある本を取るべく格闘していたサリの苦悶する掠れた声が混ざる様がどのように耳に届いていたのかと滔々と述べる教授の言葉も、サリの頭に上手く入って来なくなっていた。

 なんて失礼なものいいだろうか。
 サリの全身へ羞恥が駆け巡る。
 もう一度今度は深く頭を下げると、サリは逃げるように図書室から走り去ろうとした。
 そのサリの手を、ぐいっと大きな手が掴んだ。
「何を」
 サリの父親はこの国で最大手と言われる商会の会長である。だが単なる商人家ではない。王国内すべてに販路を持つその業績を認められ、一代爵である准男爵を授かっている。つまりサリ自身も一応は貴族家の令嬢として遇されていた。だからこそこの学園にも入学を許可されているのだ。
 未婚の令嬢の腕を断りもなく触るなど、たとえ学園の教授であろうとも許される事ではない。
 思わず手を力任せに手を振りほどこうとしたサリに、一冊の本が手渡された。

「君が、あれほどの大騒ぎを起こしても読みたかったのは、この本だろう?」

 それは、確かにサリが取ろうとしたあの本だった。
「ありがとう、ございます」
 気が抜けたような気分になって、サリは素直にそれを受け取って頭を下げる。
 いや、下げている途中だった。
「ここで読むのでないなら、きちんと貸出手続きを取るように」
「わかってます! イーッだ」
 基本的な図書館の利用方法すら理解できない子供扱いをされた気になって、サリは治まりかけた怒りが一気に脳天へと駆け上っていく感覚を覚えた。
 怒りのまま、子供っぽい返しをしてしまった自分に吃驚して、慌てて本を抱えて貸出窓口へと足早に向かった。

 逃げるように立ち去る際に、教授が浮かべたあの表情。
 皮肉気に歪んだ唇と、色素の薄い瞳が何か言いたげに眇められている様子が、サリの心に突き刺さる。


 その日一日、寝る直前まで、サリにはその皮肉気に歪んだ形のいい唇が『やっぱりな』と哂う様子が目の前に何度でも浮かんできて、なかなか眠りにつくことができなかった。




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