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本編
第十一話 暗雲
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「旦那様、どうされたのです!」
見送ったばかりの筈の馬車が戻ってきたと知って、慌ててトーマスが玄関ホールまで走って出てきた。
「学園へ遅刻すると連絡を入れて欲しい。高等部秘書科のサリ・ヴォーンの分もだ。それと侍女を呼んで彼女の世話を頼む。泥だらけなんだ」
実際には泥だらけという訳ではなかったが、涙で濡れた顔や胸元に大通りの土埃がこびりついて、フリッツからすれば泥だらけも同然の令嬢らしからぬ様相にしか思えなかった。
トーマスが「承りました」と頭を下げ、後ろに集まってきていた他の使用人たちに視線で指示を送る。
しかし当のサリは、フリッツの言葉を遮るように懇願の声を上げた。
「いいえ、それよりも話を聞いて」
重ねて懇願しようとするサリを、フリッツは片手で制した。
「君、自分が今どんな状態なのか、ちゃんと把握したまえよ。見るに堪えない様相だ。馬車に乗せてきただけでも感謝して欲しいね。我が屋敷の居間にそのまま上がり込もうなど、余りに礼を失した状態だと自覚しなさい」
爪先から頭の天辺まで。蔑みの視線を向ければ、青白かった顔にサッと朱が差した。
恥ずかしそうに俯いて両手をスカートの前で捩じり合わせた。
サリは、侍女から小さく震える肩を抱き寄せられるようにして客室へと誘導されると、大人しくついていった。
何故か、振り返るその瞬間、その侍女から睨まれたような気がしたがほんの一瞬のことであったので気のせいであろう。
*******
「落ち着いたかね」
この不愉快な話し合いを早めに切り上げるべく、フリッツは侍女の案内で居間へと入ってきた少女に向かって早々に声を掛けた。
「ハイ。ありがとうございます、教授。ご面倒をお掛け致しました」
緊張した面持ちではあるものの、少女は淑女の礼を取った。
スカートの裾を摘まんで腰を落としたその姿は、初めて彼女と出会ったあの日のものよりずっと洗練されていた。
記憶にあるより、痩せただろうか。
さきほどよりは幾分かマシではあるものの、やはり顔色がすこぶる悪い。
真っ白な顔の中で、大きな菫色の瞳だけが、爛々と輝いて見えた。
あぁこの色だ、とフリッツはぶるりと身体を震わせた。
感情が高ぶればこの色を帯びるのかと思っていたが、馬車に走り込んできた時の蒼褪めた顔にあったのは昏い青い瞳だった。
どうやら彼女の瞳の色は怒りと共に、この美しい菫色となるようだ。
興奮状態にあるせいだろう。瞳孔が開いたその瞳は常よりずっと光り輝いているた。
「それで? 君のせいで、僕は学園に遅刻だ。忙しい僕を遅刻させてまで、君は何を望んでいるんだ」
峻厳たる態度を崩さないよう心掛けながら、フリッツは問い掛けた。
このまま見つめていたら、自分が何を言い出してしまうかわからない気がした。
一刻も早く用件を聞きだして、この娘を追い出さなければならない――それが、フリッツの命題な気がした。
「父をお助け下さい、偉大なる魔法使い様。商談へ向かう道すがら、昨夜の雨で行く手を塞がれてやむなく野営をした我がヴォーン商会のキャラバンが野盗に襲われました。護衛も雇っておりましたが、何分雨が酷くて気付くのが遅れたそうです。そうして、使用人のひとりを庇った父が……父の腕が……」
おもむろにフリッツの前へとひれ伏して、少女が訴えた。
いつも眠そうな顔をしているばかりの侍女の手によるものなのか、綺麗に櫛梳られ、付いていた泥汚れを綺麗に落として貰ったスカートが再び汚れるのも構わない様子だ。
ミルクティ色の前髪から覗く、菫色の瞳に、不機嫌そうな顔をしたフリッツ自身が映り込んでいた。
「なるほど……それで? 僕にどうしろっていうんだい」
話の続きは想像できたが、察してやる筋合いはないだろう。
フリッツはできるだけ傲岸に、苦くて不味い珈琲を口元へ運んだ。
あぁ、不味い。
「お願いです、魔法使い様! 王太子殿下の腕を見事に治されたという奇跡の御業で、父をお救い下さい。どれほどの額を請求されたとしても、私が、必ずお支払い致します。何年掛かろうとも、絶対に最後までお支払いしてみせます。お願いします。お願いします、魔法使い様。父を助けて下さいませ」
必死になって身を捩り訴えてくる少女を視界から外し、不味い珈琲の入ったカップへ視線を移す。
鼻孔を擽る香りすら苦みを感じさせるだけの、泥水の様な珈琲だ。
あのカフェではいつも紅茶を頼んでいたが、きっと珈琲を頼んだとしてもこんな泥水のような珈琲が提供されることは絶対にあり得ないだろう。
「僕はもう、金なら使い切れないほど持っているさ」
目を閉じてそう口にしながら、頭の中では『あのカフェにも二度といけないし、高級品を買う事はできなくなったから、余計にだ』と付け加えてしまった自分に腹を立てる。
「では、……では、どうすれば。何をすれば父を助けて戴けますか? 何でもします。何でも、どんなことでも、仰って下さい!!」
「なんでも、ね」
フリッツの瞳が、剣呑に輝いた。
「旦那様、どうされたのです!」
見送ったばかりの筈の馬車が戻ってきたと知って、慌ててトーマスが玄関ホールまで走って出てきた。
「学園へ遅刻すると連絡を入れて欲しい。高等部秘書科のサリ・ヴォーンの分もだ。それと侍女を呼んで彼女の世話を頼む。泥だらけなんだ」
実際には泥だらけという訳ではなかったが、涙で濡れた顔や胸元に大通りの土埃がこびりついて、フリッツからすれば泥だらけも同然の令嬢らしからぬ様相にしか思えなかった。
トーマスが「承りました」と頭を下げ、後ろに集まってきていた他の使用人たちに視線で指示を送る。
しかし当のサリは、フリッツの言葉を遮るように懇願の声を上げた。
「いいえ、それよりも話を聞いて」
重ねて懇願しようとするサリを、フリッツは片手で制した。
「君、自分が今どんな状態なのか、ちゃんと把握したまえよ。見るに堪えない様相だ。馬車に乗せてきただけでも感謝して欲しいね。我が屋敷の居間にそのまま上がり込もうなど、余りに礼を失した状態だと自覚しなさい」
爪先から頭の天辺まで。蔑みの視線を向ければ、青白かった顔にサッと朱が差した。
恥ずかしそうに俯いて両手をスカートの前で捩じり合わせた。
サリは、侍女から小さく震える肩を抱き寄せられるようにして客室へと誘導されると、大人しくついていった。
何故か、振り返るその瞬間、その侍女から睨まれたような気がしたがほんの一瞬のことであったので気のせいであろう。
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「落ち着いたかね」
この不愉快な話し合いを早めに切り上げるべく、フリッツは侍女の案内で居間へと入ってきた少女に向かって早々に声を掛けた。
「ハイ。ありがとうございます、教授。ご面倒をお掛け致しました」
緊張した面持ちではあるものの、少女は淑女の礼を取った。
スカートの裾を摘まんで腰を落としたその姿は、初めて彼女と出会ったあの日のものよりずっと洗練されていた。
記憶にあるより、痩せただろうか。
さきほどよりは幾分かマシではあるものの、やはり顔色がすこぶる悪い。
真っ白な顔の中で、大きな菫色の瞳だけが、爛々と輝いて見えた。
あぁこの色だ、とフリッツはぶるりと身体を震わせた。
感情が高ぶればこの色を帯びるのかと思っていたが、馬車に走り込んできた時の蒼褪めた顔にあったのは昏い青い瞳だった。
どうやら彼女の瞳の色は怒りと共に、この美しい菫色となるようだ。
興奮状態にあるせいだろう。瞳孔が開いたその瞳は常よりずっと光り輝いているた。
「それで? 君のせいで、僕は学園に遅刻だ。忙しい僕を遅刻させてまで、君は何を望んでいるんだ」
峻厳たる態度を崩さないよう心掛けながら、フリッツは問い掛けた。
このまま見つめていたら、自分が何を言い出してしまうかわからない気がした。
一刻も早く用件を聞きだして、この娘を追い出さなければならない――それが、フリッツの命題な気がした。
「父をお助け下さい、偉大なる魔法使い様。商談へ向かう道すがら、昨夜の雨で行く手を塞がれてやむなく野営をした我がヴォーン商会のキャラバンが野盗に襲われました。護衛も雇っておりましたが、何分雨が酷くて気付くのが遅れたそうです。そうして、使用人のひとりを庇った父が……父の腕が……」
おもむろにフリッツの前へとひれ伏して、少女が訴えた。
いつも眠そうな顔をしているばかりの侍女の手によるものなのか、綺麗に櫛梳られ、付いていた泥汚れを綺麗に落として貰ったスカートが再び汚れるのも構わない様子だ。
ミルクティ色の前髪から覗く、菫色の瞳に、不機嫌そうな顔をしたフリッツ自身が映り込んでいた。
「なるほど……それで? 僕にどうしろっていうんだい」
話の続きは想像できたが、察してやる筋合いはないだろう。
フリッツはできるだけ傲岸に、苦くて不味い珈琲を口元へ運んだ。
あぁ、不味い。
「お願いです、魔法使い様! 王太子殿下の腕を見事に治されたという奇跡の御業で、父をお救い下さい。どれほどの額を請求されたとしても、私が、必ずお支払い致します。何年掛かろうとも、絶対に最後までお支払いしてみせます。お願いします。お願いします、魔法使い様。父を助けて下さいませ」
必死になって身を捩り訴えてくる少女を視界から外し、不味い珈琲の入ったカップへ視線を移す。
鼻孔を擽る香りすら苦みを感じさせるだけの、泥水の様な珈琲だ。
あのカフェではいつも紅茶を頼んでいたが、きっと珈琲を頼んだとしてもこんな泥水のような珈琲が提供されることは絶対にあり得ないだろう。
「僕はもう、金なら使い切れないほど持っているさ」
目を閉じてそう口にしながら、頭の中では『あのカフェにも二度といけないし、高級品を買う事はできなくなったから、余計にだ』と付け加えてしまった自分に腹を立てる。
「では、……では、どうすれば。何をすれば父を助けて戴けますか? 何でもします。何でも、どんなことでも、仰って下さい!!」
「なんでも、ね」
フリッツの瞳が、剣呑に輝いた。
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