愛という毒を撒く貴方

音爽(ネソウ)

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7 事の始まり、出戻りの妻

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平民街の一角に佇む安い長屋に隠れるように住みついた元伯爵ウォール一家。レイフの父テッドは苦虫を噛んだ顔をして唸る。安酒を煽り過ぎたとみられる顔は酒焼けして赤黒く、声はしわがれしていた。貴族であった頃の面影はどこにも残っていない。

「こんなことなら大人しくエイジャーの娘を嫁に迎えておればよかったのだ!……くそうっ」
何度目かわからない同じような愚痴を吐いて、茶色の酒瓶を空にする。その荒れた様子を一瞥する妻は過ぎたことをグチグチ言う夫の声を聞き流している。

余計な口は利かない、それが妻なりの気遣いであり自衛でもあった。出戻り妻のセルマにテッドは苛立ちを隠さない。



この二人はとんでもない浪費家で似た者夫婦であった、金はあるだけ使い後先を考えない。テッドはウォール家を継いだ当初、莫大な資産を前に生涯遊び惚けても有り余ると愚かな算段をした。
社交でも羽振り良く振る舞うテッドに女達は群がり妻の座を狙った。その中にひと際美しい女がいた。それが現在の妻セルマであった。

あっと言う間に篭絡されたテッドはセルマに求婚して夫婦になった。
金にものを言わせた狸男と財産目当ての女狐と社交界は蔑んだ。その多くは妬みであったのは間違いない。やがてレイフが誕生しても贅沢な暮らしは続いた。とうぜん資産は食い潰され急激に衰退する。蟄居していた両親が気が付いた時には金庫には埃しか残っていなかった。

伯爵領の運営を丸投げした先代とテッド夫妻は責任のなすりつけ合いをするばかり。だが論争したとて事態は好転しない。いよいよ屋敷を手放すほかない所まで来た。レイフ1歳の頃の騒動である。

しかし、そんなタイミングで救いの手を差し伸べる者が現れた。ウォール家に融資を持ち掛けた危篤な御仁、隣国モアランドのアクライダ公爵は狡猾そうな顔で提案をしてきた。

「妻と子の交換……正気ですか?まるで人身売買ではないですか!冗談はやめていただきたい。」
「おや、この札束の山を目の前にして信じませんか。失礼だが貴方の顔にはすぐにでも欲しいと出ていますよ」
「ぐ……、しかし人道に外れた契約はいかがなものかと」

愛した妻と子を寄越せと言われたテッドはジレンマに悩む。しかし、負債を抱えたウォール家に選択肢は少ない。アクライダ公はそんな彼を見てほくそ笑む、無理強いはしないと言って侍従に札束を回収させた。

「だが良く考えることだ、貴方は抱えた負債が消え、細君と子息は不自由のない生活が送れる。この寛大提案について……ね」
「……考える時間をください」

アクライダ公爵の狙いは美しい妻セルマだ、両国の親睦夜会の場で彼はセルマを見初めた。しかし、すでに彼女は既婚者であった。泣く泣く諦めた公爵だったが、近年ウォール家の懐事情を知って駆け付けた。


アクライダ公爵は稀代の女好きで内外で有名な男だ。身分相応に財を持ち、才覚と容姿にも恵まれた人物である。正妻の他に愛人を3人抱えており、男盛りの30代の彼は黙っていても女が寄って来る。

奇しくも契約の席にいたセルマもまた虜になり始めていた。財産を食い潰した夫と隣国の公爵、紛い物の金持ちと本物では勝負はついている。
妻の心変わりに気づいたテッドは激高し「喜んで追い出してやる」と咆えて公爵の提案に頷いたのである。


その後、交換された妻ことアクライダの愛人が幼子を連れてやってきた。
仮の妻として招き入れたテッドは最初こそ愛想がよくなかったが、女好き公爵の愛人はセルマに劣らぬ美女であった。数年もすれば互いに情が湧きそれなりに夫婦としてなりたっていた。血を引かない息子とて愛らしいと思うようになった。

「不甲斐ない己を呪うこともあったが……私の妻になってくれてありがとう」
「いいえ、私だけを妻としてくれる貴方には感謝しかありませんわ。それに」

「それに?」
「ふふ、社交界が苦痛な私には囲われた妻役は有難いのですわ」
「キミと言う人は……まったく敵わないな」


”偽セルマ”は隠遁生活を息苦しいとは思わなかった、もとから内向的だった彼女は大いに喜んだ。
テッド・ウォール伯爵は妻を溺愛し過ぎておかしくなったと噂をされたが「まさにその通りさ」と嘯いてみせた。

「私の妻は世界一美しい、だから私以外の異性に見せたくないのだよ」誰も彼もその言葉に異を唱えるものはいない。実際に本物のセルマは恐ろしく美しかったからだ。

公爵からの支援で立て直していたウォール家はやがてエイジャー家と交流するようになり互いの子を婚約させた。
これで安泰だとテッドは思った、偽レイフ11歳を目前にした頃である。


平穏な生活を送っていたウォール家はその幸せが瓦解するとは想像もしていなかった。



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