6 / 15
熱が見せたもの
高熱で魘されていた最中、彼女は誰かの優しい声を聞いた。
聞き取れないほど小さい声だったが、寝込む彼女を労わるものだったのは確かだ。そして額に当てられた氷が融けると取り換える仕草がどこかぎこちないと眠りながら感じたのだ。
寝込んで五日目のこと、一瞬目が覚めた彼女は誰かが手を握り名を呼んでいることに気が付く。しかし残念なことに怠さを訴える体がすぐに睡魔に負けてしまった。
意識が混濁していたアナスタジアが目を覚ましたのは七日目のことだった。
閉ざされた窓の向こうに鱗雲が流れて、その空をアキアカネの大群が飛び回っているのが見えた。
すっかり秋になったことを知った彼女はその光景がとても美しいと微笑む。
奥方が目を覚ましたと気が付いた侍女がバタバタと動く、誰かを呼びに行ったのか少しの間留守にした。
「慌てなくていいのに、すっかり迷惑をかけてしまったわ」
ぼんやりする頭でどれくらい寝ていたのだろうと瞬きしたが、経過などの記憶は抜け落ちている。
けれど時折聞こえていた声は薄っすら覚えていた、侍女でも執事でもないその声は紛れもなく夫サディアスのものではないかと推理した。
「あの方が私の側にいた……それとも熱が見せた幻かしら」
はっきりしない事に苛立ったがどうしようもないと事だと諦めた。侍女に尋ねても良かったがとんだ勘違いでは大恥である。淡い期待を抱いて落とされるくらいなら忘れたほうが良いと考えた。
愛したものが裏切り去って行った体験は想った以上に彼女の心を傷つけていたのだ。好意を抱かない方が傷は浅い、アナスタジアは残念なほうに成長しつつあるのだ。
***
目を覚ましたその日、医者が呼ばれて診察された。
熱も下がり安定したと診断が下る、過労と心労が重なったようだと注意を受けた。倒れていた間、毎日医者が来ていたことを知る。
「ありがとうございます、ご迷惑をおかけしました」
「いいえ、仕事でございますから。今後は滋養のあるものを摂ってください」念のための解熱剤をいくつか置いて医者は暇して行った。
「貴方方も世話をかけました。ごめんなさいね」
寝具から身を起こして彼女は控えていた侍女と執事たちに頭を下げた。
「とんでもございません、回復されて良かったですわ。のちほどパン粥をお持ちしますね」
そう言われた彼女は急に空腹に気がつき、早めに食べたいとお願いする。
すぐに食事が用意されるとミルクで煮たそれをゆっくり嚥下して「ほぅ」と息を吐く、優しい味が彼女を癒していく。
「とても美味しいわ、ありがとう」
「ふふ、おかわりがございますよ」
思った以上に勢いよく食べていたらしい奥方に侍女は嬉しそうにそう告げた。
ついがっついてしまった事を恥じてアナスタジアは「あらやだ、美味し過ぎてつい」と頬を赤らめる。
元気になった証なのだからと侍女はフォローしたが、彼女は苦笑いしておかわりを要求した。
目覚めてから二日後、自由に動けるまで回復したアナスタジアは夫の元へと訊ねた。
相変わらずドアは開けて貰えない、魔法で施錠されたそれは主の許可なしでは解けないのだ。
「長い事臥せって申し訳ありません、お医者まで呼んでいただき感謝いたします」
いつになく硬い言い回しになってしまった事を彼女自身が驚いた。婚姻当初より距離が遠くなった気がした。
それは致し方ないことかと自嘲して下がろうとしたら、ドアの向こうから返事があった。
「元気になって良かった、それからヨーグルトドリンクをありがとう。あれはとても美味しい」
「え、……あぁそのような事、気にしないでください」
フルーツを潰して混ぜただけの物を褒められてむず痒く感じるアナスタジアはすぐにここから逃げたくなった。居室に戻ることを告げたら、カチリと小さい音がしてドアに隙間できた。
彼女は何事かと瞠目していると紙製のコップらしきがヌッとドア越しから出て来た。
「あのう……これはいったい?」
「糸電話というものだ、その……ドア越しでは声がくぐもって良く聞こえないから」
アナスタジアは子供だましの電話もどきを躊躇いながら受け取った。
「今後はこれで話そう、良いかい?」
「……はい、わかりました」
姿を見せてくれない夫の精一杯の譲歩に感謝しつつも困惑する妻である。
一方で、夫のサディアスはどうにか仲良くなる切っ掛けになればと考えての苦肉の策だったのだが、妻には伝わっていないようだ。
以前より距離を置きたがる妻と、仲良くなろうとした夫は、すれ違いが生じていた。
聞き取れないほど小さい声だったが、寝込む彼女を労わるものだったのは確かだ。そして額に当てられた氷が融けると取り換える仕草がどこかぎこちないと眠りながら感じたのだ。
寝込んで五日目のこと、一瞬目が覚めた彼女は誰かが手を握り名を呼んでいることに気が付く。しかし残念なことに怠さを訴える体がすぐに睡魔に負けてしまった。
意識が混濁していたアナスタジアが目を覚ましたのは七日目のことだった。
閉ざされた窓の向こうに鱗雲が流れて、その空をアキアカネの大群が飛び回っているのが見えた。
すっかり秋になったことを知った彼女はその光景がとても美しいと微笑む。
奥方が目を覚ましたと気が付いた侍女がバタバタと動く、誰かを呼びに行ったのか少しの間留守にした。
「慌てなくていいのに、すっかり迷惑をかけてしまったわ」
ぼんやりする頭でどれくらい寝ていたのだろうと瞬きしたが、経過などの記憶は抜け落ちている。
けれど時折聞こえていた声は薄っすら覚えていた、侍女でも執事でもないその声は紛れもなく夫サディアスのものではないかと推理した。
「あの方が私の側にいた……それとも熱が見せた幻かしら」
はっきりしない事に苛立ったがどうしようもないと事だと諦めた。侍女に尋ねても良かったがとんだ勘違いでは大恥である。淡い期待を抱いて落とされるくらいなら忘れたほうが良いと考えた。
愛したものが裏切り去って行った体験は想った以上に彼女の心を傷つけていたのだ。好意を抱かない方が傷は浅い、アナスタジアは残念なほうに成長しつつあるのだ。
***
目を覚ましたその日、医者が呼ばれて診察された。
熱も下がり安定したと診断が下る、過労と心労が重なったようだと注意を受けた。倒れていた間、毎日医者が来ていたことを知る。
「ありがとうございます、ご迷惑をおかけしました」
「いいえ、仕事でございますから。今後は滋養のあるものを摂ってください」念のための解熱剤をいくつか置いて医者は暇して行った。
「貴方方も世話をかけました。ごめんなさいね」
寝具から身を起こして彼女は控えていた侍女と執事たちに頭を下げた。
「とんでもございません、回復されて良かったですわ。のちほどパン粥をお持ちしますね」
そう言われた彼女は急に空腹に気がつき、早めに食べたいとお願いする。
すぐに食事が用意されるとミルクで煮たそれをゆっくり嚥下して「ほぅ」と息を吐く、優しい味が彼女を癒していく。
「とても美味しいわ、ありがとう」
「ふふ、おかわりがございますよ」
思った以上に勢いよく食べていたらしい奥方に侍女は嬉しそうにそう告げた。
ついがっついてしまった事を恥じてアナスタジアは「あらやだ、美味し過ぎてつい」と頬を赤らめる。
元気になった証なのだからと侍女はフォローしたが、彼女は苦笑いしておかわりを要求した。
目覚めてから二日後、自由に動けるまで回復したアナスタジアは夫の元へと訊ねた。
相変わらずドアは開けて貰えない、魔法で施錠されたそれは主の許可なしでは解けないのだ。
「長い事臥せって申し訳ありません、お医者まで呼んでいただき感謝いたします」
いつになく硬い言い回しになってしまった事を彼女自身が驚いた。婚姻当初より距離が遠くなった気がした。
それは致し方ないことかと自嘲して下がろうとしたら、ドアの向こうから返事があった。
「元気になって良かった、それからヨーグルトドリンクをありがとう。あれはとても美味しい」
「え、……あぁそのような事、気にしないでください」
フルーツを潰して混ぜただけの物を褒められてむず痒く感じるアナスタジアはすぐにここから逃げたくなった。居室に戻ることを告げたら、カチリと小さい音がしてドアに隙間できた。
彼女は何事かと瞠目していると紙製のコップらしきがヌッとドア越しから出て来た。
「あのう……これはいったい?」
「糸電話というものだ、その……ドア越しでは声がくぐもって良く聞こえないから」
アナスタジアは子供だましの電話もどきを躊躇いながら受け取った。
「今後はこれで話そう、良いかい?」
「……はい、わかりました」
姿を見せてくれない夫の精一杯の譲歩に感謝しつつも困惑する妻である。
一方で、夫のサディアスはどうにか仲良くなる切っ掛けになればと考えての苦肉の策だったのだが、妻には伝わっていないようだ。
以前より距離を置きたがる妻と、仲良くなろうとした夫は、すれ違いが生じていた。
あなたにおすすめの小説
蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。
【完結】婚約破棄される前に察して距離を置いていたら、幼なじみの第三王子が本気になっていました〜義妹と元婚約者? もう過去の人です〜
井上 佳
恋愛
婚約者に裏切られた侯爵令嬢は、
嘆くことも、復讐に走ることもなかった。
彼女が選んだのは、沈黙と誇り。
だがその姿は、
密かに彼女を想い続けていた第三王子の心を動かす。
「私は、国よりも君を選ぶ」
婚約破棄、王位継承、外交圧力――
すべてを越えて選び取る、正統な幸福。
これは、
強く、静かな恋の物語。
2026/02/23 完結
捨てられたなら 〜婚約破棄された私に出来ること〜
ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
長年の婚約者だった王太子殿下から婚約破棄を言い渡されたクリスティン。
彼女は婚約破棄を受け入れ、周りも処理に動き出します。
さて、どうなりますでしょうか……
別作品のボツネタ救済です(ヒロインの名前と設定のみ)。
突然のポイント数増加に驚いています。HOTランキングですか?
自分には縁のないものだと思っていたのでびっくりしました。
私の拙い作品をたくさんの方に読んでいただけて嬉しいです。
それに伴い、たくさんの方から感想をいただくようになりました。
ありがとうございます。
様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。
ただ、皆様に楽しんでいただけたらと思いますので、中にはいただいたコメントを非公開とさせていただく場合がございます。
申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。
もちろん、私は全て読ませていただきますし、削除はいたしません。
7/16 最終部がわかりにくいとのご指摘をいただき、訂正しました。
※この作品は小説家になろうさんでも公開しています。
【完結】あなたのいない世界、うふふ。
やまぐちこはる
恋愛
17歳のヨヌク子爵家令嬢アニエラは栗毛に栗色の瞳の穏やかな令嬢だった。近衛騎士で伯爵家三男、かつ騎士爵を賜るトーソルド・ロイリーと幼少から婚約しており、成人とともに政略的な結婚をした。
しかしトーソルドには恋人がおり、結婚式のあと、初夜を迎える前に出たまま戻ることもなく、一人ロイリー騎士爵家を切り盛りするはめになる。
とはいえ、アニエラにはさほどの不満はない。結婚前だって殆ど会うこともなかったのだから。
===========
感想は一件づつ個別のお返事ができなくなっておりますが、有り難く拝読しております。
4万文字ほどの作品で、最終話まで予約投稿済です。お楽しみいただけましたら幸いでございます。
全てを奪われてしまいそうなので、ざまぁします!!
ゆきりん(安室 雪)
恋愛
義母に全てを奪われたジュディ。何とかメイドの仕事を見つけるも義母がお金の無心にやって来ます。
私、もう我慢の限界なんですっ!!
婚約破棄されてイラッときたから、目についた男に婚約申し込んだら、幼馴染だった件
ユウキ
恋愛
苦節11年。王家から押し付けられた婚約。我慢に我慢を重ねてきた侯爵令嬢アデレイズは、王宮の人が行き交う大階段で婚約者である第三王子から、婚約破棄を告げられるのだが、いかんせんタイミングが悪すぎた。アデレイズのコンディションは最悪だったのだ。
傷付いた騎士なんて要らないと妹は言った~残念ながら、変わってしまった関係は元には戻りません~
キョウキョウ
恋愛
ディアヌ・モリエールの妹であるエレーヌ・モリエールは、とてもワガママな性格だった。
両親もエレーヌの意見や行動を第一に優先して、姉であるディアヌのことは雑に扱った。
ある日、エレーヌの婚約者だったジョセフ・ラングロワという騎士が仕事中に大怪我を負った。
全身を包帯で巻き、1人では歩けないほどの重症だという。
エレーヌは婚約者であるジョセフのことを少しも心配せず、要らなくなったと姉のディアヌに看病を押し付けた。
ついでに、婚約関係まで押し付けようと両親に頼み込む。
こうして、出会うことになったディアヌとジョセフの物語。
カナリア姫の婚約破棄
里見知美
恋愛
「レニー・フローレスとの婚約をここに破棄する!」
登場するや否や、拡声魔道具を使用して第三王子のフランシス・コロネルが婚約破棄の意思を声明した。
レニー・フローレスは『カナリア姫』との二つ名を持つ音楽家で有名なフローレス侯爵家の長女で、彼女自身も歌にバイオリン、ヴィオラ、ピアノにハープとさまざまな楽器を使いこなす歌姫だ。少々ふくよかではあるが、カナリア色の巻毛にけぶるような長いまつ毛、瑞々しい唇が独身男性を虜にした。鳩胸にたわわな二つの山も視線を集め、清楚な中にも女性らしさを身につけ背筋を伸ばして佇むその姿は、まさに王子妃として相応しいと誰もが思っていたのだが。
どうやら婚約者である第三王子は違ったらしい。
この婚約破棄から、国は存亡の危機に陥っていくのだが。
※他サイトでも投稿しています。