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そして歯車は動き出す
そして歯車は動き出す④-1
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『ハル』の意識が生まれたとき、目の前には、とても美しい男がいた。肩にかかるほどの銀の髪と、眼鏡の奥に隠された、エメラルド色の鋭い瞳。年頃は少年と青年の狭間。
一目見て、ハルは、彼が自分の従うべき主人なのだと悟った。この人を喜ばせるために『今の自分』は生まれたのだと知っていた。
傲慢不遜に、『君は僕を愛するために生まれたんだよ』と歪に笑う彼――サイの顔が、なぜだか、ハルには泣きそうに見えて。今にも壊れてしまいそうな青年を、守ってやらなくてはと思ったのだ。
ハルの世界の中心はサイだった。拙い声でごしゅじんさま、と呼びかけたハルに、彼は、恋人同士のような親しさでサイと呼ぶようにと命じたのだ。
ハルにとって、サイは絶対的な主であり、守るべき子供であり、最愛の恋人だった。他の人間のことはわからない。知らなくていいと、ハルが興味を持つのはサイただ一人でいいと命じられたから、そうしていた。
どうやらハルには『こうなる以前』の自分がいたらしく、サイは、時折『前のハル』と『今のハル』を比較する。今の君は素直で可愛いね、前の君は悪い子だったんだよ、だから僕が躾けてあげたんだ――。優しい声で語られる残酷な事実は、ハルの心に仄暗い喜びを生んだ。
(ご主人様は――サイは、わざわざ躾けてくれるくらいに、『俺』を愛してくれている。完璧で美しいあの子が、俺のためだけに狂気を見せる。それが、俺は、とても嬉しい……)
サイは魔法使いである。記憶操作や洗脳といった魔法を得意としており、ハル自身も、自分がそうして『作り変えられた』事実を認識している。
倫理的に許される行いではないと理解しながらも、ハルは、サイの狂った愛情が嬉しかった。記憶を失い、サイの魔法で周囲の人間からも記憶を消されてしまった彼にとっては、サイから与えられる愛だけが唯一の『他者との繋がり』だ。
ハルは、『前の自分』だったときのことを覚えていない。覚えている必要はない、と、サイは言った。
それでいい、と思っていたのだ――サイの部下だという、金髪の少年と会話するときまでは。
『アンタっつか、ヤベーのはアンタのご主人様の方だと思うけど……』
気さくそうな少年が、何気なく言ったその言葉。サイの愛情を否定された瞬間、ハルの心に、初めて感じる激情が込み上げていた。
それは怒りだった。それは悲哀だった。それは愛情だった。それは罪悪感だった。それは正義感だった。
彼への誤解を解かねば、と思った。彼を守ってやらねばと思った。
半ば無意識のうちに口にした言葉は、突然込み上げてきた複雑な感情は、サイの狂愛に守られて生きてきた『今のハル』のものではない。洗脳により消え去ったはずの、『かつてのハル』の感情の残滓とでも言うべきものだった。
『アイツは……サイは、悪くないんだ……! 悪いのは俺だ。俺のせいで、アイツがおかしくなったんだ。だから責任をとらなきゃいけない。償いのために俺は、自ら望んでこうなったんだから……!!』
衝動的に放たれたその言葉に、誰よりも動揺したのはハル自身だ。自分の中に、あんな強い感情があるなんて知らなかった。それが『今のハル』のものではなく、記憶を消される以前の、『前のハル』のものであることは、自分自身のことだからこそ本能的に理解していた。
(……前の俺は、ご主人様を……『サイを愛さない悪い子』だったから、消された。サイはそう言っていた。けど……違ったんだ。『前の俺』も、たしかに、サイのことを愛してた……)
自分の内側に込み上げる、複雑怪奇な感情。真綿に包まれて生きている『今のハル』が知るはずもない激情が、少しずつ、『今のハル』と『前のハル』の境界を曖昧にしていく。
(同じ俺だからこそわかる。『前の俺』は、サイに傷つけられて、憎みたくて恨みたくて――それでも、あいつを嫌いになれなかった。サイを守るために怒鳴り声を上げるくらいには、その存在を大切に思っていた。今の俺とは違う形かもしれないが……あの気持ちは、間違いなく愛情だった……)
それは父性愛であり、教師としての愛であり、そして。家庭を持つ父親だった『前のハル』が目を背け続けた、一人の男として愛されることへの喜びだった。
(……サイは、前の俺の気持ちを知っていたのか? 知らずに、裏切られたと思ったんだろうか。それとも、『前の俺』の愛情は、サイのお気に召さなかった? ……わからない……、俺は、何も知らないから……)
ハルは考える。己は、『逆城サイを愛する者』として定義されている。
何も知らないまま、ただサイが望むように振る舞う人形でいるのはラクだった。けれど――『今の自分』の中には無い、苦しくて心が焼けついてしまいそうになるほどの『サイへの愛』を無かったことにするのは、己の存在意義に反するのではないか、と。
「……このままで、良いとは思えない。俺は……知らなくては。『以前の俺』のことを、そして、かつてのサイと俺の関係のことも……。何も知らないままでは……俺はまた、サイを傷付けてしまう。そんな気がする……」
ふらり、と、ハルは立ち上がる。
彼が『今の自分』になってから、この部屋から出たことは一度もない。物理的な拘束こそ無かったが、どこにも行くなとサイに命じられており、逆らうという発想自体が無かったからだ。
「……すまん、サイ。許してくれ。おまえの命令に逆らう俺を。でも、これは……きっと、おまえを『本当に』愛するために、必要だから……」
これは、『ハル』となった彼にとって、初めての反抗であった。
震える足で歩き出し、ドアを開け――部屋の外へと、足を踏み出せば。
そこに待ち受けていたのは、無機質な白一色に彩られた、無限に続いているかのような回廊であった。
*
「あ、あぁ……、ああああ!! 終わりだ……全部っ、全部終わりだ!! お、おれ、先輩を……っ、先輩を、きず、つけ……あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
四方を白い壁に囲まれた、何もない――出入り口すらない無機質な部屋の中で。八雲チアキ、否、闇の魔法使いジェラシィは、半狂乱になりながら苦しんでいた。
彼の持つ魔法は暴走し、体の内側から溢れる嫉妬の炎は、彼自身すら巻き込み全てを焼き尽くす。魔法のコントロールが効かないせいなのか、変身を解除することすらできない。
6畳ほどある部屋の中は、彼の放った炎が渦巻き、地獄の様相を成していた。
「先輩に……おれが、嘘つきだって……闇の魔法使いだってバレた。キモいストーカー男だってバレた。おまけに、お、おれの炎が、先輩を……!!」
轟々と燃え盛る炎の中では、チアキが暴走した瞬間の光景が――見知らぬ男子生徒と手をつなぐノブユキが、チアキの変身を見て呆然とするノブユキが、炎に巻き込まれそうになり、見知らぬ男子生徒に助けられるノブユキが、繰り返し映し出されている。
嫉妬の炎はチアキから理性を奪い、最愛のノブユキを傷つけてしまった罪悪感と、暴走してしまった自身への嫌悪感が、ますます彼の心と体を傷つけていく。
そして、これほど苦しむことがあってなお――彼の心から嫉妬心は消えてくれない。こんな醜い自分など消えてなくなってしまえと思うのに、ドス黒い感情が溢れて止まらないのだ。
(やだ……、先輩、なんで、おれ以外と……。おれには先輩しかいないのに……。ずるい、ずるい、ずるい、ずるい……!! っ、違う、おれ、おれが、こんなだから、先輩は……。わかってる、わかってる……のに……!!)
自ら生み出した炎に灼かれて、頭を抱えて苦しむしかできないチアキ。――それを、別の場所から魔法で眺める男がいた。
「……ふふふっ。見事なまでの暴走だねえ。本当に……全て、神様の言うとおりだ……」
さも愉快げにクスクスと笑うのは、闇の魔法使いフレンジィ――ヤンデリオのボス、本名を、逆城サイという少年。
彼は、チアキが閉じ込められた異空間からは遠く離れた場所――闇の神が封じられた沼の側で、魔法を使い、チアキの様子を視ていたのだった。
『くくっ……、素晴らしいぞ、我が同盟者よ。貴様は本当に、我の期待を裏切らない男だ……』
「ああ……お褒めに預かり光栄だよ、神様」
彼の脳裏に直接響くのは、低く不気味な男の声。声の主こそ、この地に封じられた闇の神……世界を闇に染めようと目論む黒幕だった。
サイが想い人であった養護教諭、翠野ハルヒコ――今の『ハル』に失恋し、裏切られたのだと狂気に染まったその日。偶然か必然か、闇の神の心と共鳴してしまった彼は、その闇に取り込まれるようにして闇の魔法を得た。
そうして、復活を目論む闇の神の協力者となり、ヤンデリオのボスとして暗躍を始めたのだ。
全ては、闇の神の想定どおりに動きつつある。
逆上して狂気に身をやつした逆城サイは、愛する人を洗脳する力と引き換えに、封印により動けぬ闇の神の代行者となった。
最初に、強すぎる束縛心から恋人の愛を信じられなくなっていた芝里タイチを、闇の神に引き合わせた。
彼は、恋人を無理矢理にでも束縛できる力と引き換えに、サイに何かあったときのスペアとして闇の神に仕えることを決め、自ら狂気に身を落とした。
頭のネジが外れたストーカー男である阿神ケイは、そのままでは扱いにくいため、手元に置いて微弱な洗脳魔法をかけ続けた。洗脳魔法が完成すると、闇の神復活のためのエネルギー集めの手駒として利用した。
そして、心の内側に強すぎる嫉妬心を飼っていた八雲チアキは、恋心に付け込まれて洗脳され――彼の『感情』を起爆剤とし、魔法を暴走させられて、闇の神のための贄にされようとしていたのだ。
――そもそも、闇の神の封印は、彼を封じた妖精全員が死ななければ解けないもののはず……だった。しかし、長年の時を経て、封印中の闇の神は己を封じる魔法を解析し、その一部を改変していたのだ。
本来ならば妖精全員が死なない限り解けない封印を、魔力を溜め込んだ人間、それもたった一人の命で解けるように、と。
そしてさらに、妖精と人間との契約魔法を改造し、妖精側の同意をなく、その力だけを奪って契約させる術をも生み出した。それこそが『闇の魔法使い』、ヤンデリオの力の正体。
妖精と正しく契約した『光の魔法使い』相手では、光の女神の加護が邪魔をして、生贄として利用することができなかった。
つまり、闇の神の封印を解くには、ヤンデリオの誰かの命を引き換えにすれば良い。
はなからチアキは戦力としてではなく、チカラを暴走させやすい器として、闇の神復活の生贄となるために、闇の魔法使いに選ばれていたのである。
「……まあ、なんでもいいや。顔と名前しか知らないような後輩が死んだところで、僕にはなんの関係もないのだし」
闇の神の企みを知っていて、サイは、動揺することもなければ良心が痛むこともない。
逆城サイが望むのは、最愛の人が自分を愛してくれることだけ。そのためならば、他人を騙し、操り、洗脳し、生贄として捧げることすら厭わない。
そうでもしなければ、ノンケで妻子持ちだった想い人――ハルヒコと結ばれることはできなかった。邪悪な力に縋らなければ、彼が自分を愛することなどないのだと、サイは痛いほどよくわかっている。
わかっている――にも関わらず、どうにも胸騒ぎが収まらなくて、サイは闇の神に問いかけていた。
「……ねえ、神様。アンタの言うとおりにしたら、全部、上手くいくんだよね?」
『…………当たり前のことを聞くな。貴様の願いは既に叶えてやった……そうだろう?』
「うん、でも……。……ハルは、僕に素直な『イイコ』になってくれたけど。前みたいに、僕を叱ったり、止めたりしてくれなくなったから……」
記憶を消されたハルヒコ――ハルは、サイにひたすら従順な存在だ。それを望んでいたはずなのに、心のどこかで、わずかな寂しさを感じている。
ある意味身勝手な不安を吐露したサイに、闇の神は冷ややかな声で返事を告げる。
『愚かな。貴様が望んだのだろう、貴様を一切否定せぬ、貴様のためだけにあるあの男を。記憶を戻せば、あの男はまた貴様を裏切るぞ』
「ッッ……!! それは駄目だ、許さない……! ハルは、あの人は僕のモノなんだ。ようやく僕だけのモノにしたんだから……!!」
『わかっておれば良い。……我が滅ぼされれば、貴様は、あの男を失うのだ。ゆめゆめ忘れるなよ、同盟者』
「……わかってるさ、そんなこと」
きつく握りしめた拳に血がにじむ。今更後戻りなどできないことは、なによりもサイ自身がわかっている。
(ああ、そうだ――わかってる。僕は、僕を裏切ったハルが、ハルヒコ先生が許せなかった。だから、僕だけに従順なお人形になるよう作り変えた。だって、あんなどこにでもいるようなオンナよりも僕のほうが、彼の伴侶に相応しいハズだから……)
胸のうちに溢れるのは、ハルヒコの妻と娘への嫉妬。憎しみ。そして、己を裏切って曖昧な態度をとっていたハルヒコへの怒りと――それを上回るほどの、歪で、泥沼のように深い愛情だ。
逆城サイ、という少年は孤独だった。病弱なせいで友人も少なく、保健室でハルヒコと話すのだけが日常の楽しみだった。
たった一つの依存先に裏切られた彼の狂気は止まらない。彼自身も止めることができない。自分の愛が異常だと自覚してなお、暴走する恋心を止めることなどできなかった。
(今のハルは好きだ。僕がいなくちゃ生きていけない、弱くて可愛い、僕だけのハルだから。もう二度と僕を裏切ったりしない、僕に逆らうことすら思いつかないから。彼自身が望んだんだ、今までの自分を捨てて、僕だけのお人形になってくれるって。これは僕らの愛の形なんだ。他の何を犠牲にしてでも、僕は、僕とハル二人きりの楽園を守ると決めた。……なのに……)
洗脳してでも、相手の自我を壊してでもハルヒコが欲しかった。彼に笑いかけてほしかった。彼を自分だけのモノにしたかった。
願いは叶ったはずなのに――サイの脳裏には、以前の、彼を裏切ったはずのハルヒコの笑顔が焼き付いて離れない。
「……なんで、『ハルヒコ先生』が恋しいんだろう。ハルは、もう僕のモノなのに」
闇の神にも聞こえぬように漏らした言葉は、誰にも拾われることなく空に溶けた。
一目見て、ハルは、彼が自分の従うべき主人なのだと悟った。この人を喜ばせるために『今の自分』は生まれたのだと知っていた。
傲慢不遜に、『君は僕を愛するために生まれたんだよ』と歪に笑う彼――サイの顔が、なぜだか、ハルには泣きそうに見えて。今にも壊れてしまいそうな青年を、守ってやらなくてはと思ったのだ。
ハルの世界の中心はサイだった。拙い声でごしゅじんさま、と呼びかけたハルに、彼は、恋人同士のような親しさでサイと呼ぶようにと命じたのだ。
ハルにとって、サイは絶対的な主であり、守るべき子供であり、最愛の恋人だった。他の人間のことはわからない。知らなくていいと、ハルが興味を持つのはサイただ一人でいいと命じられたから、そうしていた。
どうやらハルには『こうなる以前』の自分がいたらしく、サイは、時折『前のハル』と『今のハル』を比較する。今の君は素直で可愛いね、前の君は悪い子だったんだよ、だから僕が躾けてあげたんだ――。優しい声で語られる残酷な事実は、ハルの心に仄暗い喜びを生んだ。
(ご主人様は――サイは、わざわざ躾けてくれるくらいに、『俺』を愛してくれている。完璧で美しいあの子が、俺のためだけに狂気を見せる。それが、俺は、とても嬉しい……)
サイは魔法使いである。記憶操作や洗脳といった魔法を得意としており、ハル自身も、自分がそうして『作り変えられた』事実を認識している。
倫理的に許される行いではないと理解しながらも、ハルは、サイの狂った愛情が嬉しかった。記憶を失い、サイの魔法で周囲の人間からも記憶を消されてしまった彼にとっては、サイから与えられる愛だけが唯一の『他者との繋がり』だ。
ハルは、『前の自分』だったときのことを覚えていない。覚えている必要はない、と、サイは言った。
それでいい、と思っていたのだ――サイの部下だという、金髪の少年と会話するときまでは。
『アンタっつか、ヤベーのはアンタのご主人様の方だと思うけど……』
気さくそうな少年が、何気なく言ったその言葉。サイの愛情を否定された瞬間、ハルの心に、初めて感じる激情が込み上げていた。
それは怒りだった。それは悲哀だった。それは愛情だった。それは罪悪感だった。それは正義感だった。
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『アイツは……サイは、悪くないんだ……! 悪いのは俺だ。俺のせいで、アイツがおかしくなったんだ。だから責任をとらなきゃいけない。償いのために俺は、自ら望んでこうなったんだから……!!』
衝動的に放たれたその言葉に、誰よりも動揺したのはハル自身だ。自分の中に、あんな強い感情があるなんて知らなかった。それが『今のハル』のものではなく、記憶を消される以前の、『前のハル』のものであることは、自分自身のことだからこそ本能的に理解していた。
(……前の俺は、ご主人様を……『サイを愛さない悪い子』だったから、消された。サイはそう言っていた。けど……違ったんだ。『前の俺』も、たしかに、サイのことを愛してた……)
自分の内側に込み上げる、複雑怪奇な感情。真綿に包まれて生きている『今のハル』が知るはずもない激情が、少しずつ、『今のハル』と『前のハル』の境界を曖昧にしていく。
(同じ俺だからこそわかる。『前の俺』は、サイに傷つけられて、憎みたくて恨みたくて――それでも、あいつを嫌いになれなかった。サイを守るために怒鳴り声を上げるくらいには、その存在を大切に思っていた。今の俺とは違う形かもしれないが……あの気持ちは、間違いなく愛情だった……)
それは父性愛であり、教師としての愛であり、そして。家庭を持つ父親だった『前のハル』が目を背け続けた、一人の男として愛されることへの喜びだった。
(……サイは、前の俺の気持ちを知っていたのか? 知らずに、裏切られたと思ったんだろうか。それとも、『前の俺』の愛情は、サイのお気に召さなかった? ……わからない……、俺は、何も知らないから……)
ハルは考える。己は、『逆城サイを愛する者』として定義されている。
何も知らないまま、ただサイが望むように振る舞う人形でいるのはラクだった。けれど――『今の自分』の中には無い、苦しくて心が焼けついてしまいそうになるほどの『サイへの愛』を無かったことにするのは、己の存在意義に反するのではないか、と。
「……このままで、良いとは思えない。俺は……知らなくては。『以前の俺』のことを、そして、かつてのサイと俺の関係のことも……。何も知らないままでは……俺はまた、サイを傷付けてしまう。そんな気がする……」
ふらり、と、ハルは立ち上がる。
彼が『今の自分』になってから、この部屋から出たことは一度もない。物理的な拘束こそ無かったが、どこにも行くなとサイに命じられており、逆らうという発想自体が無かったからだ。
「……すまん、サイ。許してくれ。おまえの命令に逆らう俺を。でも、これは……きっと、おまえを『本当に』愛するために、必要だから……」
これは、『ハル』となった彼にとって、初めての反抗であった。
震える足で歩き出し、ドアを開け――部屋の外へと、足を踏み出せば。
そこに待ち受けていたのは、無機質な白一色に彩られた、無限に続いているかのような回廊であった。
*
「あ、あぁ……、ああああ!! 終わりだ……全部っ、全部終わりだ!! お、おれ、先輩を……っ、先輩を、きず、つけ……あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
四方を白い壁に囲まれた、何もない――出入り口すらない無機質な部屋の中で。八雲チアキ、否、闇の魔法使いジェラシィは、半狂乱になりながら苦しんでいた。
彼の持つ魔法は暴走し、体の内側から溢れる嫉妬の炎は、彼自身すら巻き込み全てを焼き尽くす。魔法のコントロールが効かないせいなのか、変身を解除することすらできない。
6畳ほどある部屋の中は、彼の放った炎が渦巻き、地獄の様相を成していた。
「先輩に……おれが、嘘つきだって……闇の魔法使いだってバレた。キモいストーカー男だってバレた。おまけに、お、おれの炎が、先輩を……!!」
轟々と燃え盛る炎の中では、チアキが暴走した瞬間の光景が――見知らぬ男子生徒と手をつなぐノブユキが、チアキの変身を見て呆然とするノブユキが、炎に巻き込まれそうになり、見知らぬ男子生徒に助けられるノブユキが、繰り返し映し出されている。
嫉妬の炎はチアキから理性を奪い、最愛のノブユキを傷つけてしまった罪悪感と、暴走してしまった自身への嫌悪感が、ますます彼の心と体を傷つけていく。
そして、これほど苦しむことがあってなお――彼の心から嫉妬心は消えてくれない。こんな醜い自分など消えてなくなってしまえと思うのに、ドス黒い感情が溢れて止まらないのだ。
(やだ……、先輩、なんで、おれ以外と……。おれには先輩しかいないのに……。ずるい、ずるい、ずるい、ずるい……!! っ、違う、おれ、おれが、こんなだから、先輩は……。わかってる、わかってる……のに……!!)
自ら生み出した炎に灼かれて、頭を抱えて苦しむしかできないチアキ。――それを、別の場所から魔法で眺める男がいた。
「……ふふふっ。見事なまでの暴走だねえ。本当に……全て、神様の言うとおりだ……」
さも愉快げにクスクスと笑うのは、闇の魔法使いフレンジィ――ヤンデリオのボス、本名を、逆城サイという少年。
彼は、チアキが閉じ込められた異空間からは遠く離れた場所――闇の神が封じられた沼の側で、魔法を使い、チアキの様子を視ていたのだった。
『くくっ……、素晴らしいぞ、我が同盟者よ。貴様は本当に、我の期待を裏切らない男だ……』
「ああ……お褒めに預かり光栄だよ、神様」
彼の脳裏に直接響くのは、低く不気味な男の声。声の主こそ、この地に封じられた闇の神……世界を闇に染めようと目論む黒幕だった。
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そうして、復活を目論む闇の神の協力者となり、ヤンデリオのボスとして暗躍を始めたのだ。
全ては、闇の神の想定どおりに動きつつある。
逆上して狂気に身をやつした逆城サイは、愛する人を洗脳する力と引き換えに、封印により動けぬ闇の神の代行者となった。
最初に、強すぎる束縛心から恋人の愛を信じられなくなっていた芝里タイチを、闇の神に引き合わせた。
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そして、心の内側に強すぎる嫉妬心を飼っていた八雲チアキは、恋心に付け込まれて洗脳され――彼の『感情』を起爆剤とし、魔法を暴走させられて、闇の神のための贄にされようとしていたのだ。
――そもそも、闇の神の封印は、彼を封じた妖精全員が死ななければ解けないもののはず……だった。しかし、長年の時を経て、封印中の闇の神は己を封じる魔法を解析し、その一部を改変していたのだ。
本来ならば妖精全員が死なない限り解けない封印を、魔力を溜め込んだ人間、それもたった一人の命で解けるように、と。
そしてさらに、妖精と人間との契約魔法を改造し、妖精側の同意をなく、その力だけを奪って契約させる術をも生み出した。それこそが『闇の魔法使い』、ヤンデリオの力の正体。
妖精と正しく契約した『光の魔法使い』相手では、光の女神の加護が邪魔をして、生贄として利用することができなかった。
つまり、闇の神の封印を解くには、ヤンデリオの誰かの命を引き換えにすれば良い。
はなからチアキは戦力としてではなく、チカラを暴走させやすい器として、闇の神復活の生贄となるために、闇の魔法使いに選ばれていたのである。
「……まあ、なんでもいいや。顔と名前しか知らないような後輩が死んだところで、僕にはなんの関係もないのだし」
闇の神の企みを知っていて、サイは、動揺することもなければ良心が痛むこともない。
逆城サイが望むのは、最愛の人が自分を愛してくれることだけ。そのためならば、他人を騙し、操り、洗脳し、生贄として捧げることすら厭わない。
そうでもしなければ、ノンケで妻子持ちだった想い人――ハルヒコと結ばれることはできなかった。邪悪な力に縋らなければ、彼が自分を愛することなどないのだと、サイは痛いほどよくわかっている。
わかっている――にも関わらず、どうにも胸騒ぎが収まらなくて、サイは闇の神に問いかけていた。
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「うん、でも……。……ハルは、僕に素直な『イイコ』になってくれたけど。前みたいに、僕を叱ったり、止めたりしてくれなくなったから……」
記憶を消されたハルヒコ――ハルは、サイにひたすら従順な存在だ。それを望んでいたはずなのに、心のどこかで、わずかな寂しさを感じている。
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『愚かな。貴様が望んだのだろう、貴様を一切否定せぬ、貴様のためだけにあるあの男を。記憶を戻せば、あの男はまた貴様を裏切るぞ』
「ッッ……!! それは駄目だ、許さない……! ハルは、あの人は僕のモノなんだ。ようやく僕だけのモノにしたんだから……!!」
『わかっておれば良い。……我が滅ぼされれば、貴様は、あの男を失うのだ。ゆめゆめ忘れるなよ、同盟者』
「……わかってるさ、そんなこと」
きつく握りしめた拳に血がにじむ。今更後戻りなどできないことは、なによりもサイ自身がわかっている。
(ああ、そうだ――わかってる。僕は、僕を裏切ったハルが、ハルヒコ先生が許せなかった。だから、僕だけに従順なお人形になるよう作り変えた。だって、あんなどこにでもいるようなオンナよりも僕のほうが、彼の伴侶に相応しいハズだから……)
胸のうちに溢れるのは、ハルヒコの妻と娘への嫉妬。憎しみ。そして、己を裏切って曖昧な態度をとっていたハルヒコへの怒りと――それを上回るほどの、歪で、泥沼のように深い愛情だ。
逆城サイ、という少年は孤独だった。病弱なせいで友人も少なく、保健室でハルヒコと話すのだけが日常の楽しみだった。
たった一つの依存先に裏切られた彼の狂気は止まらない。彼自身も止めることができない。自分の愛が異常だと自覚してなお、暴走する恋心を止めることなどできなかった。
(今のハルは好きだ。僕がいなくちゃ生きていけない、弱くて可愛い、僕だけのハルだから。もう二度と僕を裏切ったりしない、僕に逆らうことすら思いつかないから。彼自身が望んだんだ、今までの自分を捨てて、僕だけのお人形になってくれるって。これは僕らの愛の形なんだ。他の何を犠牲にしてでも、僕は、僕とハル二人きりの楽園を守ると決めた。……なのに……)
洗脳してでも、相手の自我を壊してでもハルヒコが欲しかった。彼に笑いかけてほしかった。彼を自分だけのモノにしたかった。
願いは叶ったはずなのに――サイの脳裏には、以前の、彼を裏切ったはずのハルヒコの笑顔が焼き付いて離れない。
「……なんで、『ハルヒコ先生』が恋しいんだろう。ハルは、もう僕のモノなのに」
闇の神にも聞こえぬように漏らした言葉は、誰にも拾われることなく空に溶けた。
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