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第一章 | 傾奇ブルワー、江戸に飛ぶ

傾奇ブルワー、江戸に飛ぶ 其ノ伍

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「まああれだけ飲めば、さすがに潰れるってもんよね」

夜もとっぷりとふけた頃。

客足の引いた店の床では、なおが昼間と同じように寝転んでいびきをかいていた。
ごうごうと鳴り響く音は、まるで地鳴りのようだ。

「それで?どうするつもりなの?この人」

つるは眉をひそめ、喜兵寿に向き合う。
もともと鋭い目つきのつるだ。それがギッと睨みつけてくるもんだから、その眼光は痛いほどに鋭かった。

「そうだなあ……まあとりあえず明日の朝にはどうにかするよ」

「まったく。お兄ちゃんはそんな見た目してるくせに人が良すぎるよね」

つるはやれやれといったように、大きくため息をつく。

「見た目はヤクザ、中身は母ちゃん。常連さんたちが言ってるけど、本当その通り。まあそこがいいとこなんだろうけどさぁ。そろそろ閉店時間でしょう?わたしおもての暖簾おろしてくる」

つるは大きく伸びをしながら、外へと出ていった。

「すまんな」

喜兵寿はつるの背中を見送ると、戸棚の下から先ほどの瓶を取り出した。
つるりとした表面に手を這わせ、瓶の口に鼻を近づけると深く息を吸う。

「何度嗅いでも不思議な酒だ。ああ、あの時もっとしっかり味わっていれば!」

喜兵寿は自他共に認める「酒狂い」だった。
酒狂いといっても別に大酒を飲むわけではない。
とにかく酒というものが熱烈に好きで、近隣の酒は新酒も含めすべて飲み漁り、気になる噂を聞けば何日かけてでも飲みに行っていた。

酒はその酒蔵の個性が色濃くでるものだ。
蔵人の技、各蔵付き酵母の表情。

そういったものが溶け合ってできる酒は、飲めばそこに刻まれているすべてがすぐにわかる。
「この酒蔵はあそこの弟子が独立して創った酒蔵か」とか「この新酒を仕込んだのはあそこの酒蔵か」だとか。

しかしなおの持っていた酒は、すべてが未知で味わったことがないものだった。
口にしたことのない酵母の香りに、米では決して表現できないような香ばしさ。

そしてあの舌の痺れるような不可思議な感覚……そのすべてを喜兵寿はどうにかしてもう一度味わいたくて仕方なかった。
(得体のしれない男だが、こいつと一緒にいればまたあの酒が飲めるかもしれないな)

一滴でも酒が残っていないかと瓶の中を覗き込んでいると、外からつるの大きな声がした。

「ちょっと、一体なんの用ですか!」

喜兵寿が急いで表に出ると、数人の男たちが店の前に立ちふさがっていた。

「おう、柳やの旦那。ひさしいな」

がっしりとした身体に、狡猾そうに光る目。
そこにいたのは下の町の同心である村岡だった。
後ろに控える手下は3人。

どいつもこいつもやたらとガタイがよく、気持ちの悪い笑みを口元に浮かべている。

「今日はもう店じまいだよ。酒は売り切れだ、さっさと帰ってくんな」

喜兵寿が下から睨みつけるようにいうと、村岡は「おお、こわ!」と両手を挙げた。

「別に今日は旦那に用があって来たわけじゃない。実はこの町におかしな輩が迷い込んできたと通報があってね」

村岡は笑みを浮かべたまま、喜兵寿の肩に手をかけた。厚みのある手のひらが、ぐぐっと肩にのめり込む。
なんて力だ。喜兵寿は肩の痛みに思わず顔をしかめる。

「おかしな格好をした輩がうろついていたんじゃあ、下の町の皆さんも安心できないだろう?町の安全を守るのが我々同心の仕事だ。これは大変と、こんな夜更けにわざわざ出向いてきたってわけだ」

村岡は喜兵寿の肩を思いっきり突き飛ばすと、どすどすと店の中に入っていった。手下たちもにやにやしながらその後に続く。

「なに人の店に勝手に入ってんだ」

ぼそっと呟き、その背中に殴りかかろうとした喜兵寿を、つるが必死に止めた。

「やめなって、お兄ちゃん!こいつらに手をだしたら、罪をでっちあげられて牢屋敷にいれられちまう。牢屋敷になんて入っちまったら店がつぶれちまうよ」

数か月前にやってきた同心、村岡の悪評は下の町でも有名だった。
「町の治安が」などと耳障りのいい言葉を並べ、気に入らない人間をどんどんと牢屋敷送りにしていると聞く。

村岡の雇い主である人物が権限を持つが故、誰もが疑問を持ちつつも口出しをすることができないのであった。
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