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1985年香港・サムの話②

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 それから数週間たった頃、サムが体調を崩したと言って事務所に顔を出さない事が増えた。たまに来たと思ったら、顔色が悪かったり、前のようにあまり明るく喋らずにどこか上の空のようだった。
 その日も、サムと九龍城内で13Kが運営している店舗の見回りをしていた。
 サムは、少し顔色が悪かったが、俺といつものように話していた。
「お前、最近体調悪いようだけど、大丈夫なのか」
 俺は、城内の暗い通路を歩きながらサムに尋ねた。
 サムは少し笑って、明るくいった。
「悪い悪い、なんか風邪でもひいたのかな。ドクター李のとこでも行って治してもらうからよ」
「、、、ならいいけどよ」
 俺は、いつもと同じサムの様子に納得した。実際、サムの様子はいつもと同じように見えた。ただ、ちょっと元気がないくらい。それとしきりに暑がり、汗をかいていた。俺たちはまたくだらない話をしながらも、城内を見回った。
 最後のストリップバーの見回りが終わった時、サムが俺に何か言いたげな顔をした。
「キョン、、、あのさ」
 俺はストリップバーの入口の前で足を止めた。扉から、音楽が漏れているのが聞こえる。
「なんだ?」
 サムは、地面を見て黙っていたが、やがて顔を上げて明るい声で言った。
「俺、女にフラれちまってよ!だから、最近体調崩してたんだよな、、、。絶対に、仲間たちには言うなよ」
 俺は笑った。
「なんだ、、、。そんなことか。大丈夫だ、女なんていっぱいいるから。その女はお前を見る目がなかったんだろう。」
 俺はサムの肩を叩いた。
 俺はまだ何も気づいていなかった。サムが俺に助けを求めていたことに。

 その日から、サムの体調不良がまた増えた。
 数日姿を見せない日が続いたので、俺は1人でサムの住んでいるマンションに行ってみることにした。サムのマンションは、黄大仙(ウォンタイシン)の近くにあった。年季の入っているマンションで、奴は一人で暮らしている。 俺は、何度か来たことのあるマンションの階段を上り、2階のサムの部屋の前にたどり着いた。
玄関のブザーを鳴らす。一回。出ない。もう一度鳴らす。しばらく待ってみたが出てこなかった。留守なのかと思い帰ろうとしたが、念の為玄関のドアノブを回してみると、ドアが開いた。
 変だ。鍵をかけ忘れているのか?
 俺はそっとドアを開ける。
「サム?いるのか?」
 静かに部屋の中に入る。狭いダイニングにはキッチンがあり、テーブルと椅子がところ狭しと置かれている。キッチンには洗っていない食器が大量に置かれてあり、服や食料品などが乱雑に置かれていた。
 サムは綺麗好きなはずだった。前に来た時は、きちんと整理された部屋で驚いたものだった。
 その時、隣の彼の寝室から『カタン』と音がした。俺は寝室のドアノブに手をかけ、ドアを開ける。
 その瞬間、サムの姿が目に飛び込んできた。
 サムは、ベッドに腰をかけ、注射器で自分の腕に注射しようとしているところだった。
「サム!!!」
 俺は、駆け寄って奴の注射器を手でなぎ倒した。注射器は吹っ飛び、壁に当たって割れた。
「やめろ!!」
 サムは俺に掴みかかってきた。至近距離でサムをみる。それは以前の明るく笑顔の絶えないサムではなかった。サムの目にはクマができ、顔は生白く、小刻みに震え、汗をかいていた。
 麻薬の禁断症状だった。
 俺はサムを突き飛ばした。サムはベッドに吹っ飛び、転がった。その時に、彼の腕にいくつもの注射を打った後があるのが見えた。
「サム、、、いつからやってたんだ」
 サムは俺の顔を見つめながら、震えていた。今にも泣き出しそうな顔だった。
「キョン、、、。俺、、、。」
「サム!しっかりしろ。いつからやってたんだ!」
 俺はサムの服の襟を掴み力いっぱい引き寄せた。サムの両目から涙が流れた。そしてかすれた声でこう言った。
「さ、3か月くらい前から、、、。俺、何度もやめようとした。でもやめられなくて、、、。何度もお前に言おうとした。ごめん、、、ごめんな、、、!」
 俺は歯を食いしばってサムを抱きしめた。
 俺は馬鹿だ。サムは何度も俺に助けてほしいサインを送っていた。でもそれに気づけなかった。
 何やってんだ、俺は。
「サム、、、!絶対助けてやる。」
 サムは、涙を流しながら俺にすがりついた。「キョン、助けて、、、」何度もこう呟いていた。
俺はすぐさま、サムの家から事務所に電話をかけた。
 事務所にはヤンがでた。
「ヤンか?!今すぐ事務所にいる仲間をもう1人連れてサムの家までタクシーで来い!今すぐだ!いいな」
「兄貴?!何が起こったんですか?」
「理由はあとだ!」
 ヤンは、すぐさま仲間を連れてサムのマンションまでタクシーで駆けつけた。禁断症状が出た時のために、仲間を多めにした。暴れた時に押さえつけるためだ。俺たちはヤン達が乗ってきたタクシーでそのまま九龍城に戻った。
 13Kの事務所の隣に使われていない部屋がある。そこでサムの体から麻薬が体から抜けるまで監禁するしかない。俺は、ベッドとトイレしかない部屋に毛布や水を運びこんだ。食事は、こちらから毎日3食提供することにする。
 部屋に入ったサムは、簡易ベッドの上に座った。おどおどして、部屋の中を見渡している。俺はサムの隣に座り、 安心させるように肩を叩いた。
「大丈夫だ。俺がついている。毎日様子を見にくるからな。お前はきっと良くなる」
「キョン、、」
 サムは笑った。少し弱々しかったが、いつものサムの笑顔だった。

 それからサムの戦いが始まった。薬の禁断症状が現れてくると叫んだり、暴れたりした。
 俺は、食事以外は一切サムのいる部屋には近づくなと仲間に伝えた。毎日3食の食事は、仲間が変わるがわる運んだ。みんな、サムが麻薬を摂取していたことに驚いていたが、それと同時に薬の怖さを改めて感じているようだった。
 ヤンは、サムの食事を運びに行った後、深刻な顔で事務所に戻ってきた。
「兄貴、、、。」
 俺は事務所のソファで新聞を読んでいた。「なんだ?」というと、ヤンはソファの前の椅子に座った。
「俺、なんだか悲しいですよ、、。あの優しくて明るかったサム兄貴が別人みたいになっちまって。薬って本当に恐ろしいです」
「サムはきっと良くなる。今だけの辛抱だ。あいつも辛いに違いない」
「この辺で麻薬が蔓延っているのって新義の連中が精製しているからじゃないですか、、。サムの兄貴もあいつらのせいで麻薬中毒になっちまったと思うと許せないっすよ」
 サムは悔しそうに言った。俺は新聞をソファの前のテーブルの上に置いた。
「まあ、お前の言っていることもわからないでないが、売る方も悪いが、買う方も悪いな」
「サム兄貴が麻薬中毒から抜け出せたとして、13Kにそのまま残れるんですか?」
「、、、わからない。全てはボスの判断だ。基本、俺たちは麻薬に手を出したらクビだけどな」
 正直、俺はサムが元気になるなら13Kにいなくてもいいと思っていた。サムの言っていたように、13K以外で生きていく方法を見つければいいのだ。生きていればなんとかなる。

 サムが監禁されて5日目の朝、俺は食事を持ってサムの部屋に入っていった。
 サムはベッドで寝ていた。穏やかな顔をして寝息を立てていた。元気だった頃に比べて随分痩せてしまっている。肉付きがよくがっしりとしていた体は、ほっそりしていた。俺は、起こさないようにそっと食事の入った盆を床に置いた。
「、、、キョン?」
 サムが薄目を開けて俺の名前を読んだ。
「悪い、起こしちまったか。食事ここに置いとくからな。」
 サムは微笑んだ。
「世話かけるな、、、。」
「気分はどうだ?」
「だいぶいいぜ。ここに入った初日と比べて随分楽になった。」
 俺はホッとした。サムが順調に回復していることが嬉しかった。サムは上半身を起こし、
「水を取ってくれ。」言った。コップに入った水を渡すと、サムはそれを美味そうに飲んだ。コップに入っていた水を全て飲んでしまうと、サムは口を拭いて俺の目を見た。
「あのな、、キョン。」
 サムは真面目な顔で話し始めた。
「俺が前言った話覚えてるか?」
「前言った話?」
「お前は13K以外の場所で活躍すべきだってこと」
「ああ、、、その話か」
 サムは何度も頷いた。
「俺がここで閉じ込められている間によ、フッとお前のその事を考えたんだ。やっぱり、お前はいつかここを出ていく気がするな。いや、そうすべきだと思うぜ」
「なんだよ、急に、、、」
「急にじゃねえよ。俺、ずっと考えてたんだ。お前、やっぱり勿体無いぜ。ここで頂点取ったらよ、次の場所にいけよな。お前ならできる。、、、俺は、、、俺は弱い。弱かったからこそ、今回こんなことになった。でも、お前は強い。」
 サムの目と言葉には力がこもっていた。俺はなんと言っていいかわからなかった。でも、サムが俺を認め、俺のためを思って言ってくれているのはわかった。
「ありがとう、、といったらいいのかな。お前、俺のこと過大評価しすぎだ」
 俺は笑った。
 サムもつられて笑顔になる。
「お前は俺の自慢のダチだからな!」
 そしてまた少しくだらない話をした後、サムが少し休みたいといったので部屋をでた。
 俺は朝から、用事があって旺角モンコックに行かなければならなかったので、支度をして九龍城をでた。
 午前中の旺角モンコックは多くの人で混んでいた。ボスから言われた用事で人に会い、用事をすますと、戻る前に事務所に電話しようと通りの電話ボックスから電話をかけた。ちらっと通りにあるタバコ屋の時計を見ると、時計は昼の12時くらいをさしていた。
 そらで覚えている事務所の電話番号を押す。すぐに、仲間の一人が電話にでる。
「、、、俺だ。何か変わったことはないか?」
「兄貴、、、!ちょうどよかった。大変なんです!サムの兄貴が、、食事を運ぼうとした時に逃げ出して!今、行方不明なんです!」
 俺はその言葉を聞くや否や、電話ボックスを飛び出した。通りでタクシーを捕まえすぐに乗り込む。タクシーの運転手に向かって怒鳴る。「九龍城まで行け!早く!」
タクシーは、スピードをあげて運転してくれていたが、俺はスローに感じられてもどかしかった。早く、早く九龍城に着いてくれ!と心の中で何度も叫んだ。
 タクシーが九龍城に着くと、運転手に多めの金を渡すと走って城内に駆け込んだ。
 階段を駆け上がり、4階の事務所まで辿り着くと勢いよくドアを開けた。
 皆が一斉に俺の方を見た。部下の一人が俺のもとに駆けつけてきて、俺に深く頭をさげた。
「すみません!俺がサムの兄貴に食事を運ぼうと部屋に入ったら、兄貴が身体を思いっきりぶつかってきて、、、。俺が後ろに倒れたすきに、走って逃げていってしまいました!」
「今は、どこにいるかわからないのか?」
「わかりません、、、。何人かで手分けして探してはいるんですが、、、」
「あの体ではそう遠くまで行けないだろう。城内にいる可能性が高い。もう少し人数を増やして探すぞ」
 俺はサムを探す奴を数人増やした。全てのメンバーをサムを探すために当てるわけにはいかない。他にもやるべきことはたくさんある。俺も、やるべき仕事を事務所でやりつつ、何かあったらすぐ知らせるようにメンバーに伝えた。
 夕方に差し掛かった頃、ヤンが息を切らせて事務所に駆け込んできた。
「兄貴!地下で身元不明の男倒れているという連絡が来ました!」
 俺は思わず立ち上がった。ヤンは緊張した顔をしていた。青い顔をして肩で呼吸をしている。
「その男はサムなのか?!」
「、、、まだわかりません。ただ、、男の背中にドラゴンの紋身モンシンがあったそうです」
 俺はすぐさま地下に行こうとした。すると、ヤンが強く俺の腕を掴んだ。振り向くとヤンは泣きそうな顔をしていた。
「兄貴、、、、しかもその男。、、、もう息をしていないらしいです」

 なぜなんだろう。最悪の事態が起こったというのに、自分がとても冷静だということに。あまりにも、非現実すぎて実感がないからなのか。俺がただ冷たいのか。
 俺はヤンと走って九龍城の地下に降りていった。地下に降りると、数人の人だかりができているから、場所はすぐわかった。九龍城の地下は最悪だ。光が全くささないし、しめっぽさも一段と高い。薄暗く光る蛍光灯の明かりの中を人混みに近づいていく。
 俺は人混みをかき分けて、倒れている男を見ることができた。
 男は、顔を地面につけて、うつ伏せになって倒れていた。来ているタンクトップの隙間から、見覚えのある昇竜の紋身(モンシン)が見えた。俺は男を抱えて、仰向けにした。
 サムだった。穏やかな顔をしていた。うつ伏せに倒れていたせいで、少し顔が汚れていた。
「サムの兄貴、、、!」
 隣を見上げると、ヤンが肩を震わせて泣いていた。
 俺は、手のひらでサムの顔についていた土を払った。サムの体は驚くほど軽かった。
 地面を見ると、注射器が落ちていた。
 俺はサムの顔を見つめながらつぶやいた。
「お前、、、こんなところで一人で死んでんじゃねえよ、、。こんな暗い地下で、一人ぼっちで死ぬようなやつじゃないはずだ。お前はもっと、みんなに囲まれて死ぬべき奴だったはずだろ、、、?」
サムの顔に水が落ちた。ふと気付いた。それは俺の目からこぼれた涙だった。
 俺は泣いていた。未だかつて人前で泣いたことはなかった。両親が俺を置いていなくなった時もそうだ。泣きたかったけど泣けなかった。悲しかったけど、自分が捨てられたという事実に負けてしまいそうになるから。

 その後、警察が来て簡単な現場検証をしてサムを連れていった。検死をするためだ。サムは監禁されていた部屋から抜け出した後、どうにかして薬と注射器を手に入れ、地下に降りて打った。打ったその量が多すぎたのだろう。

 麻薬の過剰摂取で、サムは死んだ。

 九龍城の薄暗い地下の中で、たった1人で奴は死んでしまった。まだ19歳だった。サムが一体何をしたというんだろう。あいつはみんなに愛されていた。幸せな人生をこれから送るはずだったんだ。
 奴の最期は、どうか、苦痛のないものであってほしい。安らかに天国へ行けた事を心から願わずにいられない。
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