プラトニック ラブ

伊咲 汐恩

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第六章

37.心の傷

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  涙を拭いながら視聴覚室を出て行った紗南は、同校舎内の2階の教室へ向かった。

  別れたくない。
  離れたくない。
  私だってセイくんが好きなのに。
  歌が上手く歌えない私に飴を渡してくれたあの時から、無理に想いを引き離さなければいけないこの瞬間まで、ずっとずっと……。

  涙を流すセイの姿が幻影のように目に焼き付き、ヒクヒクと咽び泣きながら1階の廊下の左側にある階段へと曲がった。
  すると、階段の2段目に足をかけたその時。



「それでいいのよ、ご苦労様」



  精神的に追い込まれている紗南の背後から労いの言葉が届いた。
  それは、聞き覚えのある淡々とした語り方。
  紗南は声の主が冴木だと確信すると、涙を飛び散らせながらキッと睨みつける。
  すると、冴木は階段の角に背中を持たれさせながら腕組みをしていた。

  このタイミングでの出現は、萎びた花に命の追い打ちをかけるかのようだった。
  別れの現場を一部始終見ていたかのような口っぷりに違和感を覚える。


  紗南は冴木の顔を見た途端、ポケットに手を突っ込んで勇気の飴を握りしめた。
  意思を伝えきれなかった情けない自分の殻を破って、濁り濁った胸の内を曝け出したかった。



「冴木さんの願い通り別れました。これで充分ですよね。……でも、こんな残酷な別れ方をしなきゃいけない理由がわかりません」



  紗南は冴木に怒りの矛先を向けた。
  だが、冴木は表情を変えぬまま首を横に振る。



「いいえ、 まだ充分じゃないわ」

「えっ……」


「セイが日本を発つまで油断はしない。最後まで何が起こるかわからないから」

「……っ」


「因みに先程の視聴覚室での様子は一部始終ビデオに撮らせてもらったから」



  全身の血の気が引いた。
  何故ならビデオに収められているのは、話し合いの一部始終どころか、彼が二度に渡って抱きしめてきたシーンも録画されていると思ったから。



「なぜ、そんな酷い事を……」

「何度も警告したでしょ。ビデオを回したのは、貴方が裏切った時の保険よ」


「それはどーゆー意味ですか?」

「出国まで残り1日。万が一、貴方達が復縁してしまったら、今日の話し合いはチャラになってしまう。セイは貴方が絡むとまた問題を起こすわ」


「セイくんは、問題ばかり起こすような人じゃありません!」

「もし、留学延期になった理由が世間に知れ渡ったらセイのイメージダウンに繋がる。もしそうなった場合、スポンサー契約の解除が相次ぎ、多額の違約金が発生する。だから、いざという時の為にビデオを回したの。私達も商売人だから、被害を被った場合はセイのスキャンダル情報をマスコミに売って、事務所のマイナス計上分を補填するつもりよ」



  冴木は強気な姿勢を崩さず、紗南の気持ちを逆撫でする。



「セイくんは身内じゃないんですか」



  紗南は次の一手に恐怖を覚える。
  問題を起こしたら身内でも簡単に切り捨てるという残酷な考え方がどうも腑に落ちない。



「そうね。でも、あの子は人というより会社の商品なの。市場価値が下がれば手元に置いておいても意味がないの」

「そんな……」


「芸能界はそんなに甘くない。小さなかすり傷が致命傷になる場合もある。私達はこれが商売だから貴方が理解してね」

「じゃあ、市場価値が下がったらセイくんはどうなっちゃうんですか?  まさか、切り捨てたりしないですよね。幼少期から人一倍頑張ってここまで上り詰めてきたのに……」



  紗南はビルの非常階段で1人で歌の練習をしていた小学生の頃のセイの姿を思い描くと、不安の色が隠せなくなった。



「敢えて返事はしないわ。因みにジュンも巻き添いを食らう事を忘れないでね」



  冴木は紗南の気持ちなど御構いなしにそう告げると、髪を揺らしながら立ち去った。

  学校を後にすると、西門側の駐車場に停めていた社用車に乗り込み、運転席に腰を下ろして両手でハンドルにしがみつく。
  車内の香りに包まれて張り詰めていた気が緩んだ瞬間、右目から一粒涙が溢れた。
  そして、紗南の前で吐き出せなかった本音をハンドル相手に呟く。



「……ごめんなさい、福嶋 紗南さん。そして、セイ。ビデオを撮ったなんて嘘。こんな卑怯なやり方は自分でも間違ってると思う。でも、こうでもしないとセイはアメリカでダンスに没頭出来ないし、貴方達の未来が今以上に傷付いてしまうと思ったの。

福嶋 紗南さんは10年前の私。青蘭高校の普通科に通ってた当時、私は学校中を巻き込む大きなトラブルを起こしたの。ブレザーの色を変更させてしまった元凶は私。

その先に想像を遥かに超えた苦しい未来が待ち受けてるのを誰よりもよく知ってるから、いま貴方達が我慢するべきだと思った。私の二の舞にはさせたくない、残酷な想いをさせて本当にごめんなさい……」



  過去に深い傷を抱えていた冴木は、鉄仮面が剥がれたと同時に、ぐしゃぐしゃになるほど泣き崩れた。


  誰にも明かされる事のなかった、過去の苦悩。
  厳しい現実を身を持って知っているからこそ、まだ引き返せる段階にある2人を引き離そうと思った。

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