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王国動乱
本戦の裏側で
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ヴァレンティンの率いるオトリシュ攻略軍が本隊であるのならば、テオドールが率いる千の別動隊は正に裏部隊であった、五か村を陥落せしめた後、テオドールの部隊は完全に街道から外れ、村や町からも遠い場所に分散して待期する事となった、千の部隊はその数からどうしても人目に付く可能性が高く四部隊に分ける事によって、発見されずらくすることと、仮に発見され攻撃を受けた場合、その部隊は速やかに本国に撤収し、作戦行動から離脱することによって全体の戦略への影響を極力避ける目的があった。村を陥落してから待期は20日に及んだが、ヴァレンティンの侵攻と共に次の作戦行動へと動き出した。
首都アンヴェールとオトリシュの中間地点、ややオトリシュ寄りの場所において四部隊が再集結し、脱落なく作戦行動を行える事に一先ず安堵した、1部隊が発見されても作戦の継続は可能であったし、そのための分割ではあったのだげ、兵力の減少があれば当然のように作戦遂行能力の低下は顕著なものとなり、難易度が跳ね上がる事は確実だったのだから。
見つからないよう、20日に渡って野山に待機し続け、かなり臭いもきつくなっていたが、皆ひどい臭いなので気にならなくなってきてもいた、もしユリアーヌスやヒルデガルドがいたら間違いなく顔を顰めたであろうが、そういった点に関してはアストリッドもゲルトラウデも苦情の一つも言わず、気にもしていない様子であった、本人達を臭いでからかうと、流血騒ぎになりかねないので皆黙っていた節もあるのだが。
順番に仮眠を取りつつ決戦の日時に体調を合わせるようにしていたが、鼾をかいて眠るアストリッドを見ると、この女に色気を感じず、一緒に行動していても全く警戒の色を浮かべないユリアーヌスの気持ちがよく分かる気がした、よく見ればその顔はかなりの美形であり、着飾り淑やかにしていれば求婚者も数多く現れそうに思えるだけに、エッケハルトは育て方を間違えたのではないだろうか?という疑問がどうしても拭い切れなかった、もっとも剣の才能に関しては美貌以上に明確なものがあり、その才を惜しむ気持ちも完全に理解できないわけではなかったのだが。
アストリッドにしても作戦内容に完全に納得している訳ではなかったが、有効性が理解できない程バカではなかったし、指揮官でありながら兵士と共に行動するテオドールの姿勢は好ましいと思う部分も多々あり、一定以上の信頼は寄せていた、そうでなければ鼾をかいて眠れるほどの信頼は寄せなかったであろう、眠っているうちに襲いかかり手籠めにするような卑劣さを持つ人物ではない事は理解していた、最も鼾をかき涎を垂らしながら眠るアストリッドを少し笑いものにはしていたのだが。
「動きがありました、深夜に接敵を狙うならここからもう少し先になると思われます」
その脚力を買われ偵察任務に抜擢されていたクラウスからの報告により一気に動き出す事となった。ヴァレンティンの軍が方向を変えオトリシュを目指しているという報告が首都アンヴェールに齎されると、救援のため2万の軍勢がアンヴェールを発した、アンヴェールには5万ほどの軍勢が詰めていたが、規模も動向も分らぬテオドールの別動隊の影に怯えどうしても守りを厚くせざるを得ない状況が発生していた。
数字的には2万対千、その差20倍という戦力比であったが、皆の顔には不安の影は見受けられなかった。これまでの戦いで被害も出ていたが、想定通りの戦果もきっちりと上がっており、勝利を確信していたからであった。
だいたいの接敵予想地点へ移動すると夜に備えて仮眠をとる事となった、援軍の出発を見てから報告に走ったクラウスであったが、彼の脚力に加え軍の行軍となると重い武器や防具などの装備品の関係もありどうしても移動速度には制限がかかり、武器防具を一切着けず、ひたすら駆けたクラウスとの差はかなり広がり、ゆっくりと休息しながら準備を整える時間的余裕が生まれていた。
あたりが暗くなり、決戦の時が刻々と迫る中、テオドールは最後の指令を発した。
「まず、いつも通り先制攻撃を仕掛ける、敵に先制攻撃が命中し、倒れる者やうめき声が聞こえたら一気に抜刀して攻撃を仕掛ける、狙いは指揮官級の者達に定めてくれて構わない、明らかに守られているような高級仕官をみつけたらとりあえず倒してください、あとでそれが誰であったのかを確認すればいいんで、とにかく倒す事に集中してください」
月明かりの中で皆が頷くのが確認できた、フリートヘルムから借り受けた兵であったが、皆文句も言わずここまでよく従っていてくれた。大きな戦果が上がればそれがフリートヘルムの手柄に加算される事を理解していた点や、四年前の戦役でテオドールの作戦によってフリートヘルムが大きな手柄を立てた事が知れ渡っていたのも大きかった。
伯爵領においては二代に渡る活躍から『鴉の旗の下に栄誉あり』とまで言われる有様であり、個人としても大きい手柄を立てるチャンスを欲する者にとってテオドールの旗下に加えられることは最大のチャンスであり名誉と捉える者が大半であった。
月明かりの中、左右の平野に身を伏せる兵を発見するのは困難であり、偵察を兼ねる先導部隊にしても、伏兵がいれば喰いついてくるという囮としての意味合いが強かった、援軍出発して間もない頃は緊張感から注意力もあったし、オトリシュまで後少しという地点になれば自ずと緊張感も高まったが、中間地点くらいの位置が最も緊張感の持続が難しい地点であろうという憶測の下で、タイミングを見計らっての襲撃であった。
馬上にいる指揮官や高級将校らしき人物は真っ先に狙撃の対象となった、断続的に悲鳴や怒号が飛び交い一気に戦場としての緊張感は高まったが、そこからの展開は一方的なものであった、指揮官が不在の状況では展開に対しての対応が後手に回り、しかも月明かりがあるとはいえ深夜の戦闘では敵の実数も計りずらく、組織的な対応もできず散発的な対応に終始するのみであった。
一際活躍したのは敵部隊の中央付近を攻撃できるように配置されたアストリッドであった、ここまでの鬱憤うっぷんを晴らすかのような大暴れであり、その割を喰ったのは当然のように敵の指揮官の近従であった、重装備で身を固めていても、その装備の隙間を縫うように繰り出される剣撃により一瞬で無力化され、せめて動きを封じようとするも、一撃を入れた後は即座に移動を繰り返し、重装備で動きが鈍り、しかも兜によって視野の狭まった騎士にその姿を捉える事は不可能と言ってよく、一瞬で鋭い一撃を入れると即座に消えるその動きは悪夢か亡霊のようにしか思えなかった、アストリッドが無力化させた騎士を後続が止めを刺す、その連携によって総指揮官周辺は完全に壊滅状態となり、クロスボウによる狙撃を受けるもプレートメイルによって辛うじて致命傷に至っていなかった指揮官は必死に立て直しを図ったが、アストリッドに気を取られている隙に再装填された二射目で敢え無く落馬しそのまま討ち取られてしまった、敵の叫び声や、呼びかけの声から敵の総指揮官の名を判断したアストリッドはその討ち死にを高らかに宣言し、敵の士気を挫きにかかった。
後日、両手首に深刻なダメージを喰らいながら生き延びた騎士の口から語られたこの夜のアストリッドの活躍から彼女は『死神に付き従う夜叉』と囁かれる事となった。
撤収の号令が次々と掛けられた、その号令をかけているのはテオドール配下の者であったが、その効果は絶大であった、戦闘開始から約30分が経過し、その短時間で指揮官級の者が何人も討ち取られる事態となると皆の中に逃げ出したい気持ちが蔓延してきていた、本来撤退の指令を出せる立場の総指揮官はすでに討ち取られており、正体不明の襲撃者達とどちらかが全滅するまで戦わなくてはならないのかという絶望的な状況にあっては、半ば偽と分かる号令であっても自分に対しての免罪符としてその効果は絶大であった。
もちろんその偽号令の真意に気付く者も多数いた、その意味するところは謎の襲撃部隊の兵力は決して多くなく、援軍である自分達を早急に撤退させたいだけであり、全滅させるような兵力があるわけではない事を完全に見抜く者さえ多数いた、しかし深夜の乱戦の中という正論をゆっくり聞ける環境からほど遠い環境下にあっては、正論を声高らかに叫ぶ者は格好の標的となり集中的に狙われるだけの結果しか生まなかった。
「けっこう粘るね」
戦闘から少し離れた場所で戦闘の推移を眺めていたテオドールは傍らにいるゲルトラウデに呟くように言った。
「敵も必死ですし、状況がわかりずらいが故に撤退の指示も出しずらいのでしょうね」
「状況を把握されたら返り討ちにされるしねぇ」
冗談ぽく言っているが真実でもあった、20倍の敵に挑んでいるのであるから落ち着いて対応されれば勝ち目など皆無である事はよほどのバカでもない限り容易に想像がつく内容であった、そんな中で白兵戦がそれほど得意とは言い難いテオドールの配下は援護射撃を中心とした任務を担っていたが、やはり白兵戦を担う伯爵兵には多数の死者が出ている事が予想され、あまりに多くの死者を出すと、直接責められるわけではないが心苦しいものがあるだけに、とっとと撤退して欲しくてたまらなかった。
「粘らず、とっとと撤退してくれよ・・・」
テオドールのそんな呟きに傍らで聞いていたゲルトラウデも同じような感想を抱き、こんな時は無心に暴れられるアストリッドを少しだけ羨ましく感じると同時に、暴れていれば気が済む単細胞は気楽でいいと八つ当たりに近い怒りも感じてしまっていた。
戦闘開始から1時間が経過する頃にはテオドールにも焦りの色が浮かんできていた、粘られた場合、戦略は撤退の方向にシフトする必要性が出てくるため、その判断をする時間が来ている事を肌で感じ始めていた、撤退する場合、同時にヴァレンティンにも援軍阻止失敗の報を入れ、オトリシュを人海戦術で一気に落とすか、撤退かの状況判断を委ねる必要性が出てくる、絶対に避けないといけない選択肢のわけではないが、勝利によってこれまで占領してきた地域を大きく失い和平交渉に移行するにしても条件面で色々と譲歩する必要性が出てくることは容易に想像がつくだけに、判断に迷う所であった。
「撤収命令を出されたらいかがでしょうか?」
そんなテオドールの胸中を察しゲルトラウデは声を掛ける、ゲルトラウデにしてもその判断が苦渋の決断であり、なかなか決断を下すのが難しい事は作戦立案から携わっているだけに深く理解していた、しかし利を求め作戦に破綻をきたすまでの失策を冒す事こそ愚の骨頂であり、絶対に避けなければならない事である事も理解していた。故に現在テオドールが欲しているのは撤退の後押しをしてくれるそんな助言であろう事を理解した上での進言であった。
「そうだね、これ以上はきつそうだ」
軽くため息を吐くと首にかけていた笛を咥え合図を送ろうとしたその時、ゲルトラウデによって笛は叩き落された。
「少しお待ちを、お静かに」
その声に従い耳を澄ますと、撤退命令が大きくあちこちから出されていた、テオドール配下の者による撤退命令とは明らかに違うその命令は敵の指揮官から出されたものである事は明白であった。
生き残っていた指揮官にしても撤退命令を出すかどうかの判断は極めて難しいものであった、敵の実数が自軍より少ない事は確実に分っていた、しかしどのくらい少ないのかまでは把握できず5千程であるならば、あと少し踏みとどまれば敵が撤退を始めると踏んでいた、しかし初期に部隊指揮官を集中的に狙う戦術により、各部隊の連携が取りづらくなったことや、指揮官不在の混乱から元来兵士ではなく徴兵された兵士達の逃走が相次いだことにより戦線の維持は困難であろうとの判断から撤退命令に踏み切ったものであった。余談になるが戦後にこの時の奇襲部隊が千しかいなかった事を知りこの指揮官は地団太を踏み悔しがったが、その指揮官がレイヴン卿であったと聞くと生き延びることができた幸運を神に感謝した。
「これで、準備しておいた手紙が無駄にならなくて済むね」
そう言って懐から事前に準備しておいた手紙を取り出すが、チラッとそれを見ながらゲルトラウデは言う。
「もう少し字の練習をした方がいいと思いますよ」
【救援軍は全滅させました、証拠はこの死体です。五か村が皆殺しにされたのは知っていますね?昼までに降伏するなら生命、財産の保障をします、しかしそれを過ぎたら皆殺しにします レイヴン】
たしかにテオドールの字はかなりの悪筆であった、しかしこういった場面ではいかにも野蛮な人物と映るその悪筆は受け取ったものにインパクトと恐怖感を抱かせるに十分なものであった。
敵の撤収に合わせて、高級将校と思われる死体を回収し、その死体を担ぎ攻城戦を行っているであろうヴァレンティンの元に手紙と共に運びテオドールの作戦行動は完全に終結したと言ってよかった、あとは外交戦による戦いとその援護的な詰めのみだが、それは誰かに丸投げする気であった。
作戦計画の伝達の際、最後の詰めなどを人任せにする事を堂々と言ってのけたテオドールに対し、案の定アストリッドは噛みついてきたが、「手柄を立てすぎるのも問題なんだよね」と寂しそうに語るテオドールの言葉を聞くと強く言えなくなってしまっていた。
こうして彼の中でこの戦争は終わったつもりになっていたが、この後本人の最も苦手とする類いの戦いが待っている事をこの時まだ知らなかった。
首都アンヴェールとオトリシュの中間地点、ややオトリシュ寄りの場所において四部隊が再集結し、脱落なく作戦行動を行える事に一先ず安堵した、1部隊が発見されても作戦の継続は可能であったし、そのための分割ではあったのだげ、兵力の減少があれば当然のように作戦遂行能力の低下は顕著なものとなり、難易度が跳ね上がる事は確実だったのだから。
見つからないよう、20日に渡って野山に待機し続け、かなり臭いもきつくなっていたが、皆ひどい臭いなので気にならなくなってきてもいた、もしユリアーヌスやヒルデガルドがいたら間違いなく顔を顰めたであろうが、そういった点に関してはアストリッドもゲルトラウデも苦情の一つも言わず、気にもしていない様子であった、本人達を臭いでからかうと、流血騒ぎになりかねないので皆黙っていた節もあるのだが。
順番に仮眠を取りつつ決戦の日時に体調を合わせるようにしていたが、鼾をかいて眠るアストリッドを見ると、この女に色気を感じず、一緒に行動していても全く警戒の色を浮かべないユリアーヌスの気持ちがよく分かる気がした、よく見ればその顔はかなりの美形であり、着飾り淑やかにしていれば求婚者も数多く現れそうに思えるだけに、エッケハルトは育て方を間違えたのではないだろうか?という疑問がどうしても拭い切れなかった、もっとも剣の才能に関しては美貌以上に明確なものがあり、その才を惜しむ気持ちも完全に理解できないわけではなかったのだが。
アストリッドにしても作戦内容に完全に納得している訳ではなかったが、有効性が理解できない程バカではなかったし、指揮官でありながら兵士と共に行動するテオドールの姿勢は好ましいと思う部分も多々あり、一定以上の信頼は寄せていた、そうでなければ鼾をかいて眠れるほどの信頼は寄せなかったであろう、眠っているうちに襲いかかり手籠めにするような卑劣さを持つ人物ではない事は理解していた、最も鼾をかき涎を垂らしながら眠るアストリッドを少し笑いものにはしていたのだが。
「動きがありました、深夜に接敵を狙うならここからもう少し先になると思われます」
その脚力を買われ偵察任務に抜擢されていたクラウスからの報告により一気に動き出す事となった。ヴァレンティンの軍が方向を変えオトリシュを目指しているという報告が首都アンヴェールに齎されると、救援のため2万の軍勢がアンヴェールを発した、アンヴェールには5万ほどの軍勢が詰めていたが、規模も動向も分らぬテオドールの別動隊の影に怯えどうしても守りを厚くせざるを得ない状況が発生していた。
数字的には2万対千、その差20倍という戦力比であったが、皆の顔には不安の影は見受けられなかった。これまでの戦いで被害も出ていたが、想定通りの戦果もきっちりと上がっており、勝利を確信していたからであった。
だいたいの接敵予想地点へ移動すると夜に備えて仮眠をとる事となった、援軍の出発を見てから報告に走ったクラウスであったが、彼の脚力に加え軍の行軍となると重い武器や防具などの装備品の関係もありどうしても移動速度には制限がかかり、武器防具を一切着けず、ひたすら駆けたクラウスとの差はかなり広がり、ゆっくりと休息しながら準備を整える時間的余裕が生まれていた。
あたりが暗くなり、決戦の時が刻々と迫る中、テオドールは最後の指令を発した。
「まず、いつも通り先制攻撃を仕掛ける、敵に先制攻撃が命中し、倒れる者やうめき声が聞こえたら一気に抜刀して攻撃を仕掛ける、狙いは指揮官級の者達に定めてくれて構わない、明らかに守られているような高級仕官をみつけたらとりあえず倒してください、あとでそれが誰であったのかを確認すればいいんで、とにかく倒す事に集中してください」
月明かりの中で皆が頷くのが確認できた、フリートヘルムから借り受けた兵であったが、皆文句も言わずここまでよく従っていてくれた。大きな戦果が上がればそれがフリートヘルムの手柄に加算される事を理解していた点や、四年前の戦役でテオドールの作戦によってフリートヘルムが大きな手柄を立てた事が知れ渡っていたのも大きかった。
伯爵領においては二代に渡る活躍から『鴉の旗の下に栄誉あり』とまで言われる有様であり、個人としても大きい手柄を立てるチャンスを欲する者にとってテオドールの旗下に加えられることは最大のチャンスであり名誉と捉える者が大半であった。
月明かりの中、左右の平野に身を伏せる兵を発見するのは困難であり、偵察を兼ねる先導部隊にしても、伏兵がいれば喰いついてくるという囮としての意味合いが強かった、援軍出発して間もない頃は緊張感から注意力もあったし、オトリシュまで後少しという地点になれば自ずと緊張感も高まったが、中間地点くらいの位置が最も緊張感の持続が難しい地点であろうという憶測の下で、タイミングを見計らっての襲撃であった。
馬上にいる指揮官や高級将校らしき人物は真っ先に狙撃の対象となった、断続的に悲鳴や怒号が飛び交い一気に戦場としての緊張感は高まったが、そこからの展開は一方的なものであった、指揮官が不在の状況では展開に対しての対応が後手に回り、しかも月明かりがあるとはいえ深夜の戦闘では敵の実数も計りずらく、組織的な対応もできず散発的な対応に終始するのみであった。
一際活躍したのは敵部隊の中央付近を攻撃できるように配置されたアストリッドであった、ここまでの鬱憤うっぷんを晴らすかのような大暴れであり、その割を喰ったのは当然のように敵の指揮官の近従であった、重装備で身を固めていても、その装備の隙間を縫うように繰り出される剣撃により一瞬で無力化され、せめて動きを封じようとするも、一撃を入れた後は即座に移動を繰り返し、重装備で動きが鈍り、しかも兜によって視野の狭まった騎士にその姿を捉える事は不可能と言ってよく、一瞬で鋭い一撃を入れると即座に消えるその動きは悪夢か亡霊のようにしか思えなかった、アストリッドが無力化させた騎士を後続が止めを刺す、その連携によって総指揮官周辺は完全に壊滅状態となり、クロスボウによる狙撃を受けるもプレートメイルによって辛うじて致命傷に至っていなかった指揮官は必死に立て直しを図ったが、アストリッドに気を取られている隙に再装填された二射目で敢え無く落馬しそのまま討ち取られてしまった、敵の叫び声や、呼びかけの声から敵の総指揮官の名を判断したアストリッドはその討ち死にを高らかに宣言し、敵の士気を挫きにかかった。
後日、両手首に深刻なダメージを喰らいながら生き延びた騎士の口から語られたこの夜のアストリッドの活躍から彼女は『死神に付き従う夜叉』と囁かれる事となった。
撤収の号令が次々と掛けられた、その号令をかけているのはテオドール配下の者であったが、その効果は絶大であった、戦闘開始から約30分が経過し、その短時間で指揮官級の者が何人も討ち取られる事態となると皆の中に逃げ出したい気持ちが蔓延してきていた、本来撤退の指令を出せる立場の総指揮官はすでに討ち取られており、正体不明の襲撃者達とどちらかが全滅するまで戦わなくてはならないのかという絶望的な状況にあっては、半ば偽と分かる号令であっても自分に対しての免罪符としてその効果は絶大であった。
もちろんその偽号令の真意に気付く者も多数いた、その意味するところは謎の襲撃部隊の兵力は決して多くなく、援軍である自分達を早急に撤退させたいだけであり、全滅させるような兵力があるわけではない事を完全に見抜く者さえ多数いた、しかし深夜の乱戦の中という正論をゆっくり聞ける環境からほど遠い環境下にあっては、正論を声高らかに叫ぶ者は格好の標的となり集中的に狙われるだけの結果しか生まなかった。
「けっこう粘るね」
戦闘から少し離れた場所で戦闘の推移を眺めていたテオドールは傍らにいるゲルトラウデに呟くように言った。
「敵も必死ですし、状況がわかりずらいが故に撤退の指示も出しずらいのでしょうね」
「状況を把握されたら返り討ちにされるしねぇ」
冗談ぽく言っているが真実でもあった、20倍の敵に挑んでいるのであるから落ち着いて対応されれば勝ち目など皆無である事はよほどのバカでもない限り容易に想像がつく内容であった、そんな中で白兵戦がそれほど得意とは言い難いテオドールの配下は援護射撃を中心とした任務を担っていたが、やはり白兵戦を担う伯爵兵には多数の死者が出ている事が予想され、あまりに多くの死者を出すと、直接責められるわけではないが心苦しいものがあるだけに、とっとと撤退して欲しくてたまらなかった。
「粘らず、とっとと撤退してくれよ・・・」
テオドールのそんな呟きに傍らで聞いていたゲルトラウデも同じような感想を抱き、こんな時は無心に暴れられるアストリッドを少しだけ羨ましく感じると同時に、暴れていれば気が済む単細胞は気楽でいいと八つ当たりに近い怒りも感じてしまっていた。
戦闘開始から1時間が経過する頃にはテオドールにも焦りの色が浮かんできていた、粘られた場合、戦略は撤退の方向にシフトする必要性が出てくるため、その判断をする時間が来ている事を肌で感じ始めていた、撤退する場合、同時にヴァレンティンにも援軍阻止失敗の報を入れ、オトリシュを人海戦術で一気に落とすか、撤退かの状況判断を委ねる必要性が出てくる、絶対に避けないといけない選択肢のわけではないが、勝利によってこれまで占領してきた地域を大きく失い和平交渉に移行するにしても条件面で色々と譲歩する必要性が出てくることは容易に想像がつくだけに、判断に迷う所であった。
「撤収命令を出されたらいかがでしょうか?」
そんなテオドールの胸中を察しゲルトラウデは声を掛ける、ゲルトラウデにしてもその判断が苦渋の決断であり、なかなか決断を下すのが難しい事は作戦立案から携わっているだけに深く理解していた、しかし利を求め作戦に破綻をきたすまでの失策を冒す事こそ愚の骨頂であり、絶対に避けなければならない事である事も理解していた。故に現在テオドールが欲しているのは撤退の後押しをしてくれるそんな助言であろう事を理解した上での進言であった。
「そうだね、これ以上はきつそうだ」
軽くため息を吐くと首にかけていた笛を咥え合図を送ろうとしたその時、ゲルトラウデによって笛は叩き落された。
「少しお待ちを、お静かに」
その声に従い耳を澄ますと、撤退命令が大きくあちこちから出されていた、テオドール配下の者による撤退命令とは明らかに違うその命令は敵の指揮官から出されたものである事は明白であった。
生き残っていた指揮官にしても撤退命令を出すかどうかの判断は極めて難しいものであった、敵の実数が自軍より少ない事は確実に分っていた、しかしどのくらい少ないのかまでは把握できず5千程であるならば、あと少し踏みとどまれば敵が撤退を始めると踏んでいた、しかし初期に部隊指揮官を集中的に狙う戦術により、各部隊の連携が取りづらくなったことや、指揮官不在の混乱から元来兵士ではなく徴兵された兵士達の逃走が相次いだことにより戦線の維持は困難であろうとの判断から撤退命令に踏み切ったものであった。余談になるが戦後にこの時の奇襲部隊が千しかいなかった事を知りこの指揮官は地団太を踏み悔しがったが、その指揮官がレイヴン卿であったと聞くと生き延びることができた幸運を神に感謝した。
「これで、準備しておいた手紙が無駄にならなくて済むね」
そう言って懐から事前に準備しておいた手紙を取り出すが、チラッとそれを見ながらゲルトラウデは言う。
「もう少し字の練習をした方がいいと思いますよ」
【救援軍は全滅させました、証拠はこの死体です。五か村が皆殺しにされたのは知っていますね?昼までに降伏するなら生命、財産の保障をします、しかしそれを過ぎたら皆殺しにします レイヴン】
たしかにテオドールの字はかなりの悪筆であった、しかしこういった場面ではいかにも野蛮な人物と映るその悪筆は受け取ったものにインパクトと恐怖感を抱かせるに十分なものであった。
敵の撤収に合わせて、高級将校と思われる死体を回収し、その死体を担ぎ攻城戦を行っているであろうヴァレンティンの元に手紙と共に運びテオドールの作戦行動は完全に終結したと言ってよかった、あとは外交戦による戦いとその援護的な詰めのみだが、それは誰かに丸投げする気であった。
作戦計画の伝達の際、最後の詰めなどを人任せにする事を堂々と言ってのけたテオドールに対し、案の定アストリッドは噛みついてきたが、「手柄を立てすぎるのも問題なんだよね」と寂しそうに語るテオドールの言葉を聞くと強く言えなくなってしまっていた。
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