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第九話 ハナミズキの木の下で
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レジの前に立っているのは、時おり見かけるお得意様だった。カウンターに分厚い本を三冊並べたあとで、老紳士は、さらにポケットから注文番号を書いた紙を取り出して、
「いつもすまないねぇ。楽しみにしていたマイプの本が、やっと手に入ったんですよねぇ。マイプは最強の肉食恐竜の一種でね……」
と、満面の笑顔で話しかけてくる。大倉様の姿は、ガラス扉の向こう側に消えていく。
バックヤードに向かってバタバタと走る足音が、店中に聞こえてしまいそうなほど、私はうろたえていた。大急ぎのはずなのに、体の動きは妙にたどたどしい。書庫で注文の品を探すのも、レジを打って、四冊の本をお客様に渡す時も、右手と左手がこんがらがって絡まってしまうんじゃないかと思うぐらい、あたふたとして、みっともない有様だった。
うれしそうに、いつにもまして丁寧にお礼を言ってくれるおじいさんの声も、ごめんなさい、全く耳に入ってこない。機械仕掛けの人形のように人工的な微笑みを作って、型通りのお辞儀だけでお見送りした。
時計を見ると、交替の時間までまだ十分以上ある。今日に限って、次のシフトの岡本君が、気をきかせて早めに来てくれる、なんてことはありっこないか。
——どうしよう……もうこうなったら、仕方がない。
「あっ、大変! 忘れ物!」
私は、隣で値付け作業をしている店長の姿をちらりと確認してから、わざとらしくすっとんきょうな声で叫んだ。
「店長、お客様の忘れ物を届けてきます! 交替の岡本君がもうすぐ来ますから」
「えーっ?」と不服そうな店長には目もくれず、私は、レジカウンターを飛び出して、入り口の自動ドアから逃走した。駅前まで続くはなみずき通りを見渡しても、大倉様の姿は見当たらない。
——はぁ、こんな時に限って、あの、やけに目立つ大きなリュックをしょってないんだから。
周囲を見渡し、壊れたお掃除ロボットのように、ぐるぐるとその場で何回も無駄に回転してから、見切り発車で駅に向かって走り出した。目は前方を凝視しながら、無意識にエプロンを弄っている。
——よし、スマホさえあればなんとかなるだろう。
「BOOKERS」のロゴの入った黒いエプロンの上から、ポケットの中のスマートフォンをなぜだかぎゅうっと握りしめたままで、私は夢中で駆け続けた。仕事着のまま飛び出してきてしまったのはちょっと気がひけるけれど、今は、パンプスとかじゃなくて機能性抜群のナイキのスニーカーで助かった。だいたい、子供の頃からかけっこが大の苦手だったこの私が、死に物狂いで公道を走っていること自体、前代未聞だ。
肩にはガチガチに力が入り、危うく破壊しそうなぐらいの勢いでスマホを強く握りしめてダッシュしている私は、鬼のような形相をしているに違いない。でも、今日しかないのだ。今しかないのだ。……『ブッカーズ・ダイナソー』誕生の重要なきっかけを与えてくれた大倉様に、もっとちゃんとお礼を言いたい。そして、そして、できることなら……。
歩道の敷石に何度もつまずきそうになりながらそれでも走り続けて行った時、視線のはるか先に、小さな人影が、一番星のようにポツンと灯った。
「……ハッ、お、ハッ、おお……く、ら、さん!」
あえぎあえぎ掛けた私の声に彼が不思議そうに振り返ったのは、スマホをかざして、さいわい駅の自動改札機の中に吸い込まれてしまう、まさに寸前のタイミングだった。
「あっ、あの、忘れ物を……」
手ぶらでぬーっと突っ立っている私を見て、大倉様は、狐につままれたような顔をしている。
——しまった! 丸腰のままでは戦えない。
獲物を狙う鷹のように、いや、勝ち目のない戦いに決死の覚悟で切り込んでいく新兵のように、私の目はギラギラと燃えている。けれども、先方は、卒業式の余韻にでもひたっているかの如き、あくまでも平和でのどかな佇まいだ。
「……すみません、ちょっとだけお時間……ハッ、よろしいでしょうか?」
私は、大倉様の答えも確認せずに、キョロキョロとあたりを見回して、改札口の横にある自動販売機に突進した。できれば駅ビルの二階のスタバあたりで、ゆっくりと感謝のスターバックスラテとかキャラメルマキアートでも差し上げたいのは山々だけれど、この際ぜいたくは言っていられない。真っ赤なハートのような缶の色に惹かれて「燃えるブルマン・スペシャルブレンド」という今まで飲んだこともない銘柄のコーヒーを二本、スマホ決済で奪取した。
「……ほっ、本当にお世話になりました」
再び息をきらせて戻ってきた私に、熱々の缶コーヒーをいきなりヌッと目の前に突き出された大倉様は、いささか面食らったような顔をしたあとで、
「あのぅ、ちょっと座りましょうか」
ロータリーに面した歩道のハナミズキの下の、くたびれたベンチに誘ってくれた。 (続く)
「いつもすまないねぇ。楽しみにしていたマイプの本が、やっと手に入ったんですよねぇ。マイプは最強の肉食恐竜の一種でね……」
と、満面の笑顔で話しかけてくる。大倉様の姿は、ガラス扉の向こう側に消えていく。
バックヤードに向かってバタバタと走る足音が、店中に聞こえてしまいそうなほど、私はうろたえていた。大急ぎのはずなのに、体の動きは妙にたどたどしい。書庫で注文の品を探すのも、レジを打って、四冊の本をお客様に渡す時も、右手と左手がこんがらがって絡まってしまうんじゃないかと思うぐらい、あたふたとして、みっともない有様だった。
うれしそうに、いつにもまして丁寧にお礼を言ってくれるおじいさんの声も、ごめんなさい、全く耳に入ってこない。機械仕掛けの人形のように人工的な微笑みを作って、型通りのお辞儀だけでお見送りした。
時計を見ると、交替の時間までまだ十分以上ある。今日に限って、次のシフトの岡本君が、気をきかせて早めに来てくれる、なんてことはありっこないか。
——どうしよう……もうこうなったら、仕方がない。
「あっ、大変! 忘れ物!」
私は、隣で値付け作業をしている店長の姿をちらりと確認してから、わざとらしくすっとんきょうな声で叫んだ。
「店長、お客様の忘れ物を届けてきます! 交替の岡本君がもうすぐ来ますから」
「えーっ?」と不服そうな店長には目もくれず、私は、レジカウンターを飛び出して、入り口の自動ドアから逃走した。駅前まで続くはなみずき通りを見渡しても、大倉様の姿は見当たらない。
——はぁ、こんな時に限って、あの、やけに目立つ大きなリュックをしょってないんだから。
周囲を見渡し、壊れたお掃除ロボットのように、ぐるぐるとその場で何回も無駄に回転してから、見切り発車で駅に向かって走り出した。目は前方を凝視しながら、無意識にエプロンを弄っている。
——よし、スマホさえあればなんとかなるだろう。
「BOOKERS」のロゴの入った黒いエプロンの上から、ポケットの中のスマートフォンをなぜだかぎゅうっと握りしめたままで、私は夢中で駆け続けた。仕事着のまま飛び出してきてしまったのはちょっと気がひけるけれど、今は、パンプスとかじゃなくて機能性抜群のナイキのスニーカーで助かった。だいたい、子供の頃からかけっこが大の苦手だったこの私が、死に物狂いで公道を走っていること自体、前代未聞だ。
肩にはガチガチに力が入り、危うく破壊しそうなぐらいの勢いでスマホを強く握りしめてダッシュしている私は、鬼のような形相をしているに違いない。でも、今日しかないのだ。今しかないのだ。……『ブッカーズ・ダイナソー』誕生の重要なきっかけを与えてくれた大倉様に、もっとちゃんとお礼を言いたい。そして、そして、できることなら……。
歩道の敷石に何度もつまずきそうになりながらそれでも走り続けて行った時、視線のはるか先に、小さな人影が、一番星のようにポツンと灯った。
「……ハッ、お、ハッ、おお……く、ら、さん!」
あえぎあえぎ掛けた私の声に彼が不思議そうに振り返ったのは、スマホをかざして、さいわい駅の自動改札機の中に吸い込まれてしまう、まさに寸前のタイミングだった。
「あっ、あの、忘れ物を……」
手ぶらでぬーっと突っ立っている私を見て、大倉様は、狐につままれたような顔をしている。
——しまった! 丸腰のままでは戦えない。
獲物を狙う鷹のように、いや、勝ち目のない戦いに決死の覚悟で切り込んでいく新兵のように、私の目はギラギラと燃えている。けれども、先方は、卒業式の余韻にでもひたっているかの如き、あくまでも平和でのどかな佇まいだ。
「……すみません、ちょっとだけお時間……ハッ、よろしいでしょうか?」
私は、大倉様の答えも確認せずに、キョロキョロとあたりを見回して、改札口の横にある自動販売機に突進した。できれば駅ビルの二階のスタバあたりで、ゆっくりと感謝のスターバックスラテとかキャラメルマキアートでも差し上げたいのは山々だけれど、この際ぜいたくは言っていられない。真っ赤なハートのような缶の色に惹かれて「燃えるブルマン・スペシャルブレンド」という今まで飲んだこともない銘柄のコーヒーを二本、スマホ決済で奪取した。
「……ほっ、本当にお世話になりました」
再び息をきらせて戻ってきた私に、熱々の缶コーヒーをいきなりヌッと目の前に突き出された大倉様は、いささか面食らったような顔をしたあとで、
「あのぅ、ちょっと座りましょうか」
ロータリーに面した歩道のハナミズキの下の、くたびれたベンチに誘ってくれた。 (続く)
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