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第八話 旅立ち
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思考回路が急停止して、映像と音声がねじれたままでぐるぐると回っている。
——なんてことだ! 大倉様に気づかないなんて!
目の前にいるのは、全く違う形態の、けれども、まさしく大倉歴その人だった。
——ずるいよ! 厚い前髪も、ワイルドなお髭も全部取っ払って、つるりと涼しげな顔をして、おまけに背中の大きなリュックもないんだから。
初めてまじまじと見つめた彼の瞳は、わずかに鳶色がかり、深い森に射す木漏れ日のような優しい光をやどしている。心臓が、一本釣りで釣り上げられてしまった野生の魚のように、びくんびくんと極限まで飛び跳ねる。
「お、大倉様……あの時は、ほ、本当にありがとうございました」
しどろもどろに、そう答えるのが精一杯だった。こんな情けない私の顔が、隣で買取業務に励んでいる店長に、どうかバレたりしませんように。
「……珍しい、い、いえ、貴重なアドバイスをいただいたおかげで、店内の他の売り場ともコラボして、充実した企画を出すことができました」
「それは良かったです。」
例によって言葉少なではあるけれど、ほっとしたように微笑んでいるその顔を見られるのが、たまらなくうれしい。
「今日は、また何か、専門書でもお探しですか?」
ようやく鼓動が落ち着いてきたところで、私は、声をかけた。
「いえ、実は、今日は幸玉大学の卒業式で。僕も、考古学科の修士課程を修了したところです」
「そうだったんですね。それは、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
私に、心臓が飛び出しそうなくらいの衝撃を与えたその変身ぶりは、まじめに考古学と取り組んできた彼の、一世一代の晴れ姿だったというわけだ。通い慣れたはなみずき通りをゆっくりと歩きながら、途中でふっと振り返って、重々しいレンガ造りの校門をいつになくセンチメンタルな気分で見つめていたりなんかする——そんな彼の姿をこっそり想像して、思わず笑みが漏れそうだった。
——えっ、でも、そうなると……。
「……先日は、これからも必要な時にはできる限りのご協力をする、みたいなお話になったかと思うのですが、申し訳ありません、それはできなくなってしまいました」
「えっ、いったい、どうして……」
「四月から、東北の博物館に勤務することになりました。就職したら、発掘作業などのフィールドワークがさらに増えて、サキダイに顔を出せるチャンスは中々見つからないと思います」
気づくのが、むしろ遅すぎたというのだろうか? ついさっきまでのほんわかした気分は一瞬で吹き飛んで、体がぼーっと斜めに傾いていくような絶望的な感じが襲ってくる。
「不確かな約束なんかしてしまって、すみませんでした。でも、サキダイの後輩たちにも頼んでおきましたから、ご安心ください」
——そうじゃないの、そんなことじゃあ全然なくって……。
ぐちゃぐちゃの頭の中を整理しようと、必死になって考えているところへ、レジに向かって一人のお客様が近づいてきた。
「それでは、僕はこれで、失礼します」
きちんと一礼して、彼は、くるりと背中を向けた。 (続く)
——なんてことだ! 大倉様に気づかないなんて!
目の前にいるのは、全く違う形態の、けれども、まさしく大倉歴その人だった。
——ずるいよ! 厚い前髪も、ワイルドなお髭も全部取っ払って、つるりと涼しげな顔をして、おまけに背中の大きなリュックもないんだから。
初めてまじまじと見つめた彼の瞳は、わずかに鳶色がかり、深い森に射す木漏れ日のような優しい光をやどしている。心臓が、一本釣りで釣り上げられてしまった野生の魚のように、びくんびくんと極限まで飛び跳ねる。
「お、大倉様……あの時は、ほ、本当にありがとうございました」
しどろもどろに、そう答えるのが精一杯だった。こんな情けない私の顔が、隣で買取業務に励んでいる店長に、どうかバレたりしませんように。
「……珍しい、い、いえ、貴重なアドバイスをいただいたおかげで、店内の他の売り場ともコラボして、充実した企画を出すことができました」
「それは良かったです。」
例によって言葉少なではあるけれど、ほっとしたように微笑んでいるその顔を見られるのが、たまらなくうれしい。
「今日は、また何か、専門書でもお探しですか?」
ようやく鼓動が落ち着いてきたところで、私は、声をかけた。
「いえ、実は、今日は幸玉大学の卒業式で。僕も、考古学科の修士課程を修了したところです」
「そうだったんですね。それは、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
私に、心臓が飛び出しそうなくらいの衝撃を与えたその変身ぶりは、まじめに考古学と取り組んできた彼の、一世一代の晴れ姿だったというわけだ。通い慣れたはなみずき通りをゆっくりと歩きながら、途中でふっと振り返って、重々しいレンガ造りの校門をいつになくセンチメンタルな気分で見つめていたりなんかする——そんな彼の姿をこっそり想像して、思わず笑みが漏れそうだった。
——えっ、でも、そうなると……。
「……先日は、これからも必要な時にはできる限りのご協力をする、みたいなお話になったかと思うのですが、申し訳ありません、それはできなくなってしまいました」
「えっ、いったい、どうして……」
「四月から、東北の博物館に勤務することになりました。就職したら、発掘作業などのフィールドワークがさらに増えて、サキダイに顔を出せるチャンスは中々見つからないと思います」
気づくのが、むしろ遅すぎたというのだろうか? ついさっきまでのほんわかした気分は一瞬で吹き飛んで、体がぼーっと斜めに傾いていくような絶望的な感じが襲ってくる。
「不確かな約束なんかしてしまって、すみませんでした。でも、サキダイの後輩たちにも頼んでおきましたから、ご安心ください」
——そうじゃないの、そんなことじゃあ全然なくって……。
ぐちゃぐちゃの頭の中を整理しようと、必死になって考えているところへ、レジに向かって一人のお客様が近づいてきた。
「それでは、僕はこれで、失礼します」
きちんと一礼して、彼は、くるりと背中を向けた。 (続く)
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