悪役令嬢は蔑まない

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悪役令嬢は蔑まない

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 ――学校、いきたくないなぁ。

 窓から差し込む朝日を寝ぼけまなこで見つめながら私はため息をついた。さっさとベッドから起き上がらなければならないが、しばらくそうする気になれなかった。

 平民の学院にいけばこんな思いをせずにすんだのだ。
 中等部での成績が優秀だった私に教師が受験を薦めてきたのは私立のお嬢様学校だった。小中高等部一貫の超名門校で、全国から選りすぐりの貴族令嬢が集まる女学院である。
 高額な学費で有名な貴族専門の学園だったが、数年前から平民を対象とした特待生制度を導入している。教師はその特待生を目指さないかと私と両親を説得し始めた。

 わざわざ家までやってきた教師に恐縮しっぱなしだった父は、特待生の話を聞いてすぐに乗り気になった。反対に母は少し心配そうだったが、結局私と母は教師と父に押し切られて受験の話を了承した。
 
 その時は私も思っていたのだ。入学したら今まで話したこともないような貴族の友達ができて、その子と楽しい学園生活が送れる。仮に貴族の同級生になじめなかったとしても、たかが三年間の辛抱だ。我慢して名門校を卒業できれば就職先はより取り見取りだ、と。

 その時の私は自分のことを過信していて、自分をまるで物語の主人公のよう思っていた。どんな困難にも決してめげることのない精神力の持ち主だと。
 生まれてこのかた周囲や友人に恵まれ、集団の中で孤立などしたことのなかった私は知らなかった。自分がこんなにも脆かったことを。

 お嬢様学校の高等部へ入学してそろそろ二カ月になるがまだ友達ができなかった。入学当初は友達を作ろうと勇気をもってクラスメイトに話しかけていたが、その都度冷たくあしらわれた。
 綺麗なドレスに身を包む彼女たちと違い、私は普通の平民の女の子の格好である。彼女たちの前に立つと自分がとてもみすぼらしく感じられることもあり、次第に声をかけられなくなった。

 授業の合間の休み時間、楽し気に談笑するクラスメイトの中で一人机に座って次の授業の予習をした。昼休みに友達と学食にいくクラスメイトと異なり、一人教室に残った私は誰もいない教室で母親の作った弁当を食べた。学食の料理は驚くほどの高額で平民が気軽に食べられるようなものは何一つなく、毎朝早起きして作ってくれている母の弁当がとても惨めなものに思えた。


「エリーズ。いいかげん起きなさい」と階下から母親の声が聞こえてきた。

 私はベッドから降りて部屋の扉の前に立った。ドアノブを握る手がとても重く感じられた。大きく息を吸い、勇気をもって扉を開いた。
 ただ部屋から出るだけでこれほどまでに決意を必要とする日が来るとはこれまで考えもしなかった。

 階下の台所に行くと、食卓で父が新聞を読みながらパンを頬張っていた。私が向かいの席に腰を下ろすと、新聞越しに私をチラリと見る。

「エリーズ。学校は楽しいか?」

「うん。とても楽しいよ。友達もたくさんできたし」と笑みを浮かべながら嘘をついた。
 心配させたくなかったのと、我が子がクラスで孤立するような娘だと両親に思われるのが怖かった。

 父は返事もせずに再び新聞を読み始め「また法案が貴族院で否決された」と憎々し気につぶやいた。


 十年前――東歴1752年。この国で革命がおこった。

 その年は冷夏のため全国的な不作となり、多くの餓死者が出ていた。そんな中で愚かにも貴族たちは自分たちに優位な新たな税制改革案を成立させようとしていた。

 そのことに怒りを感じた平民たちが各地で立ち上がり、やがてそれらは大きなうねりとなって国中に広がった。銃や剣を手に議会を取り囲む平民たちに恐れをなした貴族たちは法案を取り下げ、代わりに平民の要求を飲んだ。

 こうして、それまで貴族のみで行われていた議会政治が終わりをつげ、従来の貴族のみの議会の他に平民のみの議会が誕生した。こうして始まった二院制は、平民院の法案を貴族院で審査し、貴族院の法案を平民員が審査するという仕組みになっている。そして審査を通過した法案を最後に国王が審査し、制定の採否が決定される。

 行政の長もこれまで通り国王であるが、官僚の採用は平民からも行われるようになった。しかしまだ過渡期のため官僚の大多数は貴族であり、行政の実権は貴族が握っている。各省庁の長は官僚の中から選ばれ、そのいずれも貴族である。

 そのことに平民たちは苛立ちを感じていた。革命を起こせば世界が劇的に変わると夢みていたのだろう。だが、実際の変革は遅々たるもので、変革を妨げる貴族への怒りは再び膨らみ始めている。

 父も貴族への怒りを感じている者の一人だった。十年前の革命に参加した父は、今でもその熱に侵されている。

「エリーズ。いいか。貴族の友達を作るなとは言わん。だがな、絶対に貴族に頭を下げるような真似はするな」

 いつものように強い口調でそう言い聞かせてくる父に

「わかっているわ、お父さん」と弱々しく答えた。

「それにお前、勉強の方はどうなんだ? ちゃんとがんばっているんだろうな。絶対に貴族なんかに負けるんじゃないぞ。能力に平民も貴族も関係ない。それを証明するためにお前を今の学園に入学させたんだからな」

「わかっているわ。大丈夫よ」

 娘の返事に満足したのか父は再び新聞を読み始め、苛立たし気にぶつぶつと何かを呟き始めた。

 重苦しい空気に耐えられなくなった私は再び父からプレッシャーをかけられる前に急いで食事を終えて身支度を始めた。洗面台で顔を洗い、再び自室に戻って服を着替え、カバンを持って階下へと降りる。

「いってきます」といって外へ出ようとした時、母が慌てたように近づいてきた。

「お弁当忘れているわよ。それにこれ」

 弁当袋と一緒に渡されたのは透明な袋にラッピングされた母手作りのバタークッキーだった。

「学校のお友達と食べてね」と笑いかける母を見て思わず口に出しそうになった。お母さん、貴族の子たちはこんなものは食べないよ、と。
 学園のサロンの前を通ったことがある。庭園からガラス越しに見えたサロンでは令嬢たちがティーカップを手に談笑しており、サイドテーブルに置かれたケーキスタンドには宝石のような色とりどりのお菓子が並べられていた。
 彼女たちの口に素人の作ったバタークッキーが合うとはとても思えなかった。

 私は精いっぱいの笑みを浮かべ「ありがとう、お母さん」と答えて弁当袋とバタークッキーを受け取って外へ出た。そして学園へと続く道を歩き始める。

 足元の石畳を見つめながらわざとゆっくり足を進める。早く教室についてもいいことなど何もないからだ。トボトボと歩く私の横を一台の馬車が追い越していった。進む方角から見て学園に通う令嬢だろう。令嬢たちは歩いて登校などしない。

 私は手にしたバタークッキーをカバンの中に押し込んだ。慌てて入れたためクッキーが割れる音がした。
 令嬢たちに母親手作りのクッキーを見られるのが恥ずかしかった。貧乏くさいと馬鹿にされるに決まっている。

 母がクッキーを渡してきたのは今日が初めてではない。これで何度目だろうか。
 数人分のクッキーを渡されるたび私は非常に困った。学校で一人食べる勇気などなく、帰り道で路地裏に入ってラッピングを開き、日も差さない薄暗がりの中でうずくまってクッキーを食べる。残して持ち帰っては母親に申し訳なかった。
 だが少食の私には全てを食べるのは苦しく、いつからか残りを路地裏に捨てるようになった。もともとゴミだらけの路地裏である。それにきっとネズミが全部食べてくれる。そう言い聞かせることで罪悪感を紛らわそうとしたが、それはうまくいかなかった。

 次々に馬車が私を追い越していく。その日はとても上天気で空には雲一つなく、空の青は見上げるほどに深みを増していた。

 カツンと何かが石畳を叩く音がした。横を見て、それがブーツで歩く音だと分かった。

 その令嬢は、今まで見た女性の中で紛れもなく一番美しい顔をしているが、あまりにも端正な顔立ちのせいか冷たい印象を与えてきた。風の吹かれる長髪は銀色で、まるで鋭い刃物のように見えた。
 庶民の商店が立ち並ぶ一帯には不釣り合いのドレスを身に纏っており、胸元には真紅のブローチが飾られている。そしてドレス姿にもかかわらず腰にはサーベルがさされていた。
 私を横目で見降ろした彼女はまるで男性のような口ぶりでこういった。

「そんなにゆっくり歩いていては遅刻するぞ」

 入学して貴族の方から声をかけられたのはこれが初めてだった。突然のことで動揺した私はしどろもどろになりながら返事をする。

「はい……急ぎます……・」

 そういって足を速めると黒服の令嬢と歩調を合わせる形になった。私のブラウスの襟元についた校章に気づいたのだろう。

「君もこの先の女学園の生徒なんだな」と彼女はいった。

「はい。高等部1年のエリーズ・エモニエといいます」

 彼女は「そうか」とだけ口にし、それから黙り込んだ。
 歩調を遅らせて先に行かせてしまおうかと思ったが、そうはしなかった。ツンとした表情で前を真っすぐに見て歩く彼女になぜだか他の令嬢たちとは違う何かを感じのだ。

「馬車で登校されないのですか?」と恐る恐る質問した。

 彼女はこちらを見ようともせず、

「いい天気だったからな。歩きたくなったんだよ。だから途中で馬車を降りた」とぶっきらぼうに答えた。

 その口調に気圧されて口をつぐんでしまった私だったが、意を決して次の質問をぶつけてみる。

「なぜ腰にサーベルをさされているんですか?」

「父や兄の影響だ。兄二人は軍に所属している。父も領主の地位を継ぐまでは軍人だった。私は尊敬する父や兄のような騎士になりたいんだよ」

 それまできつい口調だった彼女が父と兄の話をするときだけ少し優しくなった。女性の騎士など聞いたこともないが、彼女は真剣なのかもしれない。

 学園の前には幾台もの馬車が列を作っている。令嬢が下りると馬車が立ち去り、別の馬車がその位置に収まった。いつもの光景である。
 混雑した馬車をよそに歩みを進めた私たちは同じ学舎に入った。

 この学園は学年ごとに学舎が違う。小中高一貫校なので計九つの学舎がある。広大な敷地を用意してまでこうしている理由は、先輩後輩といった上下関係を持ち込まないためである。自分より家柄の良い下級生に対して年上という理由で横暴に振舞おうものなら、その親族に塁が及んでしまう。貴族社会において重要視されるのは年齢ではなく爵位であるが、年端も行かない少女たちの中にはそれを理解できない者も多く、それによるトラブルを極力起こさないように配慮されているというわけだ。

 同じ学舎に入ったということは同級生である。別のクラスの彼女と廊下で別れる際に私は思い切って聞いてみた。

「あの……お名前は?」

「アニエス・アルチュセールだ」

 アルチュセール……。王家の一族であることを表す姓である。
 この学舎には王位継承権を持つ三人の公爵令嬢がいる。
 いつもサロンにいることから『サロンの公爵令嬢』と呼ばれるイザベル・アルチュセール。『図書室の公爵令嬢』と称されるクローデット・アルチュセール。
 そして『空き教室の公爵令嬢』アニエス・アルチュセール。
 彼女たちはみな、建国の父を先祖にもつ王族である。

 いままで自分が話をしていた相手が次期国王になるかもしれない人物と知り、私はすっかり青ざめてしまった。
 何か非礼はなかっただろうか。振り向きもせず立ち去るアニエスの後姿を見つめながら、私はただ恐れおののいた。



 私の周りが慌ただしくなったのは中間試験の結果が廊下に張り出された時からである。

 その日、廊下の人だかりの後ろから私は自分の名前を探していた。最下位から順に確認し、ようやく自分の名前を見つけたのは最後の最後だった。学年首位の文字の下に私の名前があり、私は喜びに打ち震えながらもホッとしていた。貴族には負けるなという父に怒られずにすむからである。

 自分の名前を見上げる私の隣に一人の令嬢が立った。
 とても小柄な体型をしており、まん丸の顔には豆粒のような小さい目がついている。鼻筋から両側の頬にかけてソバカスがありお世辞にも美人とはいえない容姿だが、お嬢様らしく金髪を縦ロールにしていてそれが不釣り合いだった。
 まるで初等部の学生のようにすら見える彼女は大きな本を両手で抱えて順位表を見ている。胸元に緑色の宝石が嵌められたブローチをしていた。

 目の前の人だかりから話声が聞こえてきた。

「首位のエリーズ・エモニエって誰?」

「高等部から入学してきた特待生よ。ほら、平民の」

「クローデット様が首位じゃないなんて初等部の頃から一度もなかったんじゃ……」

「初めての首位陥落ね。二位になられて図書室の公爵令嬢様は今頃どう思われているのか」

 会話を続けていた令嬢たちの一人が後ろに立つ小柄な令嬢に気づき顔をひきつらせた。彼女の異変に築き、他の者たちも後ろを振り返ると、みなの顔が一斉に蒼白になった。

「失礼しました。クローデット様」と一人が言うと、みなが頭を下げて早歩きでその場を立ち去っていく。

 何事もなかったかのように彼女たちを見送ったクローデットは、隣に立つ私を見上げ、そして立ち去っていった。

 公爵令嬢といっても様々である。アニエスのように雄々しい公爵令嬢もいれば、クローデットのように大人しそうな公爵令嬢もいる。残る一人……サロンの公爵令嬢はどのような人物なのだろうと思っていると、「エリーズ様ですね」と背後から声をかけられた。
 驚いて振り返ると、そこに立つ令嬢が続けてこういった。

「サロンにお越しください。イザベル様がお呼びです」


 サロンに通されると、丸テーブルを前に一人の令嬢がお茶を飲んでいた。
 以前サロンの前を通った時には会話を楽しむ令嬢たちの姿を目にしたものだが、今日はその時とは明らかに空気が違った。
 目の前の令嬢――イザベルを除いてサロンにいる令嬢全員が無言で左右二列に並んでいる。まるで主人に仕えるメイドのようだった。

 案内役の令嬢にうながされて私はイザベルの向かいに座った。

「お食べなさい」とイザベルがテーブルの上のケーキスタンドを指差した。

 私は言われるがままスタンドから何やら分からない菓子を一つ摘みして頬張った。見た目の美しさとは異なり甘ったるいだけの菓子である。母の作るバタークッキーの方が美味しく感じられた。

「どう? おいしい? 平民の口にも合ったかしら?」

 イザベルが私を嘗め回すように見つめながらそういった。

「はい。とても」

 侮辱されていると分かりつつも、私は何も言い返せなかった。目の前のイザベルは何かがおかしい。見ているだけで体の底から恐怖心が湧き上がるようだった。まるで人間ではないようにすら思える。
 別に彼女の正体が魔物であるといった空想話をしているわけではない。なんだか、人を人として見ていないような気がするのだ。

 栗色のショートボブをした可愛らしい顔の女性である。なぜそんな彼女に対してここまで恐怖心を抱いてしまうのか自分でも分からなかった。ただ本能が叫び続けている。この人は怖い人だと。

「あなた。よくやったわ」

 イザベルの言葉の意味が分からないでいると、彼女は続けてこういった。

「よくぞあのクローデットを学年首位の座から追い落してくれたわ。あの根暗なガリ勉女から首位の座がなくなったら後は何が残るかしら」

 彼女は口元を隠して笑いながら話を続ける。

「まったくあの根暗ときたらこの学園の意義を理解してないのよ。勉強はできるけど地頭が悪いの。典型的な低能女ね。ねえ、あなたは分かる? この学園が何のために存在するのか?」

 学業に励むため、というのが彼女の答えではないのだろう。それは分かる。では一体何かと考えても私には分からなかった。

 即答できないのを見てイザベルが馬鹿にするようにいった。

「あなたもクローデットと同じ馬鹿なのね。教えてあげるわ。この学園は貴族同士の社交場なの。令嬢同士が親睦を深め、大人になった時のための人脈を作る。そのための場所なのよ。それを理解できないクローデットはお勉強ばかり。頭が悪いとしか言いようがないわ」

 あざけるように早口でまくし立てたイザベルは私の目を真っすぐに見つめた。まるで爬虫類の目のように感じられ、背筋がゾッとした。

「でも、あなたはクローデットほど馬鹿じゃないわよね。さあ、受け取りなさい」

 私の右横に立っていた令嬢がテーブルの上に青色の宝石が嵌められたブローチを置いた。

「私の派閥に所属している証明よ。早く胸元につけなさい」

 そういわれて私はこの場にいる全ての令嬢がイザベルと同じ青色のブローチをつけていることに気がついた。いや、思い返せばこの学舎にいる全ての女生徒がブローチをつけている。ただ、赤い宝石のブローチの令嬢もいれば、緑の宝石の令嬢もいた。おそらく三種類のブローチごとに派閥が違うのだろう。

「学年首位のあなたが私の派閥に加われば、クローデットの取り巻き連中も主人の学力を武器に私の派閥を馬鹿にできなくなるわ」

 一向にブローチを手に取ろうとしない私にイザベルは苛立ちを露わにした。

「何をしているの? さっさとつけなさい。それとも、既に他の派閥から勧誘があったの? もしかしてアニエスの派閥?」

 アニエスの名前を聞き、あの日一緒に登校した時の凛々しい彼女の姿が鮮烈に思い出され、私は思わず反応してしまった。

「アニエスから勧誘されたのね? でも赤いブローチをつけていないところを見るとまだ派閥に所属していないようね。だったら、私の派閥にしなさい。空き教室で不良たちと騎士の真似事ばかりしている変人の下につくより、私とサロンでお茶会をする方がずっと幸せよ」

 とてもそうは思えなかった。まるで人形のように直立して全く動かない取り巻きの令嬢たちを見て、空恐ろしいものすら感じる。この派閥にだけは入っちゃだめだ。頭の中で警報音がけたたましく鳴っている。

 イザベルには人を威圧する雰囲気があり、彼女が意図的にそれを作り出していることが分かる。彼女は人を恐怖させ、強要し、操る術を身に着けている。与えてくる恐怖が作為的なものと分かっていても怖いものは怖い。いや、作為的にそういうことをする彼女の人間性が恐ろしかった。

 ここで恐怖に押しつぶされて目先の平穏を得るためにブローチを手にとってはダメだ。勇気を出して彼女の要求を退けなければならない。

「おことわりします……」と私はか細い声でそう答えた。

 以外にも彼女は声を荒げることもなく、

「やはりアニエスの派閥に所属するつもりなのね。それともクローデットの?」と聞いてきた。

「いえ。私はどの派閥にも所属しません」

 するとイザベルは驚きの表情を浮かべた。初めてみる彼女の人間らしい顔である。

「なぜ派閥に所属しないの?」

「私は誰の下にもつきません。私たちは同じ学生です。上下関係はないはずです。それは貴族だろうが平民だろうが関係ありません」

 この言葉は父のものだ。入学前夜に父は私をリビングの机に座らせ、そう説いたのだ。だから絶対に貴族にへりくだるな、と。

 この言葉を聞いてイザベルは鼻で笑った。

「最近流行りの平等主義って奴かしら。だけどね、あなたがその考えに共鳴しようと現状は違うわ。あなたが願望を持つのは勝手だけど、その願望に他人が従わないからといって恨み言をいわないようにね。あなた、ちゃんと覚悟ができているわよね? 願望を叶えるために人と争う覚悟が」

 脅迫にもとれる物言いだった。目を見開いて真っすぐに見つめてくるイザベルから私は眼をそらした。

「あなた、ご学友が一人もいないそうね。何故だか分かる?」

 友達がいないという指摘は私をひどく傷つけた。イザベルはそれが分かってそう言ったのだろう。

「私が平民だからですか?」

 この返答にイザベルは頷いた。

「そうね。あなたが平民だから。平民と付き合っても基本的に何の得にもならないわ。人脈作りをしたい私たちにとって、平民の仲良くしても意味がない。でもね、それだけじゃないのよ。あなたに友達ができない理由。それはあなたがどの派閥にも所属していないからなの。この学舎では同じ派閥の者同士でないと禄に会話すらしないのよ」

 この約二か月間にクラスで感じていた違和感の正体が分かった。一見楽し気に会話を楽しむ令嬢たちだが、仲の良いグループの者以外とは全くといっていいほど言葉を交わさないのだ。

「普通は新入りが編入してくれば各派閥が声をかけるのよ。うちの派閥に入りなさいって。だけどあなたは平民でしょ? みんな入れたがらなかったのね。それであなたは誰一人として友達ができずに一人ぼっちだったわけ。でもね、私の派閥に入ればお友達ができるわよ。ねえ、あの子は同じクラスでしょ?」

 イザベルの指差す先にはクラスメイトがいた。クラスの中心でいつも楽し気に雑談している子である。その子が私に向かってニコリを笑いかけてきた。

「あの子とお友達になれるわよ。あの子だけじゃない。私の派閥の子たち全員とお友達になれるわ。これからはクラスで一人ぼっちじゃなくなる。それに貴族の人脈が作れるわ。平民のあなたにとって、今後の人生の大きな財産になるわよ」

 私はイザベルが怖くて仕方なかった。早くこの場を離れたくてしかたない。

「やっぱり私、派閥には入りません!」

 思わず大声をあげてしまったことを後悔したが、今更どうしようもなかった。まったくたじろいた様子のないイザベルは震える私を観察する様に見つめ、ため息をついた。

「分かったわ。話はすんだからこの部屋から出ていきなさい」

 身を固くしつつ足早にサロンの扉へと急ぐ私の背中にイザベルが最後に声をかけた。

「近い将来あなたは懇願してくるわ。派閥に入れてください、ってね」

 私は振り向くことができず、そのままサロンから逃げ出した。



 次の日、登校すると机の中にあるはずの教科書がなくなっていた。
 クラスを見渡すと、青いブローチの一団が私の方を見てクスクスと笑っていた。赤と緑のブローチをつけた令嬢たちは興味なさげに会話を続けている。
 昨日のイザベルの言葉が思い出された。

 ――近い将来あなたは懇願してくるわ。派閥に入れてください、ってね。

 青ブローチの集団を問い詰める勇気が私にはなかった。黙って机に座った私を見て、後ろから笑い声が聞こえてきた。
 何も言ってこない私をただの臆病者と知って安心したのだろう。聞こえよがしに

「平民は大変よね。一生懸命勉強しないと将来満足にお金を稼げないんだから」と誰かがいった。

「でも必死に頑張ってもたかが知れているでしょ? 可哀想よね」

「どんな美人でも、私たちと違って貴族の殿方と結婚はできないしね。妾にはなれるかもしれないけど」

「でもあの子はブスじゃない。貴族どころか平民とすら結婚できないわよ」

 爆笑がクラス中に広がった。その笑い声は、教室の扉が開くと同時にピタリとおさまった。入室する教師の姿にみなが急いで自分の席に着く。
 一限目の授業は担任の若い女教師が受け持つ数学だった。授業が始まり、教科書を読みながら黒板に数式を書いていた担任教師の手が止まった。

「エリーズさん。教科書とノートはどうしたんですか?」

 忘れ物をしたことにしようと一瞬頭をもたげたが、すぐにその考えを打ち消した。教師へのチクリと罵られてもかまわない。ここで助けを求めなければこのままイジメがエスカレートしてしまう。

「朝、教室に入ったら昨日まであった教科書が全てなくなっていました」

 教室中にざわめきが起こった。視界の隅で青いブローチの令嬢が唇を噛みしめている様子が確認できた。

「ならば明日にでも購買部で新しい教科書を買いなさい」と担任教師は淡々と答えた。

 その言葉に私は呆然とし、すぐさま言葉を発した。

「先生! 教科書がなくなっていたんですよ!」

「だから何です? あなたの管理不足でしょ?」

「そういうことじゃなくって……。先生! 私、イジメられています!」

 クラス中に緊張が走ったが、担任教師はあくまでも冷静だった。

「授業中に大きな声を出さないでください。隣の教室の迷惑になるでしょう? それに、この学園にイジメなんて存在しません」

 教師は背を向けて再び黒板に数式を書き始めた。視界の隅で青ブローチの令嬢がニタリと笑った。


 授業が終わって教室を出ていく担任教師を私は追いかけた。

「先生! 待ってください!」

 私の声などまるで聞こえないかのように教師は廊下を足早に歩いていく。私は走って教師の手首をつかんだ。

「先生!」

 教師は憎々し気に私を睨みつけ、周囲の令嬢たちを気にするように小声でいった。

「私は男爵の娘です。最底辺の貴族の娘なんです。私の家より爵位が上の彼女たち相手に、いったい何ができるというんです?」

 彼女は私の手を振り払った。

「私を責めないでください。問題はあなた自身で解決してくださいよ」

 そう言い残して立ち去る教師を見てエリーズはその場に立ち尽くした。教室に戻ると、私の弁当が床にばらまかれていた。私は精いっぱいの抵抗で青ブローチの一団を睨みつけ、床にちらばった米粒やオカズを手でつかんで弁当箱に入れ始めた。ベトベトになった私の手を見て「きたない」と誰かがいった。

 二限目の社会科教師は教科書のない私をチラリと見て何事もないように授業をすすめた。

「十年前の革命により、法の元では貴族も平民も平等であり等しく裁かれることが――」

 年配の女性教師の語る言葉が空々しく感じられた。



 拾い集めた弁当は帰宅時の路地裏に捨てた。
 今日学校で起きたことを両親に知られたくなかったが、新しい教科書が必要だった。夕食の時、勇気を出して両親に頼むことにした。

「お父さん、お母さん。教科書がなくしてしまったの。だから教科書代を頂戴」

「ちゃんと探したのか?」と父が眉をひそめながらいった。

「うん。でも見つからなくて」

 これは嘘ではなかった。私は今日のすべての休み時間を使って学院中を探し回った。さすがに他の学年の学舎には入らなかったが、広い敷地を歩き回った。でも見つけることができなかった。

「それでいくらあればいいの?」と質問する母に金額を告げると驚いた顔をされた。なくなったのが一冊ではなく、一度の何冊もの教科書がなくなった理由を察したのだろう。それは父も同じのようだった。

 しばらくの沈黙の後、母が優しい顔でこういった。

「今の学校をやめましょう。公立の学校に編入するのがいいわ」

「いや、ダメだ」と父がすぐさま母の提案を否定した。

「一度逃げると逃げ癖がつく。それに、貴族にやられて逃げ出すなんてお前は悔しくないのか?」

 悔しいという感情が今日一日少しでも芽生えただろうか? ただ私は悲しく、怖くて、自分自身を惨めに思えた。悔しいという気持ちを感じる余裕などなかった。

 返事をしない私に父親が苛立ちを露わにする。

「そんな心構えでどうする。やられたらクソッて思わないのか? やられっぱなしでいいのか? お前、少しでもイジメてくる相手に文句を言ったのか? そんなだからイジメられるんじゃないのか?」

 父の言葉が更に私を傷つけた。父のいう通りに思えない自分、父のいう通りに行動できない自分をどうしようもなく間違えた存在に思え、私は自分自身を嫌悪した。

「あなた……そんな言い方って……」

「お前がそうやって甘やかすからこんな気弱な娘に育ったんだろ」

 私の目の前で両親が言い争いをしている。私のせいで両親が罵り合っている。その事実が私を激しく責め立てた。
 どれほどのあいだ両親の喧嘩が続いたのだろう。ようやくおさまりを見せた時、父が私に向かって言い放った。

「学校は辞めさせん。これはお前だけの問題じゃない。平民が貴族に負けることなどあってはならないんだ。もし自主退学なんてしてみろ。勘当だ」

 母が何かを言い出す前に私は口を開いた。

「わかっているわ、お父さん」



 次の日、休み時間に次の授業の予習をしていると、後ろから丸めた紙が飛んできて頭に当たった。振り返るとそこには雑談をするクラスメイトたちの姿があるだけで、誰が投げたのか分からない。怒る対象が分からない私は、仕方なく何事もなかったかのように予習を続ける。
 仕方なく、というのが嘘であることを私は自覚していた。生まれてからこれまで人と争った経験が殆どない私は、文句を言わずにすんでどこかホッとしていた。そしてそんな自分の弱さが堪らなく嫌だった。

 再び私の頭に紙屑が当たった。後ろから笑い声が聞こえてくる。
 耐え切れなくなった私は、机の中の教科書とノートを全てカバンに入れ、パンパンに膨らんだカバンと弁当袋を手に廊下へ逃げ出した。購入したばかりの教科書を再び失うわけにはいかず、昨日みたいに弁当を床に捨てられるのはごめんだった。

 十分休憩中にも関わらず荷物を抱えて廊下を歩く私に、事情を知らない他のクラスの令嬢たちがいぶかしげに見つめてくる。向けられる奇異の目に恥ずかしくて顔が真っ赤になった。

 時間をつぶすために廊下を歩き続けた私は、授業が始まるタイミングを見計らって教室に戻った。机には「バカ」「ブス」「平民」「ゴミ」「学校やめろ」と彫刻刀で彫られていた。
 授業が始まり、私の机の文字に気づいた担任の数学教師は、すぐさま目をそらして淡々と教科書を読み進めた。

 それからの一週間、私は授業が終わると荷物を抱え、人目を避けて学内を歩き続けた。教科書と弁当を守るためにトイレに行くときも持ち歩いた。荷物を手に私が個室に入ると、扉越しに他のクラスの子たちのヒソヒソ声が聞こえてくる。

 トイレの個室で「こんな生活が一生続くわけじゃない。三年間の辛抱だ」と自分に言い聞かせたが、三年という時間のあまりの長さに押しつぶされそうになった。無限とも感じらえる歳月をこれからずっと耐え続けなければならないのか。
 この一週間で自分の精神が瞬く間にすり減っていくのを感じる。学校にいる時は投げつけられる紙屑や暴言に怯え、家に帰ってからは明日が来ることに怯える。
 机に彫られる悪口は日増しに増え続け、それに反比例して私の気力は失われていき、ついには世の中のすべてを悲観的に見せるような暗くて重たい感情だけが残った。



 その日の放課後、足早に下校しようとした私はエントランスで声をかけられた。

「おひさしぶりね」

 振り返ると、ニコニコと笑うイザベル・アルチュセールの姿があった。彼女の後ろには青ブローチの令嬢たちがまるで従者のように立っている。その中には、私に嫌がらせをしているクラスの令嬢たちもいた。

「実はよくない話を聞きましたの。あなたがイジメにあっているって話をね」

 イザベルの口角はあがっているが、目は全く笑っていない。こちらの怯えや動揺を観察している眼つきである。

「しかもイジメてるのは私の派閥の令嬢というではありませんか」

 イザベルが右手を上げると、イジメをしているクラスメイトの一人が前に進み出た。イザベルはその令嬢の頬を平手で打った。

「あなた。なんてことをしているの。平民とはいえ相手は人間なんですよ。犬や猫じゃないんです。それをイジメるなんて……」

「申し訳ございません」と頬を叩かれた令嬢は無表情のまま頭を下げた。

「下がりなさい」と命令され、クラスメイトは後方の位置に戻っていった。彼女の頬は真っ赤になっていた。

 その様子を満足そうに見ながらイザベルは私に向き直った。

「それで、この一週間で考えは変わったかしら」

 これは明確な脅迫だった。今見せられた茶番劇もただの演出である。イザベルもこんなもので騙せるとは思っていないだろう。彼女がイジメを指示したのは明確であり、派閥に加わらなければイジメが続くと脅しているのだ。

 私の心はとっくに折れており、楽になれるのならどんな藁にもすがりたかった。だが、

「変わりません……」と私は答えていた。

 この言葉はイジメには負けないという強い意志から出たものではなく、自分の自尊心を守るために出たものでもなかった。自分自身が強い人間ではないことを思い知らされ、自尊心などとっくに失っていた。そんな私が派閥入りを拒否したのは、もう手遅れと思ったからだ。今更イザベルの派閥に加わったとしても、一度誘いを断った私を彼女が許すとは思えなかった。そんな彼女のいるサロンに昼休みや放課後に出向かなければならない生活など考えるだけで恐ろしかった。

「そう。なら仕方ないわね」

 イザベルの眉間に深い皺がより、向けられる瞳にはっきりとした敵意が現れた。

「実はね、あなたのクラスで窃盗事件が起きてね、犯人捜しをしている最中なの。カバンを見せてくださる?」

 私の顔から血の気が引いていった。これから何が起こるか予想できたからだ。この場から逃げ出そうと体をひるがえすと、青ブローチの令嬢たちが壁のように立ちふさがっていた。いつの間にか青ブローチの一団に取り囲まれていた私は、そのうちの何人かに取り押さえられてカバンを奪われた。床に落ちた弁当袋がカタンと音を立てた。

 カバンを手渡されたイザベルが中を確認している。そして、ニヤニヤと笑いながら中の物を引っ張り出した。

「なにこれ?」

 イザベルが手にしたのは母親が作ってくれたバタークッキーだった。ラッピングされたバタークッキーを見つめながら、イザベルはクスクスと笑った。演技でも何でもない彼女の本当の笑みだった。

「私たち貴族の口には合いそうもない代物ね。こんなものを食べるのは平民かネズミくらいかしら」

 この言葉に周囲の取り巻き達が一斉に笑い出した。バタークッキーを見られたら令嬢たちに馬鹿にされるのは分かっていた。そしてその通りになった時、嘲笑に晒されて私は顔を赤らめると同時に、母親を侮辱されたように感じられ胸が締め付けられる思いがした。

「次は何が出てくるかしら」

 バタークッキーを床に投げ捨てたイザベルが再びカバンの中を漁りだす。

「おやおや。どうやら犯人が見つかったみたいね」

 イザベルの手には銀色に輝く指輪があった。それに合わせてイザベルの後ろにいた令嬢の一人が

「それ、私のです」と声をあげた。クラスメイトの一人だった。

 クラスメイトの言葉を聞いたイザベルが取り巻きの一人に命じた。

「今すぐ先生を呼んできなさい」

 足早にこの場を去る取り巻きを見ても両腕を抑えられた私には何もできない。
 私は休憩時間もずっとカバンを持ち歩いていた。そんな私のカバンに指輪を忍ばせる機会はなく、あるとしたらつい先ほどイザベルがカバンの中身を改めていた時である。

「学年首位になるために必死にお勉強していたんでしょうね。でも、勉強するだけじゃ利口にはなれないのよ。馬鹿なあなたには分からないでしょうけど」

 卑怯な行いをする者こそが利口とでも言いたげなイザベルの笑みを見て、私の目に涙が溜まってきた。そんな私を見てイザベルがニヤニヤと笑う。

「窃盗だもの。まず退学でしょうね。ご両親はさぞ悲しまれるわ」

「私はやってない……」と何とか声を絞り出した。

「誰が信じるのよ。あなたの言葉なんか」


 その時、カツンと何かが床を叩く音がした。横を見て、それがブーツで歩く音だと分かった。
 その令嬢は、今まで見た女性の中で紛れもなく一番美しい顔をしているが、あまりにも端正な顔立ちのせいか冷たい印象を与えてきた。銀色の長髪はまるで鋭い刃物のようである。黒いドレスの胸元には赤いブローチが飾られており、腰にはサーベルがさされていた。

「一体何の騒ぎだ」とアニエス・アルチュセールがイザベルと対峙した。

 アニエスの後ろには赤いブローチをつけた一団が控えている。
 突然異分子が現れたにもかかわらずイザベルは驚いた様子を見せずに平然といった。

「この平民がクラスの子から指輪を盗んだんです。それを先生に通報しているところですよ」

 アニエスは、取り押さえられている私の目を真っすぐに見つめてきた。

「それは本当か?」

「いえ……嘘です……。私は盗んでなんか……」

「嘘をつくな!!!」

 私の言葉はアニエスの怒声にかき消された。突然大声を浴びせられ私は一瞬でひるんでしまった。

「盗みを働いておいてその上言い訳するなど!! お前には良心がないのか!!」

 血走った目で私を睨みつけてくるアニエスに呆然としながらも私は必死に釈明しようとした。

「本当に……違うんです……。話を聞いてください……」

 ロクに話を聞いていないにもかかわらず一方的にイザベルの話だけを信じるアニエスに違和感を覚えた。あきらかに何かがおかしかった。
 案の定、アニエスは話を聞こうとはしない。

「盗人の話など無用だ!! やはり父上がおっしゃる通りお前ら平民はクズだな!! 私たち貴族が懸命に国に尽くすのに対し、平民は不平不満を口にするだけ!! 家畜にも劣る穢れた精神性の持ち主がお前ら平民だ!! あげく学友から盗みを働くなど!! お前のようなゴミはこの学園にはいらん!! さっさと出ていけ!!」

 アニエスの憎しみは平民全体に向けられたものに感じられた。何を言っても無駄としか思えなかったが、なおも私は否定した。

「違うんです……。私、泥棒なんかじゃ……」

 アニエスは舌打ちし、

「そいつを開放しろ」とイザベルにいった。イザベルが頷くと、それまで私の両腕を掴んでいた令嬢二人が拘束を解いた。

 アニエスが赤ブローチの令嬢の一人に命令した。

「こいつに剣を渡してやれ」

 アニエスが腰のサーベルを抜き、剣先を私に向けた。

「本当にやっていないというなら、それを証明するために私と闘え」

 命令を受けた赤ブローチの令嬢が自分のサーベルを私に差し出した。しかし、私はそれを受け取ることができない。私は剣など握ったこともない。そんな私に決闘などできるはずもない。しかも、アニエスが構えるのは真剣である。

 首を横に振って拒否する私をアニエスが再び怒鳴りつける。

「さっさと剣を取れ!!! 自分の名誉を守りたかったら戦え!!! それともそれすらできないのか!!! これだから平民はクズなんだ!!!」

 アニエスの挑発に乗ることが私にはできなかった。向けられた銀色のサーベルは鋭い光を放っており、いともたやすく肉を引き裂けるのが見て取れた。

「我々騎士とは大違いだな!! お前の魂は糞にも劣る!! そうではないというなら剣を取れ!! 私と闘え!!! エリーズ!!!」

 アニエスの言葉に呼応して、周囲の令嬢たちが一斉に「闘え!!」と囃し立て始めた。闘え!! 闘え!! 闘え!!

 狂気を孕んでエントランス中に響き渡る令嬢たちの叫び声が、ピタリと止まった。この場にいる令嬢たちの顔に明らかな恐怖が浮かんだ。その人物に道を開けるように令嬢たちが後ずさる。

 現れたのは初等部の学生にも見える小柄な令嬢だった。まん丸の顔にある目は豆粒のようで、顔はソバカスだらけである。貴族の令嬢らしく金髪を縦ロールにしているが、お世辞にも美人とはいえない彼女には似合っていなかった。

『図書室の公爵令嬢』クローデット・アルチュセール。イザベルやアニエスと同じく王位継承権を持つ公爵令嬢である。

 大きな本を両手に抱える彼女は図書室に行く途中だったのだろうか? 私の前に立ち、顔をあげた。

「あなた、エリーズっていうの?」

 私が頷くと「そう」とだけつぶやいた。そして近くにいる青ブローチの令嬢に本を渡し、アニエスの取り巻きが私に差し出していたサーベルを受け取った。派閥が違うはずの令嬢たちが顔を引きつらせながら黙って従っている。

「この子の代わりに私が相手をするわ、アニエス。真剣だからね。そのお人形さんのような顔に多少の傷が残っても後から文句を言わないことね」

 この言葉を聞いてアニエスが明らかに動揺した。この世のものとは思えないほど美しい彼女の顔が歪にひきつっている。アニエスは剣をダラリとおろした。

「なんでだよ……クローデット。あんたには関係ないだろ……」

「それをいうならあなたとこの子も関係ないでしょ。さあ、剣を向けなさい」

 クローデットがサーベルを抜き、剣先をアニエスの鼻先に向けた。アニエスは悲鳴を上げて後退した。

「何をしているの? 決闘するんでしょ?」

「やめてくれよ……。私があんたに勝てるはずがないだろ……」

「だから? あなた、いつも自分を騎士だと名乗っているじゃない。騎士は勝てる相手としか闘わないの?」

 この言葉に顔を歪ませたアニエスだったが、

「馬鹿馬鹿しい」といってこの場を去ろうとした。そのアニエスの背中にクローデットが手袋を投げつけた。

「ほら。正式な決闘の申し入れよ。拾いなさい」

 アニエスが床に落ちた白手袋を呆然と見つめている。

「何をしているの? さっさと騎士らしく決闘の申し入れを受諾しなさい。それとも父君や兄君に恥をかかせる気?」

 アニエスが跪いて手袋に手を伸ばした。だが、滑稽なくらい震えている彼女の手は、あと少しのところで手袋を掴もうとはしなかった。

「許してください……」とアニエスが呟いた。

「聞こえないわ」

「許してください!!!」とアニエスが絶叫した。

 ゆっくりとサーベルを鞘に納めたクローデットは、跪いたまま動こうとしないアニエスを見下ろした。

「あなたの父君の領地で貴族と平民の折り合いが悪いことは聞いているわ。だけど、その事とこの子は関係ないじゃない。この子が一体何をしたというの?」

「こいつは盗みを働いた……」

「あなただってイザベルの仕業だって気づいているでしょう?」

 アニエスは俯いたまま返事をしなかった。
 二人のやりとりを見ていたイザベルが不満そうに声をあげる。

「私の仕業ですって? いったい何のことよ?」

 クローデットがイザベルを見上げ、鋭い目で睨みつけた。

「初等部の頃からあなたが泥棒を捕まえるのはこれで何回目よ」

 クローデットの眼光にひるみながらも、イザベルは必死に平静を取り繕っているように見えた。

「私は名探偵だからね。泥棒を捕まえるのが得意なのよ」

「誰がそんな話を信じると思うの?」

「教師たちは信じてくれるわ。だって、私は公爵令嬢だからね。公爵令嬢のいうことは、どんなに疑わしくても教師たちは信じざるを得ないの。あなただって分かっているでしょ?」

 イザベルが人垣の方を見てうれしそうに笑った。

「ようやく先生のおでましよ」

 現れたのは担任の数学教師だった。まるで従者のように足早にイザベルの元へ駆け寄る女教師だったが、クローデットの顔を見て表情を曇らせた。まるで自分自身を恥じているように見えた。
 教師はそばに立つクローデットと一切目を合わそうとはせず、イザベルの方だけ向いて質問した。

「それで何が起こったんです?」

「机の中に入れておいた指輪を盗まれた子がいるんです。盗まれたのが昼休憩の間と聞いた私は、いつも教室に一人残ってお弁当を食べているというエリーズさんが怪しいと疑いました。そして彼女のカバンの中身を改めさせてもらったところ、盗まれた指輪が見つかったんです」

「そうですか。それは困ったことになりましたね。エリーズさん。詳しい話は職員室で聞きますからついてきなさい」

 私の手首を掴んでその場を離れようとした女教師にクローデットがいった。

「私が盗んだのよ。そしてその子のカバンに入れて周りから非難されるように仕組んだの。だから私を連れて行きなさい」

 クローデットの言葉に女教師は動揺していた。

「あなたがそんな事をするわけがないでしょう」

「そう思うのなら察しなさい」

 ピシャリとそういわれて女教師は明らかにひるんでいた。

「ちょっとした悪戯よ。学年首位の座を奪われたからついね。もちろん最後に種明かしするつもりだったわ」

「あなたを知る者はそんな話を信じませんよ」

「別に信じてもらえなくても構わないわ。それで、この場合の罰はどのくらいかしら?」

 教師は少し考えこんでから口を開いた。

「実際にこうして名乗り出たわけですから、訓告が妥当でしょうね」

 この言葉にイザベルが不平をこぼした。

「そんなのおかしいわ!! 汚い手段で他人を追い詰めようとしたんだから退学が妥当よ!!」

 クローデットが可笑しそうに笑った。

「汚い手段という自覚はあるのね」

 悔しそうに唇を噛むイザベルにクローデットがいった。

「私もあなたと同じ公爵令嬢なのよ。公平でない力で守られているの。そのことはあなたが一番よく分かっているでしょう?」

 サーベルを持ち主に返して本を受け取ったクローデットは教師の顔を真っすぐに見上げた。

「さあ。職員室に行きましょうか」

 曇りのない真っすぐな目で見つめられた教師は、すぐさま視線をそらした。教師だけでない。その場にいる多くの令嬢がまっすぐにクローデットを見ようとはしなかった。クローデットの存在自体がこの場の令嬢たちを傷つけているように感じられた。
 そんな中でイザベルだけは明らかに違った。

「公爵令嬢が悪役を買って出るとはね」とつぶやいたイザベルは、教師と共にこの場を立ち去ろうとするクローデットに言葉をぶつけた。

「こんな無価値な平民のために経歴に傷をつけるなんて。愚かとしかいいようがないわ」

 私を気遣ってのことだろう。クローデットは

「こんなの傷のうちに入らないわ」といった。

「さすが国王陛下のお気に入りは余裕ね。でも、陛下もこの話を耳にしたらあなたを見る目が変わるんじゃないかしら」

 するとクローデットは何かを思い出すように斜め上を見つめた。

「そういえば、陛下はあなたが名探偵であることを知っていらしたわ。何度も泥棒を捕まえた事実を訝しんでいらしたけど。次にお会いするときに質問があるかもね」

 イザベルは顔を真っ赤にし、歯をむき出しにして怒鳴り声をあげた。

「あんたが陛下に私のことを……!!」

 反対にクローデットは臆した様子など微塵も見せず平静そのものである。

「私じゃないわよ。でも、私じゃなかったら告げ口したのは誰かしら。陛下に謁見できる身分で、この学園でのあなたの振る舞いを知る人物って限られるわよね」

 イザベルは、腰を抜かしたかのようにうずくまり続けているアニエスの胸倉をつかみ、頬を打った。すぐさま赤ブローチの令嬢たちが止めに入る。それを青ブローチの一団が妨げようとし、辺りは瞬く間に騒然となった。

 止めに入ろうとした女教師に

「放っておきなさい」とクローデットが命じる。

 綺麗に着飾った令嬢たちが互いに髪や服を引っ張り合う中、我関せずといった様子のクローデットは教師と共に立ち去っていった。



 大混乱に陥ったエントランスから逃げ出した私は、息を切らせながら学園内の庭園を走り、灌木の影に座り込んだ。今日のところはクローデットに助けてもらえて無事ですんだ。だけど、明日からの学園生活が無事に過ごせるとは思えなかった。いつイザベルが次の手を打ってくるか分からない。

 しばらく考え込んだ私はある決意をした。そしてクローデットが連れていかれた職員室へ向かう。扉のガラス越しに室内を覗き込んでもクローデットの姿は確認できなかった。すでに訓告はすんだようだ。

「何をしているのです?」

 振り返るとクローデットを連れて行った数学教師が立っていた。

「クローデット様にお礼を言いたくて。あの方はどちらに?」

「この時間でしたらいつも図書室ですよ」

 頭を下げて立ち去ろうとする私に女教師が声をかけた。

「今回は運がよかっただけです。あなたの今後の人生で同じ幸運が起こるとは思わないことです」

「分かっています。それでは」

「あと、もう一つ」

 意を決したように教師は深々と頭を下げた。

「……ごめんなさい」

 彼女が何に謝っているのか分かった。そのことについてどれ程までに自分を責めているのかも。

「大丈夫です。分かっていますから」

 私はそう言い残して図書室を目指した。夕日が差し込む廊下を歩き、階段を上って図書室の前に辿り着いた。
 私は派閥に入ることを決めていた。この学舎ではいずれかの派閥に属しないと平穏に過ごせない。それが事実である以上、身を守るには派閥に属するしかない。そして、誰かの下につかなければならないとしたら、相手は善人がいいに決まっている。

 貴族に頭を下げるような真似はするなという父の言葉が思い出されたが、父への罪悪感と共に反抗心もあり、私は勇気を振り絞って父に逆らうことにした。

「失礼します」

 扉を開けると、広々とした図書室の窓際にクローデットが一人きりで座っていた。図書室には彼女以外に誰もおらず、クローデットの派閥に属する令嬢たちが大勢いると予想していただけに少し驚いた。
 夕日が窓から差し込んでオレンジ色に照らされた図書室で、近づく私に気がついたクローデットは書物から顔をあげた。

「何の用?」

「どうしてもお礼が言いたくて……。助けてくださってありがとうございました」

「いいわよ。別に」

 彼女はそういって再び書物に目を向けた。視線の先にあるのは数学の教科書だった。難しい顔で睨んでいる。

「あの……実はお願いがあるんです。あなたの派閥に入れてもらえませんか?」

「ないわよ。そんなもの」とクローデットはこちらを見ずにそういった。

「え? だって……」

 口を滑らせたことを後悔している様子のクローデットは私に説明した。

「このことは口外するんじゃないわよ。実は私の派閥なんてものは存在しないの。イザベルやアニエスの派閥に入れない者や追い出された者が私の派閥に所属していると勝手に言い出したのが始まりよ。そういえば自分の身を守れるからね。非公認で始まった派閥とやらも今じゃ大所帯で、私も公認はしてないけど表立って否定はしていないわ。あの子たちの立場を理解しているからね」

 そこまで話したクローデットが溜息をついた。

「あなたのところに緑のブローチを持っていくようまとめ役に伝えておくわ。これでいいでしょ?」

「ありがとうございます」

 頭を下げて図書室から出ていこうとする私にクローデットが声をかけた。

「あなた。この問題が分かる?」

 うながされてクローデットの隣に座った私は、問題に目を通して彼女に説明を始めた。

「なるほど。そうすればいいのね」

 ノートに数式を書いていく彼女に私は質問した。

「なぜ、私を助けたんですか?」

 彼女は鉛筆を走らせながら見向きもせずに答えた。

「もったいないと思ったのよ。だってあなた、学年首位でしょ? 私も勉強ができるほうだから分かるのよ。どれだけ学業に時間を割いて、どれだけのものを我慢しているか。そのうえ貴方は平民で、貴族に囲まれて慣れない生活を送っている。だからよ。だって、あなた、がんばっているじゃない。それをつまらないことで台無しにされるのはもったいないって思ったのよ」

「だけど、そのせいであなたが王位につけなくなるかもしれません……」

 するとクローデットが笑い出した。

「あなた、アルチュセールの姓を継ぐ者が何人いるか知ってる? 千人近くいるのよ。その全てが王位継承権を持っているわ。私なんかよりもずっと優秀で実績のある領主や将軍が大勢いる。そんな中で王位をつげるなんて思っちゃいないわ。イザベルじゃないんだから」

 その言葉を聞いて私は少しほっとした。この人の人生が自分のために台無しになるのだけは嫌だったのだ。

「それに近い将来、きっとまた国が大きく変わるわ。そして、貴族も平民もない新しい世界が始まるの」

 教科書の横に大きな本があった。エントランスで彼女が抱えていた本である。本の表紙には『民主主義論』と書かれていた。

「それで、次はこの問題なんだけど……」

「これはですね……」

 クローデットが眉間に皺を寄せた。

「敬語、禁止ね。同級生なんだから」

「ですけどそういうわけには……」

 睨みつけてくるクローデットの迫力に押されて「はい」と私は答え、更に睨まれて「うん」と返事した。

「それでこの問題はこの公式を使えば解けるんだよ」

「ああ。なるほどね」

 公爵令嬢とまるで友人のように言葉を交えることに私はただただ緊張していた。すると、クローデットのお腹が鳴った。
 恥ずかしそうに顔を赤らめるクローデットは、

「何か食べるもの持ってない?」と聞いてきた。

 私はカバンから母手作りのバタークッキーを取り出そうとし、躊躇した。エントランスでイザベルたちにクッキーを笑われたことを思い出したからだ。
 しかし、すぐにその考えを打ち消した。この人は蔑んだりしない。そんな人ではないのだ。

 私の差し出したバタークッキーを口に入れ、

「やさしい味がするわね」とクローデットはつぶやいた。



 翌日、教室についた私の元へ緑色の宝石が嵌められたブローチが届けられた。それを胸につけた日からイザベルの派閥から嫌がらせを受けることはなくなった。彫刻刀で傷つけられた机は、担任教師が新しいものと交換してくれた。
 同じ緑のブローチをつけたクラスメイトが話しかけてくるようになり、休憩時間は彼女たちと雑談するようになって私は孤独ではなくなった。しかし、それはあくまで表面的なものでしかなく、私は昼休みになると図書室へ向かった。
 そこにはサンドウィッチを食べながら教科書を読むクローデットがいる。私は母親の弁当を食べながら彼女に勉強を教え、分からないところを教えてもらった。

 昼休みと放課後に図書室で勉強を教え合う私たちだったが、ときおりクローデットが十分の休み時間にも私の教室を訪れるようになった。親し気に話す私たちに驚きを隠せないクラスメイトを見て、私はどこか誇らしかった。

 彼女はこの学園に通うため、幼い頃から親元を離れて使用人たちと別宅で生活していた。何度も彼女の屋敷に招かれて二人でパジャマパーティをした。
 彼女も私の家に何度も泊まりにきた。貴族嫌いの父親の手前、中等部時代の平民の子と嘘をついていたが、クローデットが帰ると父親は彼女を褒めちぎった。そのことが可笑しくてしかたなかった。

 高等部二年の時に私たちは初めて喧嘩をし、そして一週間後に仲直りをした。それからも何度か喧嘩をしては仲直りを繰り返した。喧嘩の理由は些細なものばかりである。クローデットが私の弁当からミートボールを勝手に取り、それが毎日のように続くので私がとうとう怒る、といった子供じみたものである。

 誰一人として友人ができずに始まった私の学園生活だったが、彼女のおかげで楽しい三年間を過ごすことができた。卒業し、彼女は父親の治める遠方の領地へ帰っていった。それから何度か手紙のやりとりをしたが、いつしかそれもなくなった。

 そして私たちが三十歳になった頃、彼女は王位を継承し、その三年後に再び起きた革命によって処刑された。



 以上が私の知るクローデット・アルチュセールの姿である。
 悪政によって国民を苦しめる憎むべき敵。平民を人とも思わず貴族社会の頂点に君臨する嫌悪すべき権力者。革命前に新聞社がそう報じ、今なお国民から憎悪され続ける最後の国王だが、私の知る彼女はそのような人物ではなかった。
 
 では、卒業後に彼女は変わってしまったのだろうか?
 私は彼女を処刑した人物に話を聞くことができた。死を前にして彼女は処刑人にこう言ったそうだ。「嫌な役割を負わせてしまってごめんなさいね」と。

 処刑人はこのことを取材に来た何人もの新聞記者に話したそうだ。だけど、どの新聞社もそのことを記事にはしなかった。人民による平等な社会を作り上げるには、処刑された彼女は悪役でなければならず、人民は完璧なほどの正義でなければならないのだ。

 だが、そのことに私は異を唱えたい。事実を捻じ曲げ改善懲悪の作り話をでっちあげては、国民の財産である歴史を何も学ぶことのない無価値なものに変えてしまう。革命で倒された王が、平民を蔑視などしない人格者であったという前提の元に歴史を捉えなおすと、別の真実が見えてこないだろうか。

 対立を深める貴族院と平民院の調停に奮闘した彼女はただの風見鶏だったのだろうか? 武器を手に宮廷を取り囲む平民たちに発砲を禁じた彼女は臆病者だったのだろうか? 国外逃亡する貴族が大勢いる中で政権移行に尽力した彼女は時世の読めぬ愚か者だったのだろうか? 貴族による汚職を取り締まれなかった罪で彼女は処刑されたが、彼女自身は汚職をしていたのだろうか?

 事実が捻じ曲げられたとしたら誰によってどのように捻じ曲げられたのか。情報を操作するのは何も権力者だけではない。その事実を歴史から学び取ることが、引いてはこれからの国のためになる。私はそう思うのだ。

 著:エリーズ・エモニエ





「本当にいいんですか? こんなものを雑誌に載せて。女王を擁護なんてしたらバッシングが凄いですよ。先生の作品の不買運動が起こるかもしれません。それどころか御自宅に嫌がらせがあるかもしれませんよ」と編集長は私にいった。

「先日、長く連れ添った夫がなくなりましてね。子供はずっと前に戦争で亡くしています。もう迷惑をかける家族がいないんですよ」

「分かりました。責任をもって掲載させていただきます」

 原稿を手に力強くそう宣言する三十代の若い編集長を私は心配した。

「そちらこそ大丈夫ですか? 出版社に御迷惑がかかるのでは?」

 すると編集長は笑った。

「覚悟の上ですよ。最近、革命当時から政界に居座る議員たちの汚職が目に余りますからね。彼らは自分たちを建国の英雄だからと横暴の限りを尽くしていますが、その前提に少しでも傷がつけば彼らの選挙地盤が揺らぐかもしれない。革命後に生まれた世代がこれからは国を変えていくんです」

 私の美しい思い出も政争に利用すべき武器というわけだ。しかし、そんなことは最初から分かっていることである。この出版社がそういう思想の会社と分かって原稿を持ち込んだのだ。
 ソファーから杖を突いて立ち上がる私に編集長は手を貸した。私は礼をいって編集部を後にした。


 学園を卒業し地元の貿易会社に就職した私は、同じ職場の男性と交際をはじめ、結婚を機に退職した。息子が二人生まれて元気に育ってくれたが、王政が倒れて民主主義国家になった十年後、国は隣国への侵略戦争を開始し、その戦争に徴兵された二人の息子は共に戦死した。

 戦争が終わり、職を失った夫は日雇いの仕事を始めたが生活は苦しく、私も近くの青果店で店員の仕事についた。その傍ら、趣味で書いた小説を雑誌社に送ったところ、編集者から返事が来た。私の小説を出版したいという。ただし修正が必要という編集者と何度もやりとりをし、細かな修正を加えることになった。

 出版された処女作はベストセラーとはならなかったが、なんとか重版がかかる程度には売れてくれたおかげで、私は作家としてスタートできた。定職を見つけた夫と共に豊かではないが幸せに生きていける程度の生活費を得ることができた。

 そして先日、私が八十歳になった年、夫が病気で亡くなった。

 狭いアパートに一人残された私は、病死した夫と戦争で亡くした二人の息子の思い出に浸っていた。そして、どうしようもなく深い悲しみに押しつぶされそうになるたび、クローデットと過ごした輝かしい学園生活を思い出し、なんとか自分を持ち直した。

 彼女の実名を出してノンフィクションを書こうと思ったのはそういう経緯からである。そうしなければ私の精神は保てそうになかったのだ。

 今なお国賊と罵られるクローデットの美談を書くことは、革命に準じた多くの国民を敵に回すことと分かっていた。だが、私ももう若くない。次の世代のために真実を書き記すことに価値があると感じていた。

 だが、そんな私の思いが誰かに届いたのかは疑問である。
 どこで住所を調べたのかはわからないが、私のアパートの郵便ポストに多くの手紙が届くようになった。中身は読むのも嫌になるような罵詈雑言のたぐいである。
 国賊。非国民。国から出ていけ。

 ある日、寝ていると窓ガラスが突然割れた。石が投げ込まれたのである。翌朝、外へ出ると床から扉にかけて何かが燃えたような跡があった。
 放火されそうになって命の危険を感じた私は引っ越しを決意した。

 引っ越し先は思い切って隣国にした。出版社の伝手でブローカーに隣国の国籍を取る手続きをしてもらった。そして私は新天地へ向かった。

 引っ越し先を隣国にしたのには理由がある。

 クローデットを処刑した人物に話を聞きに行ったときの事である。彼は処刑の時の様子を詳しく語ってくれた。縛りつけて自由を奪ったクローデットを狼の住む山に一晩放置したと彼はいった。翌朝見に行くと、そこには全身を噛みちぎられた無残な死骸があり、顔の肉も喰われて誰だか分からないほどだったという。
 死骸はすぐさま仲間たちと共に埋葬したと彼は語った。そして、あまりにも残酷な話に涙を浮かべる私に、彼は質問した。

「あなたはクローデット様とどのようなご関係で」

「学生時代の友人です」と私がいうと、さきほど渡した名刺を再度確認し、そして唐突にこんな話をした。

「隣国にサエラという港町があるんです。そこの海辺に小さな修道院があるんですが、そこから見る夕日はとても綺麗ですよ」

 なぜ彼が急にそんな話を始めたのか。理由を問いただしても彼は何も教えてくれなかった。だが、その言葉が私の脳裏に刻まれ、事あるごとに思い出された。


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 鉄道を乗り継ぎ、馬車に揺られ、私はその港町に辿り着いた。街の人に道を聞き、杖を突きながら坂道を歩く。つかれては何度も地面に座り込み、水筒の水で喉を潤した。
 坂道を登りきると、海に面した平原の中にポツンと一軒だけ建つ修道院を見下ろすことができた。
 杖を突きながら息を荒げ、懸命に修道院を目指す。扉をノックすると若い修道女が出迎えてくれた。私が名乗ると、彼女は大きく目を見開いて奥の部屋に案内してくれた。

 ドアの向こうでは、小柄な体型の年老いた修道女がチョコンと椅子に座って本を読んでいた。もうお互い若くはなく、彼女の顔には多くの皺が深く刻まれているが、私を見つめる瞳だけは昔のままだった。

「ずいぶんとひさしぶりね。どうして私が生きていると分かったの?」

「あなたを処刑したという男性がそれとなく教えてくれたのよ」

「ああ……彼ね……」と彼女はなつかしそうな表情を浮かべた。

「それにしても、あなたが会いに来てくれるなんて意外だわ。私、あなたに嫌われていると思っていたから」

「なんで……なんでそんな風に思うのよ……」

 そんなはずないじゃない。私があなたを嫌うなんて……。

「だって……あなたが手紙をくれなくなったから。私からはたくさん手紙を出すのに、あなたから手紙をくれることが少なくなって。それで私……てっきり多くの平民たちと同じように貴族を憎み始めたのかと、そう思ったのよ……」

 違う。そうじゃない。私があなたに好かれていないと思ったからだ。あなたにとって私は学生時代の取り巻きの一人で、親友と思っていたのは私だけ。それを知らされるのが怖かった。だから、いつしか手紙を出せなくなった。

 だけど、私のそんな臆病さが彼女を傷つけていたのだ。彼女がただの女の子であることを誰よりも知っていたはずなのに、私は自分のことしか考えていなかった。

「ごめんなさい……そうじゃないの」

 弁明しようとする私は部屋の本棚に並ぶ小説を見つけた。私の作品が全て揃えられている。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 私は謝ることしかできなくなった。大粒の涙がとめどなく流れ落ち、それを止めることができそうもなかった。

「泣かないでよ。あなたがそんなだと私も笑えないじゃない」


 クローデットは私を優しく抱きしめてつぶやいた。

「ずっと会いたかったわ。私の親友」
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突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

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悪役令嬢、休職致します

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そのキツい目つきと高飛車な言動から悪役令嬢として中傷されるサーシャ・ツンドール公爵令嬢。王太子殿下の婚約者候補として、他の婚約者候補の妨害をするように父に言われて、実行しているのも一因だろう。 しかし、ある日突然身体が動かなくなり、母のいる領地で療養することに。 作中、主人公が精神を病む描写があります。ご注意ください。 作品内に登場する医療行為や病気、治療などは創作です。作者は医療従事者ではありません。実際の症状や治療に関する判断は、必ず医師など専門家にご相談ください。

『悪役』のイメージが違うことで起きた悲しい事故

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本当に裁かれるべきだったのは誰? 時を超え、役どころを変え、それぞれの因果は巡りゆく。 とある令嬢の断罪にまつわる、嘘と真実の物語。

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