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目が覚めると、全身がずしりと鉛のように重かった。
何が起きたかわからず、寝ぼけたまま首を傾げたこみつは頭上から密やかに落ちた笑い声にはっとした。白い頬を陽光に照らされ神々しい五曜がうっとり甘い顔で見下ろしている。
こみつはびくっと肩を跳ね上げ、また布団にもぐりこんでしまう。
「おはよう、具合はどう?」
上機嫌な五曜にぽんと軽く叩かれ、ぐうと呻いた。上質な寝衣に包まれた肌はさらりとして不快感はない。けれど腹の奥底が重だるく、動くのが億劫だった。
「しんどいです、動きたくない」
「無理させてごめんね」
謝っているのに謝罪の色は薄い。おなかすいたでしょう、と五曜は女中を呼んだ。
寝室に運ばれてきた食事は胃に負担のなさそうなものばかりだったが、明らかな祝い膳だった。
「手伝ってあげる」と浮かれた声で五曜に抱き起こされ、こみつはかあっと顔が熱くなった。そして勢いのままぐいと五曜の胸を押しやる。
「い、いいいいです!自分でできますからっ」
ぷいと顔を背けたこみつは、はしたなくも手づかみで果物をひとつ口に運ぶ。
こみつは頑なに五曜を振り返らなかった。
ずいぶん遠慮がなくなった、と自分でも思う。でもそれは五曜も同じだ。
追いやったのにぴたりと背中に張り付いたままの胸は、綺麗な顔に似合わず鍛えられていて、昨夜だって男くさくて逞しくて、翻弄されてしまった自分が恥ずかしくて悔しくて堪らない。まだ顔が熱くてどきどきしている。
五曜は五曜で、こみつの細い肩を見下ろしてふわりと笑った。
夫の顔を見る度、過剰に反応するこみつがかわいくて仕方ない。でもそれを指摘すると拗ねてしまうから、甘やかしてなだめすかしてやり過ごす。
名実ともにこみつを手に入れた自覚のある五曜は、あとはゆっくり距離をつめていけばいいと考えていた。
こみつは北辰には積極的だったが、それだって彼が小さな頃からの幼なじみだからで、元々こみつはあまり男性に慣れていない。その手を跳ね除けられるのだって、子猫が抵抗しているようで愛らしい。五曜はこみつに骨抜きだった。
―――けれどこみつの意地っ張りが三日、五日、一週間と続くにつれ、情けなく眉が下がっていく。
「こみつ?」
「こっちにこないでくださいっ」
そしてついに夫婦の布団まで離されてしまった。
距離の開いた二組の布団を呆然と見下ろした。なんてことだ。
なのに、こちらを威嚇するように強ばる薄い背を目にするとついつい甘くなってしまう。許してしまうのだ。
「おやすみ、こみつ。大好きだよ」
***
初夜からこちら、こみつはこみつで何をしても甘い五曜に戸惑っていた。
恥ずかしさと悔しさでどうにかやり込めないかと無駄に反抗していたが、五曜にはちっとも効いていない。引くに引けなくなってもいた。
五曜は実家の家業を手伝う傍ら、大学にも通っており、慶事休暇が明けると日中のほとんどを留守にするようになっていた。短い蜜日はこみつがふてくされている間に過ぎていったが、五曜は不満とも思っていないようで、こみつの顔を見るといつもうれしそうにしている。
ただ、こみつは失念していた。結婚はこみつと五曜の二人だけのものではなく、双方の家が関わるものだ。
「式からもうすぐ一ヶ月になるでしょう?若様もお可哀想に」
離れたところにいる女中たちの会話が聞こえて、こみつはぎょっとして足を止めた。
「若奥様は若様の何が不満なのかしら?」
「あんな素敵な旦那様、羨ましいったらないわ!わたしだったら毎晩寝所で期待しちゃう!」
「やめて、はしたないわよ」
「でもそうよ?あの年代のお坊っちゃまたちの中なら五曜様が一番素敵」
「たしかに滅多にない色男よね。目の保養だわ」
「それでも若奥様は雪村様のところの御嫡男がお好きなのよね?」
「御結婚されたのは五曜様じゃない。未練がましいのもいやあね」
屋敷で働く女中たちには夫婦生活なんて筒抜けだ。
こみつと五曜が初夜以来、共寝していないことは知られている。
でもこんな風にあげつらわれているとは思わなかった。誰が聞いてるかもわからないのに大きな声で堂々と。こみつはかっと腹の底が熱くなる。
―――なんて失礼な!
しかも北辰のことまで持ち出されるなんて。
五曜との結婚以前に北辰には婚約者がいるため、こみつが騒いだところでいまさらどうにもできない。そんなのわかりきったことだ。いまはただ過ぎる時間とともに思い出にしていくしかない。
大体、五曜がなんだというのだ。
彼はたしかに綺麗な顔をしているが、こみつの好みではない。
結婚を機に移り住んだ屋敷は添島家の別邸で、使用人たちは添島の本家が用意した者がすべてだった。とくに女中たちは五曜の生家からついてきた者がほとんどだから、多くが彼に憧れている。心酔しているともいえる。
きっと五曜もまんざらでもないのだろう。彼は他人からの称賛に慣れている。
怒りに駆られたこみつは夫婦の部屋とは別の、こみつの私室として充てがわれた部屋に籠城した。
そこにはこみつが実家から持ち込んだものが並べられており、懐かしくて堪らない。
「もう、帰りたい…!!」
五曜との結婚生活はちっとも楽しくない。不満だらけで嫌になる。
実家の部屋は雪村家の道場に面していて、よく練習中の幼なじみを眺めていた。ただ遠目に見ていただけ。それだけでひどく幸せだった。
こみつの恋は報われなかったが、北辰を追いかけているときは本当に楽しかった。あの頃に戻りたい。特別なことなんてなにもなくても、毎日がすばらしかったあの頃に。
何が起きたかわからず、寝ぼけたまま首を傾げたこみつは頭上から密やかに落ちた笑い声にはっとした。白い頬を陽光に照らされ神々しい五曜がうっとり甘い顔で見下ろしている。
こみつはびくっと肩を跳ね上げ、また布団にもぐりこんでしまう。
「おはよう、具合はどう?」
上機嫌な五曜にぽんと軽く叩かれ、ぐうと呻いた。上質な寝衣に包まれた肌はさらりとして不快感はない。けれど腹の奥底が重だるく、動くのが億劫だった。
「しんどいです、動きたくない」
「無理させてごめんね」
謝っているのに謝罪の色は薄い。おなかすいたでしょう、と五曜は女中を呼んだ。
寝室に運ばれてきた食事は胃に負担のなさそうなものばかりだったが、明らかな祝い膳だった。
「手伝ってあげる」と浮かれた声で五曜に抱き起こされ、こみつはかあっと顔が熱くなった。そして勢いのままぐいと五曜の胸を押しやる。
「い、いいいいです!自分でできますからっ」
ぷいと顔を背けたこみつは、はしたなくも手づかみで果物をひとつ口に運ぶ。
こみつは頑なに五曜を振り返らなかった。
ずいぶん遠慮がなくなった、と自分でも思う。でもそれは五曜も同じだ。
追いやったのにぴたりと背中に張り付いたままの胸は、綺麗な顔に似合わず鍛えられていて、昨夜だって男くさくて逞しくて、翻弄されてしまった自分が恥ずかしくて悔しくて堪らない。まだ顔が熱くてどきどきしている。
五曜は五曜で、こみつの細い肩を見下ろしてふわりと笑った。
夫の顔を見る度、過剰に反応するこみつがかわいくて仕方ない。でもそれを指摘すると拗ねてしまうから、甘やかしてなだめすかしてやり過ごす。
名実ともにこみつを手に入れた自覚のある五曜は、あとはゆっくり距離をつめていけばいいと考えていた。
こみつは北辰には積極的だったが、それだって彼が小さな頃からの幼なじみだからで、元々こみつはあまり男性に慣れていない。その手を跳ね除けられるのだって、子猫が抵抗しているようで愛らしい。五曜はこみつに骨抜きだった。
―――けれどこみつの意地っ張りが三日、五日、一週間と続くにつれ、情けなく眉が下がっていく。
「こみつ?」
「こっちにこないでくださいっ」
そしてついに夫婦の布団まで離されてしまった。
距離の開いた二組の布団を呆然と見下ろした。なんてことだ。
なのに、こちらを威嚇するように強ばる薄い背を目にするとついつい甘くなってしまう。許してしまうのだ。
「おやすみ、こみつ。大好きだよ」
***
初夜からこちら、こみつはこみつで何をしても甘い五曜に戸惑っていた。
恥ずかしさと悔しさでどうにかやり込めないかと無駄に反抗していたが、五曜にはちっとも効いていない。引くに引けなくなってもいた。
五曜は実家の家業を手伝う傍ら、大学にも通っており、慶事休暇が明けると日中のほとんどを留守にするようになっていた。短い蜜日はこみつがふてくされている間に過ぎていったが、五曜は不満とも思っていないようで、こみつの顔を見るといつもうれしそうにしている。
ただ、こみつは失念していた。結婚はこみつと五曜の二人だけのものではなく、双方の家が関わるものだ。
「式からもうすぐ一ヶ月になるでしょう?若様もお可哀想に」
離れたところにいる女中たちの会話が聞こえて、こみつはぎょっとして足を止めた。
「若奥様は若様の何が不満なのかしら?」
「あんな素敵な旦那様、羨ましいったらないわ!わたしだったら毎晩寝所で期待しちゃう!」
「やめて、はしたないわよ」
「でもそうよ?あの年代のお坊っちゃまたちの中なら五曜様が一番素敵」
「たしかに滅多にない色男よね。目の保養だわ」
「それでも若奥様は雪村様のところの御嫡男がお好きなのよね?」
「御結婚されたのは五曜様じゃない。未練がましいのもいやあね」
屋敷で働く女中たちには夫婦生活なんて筒抜けだ。
こみつと五曜が初夜以来、共寝していないことは知られている。
でもこんな風にあげつらわれているとは思わなかった。誰が聞いてるかもわからないのに大きな声で堂々と。こみつはかっと腹の底が熱くなる。
―――なんて失礼な!
しかも北辰のことまで持ち出されるなんて。
五曜との結婚以前に北辰には婚約者がいるため、こみつが騒いだところでいまさらどうにもできない。そんなのわかりきったことだ。いまはただ過ぎる時間とともに思い出にしていくしかない。
大体、五曜がなんだというのだ。
彼はたしかに綺麗な顔をしているが、こみつの好みではない。
結婚を機に移り住んだ屋敷は添島家の別邸で、使用人たちは添島の本家が用意した者がすべてだった。とくに女中たちは五曜の生家からついてきた者がほとんどだから、多くが彼に憧れている。心酔しているともいえる。
きっと五曜もまんざらでもないのだろう。彼は他人からの称賛に慣れている。
怒りに駆られたこみつは夫婦の部屋とは別の、こみつの私室として充てがわれた部屋に籠城した。
そこにはこみつが実家から持ち込んだものが並べられており、懐かしくて堪らない。
「もう、帰りたい…!!」
五曜との結婚生活はちっとも楽しくない。不満だらけで嫌になる。
実家の部屋は雪村家の道場に面していて、よく練習中の幼なじみを眺めていた。ただ遠目に見ていただけ。それだけでひどく幸せだった。
こみつの恋は報われなかったが、北辰を追いかけているときは本当に楽しかった。あの頃に戻りたい。特別なことなんてなにもなくても、毎日がすばらしかったあの頃に。
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