神の歩兵

平 堕天

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ハレア歴46年 4月27日

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 俺が最初に下した天罰は、ある晴れた日の朗らかな午後のことだった。この日は春風が吹いていた。太陽の日差しが柔らかかった。



 俺は見知らぬ花畑で目覚めた。昨日の夜は間違いなく自分の寝室、自分の寝具で寝たのに。

 ーーどこだ、ここ。

 まだ夢の中かと思ったが、日光のもたらす眩しさや心地よさは確かに現実のものだった。

 普通の会社員だった俺は、昨日も仕事を終えて安らかな眠りについたはずだった。だというのに、目が覚めたら原っぱの中の花畑にいた。

 困惑した俺は上体だけを起こすと、花の香りを嗅ぎながら辺りを見回した。人影は見当たらなかったが、遠くの方に小さな小屋が見えた。

 俺はひどく安心した。人が住んでいるかはわからないが、とにかく目指す場所がはっきりとしたことが嬉しかったし、状況が好転するかもと思ったら勇気が湧いてきた。

 ーーあそこに行かなきゃ。

 右も左もわからないままそう思った。俺は背伸びをして立ち上がると、小屋に向かって歩き始めた。

 今思うと、この時既に俺は操られていたんだな。起きたら全く知らない場所にいたのに然したる動揺もせず、何かに導かれるように小屋へ向かった。普通はもっと怯えたり、そうでなくとも行動が慎重になる。それなのに、俺は何の迷いもなく小屋を目指した。俺はとっくに神の歩兵になっていたんだ。

 目的の場所に着くと、俺は丁寧にドアを叩いた。返事はすぐに返ってきた。

「どちら様で?」

 低く、相手を気圧すような声だった。他人と関わることを嫌っているのがありありと伝わってきた。

 だが、そんな思考は突如襲ってきた情報の濁流によってあっという間に掻き消された。

『ゲイリー・ロッドマン・ジュニア。35歳。男性。ハインツ領で盗賊の息子として産まれる。10歳の頃アンナ・フランクを殺害ーー』

 男の声を聞いた直後、脳内に無数のイメージが駆け巡った。ゲイリーがアンナを殺した瞬間、歩兵としての力の使い方、なぜ俺が選ばれたのか。
 そして、最後に声が聞こえた。

『罪人を罰しなさい』

 俺は数秒のうちに、この世界で課せられたこれからの使命を理解した。

 あまりに唐突な神からの宣告に、俺は目眩を起こしてその場に倒れ込んだ。大きな音を立てたせいだろう、ドタドタと足音を響かせながらゲイリーが駆け寄る音が聞こえた。

「……」

 少しだけ開いたドアから、人相の悪い顔が覗いていた。頭の中のイメージと寸分違わぬ顔立ちだった。

「……食い物も薬もないぜ。さっさと消えな」

 蹲っていた俺を物乞いか何かと勘違いしたようで、外開きのドアの隙間からゲイリーは気怠げな口調でこう言った。俺が返事をする前に扉は閉まった。

 ようやく落ち着きを取り戻した俺が膝に手をついて立ち上がると、今度は全く体が動かなくなった。より正確には、自分の意思で動かせなくなった。

 勝手に動き始めた俺の体は、木製の扉を難なく蹴破った。俺はただ反動を感じて、目に映る光景を眺め続けることしかできなかった。

「テメェ! 何しやがる!」

 ゲイリーが怒り心頭に発するといった表情でこっちに走ってくると、そのままの勢いで俺を顔面に右の拳を打ち込んだ。

 俺の体は防御をしなかった。そんなことはする必要がないから。実際、砕けたのは俺の顔ではなく彼の拳の方だった。

「あがぁっ!」

 ゲイリーは汚い悲鳴を上げた。そんなことは意に介さず、俺の右手は彼の首を締め上げた。

「ぁっ……ぅ……」

 彼の口から小さな息が漏れた。俺は手を離そうとしたが、緩まる気配は一向に無かった。

 彼は両手を必死に動かして、絞殺せんと万力を込め続ける俺の右手を引き剥がそうとしたが、それは全くの無意味だった。首の血管が締まり、血流が阻害されているのを嫌というほど感じた。

 最後に彼は、両足をバタバタと忙しなく暴れさせた。暴れる両足は少しずつおとなしくなり、ついには動かなくなった。それでも俺の手は首から離れなかった。しばらくすると、彼は完全に死んだ。

 彼が死んだのと同時に、一気に体が動かせるようになった。俺は真っ先に手を離して、茫然としながら後ずさりした。先程まで命だったものは、肉の塊になっていた。気分は最悪なのに、神に作り変えられた俺の体はすこぶる快調だった。



 この日、ひとりの男に罰が下された。33人を殺害、強盗も強姦もなんでもしてきた男だ。死んで当然だった。俺が殺さずとも、いずれ報いを受けたはずだ。けれど……

 それでも、俺はこの日、罪を知った。
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