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3.行きはよいよい帰りは怖い

28話

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「それともお前を渡せば」
 男の下卑た笑い声が不自然に打ち切られた。

「――無駄口を叩くのを許した覚えはないが」

 金属音がした。
 あの日から聞き慣れた、銃の安全装置を外す音。

 男が情けない、ひきつった悲鳴をあげる。続けて苦しげなうめき声と打撃音。
 騒々しくなる中、月音はドアを睥睨する。

 いきなければ。
 ただひとつだけ、それ以外の思考が消滅した。
 いきなければ。

「死にたいなら勝手だが、煩わせるな」
「……ッすみませ」
「謝って済むなら警察はいらない、だろ?」

 嘲るように男が笑い、もう一人がおびえている。

「つれていけ」

 はい、と誰かが答えて何かを引きずって遠くなる。

 いきなければ。そのために。ころされるまえに。

 月音は一歩下がる。

 ドアが開いて朝日が目を焼いた。
 それを覆い隠す影が入り込む。濡れるような黒髪が揺らして小首を傾げる男が。

「すまない、うちのやつが」


 ころさなければ。


 一瞬だった。

 空気を切り裂き、閃いたそれは容易く男の手が受け止めた。

 首筋にぴたりと止まった銀色をぎちりと掴んでいる。 
 月音がいくら力を加えようと銀は、ナイフはびくともしない。

 殺せない。

「ただの小娘が、殺せないとでも思ってますか」

 抑揚なく問えば、華を胸に刻む男は変わらない色香がただよう、人を惑わせる笑みを浮かべたまま否定した。

「いや? きみならできるだろう」

 酷く加虐的で愉しげに平然としている。

 月音とは場数が違う。
 裏の世界を悠々と見下ろし、王座に座る風格は月音ではかなわないことを明白にした。
 それでも月音は目を細めて、獲物を捕らえて逃がさない。引き下がるわけには、いかない。

 わたしは、わたしはどうしても。生きなければいけない。

「殺す理由があると、お聞きしました」
「そうだな」

 あっけない返事だ。
  変わらない態度が、いびつで不気味だった。

「誤魔化さないんですね」
「ややこしくなる、それにきみには嘘をつきたくない」
「甘言も料理も本も花も全部騙すためですか。愉しかったですか、熱をあげて浮かれる単純で愚かな女を見るのは」

 温度なく皮肉をぶつければ、男は朝の出来事と同じように、やわらかな瞳で優しさにあふれた、幸せな表情をする。
 
 状況とはかみ合わない。
 なぜ、男が嬉しそうなのか理解できない。

「聞いてくれ、俺はきみに嘘をつかない。騙すなどもってのほかだ」
「今まで殺す理由があるのを隠しておいて、ずいぶんと虫のいい話ですね」
「言わなかっただけさ」
「詭弁ですね」
「こういう仕事していると、嘘は言っていないは常套手段だね」

 そう、何も教えていなかっただけ。黙っていただけだ。

 穏やかに、ナイフなど見えていないように。
 男は月音に微笑む。華やかに、諭すように。

 芳香が、今更鼻腔をくすぐった。
 視界の端でくまのぬいぐるみが、地面に転がっている。

 ぶれる。ぶれてしまう。
 けっして譲ってはならぬものが。

「あなたも、ころしたいんですか」

 短く息を吐く。
 手が、全身が凍える
 。胸の奥がきしんで、痛みを訴える。
 何も感じなかったのに、男に見つめられたそれだけで麻痺が解けてしまう。

「利用、したかったんですか」

 声が、なさけなくふるえた。

 僅かに男の抵抗が緩み、ナイフが首筋の皮を薄く裂いた。目を引く赤が一筋伝った。

「冷静さを欠いたきみに説明しても無駄だろう」
「そう」

 ならば。

「死んでください」

 不安要素を残すわけにはいかない。
 この命が失われる可能性はすべて刈り取らなければ。
 そうだ、そうだろう。

 自分に言い聞かせる。
 そうしてきた、ただ今までは運が良かっただけだ。逃げるだけで解決できた。それは今回通用しない。なら、もう手段は残されていない。

 だから、だから。

「今、俺を殺せば見張りやいろんな人間を敵に回す。あれだけではなく、この町全体に狙われる。それが思い当たらないほど、察しが悪い子ではないだろう? きみは、かしこい」

 唇を噛みしめる。
 男といる時間は平和そのものだった。何の危険も月音には届かず、生まれてから間違いなく一番満たされて、人間の生活を送れていた。
 それは、まぎれもない事実。

 日々が責めるように次々と脳裏によぎっていく。
 フラッシュバックのように、古い映画を見ているような気分になった。白黒のスクリーンが強制的に迫る。
 モノクロが、色づくのを拒絶して頭を振った。

 あまい誘惑が鈍らせる、約束を幾度も唱えた。
 小さな声は、きっと男にも届いているだろう。

 生きる。生きる。生きなければ。約束、わたしは絶対に。

「生きるの」

 揺るがない声音に、泰華が眩しそうに目を細めて口元を緩めた。すり寄るように、ナイフごと月音の手に頬を近づける。

 あとすこし、わずかで彼は赤を飛び散らせ、静かに体を横たわらせるだろう。苦痛にゆがむ顔は想像できず、きっと眠るように穏やかに死へと向かう。

 そんなありえない予想が鮮明に描かれたとき、どくりと心臓が不自然にはねた。

 月音の額から何かが伝う。
 顎から地面に落ちたのが冷や汗だと気がついたのは、手が異様に震えてからだった。

 海の波が押し寄せるように、迫って飲み込もうとする感情が何か。悟りたくない、と拒絶しても抗う方法など知る由もない。

「これを」

 男は器用に、ナイフを掴むのとは別の手でスーツの懐を探った。

 ぎくりと強ばった月音をよそに、ひらりと薄っぺらい何かを突き出した。

 眼前に差し出されたのは、紙。
 拍子抜けして、まばたきを繰り返した。
 一拍おいて、そこに黒いインクで字が印刷されていることを頭が理解する。

 内容は――。
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