影の子より

STREET

文字の大きさ
上 下
1 / 76
前編 ガラハンに来(きた)る冬

OPENINGS

しおりを挟む
 長い夢を見ていたようだ。
 喉の渇きを覚え、置かれているグラスに手を伸ばす。触れた拍子に指が滑ったのは、水滴のせいだ。掴み直して口に運ぶ。氷は既に溶けており、薄く不味い酒の味が広がった。
 ──どれほどの時間が経つのか。
 染みで汚れた窓からは、杏色の光が差し込んでくる。じきに陽の入りを迎えるのだろう。
 廃れた町の片隅に、ひっそりと設けられた酒場。外がまだ明るい刻のためか、客は疎らだった。
 フードを目深く被った若い男は、入口に背を向けるようにして、カウンターに着いていた。徐に煙草を取り出し、ライターで火を点ける。飲むか、喫うか。酒場ここに来てやることは、いつだって同じだ。長く細く吐いた煙は、宙に広がって消えていく。繰り返しでひどくつまらない光景。それがそこにはあった。
「読む?」
 唐突に声が掛かった。
 知らない間に、一つ空けて隣に客がいた。十代半ばのように見える少年が、折り畳んだ新聞を滑らせて寄越す。さらに彼は首を傾けながら、立てた二本の指で何かを挟む仕草をした。
 提示された条件を正しく受け取り、男は胸元にしまった煙草を分けた。
「火もくれないか」
 ずい分態度の大きい子どもだ。男は思いながら、ライターを投げる。
「そう睨むなよ」
 少年はふっと笑う。
 新聞には二つの記事が載っていた。交易が再開されたこと。年明けを待って政権が替わること。
 港を再び解放する理由に、反政府勢力レジスタンスの殲滅が挙げられている。生き残りは北の国境まで逃れたが、公国軍によって討たれたようだ。時代を跨いで続いた内紛が、収まりつつあった。
 それとともに、独裁を誇っていた政治が終わる。表向きはオルウォ妃が退く形だが、民意が彼女を追い出した。
 後にやって来るのは、平穏か。それとも新たな対立か。
 ──少年の咳き込む声で、男は我に還った。
「まだ早いんじゃねえの、煙草それ
 初めて発した言葉だった。
 少年は一瞬だけ手を止め、しかし笑いながら灰皿を引き寄せた。
「忠告どうも。ただ、大人になってみたかっただけさ」
「そのうち、嫌だと言ってもなってるだろ」
「……時間がないんだ」
 落ち着いた様子で答えた。病に冒されたわけではなさそうだが、何を急くことがあるというのか。心の内は分からないものだ。
、あんたの子か」
 少年の視線を辿り、男は自身の足元を確認した。
 音のない寝息を立てながら、幼い子どもが横たわっている。酒はだめだと断られ、ふてくされていたのは少し前。大人しく待つだけの時間に飽き、いつの間にか寝入ってしまったのだろう。
 布の塊にも見えるその隙から、穏やかに眠る表情が覗く。
「いや。……預かりものだ」
 男は新聞を返し、酒を飲み干す。奥にいた店員に、空になったグラスを持ち上げて見せた。
 少年はカウンターに肘を付き、手の甲に顎を乗せる。
「その歳よりも小さい弟が、俺にもいる。郷に残してきたのだけが、心残りさ」
「帰ってやれよ」
「簡単なことじゃない」
「……だろうな」
 男は少し間を置いてから、そう答えた。
 この辺りでは珍しくもないが、少年の肌は褐色だ。
 視界に入る情報だけで、人の考えは大きく偏る。かつて、この国にも奴隷制度はあった。旧い風習の根付く地域では、今でさえ自由に生きられない者もいる。
 彼の言う郷が、彼らにとって生き辛い環境であるならば、なおさら。
 次の酒が注がれると、強い香りが男の鼻を突いた。
「あんたに頼みがある」
 一口目を飲み終わるのを待って、少年は口を開いた。
「俺の弟に渡して欲しい」
 言い終わる前に、手にした小刀を新聞に突き立てた。刃先は紙の厚みを過ぎて、木の板に達する。
 男は動じることはなく、縦になった小刀を横目で一瞥した。
 旧式のようだが、使われた形跡はあまりない。よく研がれており、鈍い光を微かに宿している。鞘が見当たらないのが物騒だ。
「形見のつもりか?」
「いや。……あいつがそう捉えても、仕方がない。でも、違う」
「オレは他人だ。お前の弟なんて、顔も名も……」
 そう言葉にして、先は続かなかった。男はまっすぐに少年を見つめた。
「なあ。あんたの生きるこれからの時代は、平和になるか?」
 答えられない。
「そこに、置いてきた弟もいる。平和なら……いい時代だろうな。少なくとも、俺の時代ときよりは。そう信じたい」
「……お前は」
「託すよ、あんたに。重荷になるなら、棄てていいからさ」
 少年は名残惜しそうに、柄を握り締めていたが、やがてゆっくりと指を解いた。
 ただ、そこにいた同士。何の関係もなく、互いの名さえ知らない。すっかり短く縮んだ煙草を、男は灰皿に押し付けた。そうすることでわずかに気が紛れた。
 平和になる。──この国が?
 長い間戦渦にまみれ、多くの血を垂れ流してきた。それを間近で目にしてきた。
 小刀の柄に不器用に彫られた、少年の名。唇を引き結んだ男は、それから目を背け、別のことを考えようとした。
しおりを挟む

処理中です...