影の子より

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 序章:音のない兵器

 三話

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 瞼を閉じて待つ。置き去りにしたはずの記憶が、ふっと蘇る。そのわずかな間だけ、心がざわりと揺れて乱れる。
 だから嫌だ。
 必死で記憶に蓋をして、鍵を掛けた。落ち着きは戻ってきたが、瞼を下ろしたまま、さらに三つ待った。
「怖じ気付いたか?」
 降ってきた声に、我に還った。
「……いえ」
 短く答え、見下ろす兵士へ顔を向ける。
「心配することはない。君たちの任務は、屋内の偵察だけだ。合図をくれれば、後は我々が制圧する」
 国境の際に建てられた、石造りの教会。すっかり陽は堕ち、夜闇に溶け込んでいる。そこを囲むようにして、彼らは息を潜めていた。
「声も、音も、一切の気配を消して行け。ただし、もし見付かった場合は……」
 兵士は言葉を切り、片方の眉を歪めた。
「迷わず撃てよ。そのためのそれだ」
「はい」
 は頷いた。
 五日前、任務を受けてから都を発った。二隊に分かれ、警備隊と検問所にそれぞれ配属された。平穏だったのは、昨日までのことだ。
 教会が収容施設として扱われ、違法に子どもたちを集めている、という情報が警備隊に届いた。その摘発に、影たちも同行した。
 知能のまだ備わらない子どもは、教育次第で金になる。殺し方を叩き込めば、武器を手に平気で生命いのちを奪う。身体の売り方を知れば、動かなくなるまで客が取れる。簡単だ。それ以外に、独りで生きていく術を知らないのだから。
 かつて国府により、各地の違法収容施設が一斉に摘発された。当時内戦地では、少年兵による自爆攻撃が多発していた。また、臓器売買によって、幼い身体が国外に売られる事例もあった。
 時は経ったが、不穏な事態は収まる様子がない。
 ──教会ここで、何がなされているのか。
 考えたくはない。できれば自身より幼い子どもの、残酷な姿は見たくない。影は拳を握り締めた。
「さあ、行け」
 兵士の声に背を押され、三人の影たちが石壁に指を引っ掛けた。軽い身のこなしで登っていく。
 風はない。月は薄い雲に隠れたが、それがちょうどよかった。手元はかろうじて確認でき、姿は確認されにくい。
 グローブが一瞬滑り、小さく崩れた石が下に落ちる。割れ目を掴み直し、二階の外壁に辿り着いた。
 残り二人も同様に上がると、言葉にはせず、互いに頷いて見せた。
 事前に耳にした情報は正しかった。何か重い物がぶつかったのか、ステンドガラスが欠損しており、人間が一人入るほどの間がある。覗き込むと、広い空間につながっていた。
 一人、足から屋内へと侵入する。床はなく、細く出っ張った窓枠に着く。
「灯りだ」
 外から様子を窺っていた影が、微かに聞こえるように言った。鼻から下は覆面で隠れており、続けて発した灯りの場所は伝わらなかった。代わりに、指で指し示す。
 踏み入った影は、その方へと壁伝いに進む。
 身廊にも祭壇付近にも人はおらず、真っ暗だ。しかし、気配は確実にある。複数。
 慎重に身を屈め、一階の側廊へと足を下ろす。ここで敵と対峙すれば、逃げ道はない。仮面で視界が限られる中、神経を研ぎ澄まして辺りを探った。
 光が細く漏れてくるのは、ある扉の向こうだ。
 半身を壁にぴたりと寄せ、半開きになった隙から、顔を傾けて室内を覗いた。
 ──それは、想定していない光景だった。
 聖具室でも、告解部屋でもない。温かな灯りに包まれた空間には、静かな寝息の混じった息遣いがあった。
 いくつも並んだベッド。横になっているのは、幼い少年、少女たち。床を擦るように抑えられた足音は、順に廻って寝かしつける、修道女シスターたちだ。
 穏やかで柔らかな横顔に、影は思わず数歩離れた。無意識に銃に触れていた手が、腰からゆっくりと下りる。
「何、やってる」
 背後から腕を引かれた。
 一人を上に残し、気になって続いて来たのだろう。覆面の影が急かす。
「合図は?」
 仮面を上にずらし、影──ジュノーは首を横に振った。無理だ、と声にはせず唇の動きで伝える。
 耳に届く子守歌は、正常だったはずの思考を惑わせた。どう見ても相手は、非武装の人間だ。収容施設。──ここが?
 張り詰めた日常にいた彼らにとって、目の前の空間は異様だ。遥か昔、まだ平和だと言えた頃の懐かしさと、棄て切れない温もりと似ている。判断は下せない。
 教会正面の警備兵は、現状を目にしてどうするだろうか。当初の計画通り、反逆者の掃討に当たるだろうか。
 戻ろう、とどちらともなく言った。
 ジュノーは念のために留まり、覆面の影を伝令に行かせた。臨戦態勢は崩さず、今度はしっかりと銃身を掴んだ。撃ち合いにはならないだろうが、気配に感付かれた際に、脅しには使えるはずだ。そして音を拾おうと、耳を傍の壁に近付けた。

 ──その時だった。

「よせ、やめろ──…」
 悲痛な叫びが、静寂を一瞬にして切り裂いた。
 何が起きたか、知る間などなかった。振り向いた途端、視界は真っ白に包まれ、同時に何も聞こえなくなった。
 全てが掻き消え、意識はそこでぶつりと途切れた。
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