影の子より

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 第四章:千切れた鎖飾り

 一話

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 忘れられた地。──その場所には名などなく、ただそう呼ばれていた。
 南北ガラハン公国どちらの領土にも属さず、また誰もが、その地を踏もうとしなかった。貧しい土と、痩せた木々に囲まれた土地。広さと豊富な地下水だけが、取り柄だった。
 敷地の周りには、有刺鉄線が張り巡らされていた。迷彩服をまとった兵士たちが、鞭や機関銃を手に巡回し、常に彼らの動きを監視していた。
 彼ら──少年たちの動向を。
「おい、立て」
 背後で冷たい声がした。
 一瞬だけ、ジュノーの手が止まる。が、すぐに木材を担ぎ上げる。
「おい、動かんのか」
「だめだ、もう死にかけてるな」
 傍で、やり取りが幾度も続く。繰り返し、聞き飽きたほどの会話だ。
「……くそ、手間掛けさせやがって。おいお前、連れていけ」
 幸いにも、に指名されたのは、ジュノーではなかった。ほっとしたと同時に、指先の震えに気付いた。
 また一人、倒れた。彼は息のあるうちに、と名付けられた穴に、引きずられていく。そして始末される。運ぶのも遺体を埋めるのも、たまたまその日、命じられた人間だ。運悪く兵士の機嫌が悪ければ、気分次第で道連れにされる。彼らにとっては、どの作業も遊びの一環だった。
 ──やがて一発、銃声が轟く。
 それで終わり。収容施設ここにいる少年たちの生命は、一瞬で消える。
 ジュノーは無心で、肩が軋むほどの重さの木材を運んだ。
 半月前には、新たな井戸の掘削を終えた。次は宿舎の隣に、倉庫を建てるという。どこから集めたのか分からない、様々な兵器が、今は野晒しで置かれている。折り畳み式ナイフ、旧型の猟銃、東方の長刀や魚雷。無造作にあるそれらは、ろくな手入れもされていない。
 十歳を過ぎると、武器の扱いを叩き込まれる。しかしそれも、命懸けだ。
 先月も訓練中に、誤って手榴弾が爆発し、二人が生命を堕とした。一人は重傷で済んだが、失くした片脚の治療を受けられず、感染症で先日息を引き取った。
 名目上この場所は、兵士の養成所である。しかし、まともな訓練を受けないまま、若い彼らは戦場へ駆り出される。その後どうなるのか、残った者たちには見当が付かない。
 まさに地獄だ。
 ジュノーは、そこで生きていた。
 そして知り合ったのが、ヨナだった。
「食わないと、死ぬぞ」
 うずくまっている背に、声を掛ける。
 虚ろな眼で、ヨナはこちらを見上げた。
 長い労働の時間を終え、夕食の刻を迎えていた。そこから、水路で水浴びをしたり、死んだように眠ったりと、過ごし方は多様だ。
 まだ口を付けていない椀を見て、ジュノーはため息を吐いた。
「取り敢えず、食え。嫌なら、俺が無理に……」
「初めて見た」
 遮るようにして、ヨナは言葉をこぼす。
「何?」
「見た。死んでた。でも昨日は、動いて……」
「死はいつだって、突然だ」
「エリオだった」
 ジュノーは目を見開いた。
 エリオ。彼もまた、ジュノーと近い時期に、施設へと連れてこられた。戦争で手柄を立て、生まれたばかりの妹を幸せにしてやるのだと、最初は息巻いていたが。
 目の当たりにした、近い存在の死に、ヨナは呆然と地を眺めた。
「ジュノーは、いつ? ぼくはいつ、迎えが来る?」
 ジュノーはしゃがむと、既に冷め切った椀を持ち上げた。
「……神に呼ばれたら、な。今はまだだ。ほら」
「君は強い」
 ヨナは笑った。自嘲の表情で、乾いた笑みを貼り付けた。
 ジュノーは微かに腹立たしさを覚え、根菜のスープを強引に口元に押し込む。
 もう二年近く、地獄のような暮らしを送っている。壊れていく人間を幾人も見た。彼らはみんな、最期には苦しんで死んでいく。
 ──そんな終焉は嫌だった。
 兵士として戦い、散っていくか。自らの強い意思で、自らの手で人生を終わらせるか。望むのは、どちらかだ。
 身体が空腹を訴えたのか、ヨナはむせながらも、大人しく食事をかき込んだ。
「生きていれば、それでいい。生きていれば……」
 その様子を見つめ、ジュノーは呟いた。
 施設で出会った頃、ヨナは壊れかけていた。言葉を忘れ、名も思い出せなかった。そこへ、生きろと声を掛け続けたのが、ジュノーだった。という名を与えたのも、彼だ。
 ヨナは徐々に、人格を取り戻しつつあったが、時折衝動が襲う。
 それでも生命さえあれば、先が視える。
 ジュノーは唇を噛み締める。

 その時だった──

「敵だ」
 悲鳴と銃声が、一気に辺りに響いた。
 足下が揺れ、ジュノーは反射的に伏せた。
 見張りのために建てられた櫓が、火を噴いて崩れた。上にいた人間も、降りようとした人間も、宙に放り出される。
 砂煙が舞い、頭上を過ぎていった。
 身体は硬直したが、現状を探らなければと考え、顔を起こす。姿勢を低く据えたまま、這うようにして、傍の建物の壁にすがった。枠組だけができたばかりの、簡素な倉庫に、紅黒い炎が回っていた。
 散り散りになる少年たち。
 一方、奇襲にも狼狽えず、戦闘態勢を保つ迷彩服の兵士たち。
 狙われるのがどちらかは、明確だった。
 叫びながら銃を構えた兵士が、文字通り蜂の巣にされる。銃弾の補充に走った数人が、砲弾を受け吹き飛ばされる。
 ──闘え。
 心の中で、誰かが言う。生きるために、闘うのだ。
 ジュノーは意を決したように、落ちていた機関銃を拾った。しかし、ぬるりと滑る。
 血だ。おびただしい量の鮮血が、べったりとそれにまとわり付いていた。持ち上げると、さらに重い。肘辺りから胴体を離れた片腕が、名残惜しそうに掴まっていた。
 ジュノーは慌てて、武器を捨てる。
 そこへ、土を踏み締める足音が近付く。
「待て。……非武装だ」
 一度照準を合わせた銃口が、ゆっくりと下がった。
「被験者だな……他にも残っていないか、確認しろ」
「武装民は迷わず撃て、と命じてあります」
「構わん。息がある者だけ、保護して積んでおけ。後処理は、全てが済んでからだ」
 呆然とするジュノーに、男は穏やかな表情を向ける。
「哀れな子たちだ……」
 テオは静かに言った。
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