影の子より

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 第五章:それぞれの思惑

 一話

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 ──静寂。
 少し前まで風が流れていたが、しばらくやんでいる。
 神経を研ぎ澄ますと、下った場所にある川辺から、水の動く音が聞こえる。ひどく穏やかで、全てがもう眠りの中にいるようだ。
 小高い土地に座り込んだ少年は、何かに怯えながら、両手を必死に擦っていた。十歳にも満たない、幼さのまだ残る少年だ。
 音のない世界で待つ時間は、いつもより長く感じてしまう。
 その恐怖心は、身体の小刻みな震えに現れていた。
「……おい」
 突然の声に、少年は小さく悲鳴を上げた。
「うるさい。何やってるんだ」
「イ、イ、イェリ……」
「大人しく待てって、言ったろ。ずいぶん、離れてるじゃないか」
 つい先ほど、河原で待つよう、指示したはずだ。
「水って、怖い……じゃないか。む、昔、じいさんに教わってさ。水の音だけの場所で、夜いたら、水の霊に連れて行かれるって……」
 収まらない動悸と、安心感の入り交じった感情に、少年はぎこちなく笑う。
 額から片頬にかけて傷のある、隻眼の男が、その様子にため息を吐いた。
「こうやって、連れて行かれないようにするんだ。こうしていないと、身体がちょっとずつ、消えていくんだよ」
「分かった、分かった。……ところで、あいつは?」
 手を擦る仕草を止め、少年は辺りを見回す。
「くそ。よく見ておけ、とも言ったよな?」
「ごめんって……でもさっきまで、一緒にいたんだ」
「それは、俺も見ているだろうが。すぐふらふらするんだ。あまり目立つと、俺たちにとってもよくない」
「遠くには行かないさ、きっと」
 二人は、今いる場所よりも高い、丘の上に立つ。
 捜し人はすぐに発見できた。
 河原とは反対にある、背の低い林。その中の一本の木の元に、背を預けてもたれる人物の影。夜は更けているが、月明かりの所為で、辺りには薄暗いほどの明るさがある。幸いにも、付近に人気はなかった。
 イェリは少年を待たせ、丘を駆け下りていく。
 しかし少年は、独り残されることを恐れ、彼の後に続いた。
「おい。渡るぞ」
 声を掛けると、その人物は顔を向けた。
「……交渉は済んだのか」
「ああ。小屋にいたおっさんを、叩き起こしてきた。こんな時間だからと、足下を見られたがな」
 その返答に、ふっと笑ったのは、背の高い青年。唇に煙草を挟んではいたが、火はなかった。煙とにおいで、住人に見付かることを、避けたかったのだろう。彼は煙草をしまい、立ち上がった。
 イェリは、その目先を追う。
 広い牧場の向こうに、点々と光を灯す一画があった。そこは、娼婦街の有名な都市だ。
「お前……まさか、行きたいのか?」
「冗談だろ」
 意味の分からない少年は、首を傾ける。
 彼らは、燃料を手に入れるために、この地域に寄っていた。夜闇に紛れて行動するのも、少人数でいるのも、人目を逃れるためである。
 それを十分承知し、青年は歩き始めた。
 重い燃料は先に乗せ、船頭が既に、エンジンを掛けて待機していた。遅れて集まった迷惑な客に、何か言いたげなようだったが、青年の鋭い目つきに口を閉ざす。
「河口まで下りてくれ」
 イェリの言葉に、ゆっくりと船は進んだ。
 別の行き方もあるが、そこは国府の目が厳しい。
 ただでさえ、国内は騒がしかった。ここへ来て、南北ガラハン公国統一の動きが強まっている。それに反対する人々が、レジスタンスを組んで、抵抗しようとしているのだ。国境警備は厚くなり、各所でも検問が敷かれるようになった。そこをくぐり抜けるのは、容易ではない。
 緩やかな速度で、船は川を下っていく。
 船の縁に乗り掛かった少年は、指先を水に浸けた。後方の水面には、線が引かれていく。
 退屈さを凌いでいる後ろ姿に、イェリは呆れた表情を向けた。次に、青年の方へと視線を移す。
 出航前に、船頭が放り投げるように置いた、昨日の新聞。青年は、それを手に取って眺めていた。
「何か載っているか?」
「くだらねえ記事は、な」
 新聞もラジオも、情報は全て印象操作のためだ。地方で国軍と反政府軍の衝突があり、無事に制圧した。民間人の犠牲はほとんどなく、作戦は順調に進んでいる。──国府に関する報道は規制され、国はそれを手に取り、支持を稼いでいる。
「ここの所、南の話題は出さなくなったな」
「眼中にないんだろうよ。昔からそうだ。奴らの敵は常に、益になる外の連中だ。……それと、
「あまり警戒されると、動き辛くなる。そろそろ、拠点を移したらどうだ?」
「分かってる。そのために、燃料を集めに来たんだろ」
 新聞を折り畳むと、青年は煙草を咥えた。気を落ち着かせる、唯一の方法だった。
 今は、ゆったりとした空気が流れているが、事態はすぐに大きく変わろうとしている。判断が吉と出るか、凶と出るか。それは彼らにも、矛先にいる国府にも判らない。
 見上げると、丸く白い月が、こちらに向いていた。
「あまり、気を張るなよ。今は退屈でも、すぐに忙しなくなるさ」
 彼は銀色のライターを擦り、煙草の先に火を点ける。
 少年の指が描く水面の線の上に、白い煙の線が平行に現れ、しばらくの間続いていた。
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