影の子より

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 第七章:雨上がりの桟橋にて

 一話

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 朝は早い。
 午後には、踊り子たちの稽古が始まるため、それまでに片付けなければならない。
 客の残した、酒のボトルやグラス。灰皿から溢れた、無数の煙草の殻。踊り子たちが脱ぎ散らかした、鮮やかな衣装。明け方近くまで続いた騒ぎは、こうして跡を残す。
 若い女が一人、ほうきとブラシ、水桶を運んできた。客席の隅にそれらを置き、まずは捨ててはいけない物を、片っ端から摘まんでいく。しかしそこで、手がぴたりと止まった。
 衣装の下から、片方だけの靴を見付けたのだ。
 少し汚れのあるそれを拾い上げ、丁寧に拭き取り、ステージの端に乗せる。離れた場所から、もう片方の靴を探し、同じように並べた。しばらく眺める彼女の表情が、わずかにほころぶ。
「おはよう……」
 裏から、眠たそうな声がした。瞼を擦りながら現れたのは、十代半ばほどの少女だった。
「あんた、また寝坊して」
「だって、昨日は、カーヤの初めてのショーだったから……」
「それで最後まで、観たっての?」
 責められ、いたたまれなくなりながら、小さく頷く。
 女は肩をすくめ、ため息を吐いた。
 幼い少女たちは、内情を知らない。表立っては劇場としているが、目と鼻の先にある娼婦街と、深くつながりのある場所だ。踊り子はみんな、貧しさから抜け出せない。客は店に金を払い、多くが、単に楽しむために訪れている。しかし一方で、見初めた女を買い、ショー終わりに連れて、街へと消えていくこともあった。
 肉体労働者が、一気に増えた地域。特有の問題がいくつもあり、国府はを設けることで、解決を図ったのだ。
 名が挙がったカーヤは、少女と同じ歳だ。
 ステージに立つとは、定められた運命を辿るということ。──彼女の羨望はいずれ、粉々に砕かれるだろう。
「さ、切り替えて。今朝は、二人しかいないんだから。さっさと済ますよ」
 女は急かすように言い、ほうきを渡した。
 ──と、ベルが高い音を鳴らし、表のドアが開いた。
 二人の視線が、自ずとそちらに移る。
 来訪者は、三十歳そこらの男。革靴の重い足音を響かせ、屋内へ入る。ずれた眼鏡を少し上げ、広い中の様子を確認した。
って、見なかったの、お客さん」
 ずいと前に出て、女は指摘した。相手がアルコールの入った、柄の悪い人間ならば、対応は厄介だ。
 しかし男は、彼女たちをちらりと見てから、ふっと笑った。
「ああ、客じゃあない」
「……あら、ならなんの用?」
「髪、染めたのか。フュレ。久しぶりだな」
 放たれた一言に、その場の空気が止まった。
 女──フュレは、表情を強張らせた。
 男の風貌からは、軍人とは分からない。しかし顔と声は、変えようがない。ローガス──当時の公国軍少尉が、そこにいた。
 フュレは、奥の控え室を掃除するよう指示し、少女を下がらせる。酔っ払いの相手より、手強いかもしれないと、次の言葉を待った。
「元気そうで、何よりだ」
 ローガスは椅子を引き、腰を落ち着けた。彼が発したのは、取り留めのないことだ。世間話でもしようというのか。
「あなたも、少尉。……ああ、昇格してますよね?」
「お蔭様で、佐官にな」
「そんな高貴な軍人さんが、何をしに?」
「ちょっと、情報を集めに。人を捜してるのさ」
 互いに探り合うやり取りに、フュレは冷めた眼をした。捜し人が自身ではないことは、既に悟っていたが、話の流れに嫌な予感を抱く。
「ガラハンを出てもう、長いこと経ってますから。あたしに聞いても……」
「特務工だった、少年の行方だ」
 予感は当たるものだ。
 フュレの髪がまだ、長くて赤かった頃。彼女は、北ガラハン公国の工作員だった。
 彼らは特務工と呼ばれ、分隊の一つを率いていた少年が、ジャックスだ。
「あいつとはもう、会ってませんよ」
「少し前に、この近くまで来てたようだぞ」
 微かに、フュレの瞳が揺れる。
 ローガスは、その反応を見逃さない。
「お前に、会いに来たんじゃないのか?」
 偶然だろう、と──フュレは、心の中で言い聞かせた。ジャックスを最後に目にしたのは、彼らが南へ渡る日の前日だ。書庫から見下ろせる、城の裏庭で、闇に紛れた彼の姿を目撃していた。
 人影は他に、もう二人。その一人が、当時の参謀である、ユーレンだ。
 まさか数日後に、彼らの裏切りを報されることになるとは、夢にも思わなかった。当然、ジャックスとユーレンは姿を消し、追われる身となった。深い関わりはなかったが、小隊にいたフュレたちは居場所を失くし、逃げるようにして国を去った。
 思い返すと、むかむかとした感情が湧く。フュレはほうきを持ったまま、腰に手を当てる。
「期待してるようですけど、会ってませんから。……だいたいあいつだって、どんな顔して現れたらいいか、分かんないでしょ」
「割に合わないとは、考えないのか」
「……え?」
「あいつは今や、猟兵の長だ。金も戦力も集めて、やりたい放題やれる」
 ローガスは試すように、薄ら笑いを浮かべる。撒き餌をして、相手がどこまで乗ってくるか、分からない。自身でも、意地の悪いやり方だとは思ったが、これ以上手段は選べない。
「片やお前は、掃き溜めみたいな場所にいる。身を売りながら、日銭を稼ぐ道しかない」
 ──掃き溜め。
 不意に向けられた表現に、フュレは眉をひそめた。
「その頭で考えろ。不公平だと、思わないか?」
 彼女の脳裏に、ジャックスの後ろ姿が、鮮明に呼び起こされる。同時にそこには、彼と密談を交わしていた、二人の人間もいた。
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