影の子より

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 第八章:代償

 一話

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 額から頬へ、顎へと伝う冷たさに、眉がぴくりと震える。ゆっくりと瞼を押し上げると、不自然に下を向いた首が傷んだ。
 灰色の石床に、落ちた水の沁みが点々とある。そこで初めて、前髪や顔に掛かる冷たさは、垂れた水の所為だと気付いた。
 そして次に、においが鼻へ届いた。
 ──煙草のにおい。
「ジャックス……」
 鼻を突くそれを辿り、グレハン少尉は顔を上げた。憎しみに満ちた瞳で相手を見据える。口から出た言葉は、無意識に怒気を含んでいた。
 ローテーブルに腰掛け、食い入るように新聞を読んでいたジャックスは、声に反応して視線を移した。その拍子に煙草から灰が落ち、おっと、と呟いて掌で受けた。散った火で紙面が少し燃え、小さな穴が空く。軽く手ではたいてから、新聞は畳んで卓上に残した。
 グレハン少尉は瞬き一つせず、の動向を睨む。
「落ち着けよ、久しぶりの再会じゃねえか」
 吸い殻を灰皿に押し付け、ジャックスは苦笑いをした。
「昇進したんだってな」
「……お前は、地に堕ちたな」
 二人の間にはもう、八年前までの関係はない。共に公国軍に勤めていた、二人の少年も今では、追う者と追われる者。
 グレハン少尉の皮肉めいた言葉に、ジャックスはわずかに眉を傾けた。
「根に持ってるのか、のこと」
「それだけじゃない。お前に関わって、不幸になった奴は、いくらでもいる」
「そりゃあ、悪かったね。知らなくてよ。なんせオレは、直接手を出しちゃいねえ。あんたの兄貴だって、余計な首突っ込まなけりゃあ、失明の際まで追い込まれるこた、なかったんだろ」
「レヴェニクは、死んだんだぞ。お前の刺した傷が原因で……」
 レヴェニク──当時の、特務工の代表。南ガラハン公国への視察で、共に庭園にいた内の一人だ。ジャックスを捕らえようとして、反撃を喰らい、おそらく致命傷を負ったのだろう。
「……ああ、そんな奴もいたな」
 ジャックスの返答は、無関心そのものだった。
 グレハン少尉は怒りに、全身の毛が逆立つような気がした。起き上がろうと、膝に力を入れる。──しかし、身体が前へ行かない。彼の開いた両腕は、天井から吊るされた鎖につながれ、膝立ちの姿勢で拘束されていた。首にも重い鉄輪が組まれており、鈍い痛みの理由だった。さらに、上から一定の間で落ちる水が、捕虜をじわじわ責めるのだ。
 冷静に辺りを探ると、この空間も重厚な壁で覆われ、まるで拷問部屋だ。
 現状を把握した様子を見て、ジャックスは冷たく笑う。
「どんな気分だ? あんたは結局、オレに指一本触れねえ」
「僕を締め上げたところで、お前の欲しい情報などない。残念だったな」
「ばかだな……今も昔も、一方向からしか見ねえから、いつも外れくじなんだよ」
 情報を吐かせようという気はない。そうしても、有益なものは得られないことは、分かっている。
 ただ、哀れだった。グレハンはまっすぐな性格で、彼のような人間は何が起ころうと、任務を全うするために全てを捧げられる。軍にとっては都合のいい駒だ。少尉格を与えれば、より使命感に燃え、思うように動くと考えたのだろう。
 彼を利用する人間は、軍だけではない。肉親の兄でさえ、その一人だ。
 それを理解しているのかいないのか、グレハンは今も、内なる敵の呪縛から逃れられない。
 深いため息を吐き、ジャックスは意を決したように、部屋の隅へと動いた。そこに放られていた、ビニル製のシーツを手に取る。
「何を……?」
 不審な眼を向けるグレハン少尉を余所に、ジャックスは彼に歩み寄った。
 固定された右腕は、肘から肩に向けて変色が進み、まるで腐りかけている。
 ジャックスはシーツをその腕に巻き、肩付近をチューブで縛り上げた。一時的に血液の流れを止める。
「ヴゴーの劇薬、だな。ペテル・ヴギの連中が広めて、そう呼ばれてる」
「ペテル・ヴギ……」
「打ってから五日ほどで、身体が耐えられなくなる。臓器や脳まで、一気にだめになるらしいが……あんた、いつ打ったんだ? 症状が弱いな」
「なんの話をしている?」
「量が少なかったか、しっかり血管まで刺さらなかったか。……まあ、関係ねえか」
 下準備を終えたジャックスは、グレハン少尉の背後に立て掛けていた、を持ち上げた。視界に入らないよう、隠していたのだ。
 家畜を解体する際に使用する、大型の電動刃を見て、グレハン少尉の顔色が青ざめた。
「嘘だろ」
「言っておくが、オレの趣味じゃねえぞ。仕方なく、だ。オレだって、やりたかねえよ」
「ジャックス──…」
 暴れかけたところで髪を掴み、口内に布を押し込む。そして目隠しのために、麻袋を頭から被せてやる。麻酔はないが、神経を少し鈍らせるために、既に首元に薬は入れている。しかし、恐怖は測り知れないだろう。
 それが分かるだけに、ジャックスは一瞬、躊躇するような表情を露わにした。
 しかし、後戻りはできない。そして時間がない。
 ジャックスの額に、原因の判らない汗が浮かぶ。くぐもった悲鳴を耳にしながら、勢いよく電動刃を稼働させた。
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