影の子より

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 第九章:影の子

 一話

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 風が肌を撫でていく。陽は沈み、既に辺りを暗く染めていた。建物の壁に身を寄せると、強風から逃れられるが、少し離れれば、身体ごと持っていかれそうだ。
 少年は大きく、ゆっくりと空気を吸い込んだ。そして──気を整えるように、静かに吐き出した。
 その様子を見留めた隣の少年が、ふっと笑みを浮かべる。
「寒いのか?」
 サムウェント──通称サム。
「それとも……傷が痛むのか」
 気遣っているわけではない。心の内では多少なりとも、おもしろがっているのだ。
 ジュノーはちらりと目を向けたが、眉を潜めただけで、すぐに視線を遠くへとやった。
 宮医棟で起きた、彼とレオールの衝突は、早く忘れたい記憶の一つだった。痣はすっかり目立たないが、鞭打ちの罰の跡は引いていない。
 小隊長同士の殴り合い。しかも、主たる原因は口にできないため、余計な憶測が広まった。肩がぶつかったことの口論だの、やれ、食事の量に差があっただの──幼い子どもがするような、些細な火種だと予想する者が多かった。
「切り替えろよ。ヘマするぞ」
「……分かっている」
 吹っ切るように息を吐き、ジュノーは立ち上がった。
「どこに行く?」
 サムウェントは、暖を取るために手を擦り合わせ、少し眠そうな目で見上げた。
「エリガーの様子、見てくるだけだ。倒れたんだろう?」
「貧血じゃないか。あいつ一番、怯えていたからな。プレッシャー掛けないようにな」
「ああ……労ってくるよ」
 警備基地に赴いてから、二日目の晩。出動を目前に控えて、影たちも隠し切れない緊張を抱えていた。
 その状況下で、サムウェントは陽気な顔で、片手をひらひらと上げて見送った。


 ──彼のはにかむ顔が、鮮明に蘇る。
 エリガーと、サムウェント。ジュノーと共に任務に就いた、影だった二人。そして、生還することのなかった、第一小隊の少年。
 ジュノーは、グラスに残った水を飲み干した。
「リューイの件は、憶えているか?」
 まるで尋問するかのように、レオールは言葉をぶつけた。
 ジュノーが黙って頷く。
「一つの麻薬の所為で、第三小隊は壊滅した……俺たちは、そう刷り込まれた。事故だってな」
「違ったのか?」
「ああ、違う。少なくとも、、ってところは。リューイたちも、お前らも……試されたんだよ、麻薬が本当に効くのか、な」
「嘘だ」
「いいや、残念だが、全部現実だ。これが真相さ。現にリューイは、中毒症状が出て死んじまっただろ。お前の仲間だって、頭おかしくなって、自爆してんじゃねえか」
 信じたくないわけではない。レオールの話にはつながりがあり、真相だと言われれば、そうなのかもしれない。しかし納得がいかないのは、ジュノー自身がそれを知らないことだ。
 エリガーとは、共に行動していた。不穏な動きがあれば、気付いたはずだ。
 さらに、教会の摘発に乗り込んだ三人の影は、直前になって選ばれた。体調を崩した者や、体力に少し劣る者は、警備基地に残されていた。
 何らかの隙に一人だけ、薬物を打たれたのか。
 それとも全員が打たれ、たまたまエリガーが発症したのか。
 そもそも、薬物によって生じる症状には、どのようなものがあるのか。彼の自爆行為は、それに伴った結果だったのか──
 どの過程にしても、一つ同じことが言える。──ジュノーは、何も知らなかったのだ。
「もし実験が、偉いさんたちにとって失敗なら、証拠も何も残っちゃいねえだろうな」
 レオールの声が、遥か遠くに響いている気がする。
「成功なら……?」
「北への抵抗で、使ってくるんじゃねえの」
 時代は変わっていく。時は止まることなく、流れ続けている。
 その過程で、ガラハンは南北に分かれ、幾度となく争ってきた。その過程で、影と呼ばれた集団は生まれ、そして消えていった。
 その過程で、彼らは生きてきた。
 今──時代は再び、大きく動こうとしている。
「……誰にも止められない」
「俺たちなんかの力じゃ、な。司法でも動かねえ限り、ばかは繰り返す」
「それで?」
「あ?」
「お前はどうする気だ、レオール」
 ジュノーは、話の核心を促した。
 レオールは、酒のボトルを持ち上げかけた手を止め、しばらく口を閉ざした。何かを考え込む素振りを見せたが、やがてそのボトルを、ジュノーのグラスに傾けた。
「ダライムが、水面下で働き掛けてるが……証拠がねえんだと」
「どこにだ」
「さっき言ったろ、司法にさ。南ガラハンには、俺だって長く世話になったが、もうだめだ。あそこまで腐ってりゃあ、国が建て直すのは無理だろ」
 一部の国民の暴動なら、国府の力で鎮圧できる。しかし中枢が堕ちてしまえば、あとはずるずると、悪くなっていくばかりだ。
「だから俺は、南に戻る。……くそ、本当は胸糞悪いけどな」
「頼まれたって、嫌だったんじゃないのか」
「嫌だよ、決まってんだろ。だが、それ一つじゃねえよ」
 ジュノーの前に注がれた酒は、灯りに揺れ、きれいな紋様を浮かべている。アルコールは好まないが、不思議と、そのにおいに不快感は抱かなかった。
「……真実が知りてえんだ。テオだって、知ってたはずだろ? 俺たちをから、利用してたのか。それともテオも、利用された不運な奴なのか」
「テオ……」
 かつては、彼らに救いの手を差し伸べた男。そして、影という少年兵団を導いた男。
 二人にとって、彼は恩人であり、疑念を拭い去れない相手だった。
「お前が、国境での件についてとぼけるなら、話す気はなかった」
「……手を貸せ、と言っているのか?」
「違う。お前はこのまま、ノーディスに還れ」
「え?」
 ジュノーは思わず問い返す。
「奇襲を仕掛けたのは俺じゃねえが、あいつらを敵に回す覚悟はねえ。お前だって、ここからは国にも猟兵にも、追われる身になるんだぞ。それに……」
 レオールは椅子の背にもたれ、脚を組み直した。
「どうもあいつら、北軍とやり合うつもりだ。南と北と、ノーディス……三つ巴にうまく乗れば、動きやすくなる」
 ジュノーはグラスに指を掛け、黙り込んだ。拠点に還る気はないが、寄りたい場所があった。大きな衝突が起こりうるのなら──これ以上関わることはやめ、隠れて暮らす選択肢も考えている。守らなければならないのは、自分独りだけではない。
 彼の様子に、レオールは穏やかな表情を向けた。
「夜明けまでに、腹くくれよ。朝一で商人を呼んで、馬は売る。金は半分くれてやるから、そこで終わりだ。二度目の再会はなしだぜ」
「……ああ」
 レオールはボトルを空にすると、席を立った。床にコートを敷き、簡単な寝床を整える。寝心地は悪そうだが、一晩を屋根の下で明かせることは、彼らにとっては幸運だ。
 その後ろでジュノーは、グラスに口を付けた。
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