影の子より

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 第九章:影の子

 三話

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 ──いつの間にか、眠りに堕ちていたようだ。机に伏した体勢では疲れが取れず、身体を起こすと首が痛んだ。
「フュレ」
 ドアを一枚挟んで、ノックの音と名を呼ぶ声がした。
 眠気は覚め、フュレは椅子から立ち上がる。
 控え室を訪れたのは、化粧直しを終えた踊り子だった。歳が近く、よく世間話もする関係だ。彼女の手には、パンケーキの乗った皿があり、わざわざ届けに来たようだった。
「これ、クランザさんから。あんたと……それから、にもやって」
「ありがと」
「……静かね。もしかして、寝ちゃった?」
 部屋の隅へと目をやり、フュレは頷く。
 今は匿っている状態だが、はそれを嫌がった。散々抵抗し、ようやく落ち着いたのだ。目の前で仲間を襲撃され、乱心するのは理解できるのだが。
「そ、よかった。あんたも、無理しないようにね」
 踊り子は微笑み、控え室を離れた。
 直後──狭い廊下で、小さな悲鳴が上がった。
「ちょっとッ……あんた、誰よ──…」
 ホールより奥は、関係者しか立ち入ることができない。酔った客が入り込むことは、たまにあったが、その度に警備員や店員が追い返す。
 フュレは、パンケーキの皿を机に置き、ドアから二歩出た。そして──来訪者を見た。
 八年ぶりの再会。
 一目で分かる、懐かしい佇まいだった。
「お前が、邪魔なんだよ」
 乱暴な物言いとともに、ジャックスは踊り子の手首を掴み、ホールの方へ押し出す。
 後方にはイェリが続いており、彼はよろめく踊り子を避けた。
「ごめん、あたしが呼んだの。後で、埋め合わせはするから」
 フュレの言葉に、彼女は訝しげな表情を浮かべたが、それ以上の追及はなかった。代わりに、男二人に中指を立て、次の自分の出番へと向かった。
 小さな嵐が去り、ジャックスは、ずかずかと控え室に踏み入る。
「……久しぶり」
 フュレはしばらく言葉を選び、小さくそう口にした。二人を招き入れ、後ろ手にドアを閉める。
 互いに歳を重ね、大人らしい顔つきになったと感じた。自然と視線がぶつかり、どちらともなく逸らす。それは、長い年月で生じた気まずさからだけではなく、後味の悪い別れをしたことも理由だ。
 当時の北ガラハンでは、ジャックスやユーレン、ノーディスとの関わりがあった人間は、当然だが裏切り者とされた。彼らの正体に気付かなかったことは仕方がないが、逃亡を許した関係者は、責任を追及されたほどだ。軍内部がその後、どれだけ統制が乱れ、どれほどの人間が影響を受けたか、彼は知らないだろう。
 しかしそれは、彼らしいといえば、そうだ。ジャックスは誰も信用しない。自身を信じ、それ以外を気にしない。特務工に選ばれる以前から──おそらくは、北国に暮らすようになる以前から。
 不公平だと、思わないか──ローガス少佐が放った言葉が、フュレの耳に残っていた。
「変わらねえな」
 机の端に腰を掛け、ジャックスは言った。
「……あたし?」
「ああ」
「嘘。髪、染めたでしょ。背だって伸びたわ。それに……」
「そうじゃねえよ」
 半ば呆れたような声で、続く話を遮った。
 腕を開き、自らの変容を伝えようとしたフュレは、大人しく口を閉じる。
、ってんの? 中途半端に首、突っ込みやがって。ガキ匿って、こそこそオレらに連絡寄こして、お前にはなんにもならねえだろ」
 思わぬ指摘に、表情が険しくなる。
 控え室の隅には、ハサイが丸くなって寝ていた。ローガス少佐の部隊に追われ、捕らえられるはずだった、ノーディスの少年だ。
 ケウレスでの一件の後──命じられ捜索に当たったフュレは、彼らが非常時に備えていた、ボートを見付けていた。そしてすぐ側で身を隠し、現れた少年を気絶させた。北軍へ引き渡すか、逃すか──悩んだ末に、後者を選んだのだ。代わりにボートの底には、預かった旨のメモを残し、乗組員のいないままエンジンを掛けた。
 予期した通り、空のボートは軍に細かく調べられることなく、対岸へと着いた。
 少年と共にいた女は、銃撃に倒れ、連行されていった。それが北ガラハンの元参謀であることは、記憶を辿って分かった。彼女なら、捕虜としてどう行動すべきか、理解しているはずだ。
 比べて、少年は──そう考え、フュレは彼を救おうとした。お人好し、と表される謂れはない。
「そうね、あたしが勝手にしたことだもの。……じゃあここで、少佐に言われた通り、ハサイこの子を仕留めたって、仕方がないわよね。あたしの勝手だもの」
「ああ」
 驚くことに、ジャックスは笑った。
「やれよ。止めねえよ」
「薄情者、仲間でしょ?」
「オレは、ガキは大っ嫌いだ」
 フュレは呆気に取られ、肩の力を抜く。返答がそう来るとは、予想していなかった。
「……あんたも、ガキだったじゃん」
「ああ、ガキだったさ、昔はな。だからオレは、ガキだったオレも嫌いだ」
 迷いなく言い切る様に、次の言葉が見付からない。フュレは息を吐き、壁にもたれかかった。ジャックスには敵わないのだ、今も昔も。幾度も衝突し、その度に思い知らされた。だからこそ、許せなかったのかもしれない。しかし意外にも、湧きかけた怒りはすっと消えていった。
 ジャックスは、ふっと微笑んで首を傾けた。
「お前さ、靴職人の倅と、幸せにやってんだろ? あ、見習いだっけ」
「調べたの? ……もう見習いじゃないわ、この店に卸してんの。踊り子用にね」
「いいんじゃねえの。お前に合ってるよ、今の暮らしの方が」
「嫌味な奴ね」
 フュレがこの町に移り住んで、もう長く経つ。豊かではないが、この生活は性に合う。何より、愛する相手と共にいられることは、確かに幸せだった。──それは彼女自身も、分かっていた。
「お前と、昔の話をするつもりはねえよ。オレはオレで生きてる。だから……」
 ジャックスは机を離れ、ずっと会話を見守っていた、イェリに合図を送った。
 イェリはハサイを揺り動かし、起こした。
「もう関わんな、北の連中にも。これっきりだ」
 まっすぐに向けられた、八年越しの別れの言葉。
 今回も、別れの握手もハグもなかった。おそらくもう二度と、会うことはない。
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