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序
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──チリン、チリリン
朧月夜の中、朱雀大路を黒猫が横切る。
ゆったりと気儘に。
猫という生き物は何者に懐く事もなく、ただ気まぐれに主人を決める。
──安倍晴明
この男もまた、猫のようであった。
主人に特別な執着がある訳ではなく、己の気の向く儘に仕えた。
彼は幼い頃から妖が見えたという。
そんな時、彼は指を唇に当てた。
妖に気付かれぬように。
その癖は今でも変わらない。
変わったのはそれが呪を唱える時だと言う事だった。
唇に指を二本揃えて当て、吐息のようにただ一言、呪を唱える。
ともすれば見逃してしまいそうな程静かに。
この時代、独特な風習がいくつもあった。
その内の一つが庚申の夜といった。
その日に眠ると、体内の三尸と言う蟲がその人の罪を天に伝え、命が縮まるとされていた。
だからその夜は、皆眠らない。
晴明もまた、例外ではなかった。
「お出かけですか?」
緩やかに袍を纏う主人を見て、下女が尋ねた。
「あぁ、ここにいてぼうっとしていても暇だからな。
ちょっとからかいに行ってくる」
軽く笑みを浮かべ、軽やかに階を下った。
「あ、御車は」
「そんなのいるものか」
耳を澄ましながら内裏に向かい、歩くとあちらこちらから和琴や笙の音が聞こえた。
もう日付もとうに変わり、普段ならば静まり返っているはずなのに。
──チリン
近くで音がし、元をたぐると小さな黒猫がいた。
体の割に顔つきは大人びていて、両の眼は片方が銀、もう一つは紅に煌めいていた。
毛並みは濡れたように艶やかで、首には赤い紐で鈴がくくり付けられていた。
「お前、飼い猫か。
……おいで」
舌を軽く鳴らし、手招きすると、猫はゆったりとした足取りで晴明の手に触れた。
その瞬間、瞳が妖しくゆらめいた。
「……ふぅん、今宵は不思議なものに出会うものだな。
お前、いくつ御世を渡り歩いてきた?」
返事の代わりにリン、と鈴が鳴った。
そのまま猫はピタリと肩にすりより離れなかったが、晴明は気にする事なくまた歩を進め始めた。
だがさすがに内裏に猫は持ち込めない。
晴明はふ、と猫に息を吹きかけ、そのまま門をくぐった。
内裏は暇を持て余した公卿で溢れており、皆眠りに落ちないように必死に言葉を紡いでいた。
その中でも一際明るく、若い声がする部屋に晴明は顔を出した。
「おう、皆いるのか?
お前ら揃って暇人だな」
そう言ったあと、晴明は場にいるある男に目を止めて軽く舌を鳴らした。
「何だ、お前と兼家の二人だけか」
「来てちゃ悪いのか?」
酷く不機嫌そうに男が睨み返す。
この男の名は、
ーー賀茂光栄
晴明の師、賀茂保憲の息子で、同じく陰陽師である。
光栄はふと、晴明の肩に留まる猫に目を止めたが、もう一人は猫には気付かない。
光栄の唇が何か言いかけてやめ、代わりに薄く笑みを浮かべそれに晴明も笑いで返した。
「晴明、良いところに来たな。
俺達暇してたのだ。
何か一つ、術でも見せてくれ」
「そんなもの、そこにいる光栄に頼めば良いだろう?」
「アイツは頼んだって見せてくれぬ」
「もう見てるじゃねぇか」
光栄の笑いに応えるように、猫が一啼きした。
辺りを見回し、兼家は首を傾げるが猫を探し出せない。
「……何だ?
どこもおかしな所などないではないか」
まだしきりに辺りを見渡す兼家を見て、晴明は笑い出してしまった。
「ハハハッ、お前は余程鈍いんだな。
良いぞ、一つ簡単なものを見せてやるよ」
少し腑に落ちない顔を見せたが、兼家は目を輝かせた。
「どんなものだ?」
「まぁ、見てろ」
晴明は庭に降り、蟇を捕まえてきた。
掌に余る程の大きな蟇が低い唸りを上げて啼いている。
「……何だ?
蟇をどうすると言うのだ?
何て事はない、ただの蟇ではないか」
訝しげに蟇をつつくとゲコッ、と蟇が兼家の指先に食い付き、慌てて手を引っ込めた。
「こうするんだ」
晴明は小さな葉を口に当て、唇を微かに動かした。
葉はふ、と吹かれるとひらひらと蟇の頭上に舞い落ち、触れた瞬間、弾ける音がした。
音と共に姿を消した蟇に、兼家は驚き、腰を抜かしそうになっていた。
「……晴明ッ!
いくら蟇とは言え、俺は無益な殺生を頼んだ訳ではないぞ……?」
クックッと晴明は笑いを堪えている。
「なっ……何がおかしいのだ?」
「よく見ろ。
俺は蟇を殺した訳ではない」
その言葉に床の上をもう一度見た兼家は安堵の息をもらした。
そこには、小さな蝌蚪(おたまじゃくし)がもがき、跳ね回っていた。
「蝌蚪はここでは生きられんな。
兼家、池に返してきてくれ」
「……お、おう」
跳ね回る蝌蚪を手で掬い、兼家は裸足で庭に降りた。
光栄は腹を抱え笑い転げている。
「兼家の顔ったらないな!
あいつは実にからかいがいのある男だ」
「まだもう一つ残ってるだろ?
今宵は大盤振る舞いだ」
晴明は肩から猫を降ろし、顎を撫でた。
喉を鳴らす音が響く。
「晴明、戻してきたぞ。
ところであの蝌蚪はまた蟇に成長するのか?」
「するさ。
蝌蚪が蟇になるのは当たり前の事だろう」
ふむ、と兼家が顎を撫で、何かを考えた。
「……兼家、お前良からぬ事を考えているだろう?
そんな事を考えていると罰が下るぞ」
言い終わらない内に、兼家の烏帽子は遠く飛ばされ、髻がほどけた。
ばらりと髪が落ちるのを、兼家は蟇のように顔をひきつらせて見た。
顔は青ざめ、体は震えている。
「せせせっ……晴明、
これは……!?
これは何の怨霊なのだッ……!?」
兼家は慌てふためき、必死に手が空を切るが、尚も髪はふり乱れ、頬には赤く筋が浮かんできた。
光栄は再び転げ回り、晴明は袂で口許を覆い、笑いを噛み殺している。
その内兼家が目にうっすらと涙をため、請うてきた。
さすがにからかい過ぎたか、と晴明は苦笑し、息を兼家に向けて吹いた。
「もうその辺にしておけ」
声とともにザラリとした感触が頬を撫でた。
「……猫……か?
こんなもの、いままでどこにいたのだ……?」
さっきまでうっすらと浮かんでいた涙は身を潜め、呆気にとられたように兼家が呟いた。
「お前の側にずっといたさ。
それよりも早く髻を直せ、見てるこちらがが恥ずかしい」
フフ、と笑われて兼家は初めてはめられた事に気付き、今度は顔を赤く染め猫を睨んだ。
猫はどこ吹く風と兼家の袍で爪を研いでいた。
「お前の暇つぶしに付き合ってやったんだよ。
楽しかったろう?」
「お前らはな。
俺はちっとも楽しくない!」
髪を撫で付け、兼家は鼻息を荒くしながら口を尖らせふと視界に己にすりよる猫の姿を見た。
先程まで全く無関心だったのに機嫌をとるような姿の
猫をじっと見た後、兼家は猫を抱き上げ、鼻を寄せて笑った。
「お前はとんだ悪戯猫だな?」
怒っていたかと思えば、もう笑っている。
この純朴な青年の名は、
──藤原兼家
家柄は良いが、特に目立つ事もなく、お人好し。
後に自分や息子が廟堂を一握する事になるなど、本人も気付いてはいなかった。
朧月夜の中、朱雀大路を黒猫が横切る。
ゆったりと気儘に。
猫という生き物は何者に懐く事もなく、ただ気まぐれに主人を決める。
──安倍晴明
この男もまた、猫のようであった。
主人に特別な執着がある訳ではなく、己の気の向く儘に仕えた。
彼は幼い頃から妖が見えたという。
そんな時、彼は指を唇に当てた。
妖に気付かれぬように。
その癖は今でも変わらない。
変わったのはそれが呪を唱える時だと言う事だった。
唇に指を二本揃えて当て、吐息のようにただ一言、呪を唱える。
ともすれば見逃してしまいそうな程静かに。
この時代、独特な風習がいくつもあった。
その内の一つが庚申の夜といった。
その日に眠ると、体内の三尸と言う蟲がその人の罪を天に伝え、命が縮まるとされていた。
だからその夜は、皆眠らない。
晴明もまた、例外ではなかった。
「お出かけですか?」
緩やかに袍を纏う主人を見て、下女が尋ねた。
「あぁ、ここにいてぼうっとしていても暇だからな。
ちょっとからかいに行ってくる」
軽く笑みを浮かべ、軽やかに階を下った。
「あ、御車は」
「そんなのいるものか」
耳を澄ましながら内裏に向かい、歩くとあちらこちらから和琴や笙の音が聞こえた。
もう日付もとうに変わり、普段ならば静まり返っているはずなのに。
──チリン
近くで音がし、元をたぐると小さな黒猫がいた。
体の割に顔つきは大人びていて、両の眼は片方が銀、もう一つは紅に煌めいていた。
毛並みは濡れたように艶やかで、首には赤い紐で鈴がくくり付けられていた。
「お前、飼い猫か。
……おいで」
舌を軽く鳴らし、手招きすると、猫はゆったりとした足取りで晴明の手に触れた。
その瞬間、瞳が妖しくゆらめいた。
「……ふぅん、今宵は不思議なものに出会うものだな。
お前、いくつ御世を渡り歩いてきた?」
返事の代わりにリン、と鈴が鳴った。
そのまま猫はピタリと肩にすりより離れなかったが、晴明は気にする事なくまた歩を進め始めた。
だがさすがに内裏に猫は持ち込めない。
晴明はふ、と猫に息を吹きかけ、そのまま門をくぐった。
内裏は暇を持て余した公卿で溢れており、皆眠りに落ちないように必死に言葉を紡いでいた。
その中でも一際明るく、若い声がする部屋に晴明は顔を出した。
「おう、皆いるのか?
お前ら揃って暇人だな」
そう言ったあと、晴明は場にいるある男に目を止めて軽く舌を鳴らした。
「何だ、お前と兼家の二人だけか」
「来てちゃ悪いのか?」
酷く不機嫌そうに男が睨み返す。
この男の名は、
ーー賀茂光栄
晴明の師、賀茂保憲の息子で、同じく陰陽師である。
光栄はふと、晴明の肩に留まる猫に目を止めたが、もう一人は猫には気付かない。
光栄の唇が何か言いかけてやめ、代わりに薄く笑みを浮かべそれに晴明も笑いで返した。
「晴明、良いところに来たな。
俺達暇してたのだ。
何か一つ、術でも見せてくれ」
「そんなもの、そこにいる光栄に頼めば良いだろう?」
「アイツは頼んだって見せてくれぬ」
「もう見てるじゃねぇか」
光栄の笑いに応えるように、猫が一啼きした。
辺りを見回し、兼家は首を傾げるが猫を探し出せない。
「……何だ?
どこもおかしな所などないではないか」
まだしきりに辺りを見渡す兼家を見て、晴明は笑い出してしまった。
「ハハハッ、お前は余程鈍いんだな。
良いぞ、一つ簡単なものを見せてやるよ」
少し腑に落ちない顔を見せたが、兼家は目を輝かせた。
「どんなものだ?」
「まぁ、見てろ」
晴明は庭に降り、蟇を捕まえてきた。
掌に余る程の大きな蟇が低い唸りを上げて啼いている。
「……何だ?
蟇をどうすると言うのだ?
何て事はない、ただの蟇ではないか」
訝しげに蟇をつつくとゲコッ、と蟇が兼家の指先に食い付き、慌てて手を引っ込めた。
「こうするんだ」
晴明は小さな葉を口に当て、唇を微かに動かした。
葉はふ、と吹かれるとひらひらと蟇の頭上に舞い落ち、触れた瞬間、弾ける音がした。
音と共に姿を消した蟇に、兼家は驚き、腰を抜かしそうになっていた。
「……晴明ッ!
いくら蟇とは言え、俺は無益な殺生を頼んだ訳ではないぞ……?」
クックッと晴明は笑いを堪えている。
「なっ……何がおかしいのだ?」
「よく見ろ。
俺は蟇を殺した訳ではない」
その言葉に床の上をもう一度見た兼家は安堵の息をもらした。
そこには、小さな蝌蚪(おたまじゃくし)がもがき、跳ね回っていた。
「蝌蚪はここでは生きられんな。
兼家、池に返してきてくれ」
「……お、おう」
跳ね回る蝌蚪を手で掬い、兼家は裸足で庭に降りた。
光栄は腹を抱え笑い転げている。
「兼家の顔ったらないな!
あいつは実にからかいがいのある男だ」
「まだもう一つ残ってるだろ?
今宵は大盤振る舞いだ」
晴明は肩から猫を降ろし、顎を撫でた。
喉を鳴らす音が響く。
「晴明、戻してきたぞ。
ところであの蝌蚪はまた蟇に成長するのか?」
「するさ。
蝌蚪が蟇になるのは当たり前の事だろう」
ふむ、と兼家が顎を撫で、何かを考えた。
「……兼家、お前良からぬ事を考えているだろう?
そんな事を考えていると罰が下るぞ」
言い終わらない内に、兼家の烏帽子は遠く飛ばされ、髻がほどけた。
ばらりと髪が落ちるのを、兼家は蟇のように顔をひきつらせて見た。
顔は青ざめ、体は震えている。
「せせせっ……晴明、
これは……!?
これは何の怨霊なのだッ……!?」
兼家は慌てふためき、必死に手が空を切るが、尚も髪はふり乱れ、頬には赤く筋が浮かんできた。
光栄は再び転げ回り、晴明は袂で口許を覆い、笑いを噛み殺している。
その内兼家が目にうっすらと涙をため、請うてきた。
さすがにからかい過ぎたか、と晴明は苦笑し、息を兼家に向けて吹いた。
「もうその辺にしておけ」
声とともにザラリとした感触が頬を撫でた。
「……猫……か?
こんなもの、いままでどこにいたのだ……?」
さっきまでうっすらと浮かんでいた涙は身を潜め、呆気にとられたように兼家が呟いた。
「お前の側にずっといたさ。
それよりも早く髻を直せ、見てるこちらがが恥ずかしい」
フフ、と笑われて兼家は初めてはめられた事に気付き、今度は顔を赤く染め猫を睨んだ。
猫はどこ吹く風と兼家の袍で爪を研いでいた。
「お前の暇つぶしに付き合ってやったんだよ。
楽しかったろう?」
「お前らはな。
俺はちっとも楽しくない!」
髪を撫で付け、兼家は鼻息を荒くしながら口を尖らせふと視界に己にすりよる猫の姿を見た。
先程まで全く無関心だったのに機嫌をとるような姿の
猫をじっと見た後、兼家は猫を抱き上げ、鼻を寄せて笑った。
「お前はとんだ悪戯猫だな?」
怒っていたかと思えば、もう笑っている。
この純朴な青年の名は、
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家柄は良いが、特に目立つ事もなく、お人好し。
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