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狐の子
しおりを挟む夢を見た。
遠い、忘れかけていた記憶。
そう、あれはうだるように熱い夏の日の事だった。
──ジージジ……ジ……
油蝉が残り僅かな命を惜しむかのように啼いていた。
ひとつの命もまた、弱り今にも尽きようとしていた。
右京の外れ、とても家とは呼べないあばら家に彼はいた。
辺りの者は皆そこを避けて通る。
「母上……水を……」
欠けた薄汚い椀に川から汲んできた水を注ぎ入れ、母の細くて白い手に渡す。
差し出す晴明の腕は泥で汚れ、着物も垢染みていて、すりきれていた。
それだけでも人は嫌煙するものだが、彼にはもう一つ、人が寄り付かぬ訳があった。
それは彼の容貌。
白銀色の右目に、同色の髪。
彼は前髪を長く垂らし、いつも俯き、黙っていた。
それがまた異様さを増していた。
「……晴明、ごめんなさいね」
「なぜ謝るのです?
早うお水を……」
母は碗の水を一口含み、喉を鳴らした。
「私が死んだら父君を頼るのですよ。
きっと……手を差し伸べて下さいます」
「……そんな事あるわけないじゃないですか。
父上は一度だって会いに来てくれた事がないんですから」
母は、はらりと目にかかる銀髪を横に流すようにすき、晴明の瞳を覗いた。
「大丈夫です。
あの人は迎えに来て下さると言ったわ。
少し支度に手間取っているだけよ」
ふわりと力なく微笑む。
母の髪と瞳もまた白銀であった。
「……人間は信じられない」
絞り出すような侮蔑の声。
彼の脳裏に人々の異形を見る目や、さがない声が繰り返す。
「……あなたの父君の保名様はね、私の事を妖孤だと知っても変わらず愛してくださったの。
人間の中にもそう言う方はいらっしゃるのよ」
まるで童のような純粋さで母は言う。
怒鳴り付けてやりたかった。
じゃあなぜ一度も来ない?
使いすら寄越さず、訪ねた時ですら門の中にさえ入れなかったじゃないか!!
晴明はぐっと唇を噛み締め、溢れそうになる言葉を堪えた。
長い間、人の世に順応しようと妖力を使い果たしてしまった母には言えない。
「……晴明、私の可愛い子」
母は晴明の胸に手を当て、ゆるりと目を閉じた。
温かな白銀の光が灯る。
光は体内に吸い込まれて消えた。
母はそれきり動かなくなり、さらりと風に吹かれて消えた。
それから晴明はあてもなく、京の町を歩き続けた。
父の屋敷の前を通りすがったが、やはり門前で追い払われてしまった。
まるで畜生を払うかのように。
父にとって俺は子ではないのだ。
それどころか、人としてすら認めてもらえない。
晴明の心にどす黒い靄がかかり始めた。
次第に靄は濃くなり、全てを飲み込んでいく。
晴明は門番に見つからぬよう身を潜め、呟き続けた。
呪というにはあまりに拙い言葉を。
母の思いに気付いて欲しい、ただその一念で。
毎日、毎晩、その拙い言葉は続いた。
時折、誰にも聞こえぬよう呟いているのに、ひょっこりと辻の角から影が覗いた。
その影は人ならざるもの。
ある時は足の生えた角盥(つのだらい)、またある時は顔の大きさ程の男だったりした。
そんな時、いつも晴明は口から言葉がもれぬよう指で押さえた。
そうすると、不思議と異形のもの達は晴明に気付かず、辺りを見渡しながら目の前を通りすぎていく。
どうしてなのかは彼にもわからなかった。
ある夜、いつものように塀越しに呟いていると、中から声がした。
「そこで何してる」
良く通る声。
急ぎ逃げたが、腕を掴まれてしまった。
残暑が絡み付く中、冷や汗が出る。
ゆっくりと目を上げると男が笑っていた。
ぞくりとした。
顔は笑っているのに、目に生気がない。
手は氷のように冷たかった。
「まさか童だとはなぁ。
坊主、どこで術を習った?」
今手を掴んでいる男と全く同じ容貌の、袍を着崩した男が門から沓を引き摺りながら姿を現した。
視線を門から出てきた男に移すと、ひらりと人形の紙が晴明の鼻を掠め、掴んでいた男が消えた。
驚きのあまり、晴明は逃げる事も忘れ、立ち尽くしていた。
「……おい?
質問には答えるものだろ?」
言葉は乱暴だが温かい瞳。
「……術なんて知らない」
「……ふぅん、知らずにね……。
だがもう辞めとけ。
保名になんの怨みがあるか知らないが、お前が命を落とす事になる」
男はしゃがみこみ、真っ直ぐに白銀の瞳を覗いた。
「……保名は今死にかけてる。
お前の言葉でな。
友人としてこのまま見逃す訳にはいかないんだ。
……わかるな?」
初めて聞かされた父、保名に起きている事に戸惑いながらもコクリと頷いた。
「……でもあんな奴、生きてる価値なんてない」
「……だからと言ってむやみに命を奪うなど傲慢に過ぎない。
命はいずれ尽きるものなのだから流れに任せるべきだ」
「あんたは陰陽師だろ?
陰陽師は呪詛をかけ、人を殺すためにいるはずだ。
何のためにいるんだよ」
「そうだなぁ……。
星を占い、暦を見て、人に安心を与える。
ただそれだけだな」
男は柔らかに笑う。
癖の強い髪で月光が留まり、遊んでいた。
殺伐とした京であまりにも不似合いな穏やかな空気感。
「……随分ちっぽけなんだな」
「人間の力なんてそんなものだ。
たまにお前みたいに力を持った者が生まれる事もあるが。
力を呪詛に使うなんてくだらない事だとは思わないか。
楽しく生きるために使えよ」
「俺には力なんてない。
あったとしても人間のために力をつかうなんてまっぴらだ」
心地良い手を振り払う。
少しの、心の痛み。
「人のために使えなんて言ってないだろう?
お前のために使え。
異形のものにも人生を謳歌する権利はある」
ハハッと笑ったあと、男は静かに言った。
「お前が呪をかけずとも、保名はじきに天命を迎える。
放っておけ」
さっき友と言っていたはずなのに。
なんの悲しみもない平坦な言葉。
「変わったおっさんだな」
「良く言われる。
これでも二十過ぎなんだがな。
この変人に免じて保名を許してやってくれ。
どうせ死に行く者だ」
晴明は答えず、走って辻を抜けた。
走っている間、男の笑みが焼き付いて離れなかった。
母以外で初めて微笑みかけてくれた人。
晴明はそれから父の屋敷に近付く事はなかった。
晴明は一人、考えていた。
俺に力があるんだろうか。
ただひたすらに父へ母の無念を、苦痛を囁いていただけなのに。
殺そうと念じた訳ではない。
伝えたかっただけ。
ぼんやりと手を胸に当てる。
母の光が入ってきたあの時、俺の言葉は別の意味を持ったのだろうか?
男の言葉を反芻する。
どうやって人生を謳歌をしろと言うのか。
人々は俺を忌み嫌う。
ほら、またやって来た。
大人も童もいっしょくたになって、異物を排除しようとするんだ。
……なぁ、どうやって?
晴明は痛みに堪え、美しい銀を赤く染めながら男に尋ねた。
男がいるわけもないのに。
「おい、坊主。
大丈夫か?」
……こんな偶然、あるんだろうか。
血で固まる髪越しに天を仰ぐと、あの晩に見た柔らかな笑顔がそこにはあった。
「お前、とことん腐った人生だな」
「……俺じゃない、世の中だ」
口内に溜まった塊をぬかるんだ地面に吐き出した。
「気の持ちようで腐ったもんも良く見えてくるさ」
男は小さな晴明の体を抱き抱え、血に濡れたその顔を袖で拭い、瞳を覗き込んだ。
「綺麗な色だ。
皆、あまりにも美しすぎて僻んでいるんだな」
この男、やっぱり変わってる。
男がゆるりと笑うと、今まで負の感情をむき出しにしていた人間が急に恥じたようにひれ伏した。
男は晴明を屋敷に連れ帰った。
不思議と、逃げ出そうとは思わなかった。
むしろ、ずっといたかった。
例えるなら日だまり。
晴明はひなたぼっこをする猫かのように、いついてしまった。
屋敷の主人は、
─賀茂保憲
保憲はいつも晴明に言った。
「流れに逆らっちゃいけない。
お前は流れを変える力があるが、歪めてしまったら、そこから世界が滅びてしまう」
「じゃあ、力があっても何の意味もないじゃないか」
晴明は保憲に教えてもらったように人形に命を吹き込みながら、ムスッとして答えた。
人形はみるみる形を変えていき、白鷺になって飛んでいった。
晴明の小さな掌から次々と百舌鳥(もず)や鶫(つぐみ)、季節を無視した様々な鳥が羽ばたいていく。
「それで良いんだ。
自分や皆が楽しく暮らせれば」
保憲がニッと笑う。
「ふぅん……。そんなものか」
つくづく変わった人間だ。
最後の一枚を吹き、晴明は口角を引き上げた。
「……これは……」
全く同じ容貌の人形が保憲の前で恭しく一礼する。
保憲が首を傾げれば人形もまた首を傾げる。
無精髭の一つまで一緒だった。
息遣いや鼓動まで感じるほど生々しい。
それは、保憲が作り出したものよりも精巧だった。
普通の人間なら気味悪がるが、保憲は違った。
「本人でも見分けがつかん。
これで俺はもう働かなくてすむな!
明日からコイツに内裏に言ってもらうとしよう。」
本当に嬉しそうに。
嘘一つない真の言葉だった。
保憲の前で晴明は人間でいられた。
そうしていつしか狐の子という事を忘れていった。
保憲の笑い声が遠ざかり、目が覚めた。
燭台の火が消え入りそうな程小さく、瞬いている。
「今さら何でこんな夢を……」
兼家にとり憑いた女のせいか……?
最近、兼家の周りの公卿も魅入られ始めていて、誰も意見するものがいなくなっていた。
なぁ、これもアンタの言う流れの一つなのか?
……俺はただ、傍観するだけしか出来ないのか?
楽しませてやる事も出来ないのに、何のために力はあるのだろうか。
友一人救ってやれないこんな力。
晴明は人形を吹いた。
保憲の形をしたそれは、ただ微笑むばかりで何も答えなかった。
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