彼の呪は密やかに紡がれる

ちよこ

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晴明は一人、不機嫌そうに脇息にもたれ掛かり、紫陽花に降りそぼる雨を眺めていた。
その不機嫌の原因が二つ、騒がしい足音をたて、こちらにやって来る。
言い合う声と共に。


「お前右大臣だろ?
こんなあばら屋で道草くってんなよ!」

「うるさい、友に会いに来て何が悪い!
俺はこう、日々の鬱積をだな……」

「はぁ?
何女みたいな事言ってんだよ、早く帰れ!!」


兼家に振り向いた瞬間几帳の足に引っかかり、道満が転け、手に持っていた器が中身をこぼしながら晴明の方へ転がってきた。


「……お前ら何してんだ?
ん? 言ってみろよ」

「……茶、持って来たんだよ」


床に転けたまま下から晴明を見る。



「ふむ……茶ねぇ」



晴明は笑顔で道満の頭目掛けて力の限り器を投げた。


「いってー!!死ぬ!絶対死ぬ!!」

「死ね。
むしろ死ね。
死なずともせめて国に帰れ」

「大見得きって出てきたから帰れねぇし!」

「じゃあ茶ぐらい中身をちゃんと入れて持ってこい。
まだ式の方が役に立つ」

「晴明、そんな甘い事を言ってたらこういう輩はつけあがって家に居座るぞ?」


フフンと優越感を滲ませながら兼家が言った。


「そうだな」


晴明がそう言うと兼家は得意気な顔で道満を追い払おうとした。
その兼家をいつの間にか現れた朱雀が更に追い払う。


「何だ晴明ッ!
式神が対象を間違えてるぞ!?」


兼家がグイグイ押されながらも必死に抵抗し叫んだ。


「いいや、間違ってない。
お前も帰れ」

「嫌だっ!
俺はそなたに用事があるんだ!」

「……用事?」


晴明はフ、と息を吹き、朱雀を消した。


「おう!
ただ愚痴を言いに来ただけではない」

「……道満、茶を淹れ直してこい」

「……わかったよ」


床に落ちている器を拾い、道満は部屋を出ていった。
その後ろ姿を見て兼家は呆れたように笑う。


「すっかり居付いてしまったな」

「どうやら家はいろんなものが居着きやすいらしいな。
で、用事とはなんだ?
お前の事だからまたろくでもない事なんだろうが」

「おお、そうだ。
帝が頭が痛いと申されてな。
朝はそうでもなかったらしいのだが、段々痛みが強くなっているらしい。
妖の類いか?」

「頭が……?」

「まぁしょっちゅうあのお方は頭が痛い、胸が苦しいと嘘ぶいているからな。
今回もまたそうかもしれんが」

「だと良いがな」


晴明は袍を翻し、急ぎ車を呼び寄せた。


「しかし今日は蒸すなぁ。
疫病が流行る季節だ」

「そうだな。
お前らが儲かる時期だ」

「言うな、儲からん方が良い」

「京の陰陽師でそんな事を言うのはお前くらいだな」


二人笑い合う間に内裏に着いた。
晴明らが降りると、車は音もなくどこかへと消えた。

清涼殿の昼御座には帝はいなかった。
奥の夜御座よるのおましに単姿(ひとえすがた)のまま、横になっていた。


「主上、具合はいかがですか?」

「あぁ……晴明か……。
頭が…割れるように痛いんだ。
前からこんな雨の日は痛かったけれど、こんなのは始めてだ……」

「……失礼します」


晴明は一礼をし御簾を上げて中に入ると、蒼白の帝の額に手を添えた。


「……頭が痛みだしたのはどれくらい前からですか?」

「……ん……朝からだ」

「そうではなくて。
雨の日に痛みだすと仰ったではないですか。
それはいつから……?」

「……そうだなぁ。
入梅の頃からか……」


帝は目を閉じ、力なく答える。


「……道満と卜占をした辺りからですね?」

「……あぁ、そう言えばそうだね」


晴明の顔が歪んだ。


「どうした……?
随分怖い顔だ……」

「あ、いえ。
少しお休みになってください。
ここの所公務が忙しいようだったので、お疲れなんでしょう」


晴明は薄く笑みを浮かべ、帝の額に印を描くとそのまま帝はすうっと眠りに落ちていった。

寝息を確認した晴明が軽く舌打ちをし清涼殿の柱を蹴飛ばした。
上からボタボタッ、と音をたてて落ちてきたのは干からびた蟇と蛇。
ご丁寧に釘まで刺されていた。


「……道満め。
いつ仕掛けやがった」

「アンタも案外抜けてんなぁ」


道満がギャハハ、と下卑た笑いを上げながら近付いてきた。


「……お前、どうやって入ってきた?」

「アンタの弟子だって言ったら楽に通してくれたぜ?
随分信頼されてんだな。
こんな乞食紛いの格好の男を調べもせずに入れるなんて」

「……お前、大人しく茶くみをしてたと思ったら、とんだどら猫だな」

「能ある鷹は爪を隠すってかぁ?」


再び笑いがこだまする。


「鷹ほど高尚なもんじゃないだろう?
大方高級な餌につられてこんな事やったんだろうが、力の差をわきまえろ」


晴明が蟇と蛇を握りつぶしながら言った。
粉と化したそれは風に舞い、東の空に消えた。


「餌?何の事だかさっぱりだな」

「お前一人でこんな事をする動機がない。
さっさと吐いた方が身のためだぞ?」


晴明がにじり寄った。
道満は後退りながらも、皮肉な笑みは絶やさなかった。


「……ハハッ、怖い顔すんなよ。
ちょっとイタズラしただけじゃねぇか」

「あくまでしらばっくれるか。
……まぁ良い。
何度やっても無駄だからな」

「……随分そこの坊っちゃんが大事なんだな」

「帝だからさ。
仕事柄、降りかかる火の粉は払わねばならん」

「私情はない、ってか?」


道満が問うと晴明はゆっくりと瞬きをし口許に皮肉な笑みをたたえた。


「愚問だな。
わかったら早く帰れ。
仕事を増やすんじゃない。
依頼人にもやるだけ無駄だと、そう伝えておけよ?」


「ハッ、やなこった」


舌をベッ、と出し、道満は行ってしまった。
晴明は呆れたようにため息をつき、帝が寝ている御簾の前に座った。


「……晴明?」

「……起きていらしたんですか?」

「……うん、頭はぼんやりするけど、もう痛くはない。
ありがとう、もう退がって良いよ」

「……また何かあったらお呼びください」

「……うん、わかった」


御簾の内から聞こえる、沈んだ抑揚のない声。
気にはなったが、晴明は声をかける事なく内裏を出た。

それから程なくして、帝の奇行が目立つようになった。

前は目を閉じながらも聞いていた奏上を無視し、侍女を昼夜境なく御座に連れ込み、嬌声を響き渡らせ、詩作にふけるようになった。

何を聞いても妖しげに笑うばかりで答えない。
時には一日中虚空を眺めている事もあった。

さながらその姿は狂帝と呼ばれた父、冷泉院そのものであった。
梅雨も終わりかけ、蝉の声が聞こえ始めようかという頃、例によって兼家が土御門を訪ねていた。


「なぁ晴明、帝はどうされたのだろう」

「……妖ではない」

「では何があったのだ?」

「さぁな、妖以外は俺の範疇ではない」

「ククッ、なんか心当たりがあるって顔してるぜ?」


沈んだ雰囲気を打ち破るような笑い声。
晴明は小さな舌打ちと共に声の主を睨んだ。


「お前……まだいたのか」

「いちゃ悪いかよ。
今日はそこの暢気な大臣様に用があるんだよ」

「俺に……? 何だ?」

「あの帝、毎晩抜け出してる」


道満の言葉は簡潔だったが、兼家の顔色を変えるには充分過ぎた。


「抜け出してるって内裏をか?」

「詳しくはそこのしらばっくれてる陰陽師に聞きな?」


ニッと笑い、道満は出ていった。
その姿を晴明は先程より忌々しげに見送った。


「……晴明、どういう事だ?」

「さぁ、知らん」

「帝が本当に内裏を抜け出してるとすれば一大事だぞ!?
それをわかってるのか?」

「わかったから唾を飛ばすな。
……内裏を抜け出してるのは真だ。
俺が手伝ってる」

「何のためにだ!?
帝は何不自由なく日々を送っているではないか!
外に出る必要など……!」


晴明は、はぁ、と大きなため息をつき扇をあおいだ。


「ただの気まぐれだよ。
ちょっとした息抜きだ」

「気まぐれで済む問題じゃないぞ!」

「……大丈夫だ、何も起こらない。
式神が必ずついてる」

「そう言う問題じゃないだろう。
して、帝はどこに行ってるのだ?」


更に兼家が詰め寄り、荒い鼻息がかかる。


「……山科にある寺だ」

「……寺?
また何をしにそんな所に……」

「知らん」

仮に知っていてもそこまで教える義理はない。
帝にも一つくらい隠し事があったって良いだろうに。

きっぱりと晴明が言い切ると、兼家は顎をしきりに擦り始めた。
この仕草をする時は、大抵似合わない謀略を張り巡らせている。


「……晴明、この事は他に誰か知っている者はいるか?」

「……さぁな。
道満が知っているくらいだから、案外皆知っているのかもな」

「……そうか」

「俺はお前に止められようとも、辞めないぞ。
俺の主は帝だ」

「止めないさ、好きにしろ」


先程までの慌てぶりはすっかり身を潜め、兼家は意外なほど落ち着いた答えを返してきた。

ずっと考え込んだまま俯く兼家に晴明はポツリと話しかけた。


「なぁ兼家。
お前の所の懐仁様は元気か?」

「……お、おう。
健やかに育っておられる」


前帝と兼家の娘との間に生まれた皇子の名を唐突に出され、少し狼狽したように兼家が答えた。
晴明はそれを含み笑いで返す。


「そうか、それは良かったな」


扇をまた一あおぎすると大茴香だいういきょうの甘くほろ苦い香りがふわりと鼻を抜けた。

それから兼家は口を開かずに帰り、日が暮れた。
ひぐらしが鳴くにはまだ早いこの時期は、味気なく闇が深まっていく。

晴明は足音を忍ばせ清涼殿をいつものように進んでいくと、そこには狩衣姿で待ち構える帝がいた。


「晴明、待っていたよ」


近頃昼間に見せる狂乱の顔ではなく、以前と変わらないあどけない笑顔だった。


「主上、兼家に何か問い詰められましたか?」

「特に何も……、どうしてだい?」

「道満がこの事を喋ってしまいました」

「それはそれは……。
狂乱の若い帝がまた問題を起こしたと怒っているかな?」


別段驚いた様子もなく、帝はフフフッと笑った。


「考えられた通り、ですか?」

「どうだろうね?」


また笑う帝に苦笑した晴明は、息を吹きかけ、人形を作り出すと朱雀も同時に現れた。


「さ、行ってこようかな。
晴明、いつも通りよろしくね」


『しっかり捕まってろよ?』


朱雀に抱き抱えられ、帝は空に消えていった。

晴明は帝そっくりの“それ”と双六を打ち始める。
と言っても、一人相撲に近いのだが。


──コロ……


賽子サイコロを振った。
目は必ず六。

数回続けた頃、聞き慣れた足音が近付いてきた。
晴明から先に声を掛ける。


「兼家、相変わらず騒々しいな」


双六の駒を進め、帝側の大将の駒を奪い取った。


「……もう出掛けられたのか」

「ここにおられるだろ?」

「冗談言うな。
確かにそっくりだが、お前の術がわからないとでも?」


兼家はドスッと腰を下ろし、帝をまじまじと眺める。


「……良く出来てるだろう?
普通の者なら誰一人気付かない」

「そうだな。
俺も以前なら気付かなかったな」

「……お前の軽率な過去もたまには役に立つもんだな」


賽子を兼家向けて放った。


「お前の賽の目はいつも六だな。
ついでにコツを教えて貰いたいもんだ」


今度は兼家が賽子を振った。
目の数は、一。


「コツなんてあるか。
運の問題だ」

「……運。
俺は悪運は強い方だと思うが」


兼家は空に向かって賽子を投げた。


「晴明、帝が帰ってきたら教えてくれ。
宿直所で仮眠してる」


「おう」


晴明は小さな賽子を拾いに白州に降りるとふいに月光が途切れた。

厚い雲に覆われた細い、猫の爪ほどの月。
どこにいたかもわからない月が再び現れるのを静かに待っているとやがて頼りない光を称え、月が顔を覗かせた。
足元に転がる賽子を拾う。


「……六、か。
確かに本人の意識しない所では運は強い方らしい」


白々と夜が明け始めた頃、帝は空から舞い戻ってきた。
狩衣を脱ぎに寝所に入る帝を見送り、晴明は朱雀に声を掛けた。


「ご苦労だった」

『おう。
……晴明、ちょっと良いか?』


朱雀が晴明の耳に口を寄せる。


『満仲が途中、身を潜めて待ち構えてた。
満仲だけじゃない、朗党もだ』

「……それを帝には?」

『勿論言ったさ。
今日は引き返すべきだって』

「……でも行ったんだろう?」

「私が無理にお願いしたんだよ。
怒らないでやってくれ」


着替えを終えた帝が笑みを浮かべながら立っていた。


「……足元を掬われますよ?」

「むしろ掻き斬ってくれた方がありがたいな。
そうしたら堂々とあの娘に会いに行ける」

「……全くあなたは……」

「普通とは違う?」


フフフ、と笑い、手に持っていた包みを朱雀に投げた。
朱雀はそれを嬉しそうに受け取り、匂いを嗅いだ。


「いつもの唐菓子からくだもの
明日も宜しくね」

『晴明が許せばな』


朱雀はニッと笑い、大事そうに包みを抱え、姿を消した。


「晴明も食べる?」

「……結構です」

「そう?美味しいのに。
これ、今は宋だから宋菓子って言うべきかな?」


独り言のように呟きながら、一口かじるその姿を晴明は口を引き結んだまま眺めた。


「……そんなに難しい顔をしないでくれるかな。
後少しで私の道楽に振り回されるのも終わるから」


射し込む陽に目を細めながら、もう一つ口に放った。


「……帝位がそんなに鬱陶しいですか?」

「うん、鬱陶しいね。
私はこんな自由がない生活、もううんざりだ」

「道満が兼家に言ったのも、あなたが……?」

「さぁ?」


惚けてはいるが、口許の笑みは肯定していた。


「……あぁ、そうでした。
兼家が主上に会いたいと宿直所で待っています。
呼んできますね」

「そう、わかった」


晴明の声を聞きながらも帝は脇息にしなだれかかり、既に微睡み始めていた。
晴明が兼家を呼んで戻ってきた時には、規則正しい寝息をたてていた。

兼家が声を掛け、揺り起こすと、その薄い瞼がゆっくりと開き、口角がつり上げられた。
そこにあどけなさはなかった。


「兼家、どうした?」

「どうしたではありません。
昨夜の事、お話しいただけますね?」


珍しく兼家の顔が険しい。


「昨夜の事?
私はここで晴明と双六をしていたよ?」

「……今更何を惚けた事を……。
満仲が見ておるのです」

「あぁ……君の愛しい犬か。
そんなもの、君が言えば見たと当然言うだろうね?
犬は忠実だから主人のためならいくらでも事実をねじ曲げる」


嘲けるようにクスクスと帝が笑った。
見る間に兼家の顔が赤くなり、拳が震えた。


「……いくら主上とはいえ、口が過ぎます」

「何か気に障ったのかな?
あぁ、兼家も父上の犬だものね。
自分がけなされてる気分?」

「いい加減にして下さい!
昼間の行為はこれまで目を瞑ってきましたが、もう見過ごせぬ!」


ドンッ!と足を踏み鳴らし、兼家が立ち上がった。
帝は冷ややかな視線を兼家に送る。


「……兼家、臣下がそんな口をきいていいのか?」

「後ろ楯のないあなたが今まで帝位に就けていたのは誰のお陰でしょうね?」

「……知らないなぁ。
少なくとも、君にそんなに恩着せがましく言われる覚えはないけれど」


帝はにっこりと笑うと兼家は一際大きく鼻を鳴らし、踵を返した。


「晴明、俺はもう我慢できん」


すれ違う時に兼家が耳元で呟いた。
晴明は扇で鼻の頭を軽く叩きながら、再び微睡み始めた帝を見つめた。

ここで双方を宥め、仲を取り成すのが正しいのかもしれない。
でもそんな事は誰一人望んではいない。
晴明はまた、傍観する事に決めた。

月が終わろうとする頃、先に行動を起こしたのは兼家だった。
それは普段の純朴さ、大らかさとは結び付かないほどの方法で。

昨夜、いつも通り山科に行ってから、帝の様子がおかしい。
受け答えをせずにただ一人、人目を憚らずにひたすらに涙を流していた。

兼家は素知らぬ振りをして、廟議を進め、帝の様子がおかしいと呼ばれた晴明もそこに臨席していた。
晴明は目の前の兼家を別人を見るような心持ちで眺めた。


……人は変わりゆくものなのか。


扇を顔の前に広げ、目を伏せた。
すぐ後ろで響く、すすり泣き。

淡々と廟議は終わり、やがて日が暮れた。

まだ、ひぐらしは鳴かない。
うら寂しい闇がまた訪れる。
未だ泣き止まない帝のもらす微かな声が、更に寂しさを強調した。

原因をいくら尋ねても、ただ泣き暮れるばかりだった。
晴明は何も言わず、ただ側にいた。
そんな日が、続いた。

その間、兼家が土御門を訪れる事はなく、静かな夜だった。

ぼんやりと夜空を眺めていると、珍しい客がやってきた。
晴明はその姿を見るなり、舌を打つ。


「相変わらずだな。
折角人が慰めにきてやったのに」

「お前に慰められるいわれはない」


ムッと眉を寄せ、視線を外に戻した晴明の隣に光栄は腰を据えた。


「……星の動きを知らせに行かないのか?
あれは間違いなく凶兆だぞ」

「……それは違う。
あれは吉兆だ」


晴明の言葉に光栄が首を傾げる。


「吉兆?
そんな事はないだろう。
俺は専門ではないが、そのくらいは父から教えて貰った」

「だからお前はいつまでたっても俺の下なんだよ」

「……何だとッ!?」

「誰もが望んでいる事を凶兆とは呼ばないだろ?」

「望んでいる……?」

「世の中には立場なんかに囚われない方がおられると言う事だ」


晴明が庭に降り、門の方向を見る。
夜更けなのにも関わらず、車がゆっくりと動く音がする。
一瞬、門の前で音が止んだが、またキィ……、と動き始め、やがて聞こえなくなった。


「……今のは……」


光栄が呆然と口を開く。
晴明はただ笑い、音の消えた方向を眺め続けた。


「一杯、どうだ?」


晴明が指を鳴らすと、どこからか瓶子を盆に載せた男童が現れた。


「……頂こう」


器をコツン、と合わせたとき、空で大きな星が一つ、流れて落ちた。

瓶子が空になった頃、光栄と別れ、晴明は内裏に向かうと、清涼殿には帝の姿はなく兼家がただ一人、座って賽子を振っていた。


「お前らしくなく、随分手際が良いじゃないか」

「……どうだかな。
さすがに少し心が痛む」


「それは何にだ?」


兼家が言葉を詰まらせた。
所在なさげに賽子が掌で回っていた。


「……女を一人、殺した」

「……ふん。
帝の思い人か?」


躊躇いがちにコクリと頷く。


「その悲しみを餌に俺は……」

「……別に良いんじゃないか?
多少やり方は荒かったが、帝も望んでいた事だ」

「……違うのだ。
女を殺めた事は後悔していない。
帝を連れ出し、出家させるのを道兼にやってもらったのだが、その際あのお方は涙を流されたのだ」

「……それが何で人を殺すことより心を痛める?」

「道兼には自分も一緒に出家をし、人生を共にすると言えと言った。
さらさらそんな気はないのにな。
俗世での最後に信じた者が裏切る、それを知った時あのお方は壊れてしまうのではないかと考えると……」


……この男は変な所で非情になれないのだな。
人殺しは気にも掛けず、心を傷つけた事に傷ついて。
……やはり内裏に巣食う人間の方が、鬼よりも狂ってる。


「……晴明?」


兼家が虚空を睨み据える晴明を不思議そうに覗き込んできた。


「あぁ……何でもない。
気にするな、あのお方は意外に強かだ」

「……だと良いが」

「気に病んでる風な素振りの割にお前もやってる事はやってるじゃないか」


皮肉めいた笑みを兼家に向けると、む、む、と少し眉を潜めた後、兼家が観念したように言葉をもらした。


「……長年の願いだったのだ。
俺が関白になり、懐仁様を一日でも早く帝位につけるのが」


言葉通り、帝が出家した直後に兼家は孫の懐仁を帝位に就けていた。
まだ年端もいかない新しい帝は一条と名乗り、後見人は兼家とされた。


「良かったな。
実質、お前の治世だ」

「おぉそうだ。
晴明にも位をやろうか」


さっきまでの気鬱はどこへやら、にこにこと笑みを浮かべ始めた。


「そんなのいらん。
光栄にでもくれてやってやれ」


コツ、と晴明の扇が賽子に触れた。
目で振るよう促す。

促されるまま兼家が賽子を空に投げた。
出た目は六。


「おぉっ!初めて出たぞ!
晴明、そなた何か術を掛けたのか?」

「何を馬鹿な事を。
ただ単に運が向いてきたって事だろ?」


晴明は賽子を拾い、袖に入れ、内裏を出た。

山科に車で向かう途中、武装した武者を大勢引き連れた豪奢な檳榔毛車檳榔毛車びろうげぐるま(帝の乗る牛車)に行き交った。

晴明は賽子を取り出し、息を吹き掛けるとみるみる内に賽子は姿を変えた。


前に六、後ろに一つの目

二つの角

五本の足に七本の手


車を踏み潰す程大きな“それ”は、車中から人を摘まみ出した。
情けない悲鳴をあげながら顔中から雫を垂らし、足元の地面にはすえた臭いを放つ水溜まりが出来ていた。


武装した武者の中から満仲が進み出て、晴明の乗る車に声を張り上げた。


「晴明ッ!
何をふざけた事を!
道兼殿を離せッ!!」


その言葉に御簾を少し上げて晴明が静かに答える。


「ふざけてるのはどっちだ?
その車は帝の物だ。
人臣が勝手に乗って良いものではない」


「すっ、すまっ、すみません!
だからッ、下ろしてくださいッ!」


すっかり歪みきった顔を更に歪めて道兼が言う。


「そう遠慮するなよ。
コイツが内裏まで送りたいとさ」

「……晴明、いい加減にしないか。
全く何を考えているのだ」


満仲が晴明の乗る車に近付き、低い調子で言う。
その目付きは酷く険しい。


「……その言葉、そっくりそのままお前に返すぞ」

「……何……?」

「お前の主人はいつから兼家になったんだろうな?
犬はそんなに移り気なのか?」


小首を傾げて尋ねるとするりと御簾を下ろすと満仲は拳を微かに震わせた。

晴明の車が辻に消えた後、道兼を掴んでいた“それ”は姿を消し、賽子がころり、と落ちた。

山科の元慶寺に着いた頃には、朝陽が煌々と射していた。
眩しすぎるほどの光を浴びて青々とした木々の香りが目覚める。

出迎えてくれた僧に会釈をすると、一番奥の御堂に案内された。
そこには豊かで美しかった御髪をすっかり落としてしまった帝がいた。
帝は扉の開く音を聞き、ゆっくりと振り返る。


「やぁ晴明、おはよう」


朗らかにその人は笑った。


「どう?
なかなかサマになってるだろう?」

「ええ、黄櫨染こうろぜん帝の束帯)よりお似合いですよ」

「フフ……、内裏はどうなってる?」

「既に懐仁様が即位されました」

「ふぅん、そっか……」

「主上、道兼の事ですが……」


言葉を続けようとする晴明を帝が制した。


「良いんだよ。
嘘でも私を気遣ってくれた言葉は嬉しかった。
それにもう私は帝じゃない、名で呼んでくれ」

「……師貞様。
悔しくはないのですか?
一つ、懲らしめてやった方が……」

「いいんだよ。
どのみち、私は出家するつもりだったし」

「……あなたが望むから止めはしませんでしたが、私には、女一人のために世を捨てるお気持ちがわかりません」

「あの人の前では私は何の力もない、ただ一人の人間でいられたんだよ。
後宮の女とは違う。
権力も何も関係なく、私を見てくれた」


二人で交わした密事を思い出したのか、師貞ははにかんだように笑ったが、その笑顔はすぐに翳ってしまった。


「……でも私のワガママのせいで彼女は亡くなったようなものだね」

「そんな事は……」


ない、とは言えなかった。
実際関わらなければ、貧しいながらも天命を静かに全うしただろうから。


「だから私は彼女を弔って余生を送る事に決めた」


そう言い、師貞は遠く庭の方に呼び掛けるとチリン、と鈴の音が鳴った。


「これは……」

「元、晴明の猫。
さっきまでね、道長がいてくれたんだ」


顎の下を撫でられ、ゴロゴロと喉を鳴らす。


「道長が?」

「道兼と一緒に付いてきてくれたんだよ。
道兼が内裏に戻った後も彼はいてくれた」


「……そうですか」


ピョンと猫が跳び移り、ざらりとした舌を滑らせる。
久方ぶりの感触だった。


「ねぇ晴明、一つお願いがあるんだけれど」

「なんでしょう?」

「道長が私が寂しいだろうからと猫を置いていったんだが、返してきてくれないかな。
猫は住処は自分で選ぶものだ。
それにこんな外れた場所じゃ猫も寂しいだろう」


ね? と帝が笑うと晴明も笑い、小さく頷いた。


「じゃあ私は帰ります」


いつもしていたように肩に猫を乗せ、晴明が腰をあげた。


「フフ……おかしな男だね。
一体何しに来たの?」

「……友の顔を見に来たのです。
帝には召し出されなければお会いする事が出来ませんが、今のあなたはただの僧だ」


一瞬呆気にとられた後、陽に透けていまいそうなほど清らかに師貞は笑った。


「ありがとう、晴明」


屈託ないその言葉にいつもの皮肉さは消え、晴明は柔らかな笑みを見せた。


「どうぞ、お元気で」

「うん、晴明も元気でね」


二言だけ交わし、二人は離れた。

師貞は、これから政の煩わしさから解放されて、気ままに余生を過ごすのだろう。

雪の時も、花の時も。

それが少し羨ましくもあった。



──チリン



猫が鈴を鳴らし、名残惜しそうに啼いた。


「お前もここに残りたいのか?」


車に揺られながら清明がお前も、と言った。

今まで何代もの帝に仕えてきたが、私情を挟んだ事はない。
それが今は、俗世を捨てたうら若い、何の得にもならないあの人に何かしてやりたくて堪らない。

それは似た所があったからなのか、あまりに師貞が頼りなく見えたからなのか、晴明自身もわからなかった。

この後、師貞が熊野の那智に千日修行に出た際、晴明も那智に移り住んだとされる。

世間からも忘れ去られてしまった青年を、晴明は主人と決めたのだろうか。
それは誰にもわからない。


車の御簾を巻き上げると京から吹く生温い風が頬を撫でた。

また、あの欲が渦巻く忙しない世界に帰らなければならないと思うとため息がもれた。

ふと、晴明は一本の紅葉の木に目を止め、指を揃えてまだ色付かない木に向かい息を吹き掛けようとして、やめた。
そのまま車の壁にもたれ掛かり、目を閉じた。

山が色付く頃、また来よう。
紅葉をゆったりと眺めながら、師貞が詠む歌に耳を傾けよう。

ありのままを気の向くままに。
その方が、楽しい。



時おり鈴の音を響き渡らせながら車はゆっくりと大路を進んだ。
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