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白き烏
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廂で日を浴びながら彼は今日も寝ていた。
ここの所、ろくに出仕もしていない。
内裏に興を示すものがないらしい。
「……暇だな」
一つ、小さなあくびをもらした。
「だったら内裏に行けばいいであろう?
何を日がな寝ておるのだ!
いつか狐ではなく熊になるぞ?」
「それは面倒臭いから嫌だ」
梨花を一瞥し、再び目を伏せて彼は微睡み始めた。
「ならばわらわを市に連れていけ!
わらわも暇で仕方ない」
「その方が面倒臭い。
要るものがあるならアイツに頼めよ」
顎で木を刈っている朱雀を指した。
その顔は明らかに不機嫌。
『だから俺を雑用に使うな!』
「……だそうだ。
梨花、諦めろ」
梨花は口を尖らせ、晴明を揺する。
要るものなどないが、市を見たい。
今も昔もその辺りの心情はきっと変わらない。
梨花の無言の抵抗は晴明が根負けするまで続いた。
舌打ちをしながら晴明が車を呼んだ。
「歩いて行く」
「……女は歩かない。
歩くのは侍女だけだ」
「だったら侍女の身なりをして行けば良い事であろう?
そうと決まったら早く支度をするのだ!」
本当に粗末な袿を出し着替えようとする梨花に多少げんなりしながらも、黙って見ていた。
言って聞かない事をここしばらく一緒に暮らした晴明は知っていた。
この時代、女性と言えば辻を歩くどころか人前に顔を出すこともない。
なのに、今晴明の目の前にいる梨花は少女のようないとけなさで言う。
呆れるほどにこの屋敷には変わり者ばかり集まるらしい。
「お前も来るか?」
奥で静かに猫と遊んでいた男に声をかける。
最近兼家は姿を見せない。
代わりに息子の道長が足繁く通うようになっていた。
「勿論行きます」
道長はふわりと笑い、猫を肩に乗せた。
すっかりなついてしまっているのに、元慶寺から連れて帰ったとき、猫は再びここを住処に選んでいた。
「お前の首輪も大分綻んできたな。
市に良いのがあるといいが」
チリン、と鈴を指で弾くと猫は嬉しそうに啼き声を上げた。
この猫ももう何年いるのだろう。
一つ処に長くいるなんて、なんとも珍しい。
くすくすと笑っていると支度を終えた梨花に急かされた。
勢いごむ梨花を先頭に、妙な三人組は市へと歩いて行った。
市は意外な程の賑わい。
振り売りが大声を上げて闊歩し、近海でとれた魚が並び、素朴な吊し柿などもある。
男達は泥にまみれた顔を綻ばせて闘鶏に精を出していた。
「皆汚いながらも楽しそうだな。
かような楽しいものがあるのに、なぜ京の姫君達は部屋の中に籠っておるのだろうな?」
梨花が目を輝かせながら言う。
なぜと言われてもそうなのだから仕方ない。
女は家から出ずに、歌を諳じたり、貝合わせなどつつましやかに日を過ごすのが美学なのだから。
「あっ、アレはなんだっ!?」
いうなり軽やかな足音をたてて市の奥の方に行ってしまった。
「梨花!
一人は危ない!」
大声で呼び掛けるも聞こえていないのか、どんどん奥へと行ってしまう。
「……首に縄でもつけておくべきだったな」
「さすが晴明殿の奥方ですね」
道長は笑いながら後を追い、晴明も深いため息をつき足を進めた。
梨花がようやく足を止めたのは闘鶏を行っている広場だった。
男さながらに声を張っている。
「……全くなんて娘だ」
「ふふ……、いいじゃないですか。
私はああいう女性好きですよ、姉上みたいで」
道長が笑う。
二代前の円融帝の后である彼の姉の詮子も、女にしておくのは惜しいほど男勝りでやり手だと聞いてはいる。
でもここまでではないだろう。
これはただの我が儘な童だ。
晴明はため息をつき、群衆に視線を滑らせると、その中の一人、頭一つ背の高い男が目に入った。
少し気にかかる。
彼を包む空気が微かに淀んでいた。
「おい、道長、あの男の名はわかるか?」
庶民ならわかるはずもないのだが、男はそれなりのいで立ちをしている。
もしかすると内裏に勤めている者かもしれない。
道長は心当たりがあったらしく、小さく、あぁ、と声をもらした。
「あれは斉信ですよ。
私の従兄弟です。
今は確か……蔵人頭(天皇の側近)ですね」
言われれば道長とどこか目許が似ていなくもない。
けれど、蔵人頭ともあろうものが市で暢気に闘鶏見物とは兼家といい、道長といい、どこか型破りな一族らしい。
「……何か気掛かりな事でも?」
「ん……いや、少しな」
曖昧な晴明の答えに道長がくすくすと笑いをもらす。
「……何がおかしい?」
晴明は眉を潜め、尋ねた。
「いえ……、晴明殿は面倒くさがりなのに世話焼きですよね。
なんだかんだと言いながら結局手助けをしているように見えます」
「……そんなことはない」
未だ笑う道長を一蹴するように低く咳払いをし、視線を戻すと、斉信が群衆の中から姿を消していた。
職務に戻ったのだろうか。
そのまま捨て置いても構わなかったのだが、あの不穏な空気が気にかかった。
「道長、梨花の事ちゃんと見張っててくれるか?」
「はい」
ほらやっぱり、と言わんばかりの道長の笑顔に舌打ちをしながらも、晴明は急ぎ内裏に向かった。
ようやくその姿を見つけたのは朱雀門の手前。
彼は牛車からゆるりと降りていた所だった。
声をかけようと近づいた時、空に小さな影が射した。
それは小さな烏だった。
傍目にはその辺りに飛んでいるものとなんら変わらない。
「蔵人殿!」
晴明の呼び掛けに斉信が振り向いた時、空を舞う烏がぽとりと糞らしきものを落とした。
「うわっ、なんだっ、汚いな!」
肩口に落ちたそれを懐紙で拭おうと顔をしかめる。
しかし確かに感触はあったはずなのだが、拭うべきものがない。
辺りの地面を見渡しても、見当たらなかった。
「……これは不思議な」
首を傾げる斉信に晴明が再び声をかける。
「蔵人殿、そのまま内裏に入ってはいけない。
穢れを持ち込む事になる」
「穢れ……?」
突然の言葉に更に斉信の首が傾いた。
穢れと言えばこの時代最も嫌われるものの一つである。
よくよく見れば、今声をかけてきたこの男は当代一と名高い、安倍晴明。
飄々とした男と聞いてはいるが、よもや冗談でこんな事は言うまい。
斉信は顔の色をなくし、コクリと頷き牛車に引き返した。
「俺も一緒しても構わないか?」
廉を軽くあげ、にっこりと笑う。
答えを聞かぬまま、晴明は上がり込み、斉信の襟ぐりを引っ張った。
「なっ、何をするのです!?」
思わず跳ね退けた斉信に晴明はあからさまに不機嫌な顔を見せる。
「……お節介というのならこのまま俺は去ろう。
今宵限りの命を精々楽しめ」
ひょいと今昇ったばかりの車を降りた。
「お待ちください!
何の説明もないままでは当たり前でしょう。
穢れとはどう言った事なのですか?」
斉信の訴えにあぁ、と声をもらし、何も説明していない事に晴明は気付いた。
いつも周りにいる者、兼家以外は、大体一言で察してくれていたからだった。
「すまん、悪かったな。
さっきの烏は式神といって俺達陰陽師が使役している、……小間使いみたいなものか?
とにかく、お前は今さっき呪をかけられたって事だ」
適当な説明をし、斉信の肩口を指し示した。
見てみろ、と言われ、襟を開いて肩をあらわにする。
そこはぶつけた記憶もないのに、赤紫に変色し、何かの紋様を描いていた。
斉信は息を飲み、呆然と見つめた。
そうしている間にもどんどん痣は広がってくる。
「な?」
けらけらと笑いながら晴明はどうするかを促した。
答えは勿論決まっているのだが。
下級官吏にしか過ぎない晴明と蔵人頭の斉信、位が高いのは勿論斉信である。
普段なら横柄な態度や言葉遣いを咎めるべきであるが、両者の立場は完全に逆転していた。
斉信は縋るように呪を解くよう懇願した。
「……とりあえず屋敷に戻れ。
内裏には俺が物忌みと言ってくる。
内裏にお前は入るなよ?」
斉信の屋敷の場所を聞き出し、晴明は門の内へと入っていった。
言われるままに牛車は軋みをあげて大路を降って行く。
見た目こそおどろおどろしいが、術自体はありがちなもの。
少しの間、晴明が隣で印を結んでいれば済むものだった。
故にそのまま斉信の屋敷に行っても良かったのだが。
式を遣わした陰陽師を雇ったのは誰なのか興味があった。
斉信の周りから強く匂ったのは人の思念。
もう少しで生き霊になるほどの。
あの若さで蔵人頭に昇りつめたとなれば嫉みなどは当然受けるだろうが、呪い殺そうとまでするとは。
なんと浅ましいことか。
蔵人所に行き、斉信が物忌みで来ないことを告げる。
皆一様に心配し、気遣う言葉を発した。
同じ部署にいると践んでいた晴明は拍子抜けしてしまった。
斉信自身を知ったのがついさっきなのだから他に心当たりがあるはずもない。
「……帰るか」
踵を返し蔵人所を出ようとした時、どこからか視線を感じた。
見渡すと清涼殿の簀の子からこちらを無表情に見る男がいた。
「……あれは誰だ?」
たまたま近くにいた男に聞いたが名前がすぐに出て来ないらしく、首を傾げていた。
「いい、いい、
無理に思い出さなくともじきにわかるだろうからな」
ポン、と肩を叩き、簀の子の男に不敵な笑みを見せて内裏を後にした。
屋敷ではかの男が大きな体を縮めて怯えていることだろう。
屋敷に行くと斉信は伏せっていた。
「……なんだかズキズキと疼くような気がするのです。
なにか中で這い廻っているような……」
すっかり青ざめた顔でそうもらす。
この呪は痛みはなく、眠りに落ちている間に生き絶えるはずなのだが、痣の仰々しさから痛みを感じている気になるのかもしれない。
その滑稽さに笑ってしまう。
「……なぜお笑いになるのです?」
「……失礼」
咳払いをし、半身に広がっている痣に指を滑らした。
「あの、私は何をすれば……?」
「……そうだな。
……仕事は楽しいか?」
答えになっていない回答に首を傾げると、お前が出来るのはお喋りくらいだ、と緩やかに笑った。
斉信も晴明が傍にいるせいか、いくらか色を取り戻し、ぽつりぽつりと口を開きはじめた。
「……楽しいといえば楽しいですが、辛いことも沢山あります」
視線だけ向け、相槌を打つべき唇はひそやかに呪を紡いでいた。
斉信は自ずから一人ごちる事になる。
「今私が任ぜられている蔵人頭は、名誉な職だと思っています。
この平安朝の始め、嵯峨帝の御世に我等の祖先、冬嗣様がおなりになって以来、帝の側近、強いては出世するために必ず通る職となっています」
そこまで言った時、晴明の指先が一際大きな印を結んだ。
すっかり変色してしまった肌に青白く文字がなぞられる。
斉信は今話そうとしていたことを忘れてしまったかのように目を丸くしていた。
「……続けてもいいぞ?」
手短に言い、再びぶつぶつと唱え始めた。
腕に刻まれる印を見つめながら斉信が口を再び開いた。
「……私には兄がいます。
四つ離れた兄は幼い頃は神童と呼ばれるほどで、自慢でした」
ありもしない痛みからなのか、そうではないのかはわからないが、斉信の顔が微かに歪んだ。
「それがいつからか兄と私の立場は逆転してしまいました。
兄を差し置いて私は蔵人頭になり、兄は私の下で働くようになりました。
前は喜んで私に学を教えてくれていた兄は今では話し掛けてもくれません」
ぴたりと晴明の動きが止まった。
脳裏に先程の男が過る。
きっと、あの男が兄なのだろう。
「……それが辛いのか?」
コクリと頷く。
謀らずも出し抜いた気がして。
兄の喜ぶ顔が見たくて、支えになりたくて学を重ねたはずなのに、気付けばその兄をとうに抜かしてしまっていた。
「……そんなのはこの世界ではいくらでもある事だ。
優れた者がのし上がり、劣っている者は兄であろうが父であろうが平伏するしかない。
気に病む事じゃないだろう」
「……そうですね」
「……俺には兄弟はいないからわからないが、良いものなのか?」
「……どうでしょうか。
何も知らぬ幼い頃は楽しかったですが……。
むしろ一人の方がゴタゴタせずにいいかもしれませんね」
「……こうやって命を狙われずにすむしな」
目を見張る斉信に晴明は笑いかけた。
「お前も薄々気付いていたのだろう?
誰が自分に一番強く恨みを持っているのか」
「……ですが、信じたくはありません」
きゅっと唇を噛み締める斉信を冷ややかな眼差しで一瞥し、指を揃えて自身の唇にあてた。
ふう、と息を吹き掛け、青白く光る印に触れる。
目が眩みそうな光の中から烏に似たような、だが黒ではなく白い鳥が飛び出し、廂から外へと飛んでいって消えた。
「後はその目で確かめれば良い。
じきに助けを求める使いがやって来るだろうからな」
目を細めていた斉信が腕を見ると痣は見事に消えていた。
「……助け、とは?」
「……術が失敗した時、それは自身に返ってくる。
そっくりそのままの形で」
にこりと笑い、帰ろうとする晴明を斉信は慌てて引き止める。
「助ける術はないのでしょうか?
もし兄がそのような事になったら……」
「それは因果応報というものだろう?
そんな兄を持った己を悔やめ」
なおも食い下がる斉信に晴明はため息をもらした。
「……どうしてもと言うのなら一つだけ方法がある。
お前は兄のためならなんでもするか?」
低く尋ねる晴明の言葉に斉信は喜色を見せ、勢いごんで、なんでもする、と言葉を発した。
「お前の命を差し出せ」
「…………え?」
斉信の顔が一気に強張る。
それを嘲笑うように口角をあげ、言葉を続けた。
「聞こえなかったか?
お前の命を使って兄貴を生きながらえさせてやるって言ってるんだ」
斉信の周りの空気が沈み込む。
光が消え、淀む。
思念が渦巻く。
それはもう他人の思念ではなくて己の内から出ていた。
晴明はしばらく顎をさすりながら答えを待っていたが、言葉で聞くことは無理だと悟った。
聞かずとも答えは出ている。
自己を犠牲にしてまで他人を救おうとする者なんかそうはいない。
ましてや救おうとしている相手は自分を殺そうとしたのだから。
「……気にするな。
所詮皆自分が一番可愛いんだ」
そのまま晴明は振り返りもせずに屋敷を後にした。
市にはまだ梨花と道長はいるだろうか。
これからは余計な事に首を突っ込まない方がいいのかもしれない。
よかれと思ってしても後味の悪さだけが残る。
ただ、星を見て、暦を見る、それだけだったら退屈でも後味の悪さはない。
重い足取りで市へと戻るとかの男女はまだいた。
手には山盛りの品を抱え、闘鶏を未だ満喫していた。
「お前ら、まだいたのか」
呆れるように呟くと道長が気付き、苦笑した。
軽く二刻ほどは振り回されていたはずで、顔は少しやつれているようにも見えた。
「晴明、返ってきたか!
見ろ、なかなかの逸品だとは思わぬか?
こんなボロ市も捜せば掘り出し物があるのだ」
梨花が嬉しそうに道長の手から夜光貝の使われた小さな箱を取り出した。
キラキラと夕日が照らし、輝いている。
「……お前は日々楽しいだろ」
穏やかに笑い、梨花を見つめる晴明に、勿論だ!と答えた。
「晴明の纏う空気は心地好いからな、傍にいると楽しい」
「……馬鹿。
猫の首輪を買っていないだろう。
探しに行くぞ」
くるりと踵を返し、足早に市の更に奥へと行ってしまった。
黄昏時の茜が彼を染める。
取り残された梨花はきょとんとし、道長に顔を向けた。
「……道長、わらわは何か変な事を言ったか?」
「さぁ?」
くすくすと笑う。
彼の顔もまた、茜色に染まっていた。
三つの影が寄り添うように長く、長く、延びていく。
それから幾日もしない内に、すっかり容貌を幽鬼のように変えてしまった斉信から報告を受けた。
兄と式を放った陰陽師が揃って憤死した、と。
あの夜気にかかり、兄の屋敷に行った所、この世とは思えぬ呻きとも、獣の咆哮ともつかない声を聞き、逃げ出してしまった。
昨日になって兄が出仕してこなかったので、屋敷に出向いた。
「地獄の入口かと思いました……。
門の外まで据えた臭いが漂い……、何よりも異様だったのが……」
そこまで言った所で斉信がぶるりと身を揺すった。
歯の根が合わないほどに。
「一面……黒く染まっていたのです。
夜に行ったので、闇のせいかと目を凝らしました……。
ですが、違ったのです。
まばらに蛍のように金色の灯りが見えました……」
斉信の動揺とはうらはらに晴明は酷く冷めた瞳を向ける。
既に興味は失せてしまったらしく、相槌すら打たなかった。
カチカチと歯がぶつかる音が響く。
痺れを切らした晴明が答えを言う。
「烏だったのだろう?」
斉信がやっと顔を上げ、頷いた。
「門から屋敷の屋根、庭の木に至るまで無数の烏がいました……。
啼くわけでもなく、静まり返ってそこにいるのです。
……その癖、瞳だけは煌々と輝いていました」
呼吸さえも乱れがちに話す。
彼の脳裏にはありありと光景が蘇っているのだろう。
「……それでも、兄の事が気掛かりで──……」
烏の群れを掻き分けるようにして、母屋に足を踏み入れた。
廂に敷き詰められるように落ちるおびただしい数の黒い羽。
冷や汗が伝い、ぐっしょりと狩衣を濡らす。
臭いは更に酷くなり、胃液が込み上げるほどだった。
床が、唸りをあげている。
一際すえた臭いを放つ部屋は、斉信がもっとも足を踏み入れ、見慣れていた部屋。
今は面影を探すことすら難しい。
ここに来るまでに屋敷の内にはいなかった烏が梁の上に並び、こちらを見ていた。
更に部屋を異質なものに思わせているのは、その烏は白かったこと。
烏だけではない、
衝立、屏風、唐櫃、
その部屋のものは調度品の一つに至るまで色をなくしていた。
斉信は微かに声帯を震わせ、声にならぬ悲鳴を上げた。
体が冷え、意識が朦朧とするのを必死で堪えた。
視線の先には、あるもの。
白い世界に埋もれるように、はたまた己を恥じて、身を覆い隠そうとするように。
真っ白の衣に身を包み、髪から眉、睫毛、髭に至るまで色がすっかり抜け落ちた男が二人、折り重なるようにして崩れていた。
その肌には細やかな経文が、びっしりと隙間なく、白文字で書かれていた。
ただ、黒目だけがこちらを見ている。
まるで、今なお生きているかのようにぎょろりと。
「……あ……、兄上……?」
その顔は死に怯え、歪みきっていたが、確かに長い時を共に過ごし、血を分けた愛しい兄だった。
きっともう一人は呪を施した陰陽師なのだろう。
兄の身に触れようと手を伸ばした時、一斉に烏が啼き出した。
頭の芯に響くように、打ち砕くように。
耳を押さえても防げない。
気が狂いそうになる。
斉信は自己防衛が働いたのか、恐怖のあまりなのかはわからないが、意識を手放した。
黒目がぐるりと回る。
薄れゆく意識の中で彼が最後に見たのは無念そうな、恨めしそうな顔。
次に目を開けた時は、常と代わりはなかった。
見慣れた部屋。
調度品もなんらおかしな所はない。
這うように廊下に出て辺りを見回す。
あれほどいた烏の影も、痕跡も何もない。
「……?
はっ、兄上ッ!!」
最後に見た姿を思いだし、かの人を探す。
だが、いくら探しても見つからない。
悪い夢だったのかと思い、自身の屋敷に戻るとそこには客が来ていた。
「父上、どうなされたのです?
ここへ来るなど珍しい」
さては、此度の気まずさのあまりに、兄が父を使いに寄越したのだろうか。
「……お前あてだ」
俯いたまま、父が静かに文を出す。
「やはりそうですか。
兄上も童じゃないのだから自分で来ればいいのに。
斉信は大事に至らなかったのだから気にしてませんよ、とお伝えください」
斉信は朗らかに笑い、文を開いた。
ドクン、と体が大きく脈打つ。
あぁ、
夢などではなかった。
文を見た斉信は慌てて廂から身を乗り出し、込み上げるものを洗いざらい吐き出した。
震える瞳で投げ捨てた文を見つめる。
許して。
助けて。
乱れた筆で文一面に書き込まれた言葉。
はらり、
一枚、白い羽が風にそよいた。
今、全てを話終えた斉信は落ち着きなくその瞳を動かしながら口を開いた。
「…………兄は、私を恨んでいるのでしょうか」
「……そうだとしたら、お前はどうする?」
晴明は斉信がおずおずと差し出した羽をくるくると回し、ゆっくり視線を斉信に移した。
「……わ、私を、私をお守りくださいッ!」
斉信はひれ伏し、体裁もかなぐり捨て懇願した。
快く引き受けるかと思いきや、晴明は舌打ちをした。
「……兄を弔うという気は更々ないのだな」
ため息をつき、うんざりした顔で腰を上げた。
「……安心しろ。
跳ね返された呪で命を落とした者はその縛から逃れることは叶わない。
……永遠にな」
晴明はそれきり振り返らずにその部屋を出た。
どこか浮かない気持ちで廊下を進んでいくと朱雀と蹴鞠をしていた彼女が近寄ってきた。
「晴明もやるか?
汗を流すのは気持ちが良いぞ」
ケラケラ笑うと、晴明の持つ白い羽に目を止めた。
急に瞳が翳る。
羽の纏うものが視えたのだろうか。
「……晴明、この羽、わらわが貰っても構わぬか?」
「構わないが、綺麗なものではないぞ?」
「だからだ」
パッと晴明の手から奪い取り、部屋の奥に置いていた小箱の中に入れた。
その箱を日のあたる場所に移してその前に座り、たどたどしい手付きで印を結んでいく。
「……お前、いつの間に印を結べるようになったんだ?」
梨花は答えず、時折つかえながらも桜色の唇で呪を唱えていく。
じろりと朱雀を睨むと、自分ではない、と大げさな身ぶりで首を振った。
晴明は柱に寄りかかり、梨花を眺めることにした。
一体何をしようというのか。
囚われた魂を救うことなど出来ない。
自業自得なのだから。
最後の印を結び、呪を口にすると目映い光が小箱から溢れ、満足気に微笑んだ梨花は蓋を開けた。
小さな手を中に入れ、そっと取り出す。
掌から聞こえる小さな産声。
それは生え揃ってはいないが、美しい白く輝く羽を持っていた。
「……転生させたのか?」
ポツリと晴明が呟いた。
「どんな者にも救いはあっていいはずだ。
こんな一部分じゃ意識の隅でしか感じられないだろうが、少しはこの世界を楽しめる。
真暗闇で永遠に責め苦を受けるのは可哀想だ」
梨花はいとおしそうにふわふわの小さな頭を撫でる。
「……それは逆に残酷だとは思わないのか?」
「……そうかもしれぬ。
でも、楽しみがない方が残酷だとわらわは思う」
「……まぁいい。
俺の中では終わったことだ」
晴明が呆れたようにため息をつくと、梨花はすぐさま朱雀を呼びつけ、烏の餌になるようなものを集めてこいと、いつもの調子で言っていた。
それからしばらくの間、廂で餌を貰う姿を目にしたが、気付けば烏はいなくなっていた。
梨花も別に気に留めてはいないようだった。
「自由に緑や花、宮中を見ているのだろう」
空を眺め、降り注ぐ日射しに目を細めながら少し嬉しそうに彼女は言った。
こんな事をいつもしていたらキリがない。
そうは思ったが、後味の悪さが薄らいでいったのがわかった。
時が流れ、すっかり忘れていた頃に道長から斉信の話を聞いた。
あの当時、蔵人頭だった彼は順調に出世を重ね、この度の除目で大納言に就任したという。
また、その傍らにはいつも白い何かがいるとも伝えた。
少し視えるようになった道長が言うには、それは邪悪な思念ではなく、見守るように寄り添っていたという。
斉信本人は気付いてはいないようだったが。
晴明はその話に耳を傾けてはいたが、特に相槌も打たずにごろりと寝そべっていた。
庭の池の端で小さな名もわからぬ鳥が二羽、水を弾いて戯れている。
番か、それとも兄弟なのかはわからないが、お互いがお互いを追いかけ、軽やかな啼き声を上げていた。
あるいは、二人も幼き頃の関係に戻れたのかもしれない。
晴明は目を閉じた。
今日もまた、彼は一人、廂で横になっている。
ここの所、ろくに出仕もしていない。
内裏に興を示すものがないらしい。
「……暇だな」
一つ、小さなあくびをもらした。
「だったら内裏に行けばいいであろう?
何を日がな寝ておるのだ!
いつか狐ではなく熊になるぞ?」
「それは面倒臭いから嫌だ」
梨花を一瞥し、再び目を伏せて彼は微睡み始めた。
「ならばわらわを市に連れていけ!
わらわも暇で仕方ない」
「その方が面倒臭い。
要るものがあるならアイツに頼めよ」
顎で木を刈っている朱雀を指した。
その顔は明らかに不機嫌。
『だから俺を雑用に使うな!』
「……だそうだ。
梨花、諦めろ」
梨花は口を尖らせ、晴明を揺する。
要るものなどないが、市を見たい。
今も昔もその辺りの心情はきっと変わらない。
梨花の無言の抵抗は晴明が根負けするまで続いた。
舌打ちをしながら晴明が車を呼んだ。
「歩いて行く」
「……女は歩かない。
歩くのは侍女だけだ」
「だったら侍女の身なりをして行けば良い事であろう?
そうと決まったら早く支度をするのだ!」
本当に粗末な袿を出し着替えようとする梨花に多少げんなりしながらも、黙って見ていた。
言って聞かない事をここしばらく一緒に暮らした晴明は知っていた。
この時代、女性と言えば辻を歩くどころか人前に顔を出すこともない。
なのに、今晴明の目の前にいる梨花は少女のようないとけなさで言う。
呆れるほどにこの屋敷には変わり者ばかり集まるらしい。
「お前も来るか?」
奥で静かに猫と遊んでいた男に声をかける。
最近兼家は姿を見せない。
代わりに息子の道長が足繁く通うようになっていた。
「勿論行きます」
道長はふわりと笑い、猫を肩に乗せた。
すっかりなついてしまっているのに、元慶寺から連れて帰ったとき、猫は再びここを住処に選んでいた。
「お前の首輪も大分綻んできたな。
市に良いのがあるといいが」
チリン、と鈴を指で弾くと猫は嬉しそうに啼き声を上げた。
この猫ももう何年いるのだろう。
一つ処に長くいるなんて、なんとも珍しい。
くすくすと笑っていると支度を終えた梨花に急かされた。
勢いごむ梨花を先頭に、妙な三人組は市へと歩いて行った。
市は意外な程の賑わい。
振り売りが大声を上げて闊歩し、近海でとれた魚が並び、素朴な吊し柿などもある。
男達は泥にまみれた顔を綻ばせて闘鶏に精を出していた。
「皆汚いながらも楽しそうだな。
かような楽しいものがあるのに、なぜ京の姫君達は部屋の中に籠っておるのだろうな?」
梨花が目を輝かせながら言う。
なぜと言われてもそうなのだから仕方ない。
女は家から出ずに、歌を諳じたり、貝合わせなどつつましやかに日を過ごすのが美学なのだから。
「あっ、アレはなんだっ!?」
いうなり軽やかな足音をたてて市の奥の方に行ってしまった。
「梨花!
一人は危ない!」
大声で呼び掛けるも聞こえていないのか、どんどん奥へと行ってしまう。
「……首に縄でもつけておくべきだったな」
「さすが晴明殿の奥方ですね」
道長は笑いながら後を追い、晴明も深いため息をつき足を進めた。
梨花がようやく足を止めたのは闘鶏を行っている広場だった。
男さながらに声を張っている。
「……全くなんて娘だ」
「ふふ……、いいじゃないですか。
私はああいう女性好きですよ、姉上みたいで」
道長が笑う。
二代前の円融帝の后である彼の姉の詮子も、女にしておくのは惜しいほど男勝りでやり手だと聞いてはいる。
でもここまでではないだろう。
これはただの我が儘な童だ。
晴明はため息をつき、群衆に視線を滑らせると、その中の一人、頭一つ背の高い男が目に入った。
少し気にかかる。
彼を包む空気が微かに淀んでいた。
「おい、道長、あの男の名はわかるか?」
庶民ならわかるはずもないのだが、男はそれなりのいで立ちをしている。
もしかすると内裏に勤めている者かもしれない。
道長は心当たりがあったらしく、小さく、あぁ、と声をもらした。
「あれは斉信ですよ。
私の従兄弟です。
今は確か……蔵人頭(天皇の側近)ですね」
言われれば道長とどこか目許が似ていなくもない。
けれど、蔵人頭ともあろうものが市で暢気に闘鶏見物とは兼家といい、道長といい、どこか型破りな一族らしい。
「……何か気掛かりな事でも?」
「ん……いや、少しな」
曖昧な晴明の答えに道長がくすくすと笑いをもらす。
「……何がおかしい?」
晴明は眉を潜め、尋ねた。
「いえ……、晴明殿は面倒くさがりなのに世話焼きですよね。
なんだかんだと言いながら結局手助けをしているように見えます」
「……そんなことはない」
未だ笑う道長を一蹴するように低く咳払いをし、視線を戻すと、斉信が群衆の中から姿を消していた。
職務に戻ったのだろうか。
そのまま捨て置いても構わなかったのだが、あの不穏な空気が気にかかった。
「道長、梨花の事ちゃんと見張っててくれるか?」
「はい」
ほらやっぱり、と言わんばかりの道長の笑顔に舌打ちをしながらも、晴明は急ぎ内裏に向かった。
ようやくその姿を見つけたのは朱雀門の手前。
彼は牛車からゆるりと降りていた所だった。
声をかけようと近づいた時、空に小さな影が射した。
それは小さな烏だった。
傍目にはその辺りに飛んでいるものとなんら変わらない。
「蔵人殿!」
晴明の呼び掛けに斉信が振り向いた時、空を舞う烏がぽとりと糞らしきものを落とした。
「うわっ、なんだっ、汚いな!」
肩口に落ちたそれを懐紙で拭おうと顔をしかめる。
しかし確かに感触はあったはずなのだが、拭うべきものがない。
辺りの地面を見渡しても、見当たらなかった。
「……これは不思議な」
首を傾げる斉信に晴明が再び声をかける。
「蔵人殿、そのまま内裏に入ってはいけない。
穢れを持ち込む事になる」
「穢れ……?」
突然の言葉に更に斉信の首が傾いた。
穢れと言えばこの時代最も嫌われるものの一つである。
よくよく見れば、今声をかけてきたこの男は当代一と名高い、安倍晴明。
飄々とした男と聞いてはいるが、よもや冗談でこんな事は言うまい。
斉信は顔の色をなくし、コクリと頷き牛車に引き返した。
「俺も一緒しても構わないか?」
廉を軽くあげ、にっこりと笑う。
答えを聞かぬまま、晴明は上がり込み、斉信の襟ぐりを引っ張った。
「なっ、何をするのです!?」
思わず跳ね退けた斉信に晴明はあからさまに不機嫌な顔を見せる。
「……お節介というのならこのまま俺は去ろう。
今宵限りの命を精々楽しめ」
ひょいと今昇ったばかりの車を降りた。
「お待ちください!
何の説明もないままでは当たり前でしょう。
穢れとはどう言った事なのですか?」
斉信の訴えにあぁ、と声をもらし、何も説明していない事に晴明は気付いた。
いつも周りにいる者、兼家以外は、大体一言で察してくれていたからだった。
「すまん、悪かったな。
さっきの烏は式神といって俺達陰陽師が使役している、……小間使いみたいなものか?
とにかく、お前は今さっき呪をかけられたって事だ」
適当な説明をし、斉信の肩口を指し示した。
見てみろ、と言われ、襟を開いて肩をあらわにする。
そこはぶつけた記憶もないのに、赤紫に変色し、何かの紋様を描いていた。
斉信は息を飲み、呆然と見つめた。
そうしている間にもどんどん痣は広がってくる。
「な?」
けらけらと笑いながら晴明はどうするかを促した。
答えは勿論決まっているのだが。
下級官吏にしか過ぎない晴明と蔵人頭の斉信、位が高いのは勿論斉信である。
普段なら横柄な態度や言葉遣いを咎めるべきであるが、両者の立場は完全に逆転していた。
斉信は縋るように呪を解くよう懇願した。
「……とりあえず屋敷に戻れ。
内裏には俺が物忌みと言ってくる。
内裏にお前は入るなよ?」
斉信の屋敷の場所を聞き出し、晴明は門の内へと入っていった。
言われるままに牛車は軋みをあげて大路を降って行く。
見た目こそおどろおどろしいが、術自体はありがちなもの。
少しの間、晴明が隣で印を結んでいれば済むものだった。
故にそのまま斉信の屋敷に行っても良かったのだが。
式を遣わした陰陽師を雇ったのは誰なのか興味があった。
斉信の周りから強く匂ったのは人の思念。
もう少しで生き霊になるほどの。
あの若さで蔵人頭に昇りつめたとなれば嫉みなどは当然受けるだろうが、呪い殺そうとまでするとは。
なんと浅ましいことか。
蔵人所に行き、斉信が物忌みで来ないことを告げる。
皆一様に心配し、気遣う言葉を発した。
同じ部署にいると践んでいた晴明は拍子抜けしてしまった。
斉信自身を知ったのがついさっきなのだから他に心当たりがあるはずもない。
「……帰るか」
踵を返し蔵人所を出ようとした時、どこからか視線を感じた。
見渡すと清涼殿の簀の子からこちらを無表情に見る男がいた。
「……あれは誰だ?」
たまたま近くにいた男に聞いたが名前がすぐに出て来ないらしく、首を傾げていた。
「いい、いい、
無理に思い出さなくともじきにわかるだろうからな」
ポン、と肩を叩き、簀の子の男に不敵な笑みを見せて内裏を後にした。
屋敷ではかの男が大きな体を縮めて怯えていることだろう。
屋敷に行くと斉信は伏せっていた。
「……なんだかズキズキと疼くような気がするのです。
なにか中で這い廻っているような……」
すっかり青ざめた顔でそうもらす。
この呪は痛みはなく、眠りに落ちている間に生き絶えるはずなのだが、痣の仰々しさから痛みを感じている気になるのかもしれない。
その滑稽さに笑ってしまう。
「……なぜお笑いになるのです?」
「……失礼」
咳払いをし、半身に広がっている痣に指を滑らした。
「あの、私は何をすれば……?」
「……そうだな。
……仕事は楽しいか?」
答えになっていない回答に首を傾げると、お前が出来るのはお喋りくらいだ、と緩やかに笑った。
斉信も晴明が傍にいるせいか、いくらか色を取り戻し、ぽつりぽつりと口を開きはじめた。
「……楽しいといえば楽しいですが、辛いことも沢山あります」
視線だけ向け、相槌を打つべき唇はひそやかに呪を紡いでいた。
斉信は自ずから一人ごちる事になる。
「今私が任ぜられている蔵人頭は、名誉な職だと思っています。
この平安朝の始め、嵯峨帝の御世に我等の祖先、冬嗣様がおなりになって以来、帝の側近、強いては出世するために必ず通る職となっています」
そこまで言った時、晴明の指先が一際大きな印を結んだ。
すっかり変色してしまった肌に青白く文字がなぞられる。
斉信は今話そうとしていたことを忘れてしまったかのように目を丸くしていた。
「……続けてもいいぞ?」
手短に言い、再びぶつぶつと唱え始めた。
腕に刻まれる印を見つめながら斉信が口を再び開いた。
「……私には兄がいます。
四つ離れた兄は幼い頃は神童と呼ばれるほどで、自慢でした」
ありもしない痛みからなのか、そうではないのかはわからないが、斉信の顔が微かに歪んだ。
「それがいつからか兄と私の立場は逆転してしまいました。
兄を差し置いて私は蔵人頭になり、兄は私の下で働くようになりました。
前は喜んで私に学を教えてくれていた兄は今では話し掛けてもくれません」
ぴたりと晴明の動きが止まった。
脳裏に先程の男が過る。
きっと、あの男が兄なのだろう。
「……それが辛いのか?」
コクリと頷く。
謀らずも出し抜いた気がして。
兄の喜ぶ顔が見たくて、支えになりたくて学を重ねたはずなのに、気付けばその兄をとうに抜かしてしまっていた。
「……そんなのはこの世界ではいくらでもある事だ。
優れた者がのし上がり、劣っている者は兄であろうが父であろうが平伏するしかない。
気に病む事じゃないだろう」
「……そうですね」
「……俺には兄弟はいないからわからないが、良いものなのか?」
「……どうでしょうか。
何も知らぬ幼い頃は楽しかったですが……。
むしろ一人の方がゴタゴタせずにいいかもしれませんね」
「……こうやって命を狙われずにすむしな」
目を見張る斉信に晴明は笑いかけた。
「お前も薄々気付いていたのだろう?
誰が自分に一番強く恨みを持っているのか」
「……ですが、信じたくはありません」
きゅっと唇を噛み締める斉信を冷ややかな眼差しで一瞥し、指を揃えて自身の唇にあてた。
ふう、と息を吹き掛け、青白く光る印に触れる。
目が眩みそうな光の中から烏に似たような、だが黒ではなく白い鳥が飛び出し、廂から外へと飛んでいって消えた。
「後はその目で確かめれば良い。
じきに助けを求める使いがやって来るだろうからな」
目を細めていた斉信が腕を見ると痣は見事に消えていた。
「……助け、とは?」
「……術が失敗した時、それは自身に返ってくる。
そっくりそのままの形で」
にこりと笑い、帰ろうとする晴明を斉信は慌てて引き止める。
「助ける術はないのでしょうか?
もし兄がそのような事になったら……」
「それは因果応報というものだろう?
そんな兄を持った己を悔やめ」
なおも食い下がる斉信に晴明はため息をもらした。
「……どうしてもと言うのなら一つだけ方法がある。
お前は兄のためならなんでもするか?」
低く尋ねる晴明の言葉に斉信は喜色を見せ、勢いごんで、なんでもする、と言葉を発した。
「お前の命を差し出せ」
「…………え?」
斉信の顔が一気に強張る。
それを嘲笑うように口角をあげ、言葉を続けた。
「聞こえなかったか?
お前の命を使って兄貴を生きながらえさせてやるって言ってるんだ」
斉信の周りの空気が沈み込む。
光が消え、淀む。
思念が渦巻く。
それはもう他人の思念ではなくて己の内から出ていた。
晴明はしばらく顎をさすりながら答えを待っていたが、言葉で聞くことは無理だと悟った。
聞かずとも答えは出ている。
自己を犠牲にしてまで他人を救おうとする者なんかそうはいない。
ましてや救おうとしている相手は自分を殺そうとしたのだから。
「……気にするな。
所詮皆自分が一番可愛いんだ」
そのまま晴明は振り返りもせずに屋敷を後にした。
市にはまだ梨花と道長はいるだろうか。
これからは余計な事に首を突っ込まない方がいいのかもしれない。
よかれと思ってしても後味の悪さだけが残る。
ただ、星を見て、暦を見る、それだけだったら退屈でも後味の悪さはない。
重い足取りで市へと戻るとかの男女はまだいた。
手には山盛りの品を抱え、闘鶏を未だ満喫していた。
「お前ら、まだいたのか」
呆れるように呟くと道長が気付き、苦笑した。
軽く二刻ほどは振り回されていたはずで、顔は少しやつれているようにも見えた。
「晴明、返ってきたか!
見ろ、なかなかの逸品だとは思わぬか?
こんなボロ市も捜せば掘り出し物があるのだ」
梨花が嬉しそうに道長の手から夜光貝の使われた小さな箱を取り出した。
キラキラと夕日が照らし、輝いている。
「……お前は日々楽しいだろ」
穏やかに笑い、梨花を見つめる晴明に、勿論だ!と答えた。
「晴明の纏う空気は心地好いからな、傍にいると楽しい」
「……馬鹿。
猫の首輪を買っていないだろう。
探しに行くぞ」
くるりと踵を返し、足早に市の更に奥へと行ってしまった。
黄昏時の茜が彼を染める。
取り残された梨花はきょとんとし、道長に顔を向けた。
「……道長、わらわは何か変な事を言ったか?」
「さぁ?」
くすくすと笑う。
彼の顔もまた、茜色に染まっていた。
三つの影が寄り添うように長く、長く、延びていく。
それから幾日もしない内に、すっかり容貌を幽鬼のように変えてしまった斉信から報告を受けた。
兄と式を放った陰陽師が揃って憤死した、と。
あの夜気にかかり、兄の屋敷に行った所、この世とは思えぬ呻きとも、獣の咆哮ともつかない声を聞き、逃げ出してしまった。
昨日になって兄が出仕してこなかったので、屋敷に出向いた。
「地獄の入口かと思いました……。
門の外まで据えた臭いが漂い……、何よりも異様だったのが……」
そこまで言った所で斉信がぶるりと身を揺すった。
歯の根が合わないほどに。
「一面……黒く染まっていたのです。
夜に行ったので、闇のせいかと目を凝らしました……。
ですが、違ったのです。
まばらに蛍のように金色の灯りが見えました……」
斉信の動揺とはうらはらに晴明は酷く冷めた瞳を向ける。
既に興味は失せてしまったらしく、相槌すら打たなかった。
カチカチと歯がぶつかる音が響く。
痺れを切らした晴明が答えを言う。
「烏だったのだろう?」
斉信がやっと顔を上げ、頷いた。
「門から屋敷の屋根、庭の木に至るまで無数の烏がいました……。
啼くわけでもなく、静まり返ってそこにいるのです。
……その癖、瞳だけは煌々と輝いていました」
呼吸さえも乱れがちに話す。
彼の脳裏にはありありと光景が蘇っているのだろう。
「……それでも、兄の事が気掛かりで──……」
烏の群れを掻き分けるようにして、母屋に足を踏み入れた。
廂に敷き詰められるように落ちるおびただしい数の黒い羽。
冷や汗が伝い、ぐっしょりと狩衣を濡らす。
臭いは更に酷くなり、胃液が込み上げるほどだった。
床が、唸りをあげている。
一際すえた臭いを放つ部屋は、斉信がもっとも足を踏み入れ、見慣れていた部屋。
今は面影を探すことすら難しい。
ここに来るまでに屋敷の内にはいなかった烏が梁の上に並び、こちらを見ていた。
更に部屋を異質なものに思わせているのは、その烏は白かったこと。
烏だけではない、
衝立、屏風、唐櫃、
その部屋のものは調度品の一つに至るまで色をなくしていた。
斉信は微かに声帯を震わせ、声にならぬ悲鳴を上げた。
体が冷え、意識が朦朧とするのを必死で堪えた。
視線の先には、あるもの。
白い世界に埋もれるように、はたまた己を恥じて、身を覆い隠そうとするように。
真っ白の衣に身を包み、髪から眉、睫毛、髭に至るまで色がすっかり抜け落ちた男が二人、折り重なるようにして崩れていた。
その肌には細やかな経文が、びっしりと隙間なく、白文字で書かれていた。
ただ、黒目だけがこちらを見ている。
まるで、今なお生きているかのようにぎょろりと。
「……あ……、兄上……?」
その顔は死に怯え、歪みきっていたが、確かに長い時を共に過ごし、血を分けた愛しい兄だった。
きっともう一人は呪を施した陰陽師なのだろう。
兄の身に触れようと手を伸ばした時、一斉に烏が啼き出した。
頭の芯に響くように、打ち砕くように。
耳を押さえても防げない。
気が狂いそうになる。
斉信は自己防衛が働いたのか、恐怖のあまりなのかはわからないが、意識を手放した。
黒目がぐるりと回る。
薄れゆく意識の中で彼が最後に見たのは無念そうな、恨めしそうな顔。
次に目を開けた時は、常と代わりはなかった。
見慣れた部屋。
調度品もなんらおかしな所はない。
這うように廊下に出て辺りを見回す。
あれほどいた烏の影も、痕跡も何もない。
「……?
はっ、兄上ッ!!」
最後に見た姿を思いだし、かの人を探す。
だが、いくら探しても見つからない。
悪い夢だったのかと思い、自身の屋敷に戻るとそこには客が来ていた。
「父上、どうなされたのです?
ここへ来るなど珍しい」
さては、此度の気まずさのあまりに、兄が父を使いに寄越したのだろうか。
「……お前あてだ」
俯いたまま、父が静かに文を出す。
「やはりそうですか。
兄上も童じゃないのだから自分で来ればいいのに。
斉信は大事に至らなかったのだから気にしてませんよ、とお伝えください」
斉信は朗らかに笑い、文を開いた。
ドクン、と体が大きく脈打つ。
あぁ、
夢などではなかった。
文を見た斉信は慌てて廂から身を乗り出し、込み上げるものを洗いざらい吐き出した。
震える瞳で投げ捨てた文を見つめる。
許して。
助けて。
乱れた筆で文一面に書き込まれた言葉。
はらり、
一枚、白い羽が風にそよいた。
今、全てを話終えた斉信は落ち着きなくその瞳を動かしながら口を開いた。
「…………兄は、私を恨んでいるのでしょうか」
「……そうだとしたら、お前はどうする?」
晴明は斉信がおずおずと差し出した羽をくるくると回し、ゆっくり視線を斉信に移した。
「……わ、私を、私をお守りくださいッ!」
斉信はひれ伏し、体裁もかなぐり捨て懇願した。
快く引き受けるかと思いきや、晴明は舌打ちをした。
「……兄を弔うという気は更々ないのだな」
ため息をつき、うんざりした顔で腰を上げた。
「……安心しろ。
跳ね返された呪で命を落とした者はその縛から逃れることは叶わない。
……永遠にな」
晴明はそれきり振り返らずにその部屋を出た。
どこか浮かない気持ちで廊下を進んでいくと朱雀と蹴鞠をしていた彼女が近寄ってきた。
「晴明もやるか?
汗を流すのは気持ちが良いぞ」
ケラケラ笑うと、晴明の持つ白い羽に目を止めた。
急に瞳が翳る。
羽の纏うものが視えたのだろうか。
「……晴明、この羽、わらわが貰っても構わぬか?」
「構わないが、綺麗なものではないぞ?」
「だからだ」
パッと晴明の手から奪い取り、部屋の奥に置いていた小箱の中に入れた。
その箱を日のあたる場所に移してその前に座り、たどたどしい手付きで印を結んでいく。
「……お前、いつの間に印を結べるようになったんだ?」
梨花は答えず、時折つかえながらも桜色の唇で呪を唱えていく。
じろりと朱雀を睨むと、自分ではない、と大げさな身ぶりで首を振った。
晴明は柱に寄りかかり、梨花を眺めることにした。
一体何をしようというのか。
囚われた魂を救うことなど出来ない。
自業自得なのだから。
最後の印を結び、呪を口にすると目映い光が小箱から溢れ、満足気に微笑んだ梨花は蓋を開けた。
小さな手を中に入れ、そっと取り出す。
掌から聞こえる小さな産声。
それは生え揃ってはいないが、美しい白く輝く羽を持っていた。
「……転生させたのか?」
ポツリと晴明が呟いた。
「どんな者にも救いはあっていいはずだ。
こんな一部分じゃ意識の隅でしか感じられないだろうが、少しはこの世界を楽しめる。
真暗闇で永遠に責め苦を受けるのは可哀想だ」
梨花はいとおしそうにふわふわの小さな頭を撫でる。
「……それは逆に残酷だとは思わないのか?」
「……そうかもしれぬ。
でも、楽しみがない方が残酷だとわらわは思う」
「……まぁいい。
俺の中では終わったことだ」
晴明が呆れたようにため息をつくと、梨花はすぐさま朱雀を呼びつけ、烏の餌になるようなものを集めてこいと、いつもの調子で言っていた。
それからしばらくの間、廂で餌を貰う姿を目にしたが、気付けば烏はいなくなっていた。
梨花も別に気に留めてはいないようだった。
「自由に緑や花、宮中を見ているのだろう」
空を眺め、降り注ぐ日射しに目を細めながら少し嬉しそうに彼女は言った。
こんな事をいつもしていたらキリがない。
そうは思ったが、後味の悪さが薄らいでいったのがわかった。
時が流れ、すっかり忘れていた頃に道長から斉信の話を聞いた。
あの当時、蔵人頭だった彼は順調に出世を重ね、この度の除目で大納言に就任したという。
また、その傍らにはいつも白い何かがいるとも伝えた。
少し視えるようになった道長が言うには、それは邪悪な思念ではなく、見守るように寄り添っていたという。
斉信本人は気付いてはいないようだったが。
晴明はその話に耳を傾けてはいたが、特に相槌も打たずにごろりと寝そべっていた。
庭の池の端で小さな名もわからぬ鳥が二羽、水を弾いて戯れている。
番か、それとも兄弟なのかはわからないが、お互いがお互いを追いかけ、軽やかな啼き声を上げていた。
あるいは、二人も幼き頃の関係に戻れたのかもしれない。
晴明は目を閉じた。
今日もまた、彼は一人、廂で横になっている。
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