2 / 39
1st GAME
2nd inning : Show your love, daddy.
しおりを挟む
八か月ぶりに会う娘は、ずいぶんと大人びて見えた。
「ダディ! 会いたかった!」
アルゲニー川をのぞむオープンカフェに足を踏み入れた途端、アニーは弾けるように駆け寄って来た。
チョコレート色の滑らかな肌に、白いワンピースがよく映える。
ボードウォークに並び咲くパラソルの花から飛び出した、まるでモンシロチョウのようだとドビーは思った。
「大きくなったな、アニー。九歳の誕生日おめでとう」
プレゼントを渡すことは、弁護士から禁じられている。
娘のバースディに手ぶらでいることを恥じながら、ドビーは腰をかがめてアニーの頬に口づけた。
「ありがとう、ダディ。愛してるわ」
心優しい娘は、輝く笑顔でキスを返してくれた。
白人の妻との間に生まれた娘は、よほど神様にひいきされたらしい。
肩まで流れた美しい黒髪、クルミのように丸く大きな瞳、つんとおしゃまに立った鼻。
全てが記憶よりもずっと美しく育っている。この時期の子供の成長は魔法そのものだ。
丸テーブルに腰を落ち着ける。パラソルの端からこぼれた風が肌に染みた。五月のピッツバーグはまだ少し肌寒い。
「ホテルはダウンタウンのハンプトンだろう? 迎えに行ったのに」
「大丈夫よ。おととしまで住んでたんだもの、路地の猫の数まで覚えてるわ」
笑うえくぼが、出会ったころの妻にそっくりだ。
もっとも別れる前の何年間かは、笑顔などとんと見なかったわけだから、他に比べようもないのだが。
「新しいパパとは、どうだ?」
「オールグリーン。まったく良好よ、オールド・ダディ。銀行員のパパって素敵ね。毎日決まった時間におうちに帰って遊んでくれるし、週に一度はリトルトーキョーのスシ・ショップに連れて行ってくれるし。一年の半分を留守にしてた誰かさんとは大違い」
思わず息を詰まらせるドビー。
それを見て、アニーはころころと笑う。
「もう、ジョークよダディ。ダディのことも愛してるわ。メジャーリーガーが父親だなんて、とってもクールじゃない? クラスのみんなもうらやましいって」
そうか――と、ドビーは顔だけで笑い返した。
メジャーリーガーだろうと大統領だろうと、多感な年頃の娘が別れた父のことなど話のタネにするはずはない。
自分を心配させまいとする子供なりの気遣いが胸に痛かった。
銀行員の新しい父親を『ダディ』ではなく『パパ』と呼ぶのも、自分への義理立てのつもりだろう。
何度注意してもアニーはその呼び方を改めず、とうとうこちらが根負けする形になってしまった。
「私よりダディのことよ。今年で三十才でしょ、しっかりしなきゃダメよ。ちゃんとごはん食べてる? 体は毎日洗ってる? ステートパークでテント暮らしなんてしてないわよね?」
「あ、ああ。郊外にアパートメントを借りてる。ご飯はクラブハウスに行けば出るし、遠征先ではホテルか外食だから……シャワーだって、大体、毎日浴びてるぞ、うん」
「ほんとうに? ハーバード・リードは言ってるわ、全くの自由はヒツゼンテキにタイハイを意味するって。一人暮らしに甘えてジダラクになっちゃダメよ」
「……やけに難しい言葉を知ってるな、お前」
「最近よく本を読むの。ダディみたくキョウヨウのない人間になっちゃダメだって、マミーが」
「そ、そうか……。マミーの言うことはよく聞いておけよ……」
ドビーはスキンヘッドに滲んだ汗をぬぐいながら、苦々しく言った。
別れた妻が娘を連れてロサンゼルスに越してから、二年になる。
住み慣れたこの街から移り住むのは、小さい娘には大変な苦労だったろう。
九歳にしてはませた物言いも、大都会に適応する上の必然だったかもしれない。
元妻の再婚相手とは裁判で一度会ったきりだったが、いかにもLAの銀行員といった堅実そうな白人だった。
ポマードで撫でつけた金髪にブランド物のスーツがよく似合っていて、スキンヘッドにTシャツ・ジーンズの自分とは、稼ぎはともかく育ちが違うといった感じだ。
注文していたコーラとコーヒーが来た。ドビーはコーラのグラスをとり、
「しかしよくマミーが会うのを許したな。虫の居所がよかったのかな。ダイエットが成功したとか、ハハハ」
「許してないわよ。だってマミー、私がダディと会うこと知らないもの」
「ブッ!」
含みかけたコーラを噴き出した。
「わ。ダディ、きたない!」
「お、お前、マミーとは話がついてるって、電話で!」
「だってそうしないと、ダディ、会ってくれないじゃない。せっかくの誕生日だっていうのにパパのシュッチョウが重なるし、二人っきりでマミーとパーティーなんてことになったら、ケーキがサプリメントでデコレーションされちゃうわ。ウェッ」
「それじゃ、まさか銀行い……じゃなかったパパのほうにも」
「言ってません。ホテルで一日中ニンテンドーのゲームをしてることになってるわ」
離婚時の裁判で、娘と会えるのはシーズン中のロサンゼルス遠征のときのみ、それも年に三回だけと決められていた。
娘の方から「誕生日だし、週末だし、パパがピッツバーグへシュッチョウだし、それについてく」と連絡があったときは、妻が弁護士に内緒で気を利かせてくれたのかと思ったが、父母そろって一杯くわされたらしい。
賢い娘は、自分が妻への確認電話などしないことを読み切っていたのだろう。
ドビーは飲みかけのコーラをテーブルに置いて、席を立った。
「ダディ?」
「帰るんだ、アニー。ホテルまで送っていってやる」
手を引く父に、娘は綱引きでもするように抗った。
「いやっ! 今顔合わせたばっかりじゃない!」
「こんなところを新しいパパに見つかったらどうする」
「ならダディが守ってよ! それともダディは私と会うのがイヤなの?」
――そんなことあるもんか。
娘から電話を受けたときどれほど舞い上がったか、このまま連れ去ることができたらどんなに幸せか、一晩中でも語って聞かせたいと思いながらも、できるだけ厳しく言葉を紡ぐ。
「約束を守らない子は嫌いだ。もう会えなくなってもいいのか?」
むぅ、とふくれっ面を見せるアニー。小さな拳がワンピースの裾を握りしめ、それからふと、
「……じゃ、いいわよ。会えなくて」
「何?」
「もう会いたくないって言ってるの。ダディなんて……大っっっっ嫌い!」
頭の上に隕石が落ちた。
父が娘に「嫌い」と言われるのは一般的にはそう珍しいことではないが、ドビー・ジョンソンにとっては致命的な破壊力を持つ。
妻と別れてから、女遊びは一度もしたことがない。
ギャンブルにもタバコにも手を出さない。
酒は週に一度スコッチを舐めるくらい。
郊外のアパートメントでの男やもめを支えたのは、ひとえに娘への愛だった。
ポケットには常に愛娘の写真を忍ばせ、食事前にも就寝前にも神より先に娘への愛をささやく。もはや親バカというより娘中毒と言っていい。
その娘に、大がつくほど嫌いと言われたのだから、そのショックは推して知るべしである。
「キ……キライ……キライ……キラ……イ……」
魂の抜けたように立ちすくむドビーの背中に回り込み、アニーは「はいはい戻った戻った」とテーブルへと押し戻した。
向かい合った親子の関係はすっかり逆転していた。
「ぶええっ、アニー……俺のアニー……。頼むよ……嫌いにならないでおくれよぅ……」
テーブルの上に泣き崩れるドビー。
一度クリーンヒットを受けるともろい男だった。
一方、アニーは腕組みしながらふんぞり返る。
優位と見るや、かさにかかって押してくるのは、母親ゆずりだろう。
「それ無理。エーリッヒ・フロムは言ってるわ、愛するゆえに愛されるというのがセイジュクした愛だって。私たちのシンミツな関係は今この瞬間、ホウカイしたとセンゲンします」
「そ、そんな!」
泣きじゃくる父に、娘はチラリと横目を流し、ふといいことを思いついたというように、
「ダディ。許してほしい?」
「ほしい! 許してほしい!」
「私のいうこと、なんでも聞く?」
「聞く! なんでも聞く!」
マシュマロのような頬が、にんまりとつり上がった。
「今日、ナイトゲームでロジャースとやるのよね」
「? あ、ああ……」
唐突に切り替わった話題に、ドビーはゲジ眉をひそめた。
ロジャースとは言うまでもなく、ロサンゼルス・ロジャースのことを指す。
LAを本拠地とし、今シーズン、ナショナルリーグ西地区の首位を快走する強豪。
現在はここピッツバーグに乗り込んできての、三連戦のクライマックスだ。
「その試合で、私への愛をショウメイしてほしいの」
「――ホームランを打て、と?」
たちまちドビーの金壺眼は輝いた。
野球をはじめたきっかけは、病気の子供にせがまれて本塁打を打ったベーブルースの逸話に感動したことだ。
まるで伝説の再現じゃないかと、いやが上にも胸が高鳴る。
しかし、アニーは首を振り、
「違うわ。そんなのつまんない」
と、やおら懐から一枚のカードを取り出した。
それをのぞきこみ、ドビーは一転、血相を変えた。
「そ、それは!」
「そう。ロジャースの四番バッター、ケビン・バズワルドのベースボールカードよ」
指の間にはさんだカードを揺らしつつ、半眼で笑うアニー。
ベースボールカードとは、選手の顔写真が貼られた収集もしくはトレーディング用のカードのことで、その選手のファンならたいてい持っているものだ。
しかし、ドビーのチームのファンだったアニーがそれを持っているということはつまり――
「パパが彼の大ファンなの。それで私も好きになっちゃった。今日のお仕事が終わったら、試合を見に行くわ。あーあ、もしロジャースが負けちゃったらどうしよう。パパってば普段ストレスのたまってる分、負けると荒れるのよねー。そしたら私やマミーにとばっちりが来て、行きつく先はカテイホウカイ………………ダディのせいね」
話の筋が見えてきた。剃り上げた頭から冷たい汗が落ちてくる。
だから――と置いて、アニーの口がこう動いた。
「今日の試合、ロジャースに勝たせて」
ノー! とテーブルに身を躍らせ、ドビーは娘の口をふさいだ。
「んー! むぐー!」
「めったなことを言うんじゃない! ファンの誰かに聞かれたらどうな……あヅぁ!」
掌をかじられた。
もだえ苦しむ父を尻目に、アニーはハンカチで優雅に口を拭いた。
「んもー、ダディの声の方がよっぽど大きいわよ」
「ア、アニー、よく聞け。ダディはな、プロなんだぞ。プロってのは勝つのが仕事なんだ。ワザと負けるのは仕事のうちに入ってない。ダディの言ってること、分かるか?」
「分かってるわよ。だからこそ言ってるんじゃない。アーネスト・ヘミングウェイは言ってるわ、愛するときはそのためにギセイを払いたくなるものだって。それともダディは仕事をギセイにできないの? 私を愛してないの?」
ドビーはうう、と唸り、
「そもそも! する・しないの問題じゃない。できないんだ。野球はチームスポーツだ。俺一人がどうしたところで、勝つときは勝つ、負けるときは負ける。そういうもんだ」
「でも、ダディはキャッチャーなんでしょ。テレビで言ってたわよ、グラウンドで起こることは全部キャッチャーがコントロールできるって」
「いや、それは人によるぞ。自慢じゃないが、ダディは自分のチームのピッチャーの顔と名前もろくに一致しないんだ。配球はほとんどベンチ任せだし、ましてや試合を左右するなんてとてもとても。なんでキャッチャーなんかやってるんだろうなぁ、ハッハッハ! ……は」
アニーの瞳は軽蔑の色に染まっていた。
ドビーは広い肩をすぼめてストローを噛み、
「と、とにかくダメだ。ヤラセっていうのはメジャーで一番のルール違反なんだ。もしバレたらダディ、偉い人たちに怒られちゃうんだぞ。お尻ペンペンじゃすまない、きっとクビだ」
「そんなの知らない。家庭をコントロールできなかったんだから、せめて試合くらいコントロールしてよ」
「お、お前いくらなんでもその言い草は」
「返事はッ?」
ぐわっ、と噛みつく娘に一瞬妻の面影が見えて、ドビーは軽くチビった。
これが試合なら五回コールド寸前といったところだろう。
アニーは無糖のコーヒーを一息に飲み干すと、有無を言わさずサヨナラの一撃を撃ち放った。
「でなきゃ、ダディとはもうゼツエンだから!」
「ダディ! 会いたかった!」
アルゲニー川をのぞむオープンカフェに足を踏み入れた途端、アニーは弾けるように駆け寄って来た。
チョコレート色の滑らかな肌に、白いワンピースがよく映える。
ボードウォークに並び咲くパラソルの花から飛び出した、まるでモンシロチョウのようだとドビーは思った。
「大きくなったな、アニー。九歳の誕生日おめでとう」
プレゼントを渡すことは、弁護士から禁じられている。
娘のバースディに手ぶらでいることを恥じながら、ドビーは腰をかがめてアニーの頬に口づけた。
「ありがとう、ダディ。愛してるわ」
心優しい娘は、輝く笑顔でキスを返してくれた。
白人の妻との間に生まれた娘は、よほど神様にひいきされたらしい。
肩まで流れた美しい黒髪、クルミのように丸く大きな瞳、つんとおしゃまに立った鼻。
全てが記憶よりもずっと美しく育っている。この時期の子供の成長は魔法そのものだ。
丸テーブルに腰を落ち着ける。パラソルの端からこぼれた風が肌に染みた。五月のピッツバーグはまだ少し肌寒い。
「ホテルはダウンタウンのハンプトンだろう? 迎えに行ったのに」
「大丈夫よ。おととしまで住んでたんだもの、路地の猫の数まで覚えてるわ」
笑うえくぼが、出会ったころの妻にそっくりだ。
もっとも別れる前の何年間かは、笑顔などとんと見なかったわけだから、他に比べようもないのだが。
「新しいパパとは、どうだ?」
「オールグリーン。まったく良好よ、オールド・ダディ。銀行員のパパって素敵ね。毎日決まった時間におうちに帰って遊んでくれるし、週に一度はリトルトーキョーのスシ・ショップに連れて行ってくれるし。一年の半分を留守にしてた誰かさんとは大違い」
思わず息を詰まらせるドビー。
それを見て、アニーはころころと笑う。
「もう、ジョークよダディ。ダディのことも愛してるわ。メジャーリーガーが父親だなんて、とってもクールじゃない? クラスのみんなもうらやましいって」
そうか――と、ドビーは顔だけで笑い返した。
メジャーリーガーだろうと大統領だろうと、多感な年頃の娘が別れた父のことなど話のタネにするはずはない。
自分を心配させまいとする子供なりの気遣いが胸に痛かった。
銀行員の新しい父親を『ダディ』ではなく『パパ』と呼ぶのも、自分への義理立てのつもりだろう。
何度注意してもアニーはその呼び方を改めず、とうとうこちらが根負けする形になってしまった。
「私よりダディのことよ。今年で三十才でしょ、しっかりしなきゃダメよ。ちゃんとごはん食べてる? 体は毎日洗ってる? ステートパークでテント暮らしなんてしてないわよね?」
「あ、ああ。郊外にアパートメントを借りてる。ご飯はクラブハウスに行けば出るし、遠征先ではホテルか外食だから……シャワーだって、大体、毎日浴びてるぞ、うん」
「ほんとうに? ハーバード・リードは言ってるわ、全くの自由はヒツゼンテキにタイハイを意味するって。一人暮らしに甘えてジダラクになっちゃダメよ」
「……やけに難しい言葉を知ってるな、お前」
「最近よく本を読むの。ダディみたくキョウヨウのない人間になっちゃダメだって、マミーが」
「そ、そうか……。マミーの言うことはよく聞いておけよ……」
ドビーはスキンヘッドに滲んだ汗をぬぐいながら、苦々しく言った。
別れた妻が娘を連れてロサンゼルスに越してから、二年になる。
住み慣れたこの街から移り住むのは、小さい娘には大変な苦労だったろう。
九歳にしてはませた物言いも、大都会に適応する上の必然だったかもしれない。
元妻の再婚相手とは裁判で一度会ったきりだったが、いかにもLAの銀行員といった堅実そうな白人だった。
ポマードで撫でつけた金髪にブランド物のスーツがよく似合っていて、スキンヘッドにTシャツ・ジーンズの自分とは、稼ぎはともかく育ちが違うといった感じだ。
注文していたコーラとコーヒーが来た。ドビーはコーラのグラスをとり、
「しかしよくマミーが会うのを許したな。虫の居所がよかったのかな。ダイエットが成功したとか、ハハハ」
「許してないわよ。だってマミー、私がダディと会うこと知らないもの」
「ブッ!」
含みかけたコーラを噴き出した。
「わ。ダディ、きたない!」
「お、お前、マミーとは話がついてるって、電話で!」
「だってそうしないと、ダディ、会ってくれないじゃない。せっかくの誕生日だっていうのにパパのシュッチョウが重なるし、二人っきりでマミーとパーティーなんてことになったら、ケーキがサプリメントでデコレーションされちゃうわ。ウェッ」
「それじゃ、まさか銀行い……じゃなかったパパのほうにも」
「言ってません。ホテルで一日中ニンテンドーのゲームをしてることになってるわ」
離婚時の裁判で、娘と会えるのはシーズン中のロサンゼルス遠征のときのみ、それも年に三回だけと決められていた。
娘の方から「誕生日だし、週末だし、パパがピッツバーグへシュッチョウだし、それについてく」と連絡があったときは、妻が弁護士に内緒で気を利かせてくれたのかと思ったが、父母そろって一杯くわされたらしい。
賢い娘は、自分が妻への確認電話などしないことを読み切っていたのだろう。
ドビーは飲みかけのコーラをテーブルに置いて、席を立った。
「ダディ?」
「帰るんだ、アニー。ホテルまで送っていってやる」
手を引く父に、娘は綱引きでもするように抗った。
「いやっ! 今顔合わせたばっかりじゃない!」
「こんなところを新しいパパに見つかったらどうする」
「ならダディが守ってよ! それともダディは私と会うのがイヤなの?」
――そんなことあるもんか。
娘から電話を受けたときどれほど舞い上がったか、このまま連れ去ることができたらどんなに幸せか、一晩中でも語って聞かせたいと思いながらも、できるだけ厳しく言葉を紡ぐ。
「約束を守らない子は嫌いだ。もう会えなくなってもいいのか?」
むぅ、とふくれっ面を見せるアニー。小さな拳がワンピースの裾を握りしめ、それからふと、
「……じゃ、いいわよ。会えなくて」
「何?」
「もう会いたくないって言ってるの。ダディなんて……大っっっっ嫌い!」
頭の上に隕石が落ちた。
父が娘に「嫌い」と言われるのは一般的にはそう珍しいことではないが、ドビー・ジョンソンにとっては致命的な破壊力を持つ。
妻と別れてから、女遊びは一度もしたことがない。
ギャンブルにもタバコにも手を出さない。
酒は週に一度スコッチを舐めるくらい。
郊外のアパートメントでの男やもめを支えたのは、ひとえに娘への愛だった。
ポケットには常に愛娘の写真を忍ばせ、食事前にも就寝前にも神より先に娘への愛をささやく。もはや親バカというより娘中毒と言っていい。
その娘に、大がつくほど嫌いと言われたのだから、そのショックは推して知るべしである。
「キ……キライ……キライ……キラ……イ……」
魂の抜けたように立ちすくむドビーの背中に回り込み、アニーは「はいはい戻った戻った」とテーブルへと押し戻した。
向かい合った親子の関係はすっかり逆転していた。
「ぶええっ、アニー……俺のアニー……。頼むよ……嫌いにならないでおくれよぅ……」
テーブルの上に泣き崩れるドビー。
一度クリーンヒットを受けるともろい男だった。
一方、アニーは腕組みしながらふんぞり返る。
優位と見るや、かさにかかって押してくるのは、母親ゆずりだろう。
「それ無理。エーリッヒ・フロムは言ってるわ、愛するゆえに愛されるというのがセイジュクした愛だって。私たちのシンミツな関係は今この瞬間、ホウカイしたとセンゲンします」
「そ、そんな!」
泣きじゃくる父に、娘はチラリと横目を流し、ふといいことを思いついたというように、
「ダディ。許してほしい?」
「ほしい! 許してほしい!」
「私のいうこと、なんでも聞く?」
「聞く! なんでも聞く!」
マシュマロのような頬が、にんまりとつり上がった。
「今日、ナイトゲームでロジャースとやるのよね」
「? あ、ああ……」
唐突に切り替わった話題に、ドビーはゲジ眉をひそめた。
ロジャースとは言うまでもなく、ロサンゼルス・ロジャースのことを指す。
LAを本拠地とし、今シーズン、ナショナルリーグ西地区の首位を快走する強豪。
現在はここピッツバーグに乗り込んできての、三連戦のクライマックスだ。
「その試合で、私への愛をショウメイしてほしいの」
「――ホームランを打て、と?」
たちまちドビーの金壺眼は輝いた。
野球をはじめたきっかけは、病気の子供にせがまれて本塁打を打ったベーブルースの逸話に感動したことだ。
まるで伝説の再現じゃないかと、いやが上にも胸が高鳴る。
しかし、アニーは首を振り、
「違うわ。そんなのつまんない」
と、やおら懐から一枚のカードを取り出した。
それをのぞきこみ、ドビーは一転、血相を変えた。
「そ、それは!」
「そう。ロジャースの四番バッター、ケビン・バズワルドのベースボールカードよ」
指の間にはさんだカードを揺らしつつ、半眼で笑うアニー。
ベースボールカードとは、選手の顔写真が貼られた収集もしくはトレーディング用のカードのことで、その選手のファンならたいてい持っているものだ。
しかし、ドビーのチームのファンだったアニーがそれを持っているということはつまり――
「パパが彼の大ファンなの。それで私も好きになっちゃった。今日のお仕事が終わったら、試合を見に行くわ。あーあ、もしロジャースが負けちゃったらどうしよう。パパってば普段ストレスのたまってる分、負けると荒れるのよねー。そしたら私やマミーにとばっちりが来て、行きつく先はカテイホウカイ………………ダディのせいね」
話の筋が見えてきた。剃り上げた頭から冷たい汗が落ちてくる。
だから――と置いて、アニーの口がこう動いた。
「今日の試合、ロジャースに勝たせて」
ノー! とテーブルに身を躍らせ、ドビーは娘の口をふさいだ。
「んー! むぐー!」
「めったなことを言うんじゃない! ファンの誰かに聞かれたらどうな……あヅぁ!」
掌をかじられた。
もだえ苦しむ父を尻目に、アニーはハンカチで優雅に口を拭いた。
「んもー、ダディの声の方がよっぽど大きいわよ」
「ア、アニー、よく聞け。ダディはな、プロなんだぞ。プロってのは勝つのが仕事なんだ。ワザと負けるのは仕事のうちに入ってない。ダディの言ってること、分かるか?」
「分かってるわよ。だからこそ言ってるんじゃない。アーネスト・ヘミングウェイは言ってるわ、愛するときはそのためにギセイを払いたくなるものだって。それともダディは仕事をギセイにできないの? 私を愛してないの?」
ドビーはうう、と唸り、
「そもそも! する・しないの問題じゃない。できないんだ。野球はチームスポーツだ。俺一人がどうしたところで、勝つときは勝つ、負けるときは負ける。そういうもんだ」
「でも、ダディはキャッチャーなんでしょ。テレビで言ってたわよ、グラウンドで起こることは全部キャッチャーがコントロールできるって」
「いや、それは人によるぞ。自慢じゃないが、ダディは自分のチームのピッチャーの顔と名前もろくに一致しないんだ。配球はほとんどベンチ任せだし、ましてや試合を左右するなんてとてもとても。なんでキャッチャーなんかやってるんだろうなぁ、ハッハッハ! ……は」
アニーの瞳は軽蔑の色に染まっていた。
ドビーは広い肩をすぼめてストローを噛み、
「と、とにかくダメだ。ヤラセっていうのはメジャーで一番のルール違反なんだ。もしバレたらダディ、偉い人たちに怒られちゃうんだぞ。お尻ペンペンじゃすまない、きっとクビだ」
「そんなの知らない。家庭をコントロールできなかったんだから、せめて試合くらいコントロールしてよ」
「お、お前いくらなんでもその言い草は」
「返事はッ?」
ぐわっ、と噛みつく娘に一瞬妻の面影が見えて、ドビーは軽くチビった。
これが試合なら五回コールド寸前といったところだろう。
アニーは無糖のコーヒーを一息に飲み干すと、有無を言わさずサヨナラの一撃を撃ち放った。
「でなきゃ、ダディとはもうゼツエンだから!」
0
あなたにおすすめの小説
【完結】無能と婚約破棄された令嬢、辺境で最強魔導士として覚醒しました
東野あさひ
ファンタジー
無能の烙印、婚約破棄、そして辺境追放――。でもそれ、全部“勘違い”でした。
王国随一の名門貴族令嬢ノクティア・エルヴァーンは、魔力がないと断定され、婚約を破棄されて辺境へと追放された。
だが、誰も知らなかった――彼女が「古代魔術」の適性を持つ唯一の魔導士であることを。
行き着いた先は魔物の脅威に晒されるグランツ砦。
冷徹な司令官カイラスとの出会いをきっかけに、彼女の眠っていた力が次第に目を覚まし始める。
無能令嬢と嘲笑された少女が、辺境で覚醒し、最強へと駆け上がる――!
王都の者たちよ、見ていなさい。今度は私が、あなたたちを見下ろす番です。
これは、“追放令嬢”が辺境から世界を変える、痛快ざまぁ×覚醒ファンタジー。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
貴方だけが私に優しくしてくれた
バンブー竹田
恋愛
人質として隣国の皇帝に嫁がされた王女フィリアは宮殿の端っこの部屋をあてがわれ、お飾りの側妃として空虚な日々をやり過ごすことになった。
そんなフィリアを気遣い、優しくしてくれたのは年下の少年騎士アベルだけだった。
いつの間にかアベルに想いを寄せるようになっていくフィリア。
しかし、ある時、皇帝とアベルの会話を漏れ聞いたフィリアはアベルの優しさの裏の真実を知ってしまってーーー
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写と他もすべて架空です。
生きるために逃げだした。幸せになりたい。
白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。
2020/9/19 第一章終了
続きが書け次第また連載再開します。
2021/2/14 第二章開幕
2021/2/28 完結
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる