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真実の行方と少女の覚悟ー1
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――……そろそろ、潮時。
そう思って星を見上げる。
守りたいもの。
変わっていく環境。
自分の目的。
次なる時代への道標。
ふぅと溜息を吐き月を見上げると、ふわりと髪の毛同士が擦れてしゃらしゃらと音が鳴る。
自分はもうすぐこの世界を去る事になると知っている。
だからこそ……――
星が瞬いた刹那、そっと目を閉じた。
ルーナは生を受けてから、この村を出た事が無い。
故に世界はここで閉じていると思っていた。
完結したこの村でただただ平和に生きていたのに、あの魔草……悪魔の食事草が全てを壊した。
少女は許せなかった。
きっとアランの献身的な優しさが包んでくれたから、闇に心を委ねずに済んだのだろう。
彼とは家族でもなく親子でもない、師弟という不思議な関係に収まっている。
少女は思った。
――いつまでも、頼ってばかりではいけないんだ。
そう少女は考えて、陽が上ると同時に起きて準備をし始めた。
朝日がだいぶ昇った頃、カタンと音がして奥の扉が開き少し銀色の髪が乱れた師匠が姿を見せた。
「……おや?」
「おはようございます、お師匠さま!」
「……おはようございます……。こんな早くにどうしたんですか」
「朝ごはん、用意出来てます!」
アランの疑問には応えずに作った卵スープとリーフサラダ、そして隣で貰ってきた焼き立てのパンをスライスしたものを配膳していく。
……昨日までの自分は酷く落ち込んでいたし、めそめそとしていた。
今日からの自分は、とにかく必死になろうと思ったのだ。
出来る事はする。泣かない。そして、師の力になりたいと。
アランが誇れる自分になりたいと、心を決めていた。
「……うん、美味しいですよ。ルーナは食べないんですか?」
「はい、もう先に少し食べたので! 足りない薬草書いて下さい、採ってきます!」
「え? えぇ……」
そう言って少し面食らった様子のアランに小さめの羊皮紙と羽根ペンを手渡す。
「……どういう心境の変化ですか?」
「え……変化と、いうか」
くすっと笑って言うアランに、ルーナは一瞬俯いて昨日までの自分を恥じた。
「私、お師匠さまにいっぱい貰ってばっかりだから……落ち込んでる暇、無いです。頑張って、返さなきゃ!」
真っ直ぐアランの顔を見て言う。
ぽかんとしていたアランの顔が片眼の眼鏡越しにふわりと綻んだ。
「じゃあ、これをお願いします」
「はいっ! 行ってきまーす!」
ギィと重い音を立てて扉を押し開けると、ルーナは笑顔で外へと足を向ける。
北の山への通り道、祈りの小屋に入り、左右の肩を触り両手を組んで祈った。
――アージス様。私、前を向きますから、どうかこの村に平和をください。
湖を通った時ラウルが居ない事を悲しく思った。
しかし悲しみは何も生み出さない。
だから、まだ悲哀と恐怖の空気が色濃いこの村が、前のようにのどかで穏やかな日々を送れるように、いつもより長く願う。
……きっと、願った上で行動する事で結果は生まれるものだと、少女は感じていた。
ルーナは上を向く。
陽光が柔らかく少女を包んでいた。
ルーナが薬草の採取を終えて湖畔まで戻ってきた時、憂いを帯びた見慣れた後姿があった。
ふらふらと足取りも覚つかず、少女は眉を顰める。
「――チェスト?」
「! ルーナ……」
「どうしたの? 顔色良くない……っ!」
振り向いた彼女は胸を抑えていて、尋常ではない量の汗が滴り落ちている。
かくんと力が抜けたようにその場に膝をついたチェストを、慌てて小さな体で支えた。
「待ってて、お師匠さま連れてくるから!」
その場を蹴るように踏み出すと、診療所まで駆けた。
「お師匠さまぁっ! チェストがっ……!」
「!」
その言葉を聞いた途端、ぱっと棚の薬を一包取りアランは少女の誘導でチェストの元へと走る。
「ルーナ、飲み水を汲んできてください。先に処置します」
「はい!」
少女が近くの民家の飲み水の入ったボトルと小さい水差しを借りてすぐに戻ると、ぐったりと横たわった彼女の服を少し緩めた上で気道を塞がないようにしてアランの膝を枕代わりにしていた。
彼は首筋で脈拍を計りチェストに声をかけ続けていた。
「この薬を飲ませてあげてください」
「はい、チェスト……口開けて」
「……」
とろんとした意識混濁状態の彼女の口に手をかけて包みから赤黒い粉末薬を入れ、水差しを傾ける。
こくりと喉が上下動して、ルーナは少しほっとしてじわりと涙が浮かんだ。
「――チェスト!?」
焦ったような叫びにぱっと顔を上げると、ビルトが駆けてきていた。
「なんでお前っ……」
「ビルト、声を抑えて」
「うっ……っ」
眉間に皺を寄せて酷く動揺しているビルトに、ぴしゃりとアランが言う。
歯痒く唸り口惜しそうにぎりりと喰いしばった口元を見て、ルーナはぎゅうと目を閉じて祈った。
――お願い、アージス様。チェストを助けて……!
アランはじっと脈を診ながら、チェストの顔色を見ている。
長い長い時間に感じる程、場の空気は張り詰めていた。
実際には短い無限に感じた刻の間、何も手出し出来ないビルトとルーナはただただ回復してくれと願っていた。
「……うん、とりあえずは大丈夫です」
「!」
「……っ!」
深く息を吐いたアランの、いつもの声色に少女と男は顔を見合わせる。
「意識もすぐ戻ります。ビルト、診療所に彼女をお願いします」
「あ、あぁ!」
アランの膝元から、安堵した様子のビルトがそうっと彼女を抱え上げた。
師も立ち上がり、三人揃って診療所へと戻る。
「お師匠さま……チェスト、すぐ元気になりますよね?」
不安そうに裾を握り見上げて言った後、はっと気付いて浮かんでいた涙を袖で拭った。
「薬がちゃんと効いてますから」
「……アランよぉ」
何となく濁されたような少女への返事に、チェストをベッドにそっと横たえたビルトが口を開く。
「こいつ、なんか病気持ってるのか」
「……意識が戻ったら、本人に聞いて下さい。脈も落ち着いたし、すぐに目覚めますよ」
確証的な言葉を言わないのは、肯定したも同義だ。
それでも、アランが何も言わない……いや言えないのは、恐らく前々から持病があったのだろうと考える。
この村の医療従事者として、村民の病名やら症状を軽々しく言えないアランはきっと正しい。
しかしちらりとビルトの顔を見ると、彼は衝動を必死に抑えるような表情で、拳をぎゅうと握りしめて腕を震わせていた。
――ビルトは、チェストの事が好きだから、余計に辛いんだ……。
ルーナはその事を知っているから、余計に切なく苦しかった。
「…………ぅ…………ここ……?」
「チェスト!」
「何よ……あれ、あたし、どうしたんだっけ……」
気付いて体を捩り目を瞬かせる彼女に、ビルトは顔を覗き込んで名前を呼んだ。
「湖の傍で倒れたんですよ。駄目でしょう、随分我慢してましたね?」
「……あぁ、そっか……ごめんなさい……」
横からアランがチェストの手首を持って脈と熱を診る。
静かな叱責に、まだぼうっとしている彼女は苦笑いをしていた。
「だいぶ心拍落ち着きましたね」
「…………ルーナ?」
アランの後ろに居る少女の異変に気付き、チェストは優しく声をかけてくる。
「うぅ~~~~っ」
安堵したせいか、ルーナはぼろぼろと涙を零した。
もう泣かないと決めていたのに、我慢出来なかった。
「おいで、ルーナ」
手を差し出してくる彼女のベッドに二歩踏み出すと、少女はぎゅうと抱き縋る。
「ごめんね……心配させて」
少女は声を上げて泣き出した。
ラウルの件を想起して、彼女まで居なくなってしまう事が、ただただ怖かったのだ。
泣き続けるルーナの頭を優しく撫でながら、チェストは大丈夫、と囁き続けた。
ルーナもビルトも特に追及はしなかったが、ぽつりぽつりとチェストは自分が心臓が弱いのだと語った。
過去アランにそう診断され、剣筋を変えたという。
ただがむしゃらに振り回す剣から、一撃必殺の素早い剣へと。
時折今日少女が飲ませた薬を常備しておくために、診療所に通っていたそうだ。
聞いた後、ほぼ毎朝の手合わせの事をビルトが申し訳無さそうにしていたが、それに気付いたチェストは実戦の勘を磨くのに有難いのだとフォローした。
そして、今夜は様子を診ておくために診療所に泊まるようにとアランが話すと、申し訳なさそうに彼女は頷いた。
「チェスト……大丈夫かなぁ」
診療所の隣にある、いつもアランと自分が住んでいる家で一人、ミルクを飲みながら少女はぽそりと呟く。
アランも付き添いという形で診療所に泊まり込むらしい。
彼が付いているから安心だろうとは思ったのだが、どうも一人で夜を過ごす事が落ち着かない。
――もっと強くならなくちゃ……。
ぱちんと頬を叩いて、結局先程も涙を流してしまった自分を戒める。
そうだ、と少女は思いつく。
気になるなら、軽食とミルク入りの甘い酵茶を持って行こう、と。
お見舞いという名目で自分の気持ちを紛らわせると、少女は早速準備を始めた。
暫くして診療所に持っていく差し入れを作り終えると外へ出た。
既に夜は訪れていて、バスケットの他に手持ちのロウソク立てに火を灯した。
もし既に寝ていたら迷惑でもあるし、診療所の扉をそっと開けて小さい体を滑り込ませた。
診察室のベッドには誰もいないようなので奥の部屋だろうか。
奥の部屋は調合途中の薬草があるという理由で普段は入らないように言われている。
まぁ、入口でバスケットを渡せば大丈夫だろう。
廊下を通り扉の前に立とうとした時、こつんと何かが足元に当たった。
「?」
下を見ると、丸い物を見つける
黄土色の乾燥した薬草……だろうか。
何かが少女の記憶に引っかかった気がするが、部屋の中から小さな物音がして反射的にそれをエプロンのポケットに入れた。
「誰ですか?」
「――っ」
中から師の問う声が聞こえて、少女は怒られるような気がして返事出来ずに身を竦めた。
するとキィと扉が開いた。
「……おや、ルーナ?」
「あ、あの……ごめんなさい、これチェストに持ってきたんです」
バスケットに入れた軽食と酵茶の入ったポットを差し出す。
すると、優しく微笑んだアランの手が頭をふわりと撫でてくれた。
「そうですか。ありがとうございます……って、少し多くないですか?」
「へ? でも二人分だから……」
「…………? あぁ、私の分もですか?」
少し会話が噛み合っていない気がして、少女は首を傾げる。
ふっと小さくふきだして口元を手の甲で隠してくすくすと笑うアランにつられて、少女もよく分からないがへらりと笑った。
「チェストのだけで十分なのに」
「だって、お師匠さまもお腹すくでしょう?」
「……本当にあなたは良い子ですね」
「えぇ?」
笑われている理由も、その発言の真意もよく分からないまま、疑問符だけが増えていく。
「チェストが起きたら頂きますね。もう遅いし、ちゃんと寝るんですよ」
「はぁい」
ぽんぽんと頭を軽く触られ、促されるようにルーナは診療所から出た。
――何か、お師匠さま、変だった気がする……。
何がどうという事では無いのだが、違和感だけが残る。
しかし正体不明のざわついた心を少女はすぐに忘れてしまった。
――陽が上ってきた。
ビルトは森の中で瞳を開ける。
やたら眩しい気がするのは眠れなかっただろうか。
すっかり暗闇に慣れてしまった視界にはやや明るすぎて、思わず目を細めた。
昨晩アランに、チェストが休まらないから帰るように言われても、そのまま自宅に帰る気分にはなれず今に至る。
自分がじたばたしたところで彼女の病状が変わるものでは無い事は分かっていた。
……それでもじっとしていると悪い想像ばかり頭に浮かんできてしまう。
倒れている彼女を見た瞬間、ぞっとした。
もしかしたら、彼女まで死んでしまうのではないか……と。
だから、チェストが心臓の持病のせいだという事を言った時、勿論心配ではあるのだが別の意味で安堵した。
ここのところの事件には、関わっていないのだという事が証明されたのだから。
その時、ふっと思いだした。
――そういえば、あの男の持病の有無を聞いてなかったな……。
徹夜明けのぼうっとした頭で考える。
ふっと違和感があった。
ラウルを殺したカイは持病で、アランに薬を調合されていた形跡があった。
一方のチェストも、ずっと薬を貰っていた……。
いや、何を考えているんだと男は首を振る。
この村の者であれば、当たり前だ。
評判の薬師が居て、調子が悪ければ薬を貰う事があって何の不自然があるだろう。
自分だって、以前彼に処方してもらった薬で助かったではないか。
アランを疑うのは、あまりに短絡的すぎる。
ただ、ざわついた心は落ち着いてくれそうにはなかった。
「おはようさん」
「おや、ビルトさん。こんな早くからどうしたんだい?」
「今すぐ、早馬用意してくんねぇか」
馬車屋の男が人懐こい笑顔を浮かべてきたので、単刀直入に用件を伝えた。
「それはいいけどよ……どうかしたのかい」
「後で話すよ」
コインを握らせると、男は厩舎から村で一番早いという馬を出してきてくれる。
「ありがとよ」
礼を残して、ビルトは馬にひらりと跨り腹をトンと足で叩き走らせた。
隣村までこの速度ならそこまでかからないだろう。
「…………」
ビルトは馬を走らせながら、考えていた。
――……もし、隣村で事件を起こした奴が、うちの村の患者だったら。
考えたくは無い。
考えたくは無いが、繋がりは……アランという事になる。
否定材料が欲しくて、ビルトは馬を更に駆けさせた。
ルーナは、陽の光が窓から差し込んできて静かに目覚めた。
布団の中で伸びをすると、アランの気配の無い家はシンとしている。
アランはまだチェストに付き添ったままのようだ。
自分を入れて三人分の朝食を用意した方がいいだろう。
ベッドから下りて、着替えを済ませる。
カサ、と何かが音を立てたので、エプロンのポケットを探ると昨晩診察所で拾った薬草らしき球体を掌に乗せた。
――これ、見覚えがあるような、無いような。
少女はどうにかして記憶を辿ろうとするが、乾燥しているせいで元々の色すら分からない。
後で師にでも聞いてみよう。
再度エプロンのポケットの中に球体をしまい込んだ。
着替え終わり部屋の扉を開いた時、いきなり後ろからコンコンと窓を叩く音がして振り返る。
「……ビルト……?」
ぽかんとしていると、ビルトの手が窓を開けるように促してきて、カタンと鍵を外して外側に窓を開いた。
「どうしたんですか?」
「……アランは?」
彼は肩で息をしながら問いを投げてきた。
何をそんなに慌てているのかが分からない。
「まだチェストと一緒だと思いますけど……」
「そうか……ルーナ、俺と来い」
「……え?」
手を差し伸べてくるビルトの言動がよく分からない。
「何を言ってるんですか?」
「アランの近くに居るな。今のアイツは危険なんだ! 全部の事件に、アイツが絡んでる!」
「!? な、に……」
相当焦っているのか、いきなり切り出された話にルーナの眉間には皺がよる。
「何、言ってるんですか!?」
「頼む、騒がないでくれ。ここから離れたらとにかく理由を言うからっ」
信頼しているアランという唯一無二の存在を侮辱されているようで、ルーナの頭に血が上る。
「ビルト、お師匠さまの友達なのに……昨日チェストを助けてくれたのに! 何をいきなり言うんですか!?」
「俺だって信じてぇよ! でも……!」
「私は――」
更に反論しようとして、ビルトの言葉が呼び水になったかのように、ふっとあの丸い薬草を思い出す。
無意識にエプロンのポケット部分に手を当ててていた。
少女は思いだしたのだ。
丸まったあの形をした、二度と見たくない野草を。
――まさか……これは悪魔の食事草の実……?
「…………」
「ルー……ナ?」
急に黙り込んだルーナの様子をビルトは見ていた。
「……お前もしかして……なんか知ってるのか?」
「っ……」
「なぁ、なんでもいい話してくれ、ルー……」
「っ……知りません! 私、お師匠さまとチェストの朝ごはん作らなきゃ……」
「おいっ!」
ビルトを置き去りにしてリビングに出ると、ばたんと閉めた扉に寄りかかるように少女はずるずると崩れ落ちる。
強くなると決めたばかりなのに、勝手にぽろぽろと頬を涙が伝った。
――なんでお師匠さまが悪魔の食事草を持っているんですか。
――誰かに飲ませたんですか。
――私は……。
「……どうすればいいんですか……?」
少女の呟きは儚く消えた。
ビルトは焦れていた。
ルーナを力ずくで連れていきたいのは山々だが、本人にその気が無ければ……きっと今の状態だったらアランの下に戻るだろう。
そしていかに力自慢の自分でも、チェストとルーナを連れていくのは至難の技だ。
たぶん、少女は『アランへの疑惑の鍵となる何か』を知っている。
「くそっ!」
ぎりと歯噛みして、最良の策を考え続けた。
とにかくどうにかして二人をアランのところから遠ざけたい。
――……村の人間はきっとこういう時アージスに祈りたくなるんだろう。
普段の自分ならば偶像の精霊崇拝なんてと笑い飛ばしたくもなるが、今の自分はそんなものにすら縋りたいくらいだった。
……隣村の情報屋から聞いた話は最も恐れていた答えだった。
あの事件の前、確かにタイニーゴ村に頭痛の治療で訪れていた。
事件が起きたのは、治療を終えて帰った時だったという。
要するに、今までの事件を繋げるものは、やはりアランなのだ。
――アラン。お前は一体何を考えてるんだ?
まずはチェストを無事連れ出す、と決意と緊張を持って診療所の扉を叩いた。
「はい」
「アラン? 俺だ」
「あぁ、ビルト」
カタンと鍵が外される音がしてアランが顔を覗かせる。
――気取られるな。
ビルトは自分に言い聞かせた。
今アランを敵に回せば、チェストやルーナも何をされるか分からない。
念頭に置いて、極力静かに二人を彼から離さなければ。
こくりと唾液を静かに飲んだ。
――いつから、お前の路は歪んだんだ?
ビルトは苦い気持ちを心の中で抑えつけた。
そう思って星を見上げる。
守りたいもの。
変わっていく環境。
自分の目的。
次なる時代への道標。
ふぅと溜息を吐き月を見上げると、ふわりと髪の毛同士が擦れてしゃらしゃらと音が鳴る。
自分はもうすぐこの世界を去る事になると知っている。
だからこそ……――
星が瞬いた刹那、そっと目を閉じた。
ルーナは生を受けてから、この村を出た事が無い。
故に世界はここで閉じていると思っていた。
完結したこの村でただただ平和に生きていたのに、あの魔草……悪魔の食事草が全てを壊した。
少女は許せなかった。
きっとアランの献身的な優しさが包んでくれたから、闇に心を委ねずに済んだのだろう。
彼とは家族でもなく親子でもない、師弟という不思議な関係に収まっている。
少女は思った。
――いつまでも、頼ってばかりではいけないんだ。
そう少女は考えて、陽が上ると同時に起きて準備をし始めた。
朝日がだいぶ昇った頃、カタンと音がして奥の扉が開き少し銀色の髪が乱れた師匠が姿を見せた。
「……おや?」
「おはようございます、お師匠さま!」
「……おはようございます……。こんな早くにどうしたんですか」
「朝ごはん、用意出来てます!」
アランの疑問には応えずに作った卵スープとリーフサラダ、そして隣で貰ってきた焼き立てのパンをスライスしたものを配膳していく。
……昨日までの自分は酷く落ち込んでいたし、めそめそとしていた。
今日からの自分は、とにかく必死になろうと思ったのだ。
出来る事はする。泣かない。そして、師の力になりたいと。
アランが誇れる自分になりたいと、心を決めていた。
「……うん、美味しいですよ。ルーナは食べないんですか?」
「はい、もう先に少し食べたので! 足りない薬草書いて下さい、採ってきます!」
「え? えぇ……」
そう言って少し面食らった様子のアランに小さめの羊皮紙と羽根ペンを手渡す。
「……どういう心境の変化ですか?」
「え……変化と、いうか」
くすっと笑って言うアランに、ルーナは一瞬俯いて昨日までの自分を恥じた。
「私、お師匠さまにいっぱい貰ってばっかりだから……落ち込んでる暇、無いです。頑張って、返さなきゃ!」
真っ直ぐアランの顔を見て言う。
ぽかんとしていたアランの顔が片眼の眼鏡越しにふわりと綻んだ。
「じゃあ、これをお願いします」
「はいっ! 行ってきまーす!」
ギィと重い音を立てて扉を押し開けると、ルーナは笑顔で外へと足を向ける。
北の山への通り道、祈りの小屋に入り、左右の肩を触り両手を組んで祈った。
――アージス様。私、前を向きますから、どうかこの村に平和をください。
湖を通った時ラウルが居ない事を悲しく思った。
しかし悲しみは何も生み出さない。
だから、まだ悲哀と恐怖の空気が色濃いこの村が、前のようにのどかで穏やかな日々を送れるように、いつもより長く願う。
……きっと、願った上で行動する事で結果は生まれるものだと、少女は感じていた。
ルーナは上を向く。
陽光が柔らかく少女を包んでいた。
ルーナが薬草の採取を終えて湖畔まで戻ってきた時、憂いを帯びた見慣れた後姿があった。
ふらふらと足取りも覚つかず、少女は眉を顰める。
「――チェスト?」
「! ルーナ……」
「どうしたの? 顔色良くない……っ!」
振り向いた彼女は胸を抑えていて、尋常ではない量の汗が滴り落ちている。
かくんと力が抜けたようにその場に膝をついたチェストを、慌てて小さな体で支えた。
「待ってて、お師匠さま連れてくるから!」
その場を蹴るように踏み出すと、診療所まで駆けた。
「お師匠さまぁっ! チェストがっ……!」
「!」
その言葉を聞いた途端、ぱっと棚の薬を一包取りアランは少女の誘導でチェストの元へと走る。
「ルーナ、飲み水を汲んできてください。先に処置します」
「はい!」
少女が近くの民家の飲み水の入ったボトルと小さい水差しを借りてすぐに戻ると、ぐったりと横たわった彼女の服を少し緩めた上で気道を塞がないようにしてアランの膝を枕代わりにしていた。
彼は首筋で脈拍を計りチェストに声をかけ続けていた。
「この薬を飲ませてあげてください」
「はい、チェスト……口開けて」
「……」
とろんとした意識混濁状態の彼女の口に手をかけて包みから赤黒い粉末薬を入れ、水差しを傾ける。
こくりと喉が上下動して、ルーナは少しほっとしてじわりと涙が浮かんだ。
「――チェスト!?」
焦ったような叫びにぱっと顔を上げると、ビルトが駆けてきていた。
「なんでお前っ……」
「ビルト、声を抑えて」
「うっ……っ」
眉間に皺を寄せて酷く動揺しているビルトに、ぴしゃりとアランが言う。
歯痒く唸り口惜しそうにぎりりと喰いしばった口元を見て、ルーナはぎゅうと目を閉じて祈った。
――お願い、アージス様。チェストを助けて……!
アランはじっと脈を診ながら、チェストの顔色を見ている。
長い長い時間に感じる程、場の空気は張り詰めていた。
実際には短い無限に感じた刻の間、何も手出し出来ないビルトとルーナはただただ回復してくれと願っていた。
「……うん、とりあえずは大丈夫です」
「!」
「……っ!」
深く息を吐いたアランの、いつもの声色に少女と男は顔を見合わせる。
「意識もすぐ戻ります。ビルト、診療所に彼女をお願いします」
「あ、あぁ!」
アランの膝元から、安堵した様子のビルトがそうっと彼女を抱え上げた。
師も立ち上がり、三人揃って診療所へと戻る。
「お師匠さま……チェスト、すぐ元気になりますよね?」
不安そうに裾を握り見上げて言った後、はっと気付いて浮かんでいた涙を袖で拭った。
「薬がちゃんと効いてますから」
「……アランよぉ」
何となく濁されたような少女への返事に、チェストをベッドにそっと横たえたビルトが口を開く。
「こいつ、なんか病気持ってるのか」
「……意識が戻ったら、本人に聞いて下さい。脈も落ち着いたし、すぐに目覚めますよ」
確証的な言葉を言わないのは、肯定したも同義だ。
それでも、アランが何も言わない……いや言えないのは、恐らく前々から持病があったのだろうと考える。
この村の医療従事者として、村民の病名やら症状を軽々しく言えないアランはきっと正しい。
しかしちらりとビルトの顔を見ると、彼は衝動を必死に抑えるような表情で、拳をぎゅうと握りしめて腕を震わせていた。
――ビルトは、チェストの事が好きだから、余計に辛いんだ……。
ルーナはその事を知っているから、余計に切なく苦しかった。
「…………ぅ…………ここ……?」
「チェスト!」
「何よ……あれ、あたし、どうしたんだっけ……」
気付いて体を捩り目を瞬かせる彼女に、ビルトは顔を覗き込んで名前を呼んだ。
「湖の傍で倒れたんですよ。駄目でしょう、随分我慢してましたね?」
「……あぁ、そっか……ごめんなさい……」
横からアランがチェストの手首を持って脈と熱を診る。
静かな叱責に、まだぼうっとしている彼女は苦笑いをしていた。
「だいぶ心拍落ち着きましたね」
「…………ルーナ?」
アランの後ろに居る少女の異変に気付き、チェストは優しく声をかけてくる。
「うぅ~~~~っ」
安堵したせいか、ルーナはぼろぼろと涙を零した。
もう泣かないと決めていたのに、我慢出来なかった。
「おいで、ルーナ」
手を差し出してくる彼女のベッドに二歩踏み出すと、少女はぎゅうと抱き縋る。
「ごめんね……心配させて」
少女は声を上げて泣き出した。
ラウルの件を想起して、彼女まで居なくなってしまう事が、ただただ怖かったのだ。
泣き続けるルーナの頭を優しく撫でながら、チェストは大丈夫、と囁き続けた。
ルーナもビルトも特に追及はしなかったが、ぽつりぽつりとチェストは自分が心臓が弱いのだと語った。
過去アランにそう診断され、剣筋を変えたという。
ただがむしゃらに振り回す剣から、一撃必殺の素早い剣へと。
時折今日少女が飲ませた薬を常備しておくために、診療所に通っていたそうだ。
聞いた後、ほぼ毎朝の手合わせの事をビルトが申し訳無さそうにしていたが、それに気付いたチェストは実戦の勘を磨くのに有難いのだとフォローした。
そして、今夜は様子を診ておくために診療所に泊まるようにとアランが話すと、申し訳なさそうに彼女は頷いた。
「チェスト……大丈夫かなぁ」
診療所の隣にある、いつもアランと自分が住んでいる家で一人、ミルクを飲みながら少女はぽそりと呟く。
アランも付き添いという形で診療所に泊まり込むらしい。
彼が付いているから安心だろうとは思ったのだが、どうも一人で夜を過ごす事が落ち着かない。
――もっと強くならなくちゃ……。
ぱちんと頬を叩いて、結局先程も涙を流してしまった自分を戒める。
そうだ、と少女は思いつく。
気になるなら、軽食とミルク入りの甘い酵茶を持って行こう、と。
お見舞いという名目で自分の気持ちを紛らわせると、少女は早速準備を始めた。
暫くして診療所に持っていく差し入れを作り終えると外へ出た。
既に夜は訪れていて、バスケットの他に手持ちのロウソク立てに火を灯した。
もし既に寝ていたら迷惑でもあるし、診療所の扉をそっと開けて小さい体を滑り込ませた。
診察室のベッドには誰もいないようなので奥の部屋だろうか。
奥の部屋は調合途中の薬草があるという理由で普段は入らないように言われている。
まぁ、入口でバスケットを渡せば大丈夫だろう。
廊下を通り扉の前に立とうとした時、こつんと何かが足元に当たった。
「?」
下を見ると、丸い物を見つける
黄土色の乾燥した薬草……だろうか。
何かが少女の記憶に引っかかった気がするが、部屋の中から小さな物音がして反射的にそれをエプロンのポケットに入れた。
「誰ですか?」
「――っ」
中から師の問う声が聞こえて、少女は怒られるような気がして返事出来ずに身を竦めた。
するとキィと扉が開いた。
「……おや、ルーナ?」
「あ、あの……ごめんなさい、これチェストに持ってきたんです」
バスケットに入れた軽食と酵茶の入ったポットを差し出す。
すると、優しく微笑んだアランの手が頭をふわりと撫でてくれた。
「そうですか。ありがとうございます……って、少し多くないですか?」
「へ? でも二人分だから……」
「…………? あぁ、私の分もですか?」
少し会話が噛み合っていない気がして、少女は首を傾げる。
ふっと小さくふきだして口元を手の甲で隠してくすくすと笑うアランにつられて、少女もよく分からないがへらりと笑った。
「チェストのだけで十分なのに」
「だって、お師匠さまもお腹すくでしょう?」
「……本当にあなたは良い子ですね」
「えぇ?」
笑われている理由も、その発言の真意もよく分からないまま、疑問符だけが増えていく。
「チェストが起きたら頂きますね。もう遅いし、ちゃんと寝るんですよ」
「はぁい」
ぽんぽんと頭を軽く触られ、促されるようにルーナは診療所から出た。
――何か、お師匠さま、変だった気がする……。
何がどうという事では無いのだが、違和感だけが残る。
しかし正体不明のざわついた心を少女はすぐに忘れてしまった。
――陽が上ってきた。
ビルトは森の中で瞳を開ける。
やたら眩しい気がするのは眠れなかっただろうか。
すっかり暗闇に慣れてしまった視界にはやや明るすぎて、思わず目を細めた。
昨晩アランに、チェストが休まらないから帰るように言われても、そのまま自宅に帰る気分にはなれず今に至る。
自分がじたばたしたところで彼女の病状が変わるものでは無い事は分かっていた。
……それでもじっとしていると悪い想像ばかり頭に浮かんできてしまう。
倒れている彼女を見た瞬間、ぞっとした。
もしかしたら、彼女まで死んでしまうのではないか……と。
だから、チェストが心臓の持病のせいだという事を言った時、勿論心配ではあるのだが別の意味で安堵した。
ここのところの事件には、関わっていないのだという事が証明されたのだから。
その時、ふっと思いだした。
――そういえば、あの男の持病の有無を聞いてなかったな……。
徹夜明けのぼうっとした頭で考える。
ふっと違和感があった。
ラウルを殺したカイは持病で、アランに薬を調合されていた形跡があった。
一方のチェストも、ずっと薬を貰っていた……。
いや、何を考えているんだと男は首を振る。
この村の者であれば、当たり前だ。
評判の薬師が居て、調子が悪ければ薬を貰う事があって何の不自然があるだろう。
自分だって、以前彼に処方してもらった薬で助かったではないか。
アランを疑うのは、あまりに短絡的すぎる。
ただ、ざわついた心は落ち着いてくれそうにはなかった。
「おはようさん」
「おや、ビルトさん。こんな早くからどうしたんだい?」
「今すぐ、早馬用意してくんねぇか」
馬車屋の男が人懐こい笑顔を浮かべてきたので、単刀直入に用件を伝えた。
「それはいいけどよ……どうかしたのかい」
「後で話すよ」
コインを握らせると、男は厩舎から村で一番早いという馬を出してきてくれる。
「ありがとよ」
礼を残して、ビルトは馬にひらりと跨り腹をトンと足で叩き走らせた。
隣村までこの速度ならそこまでかからないだろう。
「…………」
ビルトは馬を走らせながら、考えていた。
――……もし、隣村で事件を起こした奴が、うちの村の患者だったら。
考えたくは無い。
考えたくは無いが、繋がりは……アランという事になる。
否定材料が欲しくて、ビルトは馬を更に駆けさせた。
ルーナは、陽の光が窓から差し込んできて静かに目覚めた。
布団の中で伸びをすると、アランの気配の無い家はシンとしている。
アランはまだチェストに付き添ったままのようだ。
自分を入れて三人分の朝食を用意した方がいいだろう。
ベッドから下りて、着替えを済ませる。
カサ、と何かが音を立てたので、エプロンのポケットを探ると昨晩診察所で拾った薬草らしき球体を掌に乗せた。
――これ、見覚えがあるような、無いような。
少女はどうにかして記憶を辿ろうとするが、乾燥しているせいで元々の色すら分からない。
後で師にでも聞いてみよう。
再度エプロンのポケットの中に球体をしまい込んだ。
着替え終わり部屋の扉を開いた時、いきなり後ろからコンコンと窓を叩く音がして振り返る。
「……ビルト……?」
ぽかんとしていると、ビルトの手が窓を開けるように促してきて、カタンと鍵を外して外側に窓を開いた。
「どうしたんですか?」
「……アランは?」
彼は肩で息をしながら問いを投げてきた。
何をそんなに慌てているのかが分からない。
「まだチェストと一緒だと思いますけど……」
「そうか……ルーナ、俺と来い」
「……え?」
手を差し伸べてくるビルトの言動がよく分からない。
「何を言ってるんですか?」
「アランの近くに居るな。今のアイツは危険なんだ! 全部の事件に、アイツが絡んでる!」
「!? な、に……」
相当焦っているのか、いきなり切り出された話にルーナの眉間には皺がよる。
「何、言ってるんですか!?」
「頼む、騒がないでくれ。ここから離れたらとにかく理由を言うからっ」
信頼しているアランという唯一無二の存在を侮辱されているようで、ルーナの頭に血が上る。
「ビルト、お師匠さまの友達なのに……昨日チェストを助けてくれたのに! 何をいきなり言うんですか!?」
「俺だって信じてぇよ! でも……!」
「私は――」
更に反論しようとして、ビルトの言葉が呼び水になったかのように、ふっとあの丸い薬草を思い出す。
無意識にエプロンのポケット部分に手を当ててていた。
少女は思いだしたのだ。
丸まったあの形をした、二度と見たくない野草を。
――まさか……これは悪魔の食事草の実……?
「…………」
「ルー……ナ?」
急に黙り込んだルーナの様子をビルトは見ていた。
「……お前もしかして……なんか知ってるのか?」
「っ……」
「なぁ、なんでもいい話してくれ、ルー……」
「っ……知りません! 私、お師匠さまとチェストの朝ごはん作らなきゃ……」
「おいっ!」
ビルトを置き去りにしてリビングに出ると、ばたんと閉めた扉に寄りかかるように少女はずるずると崩れ落ちる。
強くなると決めたばかりなのに、勝手にぽろぽろと頬を涙が伝った。
――なんでお師匠さまが悪魔の食事草を持っているんですか。
――誰かに飲ませたんですか。
――私は……。
「……どうすればいいんですか……?」
少女の呟きは儚く消えた。
ビルトは焦れていた。
ルーナを力ずくで連れていきたいのは山々だが、本人にその気が無ければ……きっと今の状態だったらアランの下に戻るだろう。
そしていかに力自慢の自分でも、チェストとルーナを連れていくのは至難の技だ。
たぶん、少女は『アランへの疑惑の鍵となる何か』を知っている。
「くそっ!」
ぎりと歯噛みして、最良の策を考え続けた。
とにかくどうにかして二人をアランのところから遠ざけたい。
――……村の人間はきっとこういう時アージスに祈りたくなるんだろう。
普段の自分ならば偶像の精霊崇拝なんてと笑い飛ばしたくもなるが、今の自分はそんなものにすら縋りたいくらいだった。
……隣村の情報屋から聞いた話は最も恐れていた答えだった。
あの事件の前、確かにタイニーゴ村に頭痛の治療で訪れていた。
事件が起きたのは、治療を終えて帰った時だったという。
要するに、今までの事件を繋げるものは、やはりアランなのだ。
――アラン。お前は一体何を考えてるんだ?
まずはチェストを無事連れ出す、と決意と緊張を持って診療所の扉を叩いた。
「はい」
「アラン? 俺だ」
「あぁ、ビルト」
カタンと鍵が外される音がしてアランが顔を覗かせる。
――気取られるな。
ビルトは自分に言い聞かせた。
今アランを敵に回せば、チェストやルーナも何をされるか分からない。
念頭に置いて、極力静かに二人を彼から離さなければ。
こくりと唾液を静かに飲んだ。
――いつから、お前の路は歪んだんだ?
ビルトは苦い気持ちを心の中で抑えつけた。
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