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29.人生の抗い難い魅力的な匂い
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半島酒店。
東洋の真珠と呼ばれたホテルだ。
桜は緊張で挙動不審になりながらドアマンが開けてくれたホテルの入り口をくぐった。
スタッフに車椅子を押すかと言われて、No, thank you,You are so good boy.とサトが気取って抑えた発音の英語で言ったのにも度肝を抜かれた。
ごめんなさいねぇ、あらアナタ可愛いわねぇ、偉いわねぇ、と華子も日本語でドアマンに微笑む。
そのままにこにこしながら車椅子を押してロビーのテーブルにつく。
「ああ。久しぶり。変わったようで・・・・。変わらないわねえ」
懐かしそうに、半分呆れたようにサトはそう言うと、天井を指差した。
「あの生首の飾りはずっとあるわね。あれ多分喋るんだから。薄気味悪いけど面白い」
天井に近い場所の女性の顔のレリーフの事だ。
「・・・さとばあちゃん、香港に来たことあるの?」
「そうなのよ。私、昔、ちょっとここに住んでいた事があるのね」
と、下を指差す。
「ええ?ここ?ここって?」
「そう。ここ。上の部屋に。一年くらいかな。仕事で来た時はここが常宿だったしね」
今度は上を指差す。
自分とサトの話なんてそっちのけで母と華子はメニューを眺めて、これもいい、これもおいしそう、と言い合っていた。
「えー。どうしよう、どうしようかなあ。選べない・・・」
「全部食べればいいんじゃない?」
まるで女学生のように話していた。
「・・・・あの、サトばあちゃん、私、全然わかんないんだけど・・・」
ティファニーのカップを優雅につまんで、さとが紅茶を飲んだ。
その様が誰よりも様になっていて、貴婦人のようだった。
いつも湯呑みで夕方から日本酒ばっかり飲んでいるこの老婦人が紅茶なんか飲むのも初めて知った。
なんで?という顔をされたのに戸惑う。
「桜ちゃん、お月様からきっと話は聞いたでしょう。その中に暁子という名前が出なかった?」
「うん、ひいおばあちゃんのお友達でしょ?」
「そうそう。それが私」
桜はびっくりして目を見開いた。
「えぇ?」
さらにわからない。
「なんで?名前違うじゃない?」
「ああそれがねえ。・・・私のお父さんは男の子が欲しかったのよ。生まれたら暁と書いてさとるとつけるつもりだったの。産まれたら女。どうしても諦められないお父さんは私にそのまま子をくっつけることにしたのね。で、さとるこ。ひどい話でしょ。でも、そんな風にパッと読める人いないじゃない。いちいち説明するのが面倒くさくて。そのうちアキコが私の通り名になっちゃったのね」
「・・・なんか、ひどい話・・・」
「昔はいい加減よ。誕生日だって一月一日だけど。私、本当は十二月の生まれらしいのよ」
「変な話だけど、昔の人は一月一日生まれの長男を欲しがったのよ。だから、長男です、書類上、元旦生まれですって男の人結構いるのよ」
長いこと市役所に勤めた華子が言った。
「そうなんだよねえ。昔は迷信深いから、産まれたその年はちょっと縁起が悪いなんて言うと、次の年に届け出したりね。だから学校に上がって、同じ教室にやたら大きな子がいたりしたのよね。そりゃ大きいわよ。本来一個上なんだから」
「東アジアってどこも迷信深いのよね」
母はケーキを頬張りながら他人事のように言い、そっちはどう?と華子の皿を興味深そうに見ている。
「ああ、おいしいこと。私、このケーキが大好き」
サト、正しくは暁子がドライフルーツの入ったケーキをぱくりと食べた。
彼女が暁子だとは本当のようだが、全く感傷的な様子もない。
祖母の話に出てきた暁子は、美しくて、失われた過去を懐かしむ、繊細で趣味のいいおしゃれな女性だったはずだ。
年をとるとそんなものどこかへ行ってしまうのだろうか。
「そろそろ行きましょうよ。お待たせしちゃうわ」
役所勤めの律儀さで華子が立ち上がった。
「そうね。・・・ああちょっと待って」
サトが車椅子をフロントまで押してくれない?と桜に頼んだ。
車椅子より目線の高いフロントの前まで来ると、暁子はしゃんと立ち上がり、何か話した。
ちょっと騒がしくなり、いかにも紳士といった年配のスタッフが現れて深い緑色の封筒を差し出した。
「お待ちしておりました」
「ええありがとう。随分長い間お預けしちゃって」
サトは受け取ると、サインをして、また億劫そうに車椅子に座る。
封筒の匂いを一瞬嗅いでいたようだ。
「なあに?」
不思議に思って桜が聞くと、暁子が笑った。
フロントのスタッフも不思議そうに覗き込んだ。
「・・・香港の匂いがするね。・・・お金と、人生の抗いがたい魅力的な匂いだよ」
暁子が英語でそう言うと、スタッフ達が笑った。
「ようこそ、おかえりなさいませ」
暁子が気取ってお辞儀をした。
「さ、行きましょうか」
そう言うと、今度は華子が車椅子を押した。
東洋の真珠と呼ばれたホテルだ。
桜は緊張で挙動不審になりながらドアマンが開けてくれたホテルの入り口をくぐった。
スタッフに車椅子を押すかと言われて、No, thank you,You are so good boy.とサトが気取って抑えた発音の英語で言ったのにも度肝を抜かれた。
ごめんなさいねぇ、あらアナタ可愛いわねぇ、偉いわねぇ、と華子も日本語でドアマンに微笑む。
そのままにこにこしながら車椅子を押してロビーのテーブルにつく。
「ああ。久しぶり。変わったようで・・・・。変わらないわねえ」
懐かしそうに、半分呆れたようにサトはそう言うと、天井を指差した。
「あの生首の飾りはずっとあるわね。あれ多分喋るんだから。薄気味悪いけど面白い」
天井に近い場所の女性の顔のレリーフの事だ。
「・・・さとばあちゃん、香港に来たことあるの?」
「そうなのよ。私、昔、ちょっとここに住んでいた事があるのね」
と、下を指差す。
「ええ?ここ?ここって?」
「そう。ここ。上の部屋に。一年くらいかな。仕事で来た時はここが常宿だったしね」
今度は上を指差す。
自分とサトの話なんてそっちのけで母と華子はメニューを眺めて、これもいい、これもおいしそう、と言い合っていた。
「えー。どうしよう、どうしようかなあ。選べない・・・」
「全部食べればいいんじゃない?」
まるで女学生のように話していた。
「・・・・あの、サトばあちゃん、私、全然わかんないんだけど・・・」
ティファニーのカップを優雅につまんで、さとが紅茶を飲んだ。
その様が誰よりも様になっていて、貴婦人のようだった。
いつも湯呑みで夕方から日本酒ばっかり飲んでいるこの老婦人が紅茶なんか飲むのも初めて知った。
なんで?という顔をされたのに戸惑う。
「桜ちゃん、お月様からきっと話は聞いたでしょう。その中に暁子という名前が出なかった?」
「うん、ひいおばあちゃんのお友達でしょ?」
「そうそう。それが私」
桜はびっくりして目を見開いた。
「えぇ?」
さらにわからない。
「なんで?名前違うじゃない?」
「ああそれがねえ。・・・私のお父さんは男の子が欲しかったのよ。生まれたら暁と書いてさとるとつけるつもりだったの。産まれたら女。どうしても諦められないお父さんは私にそのまま子をくっつけることにしたのね。で、さとるこ。ひどい話でしょ。でも、そんな風にパッと読める人いないじゃない。いちいち説明するのが面倒くさくて。そのうちアキコが私の通り名になっちゃったのね」
「・・・なんか、ひどい話・・・」
「昔はいい加減よ。誕生日だって一月一日だけど。私、本当は十二月の生まれらしいのよ」
「変な話だけど、昔の人は一月一日生まれの長男を欲しがったのよ。だから、長男です、書類上、元旦生まれですって男の人結構いるのよ」
長いこと市役所に勤めた華子が言った。
「そうなんだよねえ。昔は迷信深いから、産まれたその年はちょっと縁起が悪いなんて言うと、次の年に届け出したりね。だから学校に上がって、同じ教室にやたら大きな子がいたりしたのよね。そりゃ大きいわよ。本来一個上なんだから」
「東アジアってどこも迷信深いのよね」
母はケーキを頬張りながら他人事のように言い、そっちはどう?と華子の皿を興味深そうに見ている。
「ああ、おいしいこと。私、このケーキが大好き」
サト、正しくは暁子がドライフルーツの入ったケーキをぱくりと食べた。
彼女が暁子だとは本当のようだが、全く感傷的な様子もない。
祖母の話に出てきた暁子は、美しくて、失われた過去を懐かしむ、繊細で趣味のいいおしゃれな女性だったはずだ。
年をとるとそんなものどこかへ行ってしまうのだろうか。
「そろそろ行きましょうよ。お待たせしちゃうわ」
役所勤めの律儀さで華子が立ち上がった。
「そうね。・・・ああちょっと待って」
サトが車椅子をフロントまで押してくれない?と桜に頼んだ。
車椅子より目線の高いフロントの前まで来ると、暁子はしゃんと立ち上がり、何か話した。
ちょっと騒がしくなり、いかにも紳士といった年配のスタッフが現れて深い緑色の封筒を差し出した。
「お待ちしておりました」
「ええありがとう。随分長い間お預けしちゃって」
サトは受け取ると、サインをして、また億劫そうに車椅子に座る。
封筒の匂いを一瞬嗅いでいたようだ。
「なあに?」
不思議に思って桜が聞くと、暁子が笑った。
フロントのスタッフも不思議そうに覗き込んだ。
「・・・香港の匂いがするね。・・・お金と、人生の抗いがたい魅力的な匂いだよ」
暁子が英語でそう言うと、スタッフ達が笑った。
「ようこそ、おかえりなさいませ」
暁子が気取ってお辞儀をした。
「さ、行きましょうか」
そう言うと、今度は華子が車椅子を押した。
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