からすとふくろう

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雨はまだ細く降り続けていた。
 傘を持たず、夜の歌舞伎町を歩く。濡れる髪が頬に貼りつき、冷たさが肌に伝わる。けれど、もう恐怖ではなく、むしろ心地よささえ感じていた。雨に濡れると、胸の奥のざらついた感情が少し洗われるような気がする。

 手には、前夜もらった小さなメモを握っていた。
 「また会おう」――その一言が、胸の奥でそっと灯る光のように熱を帯びる。思わず指先で文字をなぞり、ほっと息をつく。

 路地裏の突き当たりに、《Siri》の古びた看板の光が見える。扉を開けると、ジャズの低音と柔らかな灯りに包まれた空間。外の喧騒が遠く、世界がまるで切り取られたように静かだ。

 カウンター越しに、からすが見えた。黒いシャツにジャケット、少し崩した短髪。前夜よりも距離が近く感じる。視線が合うだけで、胸がざわつく。怖いけれど、安心する。

「ふくろう、来たね」
 低く響く声に、思わず笑みがこぼれる。
 からすの隣に座ると、背中がかすかに触れる。その距離だけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

「今日は、少し話そうか」
 からすの声は静かだが、どこか深い響きがある。
 期待と不安が入り混じる胸の中で、私は小さくうなずいた。

 店内には他の客の笑い声やグラスの触れ合う音が混ざる。
 でも、私の視線は自然とからすに集中していた。彼の微笑み、仕草、視線のひとつひとつが、胸を強く揺さぶる。

 温かいココアのグラスが差し出される。指先に伝わる熱が、安心感とともに体の奥まで広がる。私は自然と手を握りしめ、微笑みを返した。

「雨、冷たくなかった?」
「……うん、ちょうどいいくらい」
 小さく答えると、からすは微笑み、軽く肩を寄せる。その距離の近さに、思わず呼吸が乱れる。目が合うたびに、胸が高鳴る。

 店の奥で、常連らしい男性がふいにこちらを見て、手を振る。ぎこちなく手を振り返すと、からすが耳元で囁く。
「気にしなくていい。あれは常連。無愛想だけど、悪いやつじゃない」

 目が合った瞬間、胸が少し痛む。怖い。でも安心する。恐怖と信頼、期待と不安が交錯する感覚。

「前より少し、慣れたみたいだね」
 からすの言葉に、頬が熱くなる。小さくうなずくと、胸の奥がわずかにほぐれた。

 ジャズの低音と雨音が、店内を柔らかく包み込む。からすの視線が、私に向けられる。時折目が合うたびに、胸がぎゅっとなる。言葉にできない気持ちが、心に積もっていく。

 少し離れた席で、男性二人が肩を寄せて笑う。
 その光景を横目で見ながら、私はふと考える。
 ――怖くても、ここにいることで少しずつ自由になれる。
 ――他人の目を気にせず、心のままにいられる場所。

 からすがそっと手を伸ばす。
「ふくろう、隣、来る?」
 その声に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 迷ったけれど、自然と体を寄せた。距離が近いだけで、心が跳ねる。

 言葉にならない感情が胸を占める。怖さと快感、安心と期待――前夜と同じ感覚が、今も鮮明に蘇る。

 指先が触れ合うわけではない。ただ隣に座るだけで、胸が熱くなる。
 心臓の鼓動が、低くジャズと重なるように響いた。

「ふくろう、ちょっと緊張してる?」
 からすの低い声に、思わず笑ってしまう。
「……ちょっと」
 正直に答えると、からすは肩をすくめ、柔らかく笑った。
「いいんだよ。俺も同じくらい緊張してる」

 その言葉に、胸の奥が温かくなる。怖さは残るけれど、少しずつ心を預けてもいいと思えた。

 閉店時間が近づく。外の雨は小止みになったが、夜の湿った空気は心地よい。
 からすが立ち上がり、私を見つめる。
「また来るんだろ?」
 問いかけに、小さくうなずく。

 胸には確かな決意が芽生えていた。
 ――怖くても、ここに来る。
 ――あの視線に、もう一度触れたい。

 店を出ると、冷たい夜風が頬を打つ。
 それでも、心にはほんの少し温かい光が残っていた。
 指先で握ったメモと、からすの存在感が、次の夜を待ち望む力になっていた。

(語り)
 あの夜、私はまた、自分の変化に気づいた。
 怖さは消えない。でも、少しずつ誰かと心を交わす楽しさを知った。
 からすの視線や言葉のひとつひとつが、私に新しい世界を教えてくれる。
 まだ歪なままでも、少しずつ自分の心を信じられるようになる。
 ――次の夜、私はまたここに来るだろう。心がそう決めていた。

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