カオス・ヘブン 皇女が彼女になった

中野八郎

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本編

参 千年越しの因縁

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 深夜二時、都市の鼓動が最も弱まる刻限《こくげん》。

 西安の旧市街外縁に位置する24時間営業のコンビニエンスストアの駐車場へ、一台のタクシーが滑り込んだ。
 ヘッドライトが雨上がりの湿ったアスファルトを一瞬だけ白く切り裂き、エンジンが咳き込むような音を立てて停止する。
「空車」のランプを消した運転席から、一人の男が降り立った。
 よれた安物のジャケットに、無精髭。どこにでもいる、深夜労働に疲弊した若い運転手の姿だ。彼は首をコキコキと鳴らしながら、猫背で店内へと歩を進めた。

 自動ドアが開くと同時に、コンビニ特有の電子音と、暖房の効いた乾燥した空気が彼を迎える。
 店内には客の姿はない。レジカウンターの中では、制服を着た若い女性店員が、気だるげに品出しのリストを指で叩いていた。
 男は雑誌コーナーには目もくれず、真っ直ぐにレジへと向かう。
「……15番」
 男の声は低く、タバコのヤニで焼け焦げたようなしゃがれ声だった。
 女性店員は顔を上げず、慣れた手つきで背後の棚から指定されたタバコの箱を抜き取り、カウンターに放った。
「35元になります」
 事務的な声。彼女の視線が男の顔を捉えることはない。
 男はポケットからスマートフォンを取り出した。QRコード決済の画面を表示させる――かのように見えた。
 しかし、彼が女性店員に見せたのは、決済アプリではなく、一枚の画像だった。
「――この写真を見て、どう思う?」
 男の指先が示していたのは、数日前にSNS上で拡散され始めた、一枚の「奇妙な」写真。
 白書文が投稿した、あの漢服姿の少女の画像。
 画質は決して良くない。素人がスマホで撮ったスナップだ。だが、その画像の中央で、少女の腰にぶら下がっている「飾り玉」だけが、異様な存在感を放っていた。

 女性店員の動きがピタリと止まった。
 気だるげだった瞳の色が消え、瞬時に鋭利な刃物のような光を宿す。
 彼女は周囲を警戒するように視線を走らせることもなく、ただ一点、その写真の細部を凝視した。防犯カメラの死角になるような絶妙な角度で、男はスマホを傾けている。
「どう思うって……間違いないわね」
 彼女の声のトーンが落ちた。接客用の上ずった声ではなく、もっと冷たく、硬質な響き。
「形状、色、そして刻印の紋様。……模造品《レプリカ》じゃない。本物の『環玦《かんけつ》』よ」
「だろうな。SNSでバズりかけてる。『西安の街角に現れたタイムスリップ美少女』だとさ」
 男は鼻で笑った。嘲笑の響きがあった。
「ただのコスプレ好きのお嬢さんなら、精巧なプラスチックの飾りをつけるだろうさ。だが、これは違う。……骨董市に出回れば億は下らない、博物館級の代物だ」
 男はスマホの画面をスワイプし、今度は本来の決済用QRコードを表示した。
「ピッ」
 電子音が鳴り、支払いが完了する。
 その一瞬の電子音だけが、二人の会話の句読点となった。
 男はタバコを掴み、ポケットにねじ込む。
「場所は?」
「IPアドレスから推測したエリアは未央区《びおうく》の住宅街。……一般人のガキが偶然拾ったのか、それとも『連中』が動いているのか」
「どちらにせよ、仕留める必要があるね」
 女性店員はレシートを発行せず、モニターの画面を消した。
「これは我々10年間の悲願。……『天下の大義』ってことね」
「承知いたした」

 男は踵《きびす》を返した。
 自動ドアが開き、再び乾いた夜気が侵入してくる。
 去り際、男は背中越しに手を振ったが、それは挨拶というよりは、獲物を見つけた狩人の合図のようだった。
 ガラス越しに見えるタクシーのテールランプが赤く点灯し、闇の中へと消えていく。
 店内に残された女性店員は、何事もなかったかのように棚卸しのリストに視線を戻した。
 自動ドアが再び閉まり、コンビニエンスストアの中に深夜特有の静寂が戻った。
 だが、その静けさは、先ほどまでのそれとは異なっていた。カウンターの中に立つ李娜の手は、伝票整理を止めている。彼女の視線は虚空を彷徨い、脳裏にはあの男――王健《おうけん》が残していった言葉と、スマホ画面の画像が焼き付いていた。
「……10年。長かったわ」
 彼女がぽつりと呟いた言葉は、現代中国語の完璧な標準語だった。
 制服のネームプレートには「李娜」というありふれた現代人の名前。しかし、その内側に潜む魂は、二千年前の前漢時代の暗殺者である。
 彼女はスマホを取り出し、連絡先リストの一つをタップした。登録名は『張勇《ちょうゆう》警備主任』。
 現在、市内随一の巨大デパートで警備部門の責任者を務める男。彼もまた、あの日に時空を超えた同志の一人だ。
『……こちら張勇』
 通話の向こうから、低く抑揚のない声が響く。周囲からは雑踏の音と館内放送が微かに聞こえる。
「伍長が動いたわ」
 李娜は短く告げた。
「標的を見つけた。SNSで拡散されている『漢服の少女』。あれは間違いなく、我々が討ち漏らした『皇女』よ」
『……了解した』
 電話越しの張勇の声に、一瞬だけ鋭い殺気が混じったのを感じた。
『“網”を張る。警備カメラの顔認証システムと、俺の部下を総動員してその少女の足取りを追う』
「頼んだわ。……ついに終わらせられる。私たちの、長きにわたる悪夢を」
 李娜は通話を切り、カウンターの奥にある従業員用ロッカーの鏡を見た。
 そこには、少し濃いめのメイクをした、どこにでもいそうな疲れた店員の顔がある。
 だが、彼女自身には見えていた。その顔の皮膚の下に、かつて長安の闇を駆けた凄腕の密偵の素顔が。
 彼女は深く息を吐き出し、遠い記憶の底へと意識を沈めた。

 ――タクシーの中に身を沈めた王健もまた、同じ記憶の奔流に飲み込まれていた。
 彼はエンジンをかけたまま、ハンドルを握りしめている。その指の関節が白く浮き出るほどに。
 フロントガラスを打つ小雨が、街灯の光を乱反射させている。その光の粒が、彼の網膜の裏で、あの日見た「血の雨」と重なった。

 前漢、長安。
 未央宮《びおうきゅう》へと続く大通りは、殺戮の巷と化していた。
『逆賊・呂氏一族を誅殺《ちゅうさつ》せよ!』
『劉氏の正統を取り戻すのだ! 天命は我らにあり!』
 喊声《かんせい》と悲鳴が入り乱れ、石畳は瞬く間に赤く染まった。
 当時、王健は伍長として、精鋭部隊を率いていた。彼らの任務はただ一つ。呂氏の専横の象徴である「傀儡《かいらい》の皇帝」とその一族を抹殺すること。
 それは、漢王朝の未来を憂う彼らにとって、一点の曇りもない「正義」だった。
「来るぞ! 皇帝の行列だ! 狙いは輿《こし》の中だ!」
 斥候の合図と共に、王健は剣を抜いた。
「全軍――かかれぇっ!!」
 王健の号令一下、路地の闇に潜んでいた兵たちが黒い奔流《ほんりゅう》となって石畳に雪崩れ込んだ。
 煌びやかな行列が、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わる。
『逆賊だ! 守れ、陛下をお守りしろ!』
 宦官たちの悲鳴じみた叫びが、金属と肉がぶつかり合う鈍い音にかき消される。
 王健は迷いなく、行列の中央、天蓋《てんがい》を掲げられた豪奢な輿《こし》へと狙いを定めた。あの中には、諸悪の根源である呂氏が擁立した傀儡《かいらい》の皇帝――少帝がいるはずだ。
「邪魔だ!」
 立ちはだかる近衛兵の喉元を剣で薙ぎ払い、返り血で視界を赤く染めながら、王健は輿へと肉薄した。
 切っ先が金糸の垂れ絹を切り裂く。
「覚悟せよ、偽りの天子ッ!」
 勢いよく踏み込み、中の主《あるじ》を引きずり出そうとした、その時だった。

 輿の中にいたのは、豪奢な衣装に身を包んだ幼い少年ではなかった。
 震える肩を抱きながらも、毅然と顔を上げた少女――皇女・劉穆清だったのだ。
「……無礼者ッ!」
 少女の鋭い叱責が、剣呑な空気を切り裂いた。恐怖で顔色は蒼白だが、その瞳だけは眼前の刃に屈することなく燃えていた。
 王健の動きが凍りつく。
「何だと……? 皇帝ではない……!?」
「隊長! 囮《おとり》です! 本隊は別の道を行っています!」
 背後で李娜が叫んだ。呂氏の残党が、幼い皇帝を逃がすために、あえて姉である皇女を乗せたこの輿を目立つ大通りへ走らせたのだ。
「謀《たばか》られたか……!」
 王健が歯しりをした瞬間、輿の反対側から影が飛び出した。
「姫様、こちらへッ!」
 老齢の宦官が穆清の手を引き、反対側の路地へと飛び降りる。
「逃がすな! 追え!」
 王健の怒号が飛ぶが、部下たちには一瞬の躊躇いがあった。
『し、しかし隊長! 相手は皇帝ではありません! 殺す必要が……』
「馬鹿者が!」
 王健は躊躇う部下を一喝した。その目には、狂気と冷静さが入り混じった、引き返せない者の色が宿っていた。
「我らは既に皇族の輿に剣を突き立てたのだ! 今更退けるか! 奴らは呂太后の血を引く呪われた一族だ、一人残らず根絶やしにするのが大義だ!」
 退路はすでに断たれている。ここで皇女を生かして帰せば、いずれ自分たちが逆賊として処刑されるだけだ。
「慈悲はいらん! 殺《や》れッ!!」
 その言葉が、最後の一線を越えさせた。
 兵士たちはもはや「義軍」ではなく、血に飢えた修羅の群れと化した。
「走ってください! 決して振り返ってはなりませぬ!」
 宦官の手を強く握りしめ、穆清は走った。
 足場の悪い路地、まとわりつく重い裳裾《もすそ》。息が切れ、肺が焼けつくように熱い。
 背後で悲鳴が上がる。自分を守るために盾となった兵士たちが、次々と殺されていく音。
『穆清様、お逃げを……ぐあっ!』
 最後に残った宦官が、張勇の振るう巨大な戦斧によって薙ぎ払われた。
「じ……爺《じい》ッ!」
 穆清が思わず足を止めて振り返ると、そこには血の海に沈む忠臣の姿と、返り血を浴びて仁王立ちする三人の追手が迫っていた。
 逃げ場はない。
 路地の突き当たり、背後は高い石壁。降りしきる雨が、穆清の頬を冷たく叩く。
「……ここまでだ、姫君」
 王健がゆっくりと、血塗れの剣を提げて歩み寄ってきた。李娜は無言で退路を塞ぎ、張勇は荒い息を吐きながら斧を構え直す。
 穆清は壁に背中を預け、震える足で必死に身体を支えた。
 殺される。
 弟の身代わりとなって。
 だが、彼女は目を逸らさなかった。震える唇を噛み締め、最後の矜持を振り絞って彼らを睨み据えた。
「……そなたらも、漢の臣であろう。恥を知れ……!」
 その声は小さく震えていたが、確かに王健の胸を刺した。
 しかし、男は首を振ってその「痛み」を振り払った。
「恨むなら、その身体に流れる呂氏の血を恨むがいい」
 王健が剣を高く振りかぶる。
 銀色の刃が、雷光を反射して煌めいた。
 穆清はカッと目を見開き、迫りくる死を見据えた。
(父上……母上……)

 振り下ろされた刃が、彼女の命を断つ――その寸前。
「な……ッ!?」
 王健の剣が、見えない壁に阻まれたかのように空中で止まった。
 いいや、違う。
 世界が、音を立てて砕けたのだ。

 キィィィィィィィィィン!!
 耳をつんざくような高周波音と共に、穆清の背後の空間が捻じれ、巨大で不気味な「黒い穴」が口を開けた。
 圧倒的な引力。
「な、なんだこれは!?」
 張勇の巨大な体が、軽々と宙に浮く。
「きゃあっ!」
 穆清の身体もまた、抗う間もなく背後の闇へと吸い込まれていく。
「くそッ、放せ……!」
 王健は石畳に剣を突き立てて耐えようとしたが、石畳ごと剥がれ飛び、彼もまた虚空へと投げ出された。李娜も、悲鳴を上げる間もなく飲み込まれる。

 暗殺者と標的。
 殺す者と殺される者。
 その四人が一塊となって、時空の裂け目という名の深淵へと堕ちていった。
 長安の雨音だけを残して、路地から全ての人影が消失する。
 それが、二千年の因縁の始まりだった。


 次に瞼を開けた時、地獄は終わっていなかった。いや、別の地獄が始まっていたのだ。
 見上げれば、天を突くような巨大な塔(ビル)が立ち並び、空には見たこともない鉄の鳥(飛行機)が轟音を立てて飛んでいた。
「ここは……どこだ? 黄泉の国か?」
 ボロボロの鎧姿で、彼らは建設中の廃墟に倒れ込んでいた。
 そこからの日々は、屈辱と絶望の連続だった。
 言葉が通じない。看板の文字(簡体字)が読めない。行き交う人々は奇妙な服を着て、自分たちを「頭のおかしい浮浪者」を見るような目で蔑んだ。
 誇り高き漢の兵士だった彼らが、ゴミ箱を漁り、腐りかけた弁当の残りを奪い合う野犬にまで堕ちた。
「水……水をくれ……」
 冬の寒空の下、高架下で震えていた張勇が、謎の熱病に倒れた時もあった。
 現代のウイルスに対する免疫など、古代人の彼らにはない。高熱にうなされ、死の淵を彷徨う部下を、王健と李娜は必死に看病した。薬を買う金などない。盗んだ解熱剤と、公園の水だけで、奇跡的に命を繋ぎ止めたのだ。
 警察(公安)の影に怯え、身分証がないためにまともな職にも就けず、日雇いの非合法な労働で小銭を稼ぐ日々。

 だが、彼らを支えたのは「復讐」ではなかった。
「使命」だった。
 泥水をすすりながら、王健は毎晩のように二人に言い聞かせた。
『我らはまだ死んでいない。天が我らを生かしたのには意味がある。……あの小娘も、必ずこの世界のどこかにいるはずだ』
 呂氏の血を絶つ。その「正義」を完遂しない限り、彼らの魂は永遠に故郷へ帰れない。そう信じ込むことで、狂いそうな現代社会のストレスに耐えてきた。
 10年。
 長い年月をかけ、彼らは学習した。
 簡体字を覚え、スマホの使い方を覚え、運転免許を取得し、身分証を偽造するルートを開拓した。
 王健はタクシー運転手として街中を走り回り、李娜はコンビニで人の噂を集め、張勇は警備員として群衆を監視する。
 完璧な「現代人」への擬態。全ては、あの一瞬の好機《チャンス》を掴むため。
「――お客さん、着きましたよ」
 バックミラー越しに客に声をかける時、王健はもう完全に「冴えない中年の運転手」の顔に戻っていた。
 客が降り、ドアが閉まる。
 彼は再び一人になり、スマホの画面をタップした。李娜から送られてきた、解像度を上げたあの少女の画像。
 腰元の「飾り玉」。それはかつて、自分が剣で切り裂こうとした輿の窓から見えたものと同じだ。
「見つけたぞ、皇女様」
 彼はアクセルを踏み込んだ。
 10年分の妄執《もうしゅう》が、エンジンの唸り声となって夜の西安に響き渡る。
 もはや、彼らの中に迷いはない。
 古代の「忠義」という名の猛毒に侵された三匹の狼が、現代の羊たちの群れに紛れ、静かに、しかし確実に牙を研ぎ澄ませていた。
 狩りの時間は、始まったばかりだ。


 リビングの空気は、シナモンと八角《ハッカク》の甘辛い香りで満たされていた。
 キッチンから聞こえてくるトントントンというリズミカルな包丁の音と、圧力鍋がシュシュと蒸気を吐き出す音が、この家がいかに平和であるかを雄弁に物語っている。

「ただいまー」
 書文が玄関のドアを開け、少し大げさに声を張り上げた。
 すると、リビングのソファから、少し大きめのスウェットを着た少女が飛び跳ねるように立ち上がった。
「……お、か、え、り……なさい」
 穆清は、まるで壊れ物を扱うように慎重に、一音一音を区切って発音した。
 その発音はまだぎこちなく、どこか古風な響きが残っているが、昨日よりはずっと滑らかだ。
「うん、ただいま。発音、良くなったね」
 書文が微笑んで頭をポンと撫でると、穆清は驚いたように目を瞬かせ、それから恥ずかしそうに俯いた。その耳がほんのりと赤らんでいる。
 彼女が着ているのは、母親が買ってきたパステルカラーのパーカーとデニムのショートパンツ。髪も緩くポニーテールにまとめられ、今の彼女を一目見て、かつて長安の宮廷で絹を纏っていた皇女だと見抜ける者はまずいないだろう。
 どこにでもいる、少し清楚な現代の美少女にしか見えなかった。
 だが、その内面では、彼女は必死にこの「異界」に適応しようと戦っていたのだ。

 夕食までの時間は、恒例となった「勉強会」だ。
 リビングのローテーブルには、小学生向けのドリルや絵本、そして書文のスマホに入れた翻訳アプリが広げられている。
「これは……『電視(テレビ)』……箱の中に、芝居小人が住んでいる……?」
 穆清が眉間に深い皺を寄せて、テレビ画面を指差す。
 画面の中では、人気バラエティ番組の芸人が、パイを顔にぶつけられて大袈裟に転げ回っていた。
「違う違う、小人はいないよ。遠くの景色を映してる鏡みたいなもの」
 書文は苦笑しながら訂正する。
「なんと……。しかし、この者たちの振る舞いは……嘆かわしい。顔に白き泥を塗りたくり、奇声を上げるとは。宮廷の道化ですら、もう少し品位があったぞ」
「あはは、まあ現代の道化も大変なんだよ」
 書文がつい笑ってしまい、無意識に独り言を漏らす。
「マジで卧槽(ヤバイ)な世界だよな……」
 すると、穆清の表情がスッと真顔になり、彼女は素早く手元の辞書アプリを操作し始めた。
 慣れない手つきで画面をタップし、検索結果をじっと見つめる。
「……書文」
「ん?」
「『卧槽(ウァツァオ)』とは……『草の上に伏す』という意味にあらず。……これは、卑俗なる罵倒語、あるいは驚愕を表す下品な言葉なりと出ている」
 彼女は辞書の画面を突きつけ、まるで教育係の老教師のような厳めしい顔つきで書文を見上げた。
「そなたは私の師である。師がそのような……汚らわしい言葉を使ってはならぬ」
「うっ……ご、ごもっともです」
 書文は冷や汗をかいて敬礼した。
 現代語を教えているはずが、逆に言葉遣いを正されるとは。彼女の学習能力の高さと、皇族としての生真面目さが、妙な化学反応を起こしている。

「ご飯できたわよー! 二人とも、手伝って!」
 キッチンから李静の明るい声が飛んできた。
「はい、母上!」
 穆清は椅子から弾かれたように立ち上がり、キッチンへと小走りで向かった。
 彼女はこの家の「家族」として認められたことが嬉しくて仕方がないらしく、家事の手伝いには誰よりも積極的だった。
 だが、意欲と結果は必ずしも比例しない。
「ああっ、ダメダメ穆清ちゃん! それは鉄のお皿だから、電子レンジに入れちゃダメ!」
「で、でんし……? 雷の箱ですか!?」
 バチバチッ!
 一瞬、レンジの中で青白いスパークが走り、李静が慌てて停止ボタンを押す。
「ひいいっ! 申し訳ありませぬ! やはり雷神が怒りを……!」
 穆清が顔面蒼白で床にひれ伏そうとするのを、李静が笑いながら引き起こした。
「いいのよ、怪我がなくてよかったわ。この箱はね、魔法で料理を温めるけど、金属とは仲が悪いの。覚えておいてね」
「魔法……。この世の厨《くりや》には、見えざる火が満ちておるのですね……」
 穆清は、プラスチックのボウルに入ったスープが数分で熱々になったのを、畏敬の念を込めて見つめていた。
「さあ、お箸を並べて。今日はあなたの好きな肉団子の甘酢煮よ」
 李静が湯気の立つ大皿を渡すと、穆清の瞳が輝いた。
 かつての宮廷料理のような豪華絢爛さはない。けれど、この湯気の一粒一粒に込められた「温もり」は、冷たい宮殿の食事よりもずっと美味しく、彼女の飢えた心を満たしてくれるものだった。
 食卓を囲み、父、母、そして書文と穆清が並ぶ。
 他愛のない会話、テレビの音、食器が触れ合う音。
 記憶があって以来、ずっと凍りついていた彼女の時間が、この温かい食卓で少しずつ溶かされていくようだった。

 食後、満腹感とともに一息ついていると、穆清がおずおずと書文に近づいてきた。
「あの……書文様」
「『様』はいらないってば」
「では……書文、兄上」
「……まあ、いいか」
 彼女の頬が少し赤い。彼女なりに距離を縮めようとしてくれているのが分かって、書文の胸がくすぐったくなる。
「湯殿(お風呂)の……準備が整いました。湯加減も、教えていただいた通りに……」
 彼女は期待に満ちた目で書文を見上げる。「上手くできたから褒めてほしい」という無言のオーラが出ていた。
 それだけでなく、彼女はタオルの準備までして、一番風呂を彼に譲ろうとしているのだ。
「どうぞ、先にお入りください。一日の垢を落とし、疲れを癒やすのが主《あるじ》の務めゆえ」
 彼女にとって、恩人である書文を最優先するのは当然の礼儀なのだろう。
 だが、書文は慌てて手を振った。
「いやいや、悪いよ! 穆清は女の子だし、お客様なんだから。一番綺麗なお湯は君が入るべきだ」
「え……?」
 穆清の表情がふっと曇った。期待が空回りしたような、捨てられた子犬のような目。
「私が……穢《けが》れているからですか……?」
「違う違う! 全然違う! レディーファーストっていう現代のルールの話だよ! ……とにかく、穆清が入って! 俺はそのあとでいいから!」
 書文の必死の説得に、穆清は不思議そうな顔をしつつも、ようやく頷いた。
「……分かりました。では、お言葉に甘えて」

 浴室のドアが閉まり、鍵のかかる音が響く。
 穆清は鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。
 現代の服を脱ぎ捨てると、そこにはやはり、傷跡の残る華奢な身体があった。だが、数日前よりは血色が戻り、肌には健康的な艶が戻りつつある。
 彼女は白いタイルに囲まれた空間にも、もう慣れていた。
「しゃんぷー……」
 ポンプを押し、透明な液体を手のひらに取る。
 ラベンダーと蜂蜜の甘い香りが浴室いっぱいに広がる。
 彼女は豊かな黒髪を濡らし、指先で丁寧に泡立てていった。
 かつては侍女たちが何種類もの香油を使って洗ってくれた髪。今は自分の手で洗わなければならないが、このふわふわとした白い泡の感触は、宮殿のどんな高価な油よりも心地よかった。
 柔らかな泡が、肩から鎖骨、そして胸の膨らみへと滑り落ちていく。
 湯気の中で、彼女は静かに目を閉じた。
 温かいお湯。良い香り。そして、扉の向こうにいる「家族」の気配。
(これほどまでに……満たされた気持ちになるのは、いつ以来だろう)
 幼い頃、乳母の子守唄を聴きながら眠った夜の記憶が蘇る。あの安心感が、二千年の時を超えて、ここにある。
 彼女は泡を洗い流し、湯船に身を沈めた。
 お湯が溢れる音だけが響く静寂の中で、彼女は小さく呟いた。
「……ありがとう、兄上」
 その言葉は現代語で、誰に教わったわけでもなく、自然と口からこぼれ落ちたものだった。


 その頃、白家の外――平和な住宅街の夜道には、異質な静寂が漂っていた。
 街灯の光が届かない木陰に、一台の黒塗りのセダンがエンジンを切って停車している。
 運転席の窓が音もなく下がり、そこから一台の小型カメラのレンズが突き出した。
 科学者・魏哲《ぎてつ》は、無表情に手元のタブレット端末を見つめていた。
「…………ふむ」
 彼の指が画面をスワイプするが、そこに映し出されているのはノイズ交じりの灰色の砂嵐だけだった。
 高性能な赤外線サーモグラフィーも、壁を透過する電磁波スキャナも、この家に関しては全く機能していない。まるで、家全体が分厚い鉛の壁で覆われているかのように、内部の情報が一切遮断されているのだ。
「観測不能……いや、何らかの『場』による物理的干渉か」
 彼の目は、獲物を見つけた狩人のそれではなく、未知の現象を前にした科学者の冷徹な好奇心で光っていた。
 魏哲は、夜の闇に浮かぶ白家の窓を見上げた。
 遮光カーテンの隙間から、暖かなオレンジ色の光が漏れている。
 その光の中で、彼らがどんな「日常」を送っているのか、外からは窺い知れない。
 だが、その見えない障壁こそが、中に「観測すべき未知」が存在することの何よりの証明だった。
「実に興味深い。……箱の中身は、開けてみるまで分からない、か」
 彼は短く口角を上げ、不気味な笑みを浮かべた。
「もう少し泳がせてみよう。この『標本』が、この世界でどう変質していくのか」
 ウィンドガラスが再び上がり、黒塗りの車は音もなく闇夜へと滑り出していった。
 嵐の前の静けさが、今はまだ、この小さな家を優しく包み込んでいた。
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