カオス・ヘブン 皇女が彼女になった

中野八郎

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本編

肆 皇女、学校に行く

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 陽光が射し込む応接室のソファに、衛佳は優雅に足を組んで座っていた。その隣には、少し緊張した面持ちの白書文と、新品の制服に身を包んだ劉穆清が座っている。

 目の前のローテーブルには、淹れたての紅茶と、書類の束が置かれていた。それらはすべて、劉穆清をこの高校の「生徒」として迎え入れるための手続き書類だった。
「本当に……なんとお礼を言えばいいか」
 書文が深々と頭を下げた。
「会長の助けには、感謝の言葉もありません。まさか、こんなに早く編入の手続きが整うなんて」
 身分証のない穆清が学校に通うなど、普通であれば不可能な話だ。戸籍の偽造か、あるいは裏ルートを使うしかないと覚悟していた書文にとって、衛佳が用意した「正規のルート」は魔法のようだった。
 彼女は医大附属病院の院長――姜石年《きょうせきねん》の娘という立場を利用し、父親のコネクションを通じて学園にお願いしたのだ。「日本からの帰国子女で、諸事情により書類が遅れている」という強引な理屈を、父親の社会的な信用で押し通してしまった。
 衛佳はティーカップを置き、ふわりと微笑んだ。
「いえいえ、お礼なんていいのよ。私もかつて……そうね、随分と昔に助けられたことがあったから。困っている人を放っておけない性分なの」
 彼女の視線が、隣席にいる祈の方へ向けられたような気がした。だが、それはほんの一瞬のことで、すぐに書文へと戻る。
「それに、これは私の力じゃないわ。私の父上……いいえ、お父さんのおかげだから。私のほうこそ、彼に感謝しなきゃいけないわね」
 彼女は少し言い淀み、「父上」という言葉を「お父さん」と言い直した。その些細な違和感に気づいたのは、同じ時代から来た穆清だけだったかもしれない。
 穆清は背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ねて最敬礼をした。
「かたじけない。衛佳殿のご恩、生涯忘れませぬ。この一身にかけても、学業に励む所存です」
 そのあまりに古風で重々しい口調に、衛佳はくすりと笑った。
「ふふ、期待しているわよ、劉さん。楽しい学校生活にしてね」


 そして迎えた登校初日。
 2年3組の教室は、朝から異様な熱気に包まれていた。
 担任の王植偉《おうしょくい》が教卓を叩いて静粛を促すが、生徒たちのざわめきは収まらない。黒板の前には、一人の少女が立っていた。
 少しウェーブのかかった黒髪、透き通るような白い肌。制服のブレザーを着ていても隠しきれない気品と、どこか浮世離れした儚げな雰囲気。
「……劉穆清です。日本から来ました。よろしく頼……お願いします」
 彼女は書文に教えられた通り、最後に深々とお辞儀をした。
 教室が一瞬静まり返り、次の瞬間、爆発的な囁き声が波及した。
「おい見ろよ、めちゃくちゃ可愛くないか?」
「会長よりヤバいかも……いや、二番目ってところか?」
「いやいや、同じレベルだろこれ! 転校生補正抜きにしても美少女すぎる!」
 男子生徒たちの目は釘付けになり、女子生徒たちも品定めするように囁き合っている。
 穆清はまだ現代語のスラングや早口の会話を完全にマスターしていないため、彼らが何を言っているのか正確には理解できていない。だが、自分に向けられる視線が、かつて宮廷で浴びた好奇の目とは質の違う、もっと無遠慮で熱っぽいものであることだけは肌で感じていた。
 彼女の肩が微かに強張る。
 それを見かねた書文が、席から立ち上がった。
「皆さん、初対面の人にそんな値踏みするような評価は失礼でしょう? 気持ちは分かるけど、場をわきまえてください」
 クラス委員長としての威厳というよりは、困っている家族を助けるような、自然で落ち着いた口調だった。
 すると、お調子者の男子生徒が敬礼のようなポーズをとった。
「はい! 委員長がそう言うなら、善処します!」
「白さんのガードが固いなぁ~」
 教室の空気が和らぎ、笑いが起きる。
「席は……そうだな、白の隣が空いているな。劉、あそこへ」
 王植偉が指差したのは、窓際の最後列、書文の隣の席だった。
 穆清は小さく安堵の息を吐き、コツコツとローファーの音を響かせて歩き出した。
 書文の隣に座ると、彼が教科書の端に小さなメモを書いて寄越してきた。
『大丈夫、自然にしてればいいから』
 その見慣れた筆跡を見ただけで、穆清の胸の中で張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩んだ。

 しかし、その安堵は長くは続かなかった。
 休み時間に入った途端、書文の席の周りには女子生徒たちが集まってきたのだ。
「ねえねえ白くん、この前の数学のここ、分かんないんだけどー」
「白くん、今日のお昼一緒に食べない? 新作のパン買ってきたの!」
「白くんはやっぱり頼もしいねぇ。転校生のフォローも完璧だし」
 書文は苦笑しながらも、一人一人の話に丁寧に相槌を打ち、ノートを見せたりしている。彼は成績優秀で面倒見が良く、ルックスも悪くない。このクラスにおける「カースト上位」の優良物件なのだ。
 穆清は自分の席で教科書を開いたまま、その光景を横目で見ていた。
(……近い)
 一人の女子生徒が、書文の肩に触れんばかりの距離で覗き込んでいる。
 別の女子生徒が、親しげに彼の腕を叩いて笑っている。
 漢代の宮廷ではあり得ない距離感だ。男女がこれほど無造作に肌を寄せ合うなど、破廉恥極まりない。
 だが、穆清の胸に湧き上がったのは、道徳的な義憤だけではなかった。
 胸の奥が、熱い泥で塗り固められたように重い。
 息がしづらい。
 喉の奥に、苦い何かが込み上げてくるような感覚。
(なんなのだ、これは……)
 書文が他の女子に向けている笑顔が、ひどく目障りだ。あの笑顔は、自分だけに向けてくれるものではなかったのか。家で料理を教える時も、テレビの説明をする時も、彼はあのように優しかった。
 それは彼にとって「誰にでもすること」であり、自分は「その他大勢」の一人に過ぎないのか。
「白くんってさー、彼女作るならどんな子がタイプ? やっぱり家庭的な子?」
「え、あー……どうだろうね。一緒にいて落ち着く人がいいかな」
「じゃあ私のこと検討してよ~!」
 きゃはは、と黄色い笑い声が弾ける。
 穆清は無意識のうちに、持っていたシャープペンシルを強く握りしめていた。
 ミシッ、とプラスチックがきしむ音がする。
「……検討」
 彼女は小さな声で呟いた。その言葉の意味を、彼女は昨日辞書で調べていた。「考慮に入れる」「調べる」という意味だ。
 なぜ、書文が妻を娶ることを、この者たちが調べる必要があるのか。
 その「モヤモヤ」とした正体不明の苛立ちは、彼女の視界を薄暗い霧で覆っていくようだった。


 その後の授業も、彼女にとっては驚きの連続だった。
 4時間目、音楽室。
「じゃあ今日はギターのコード進行のおさらいだ」
 音楽教師が生徒たちにアコースティックギターを配っていく。穆清にも一本が手渡された。
 彼女は、その瓢箪《ひょうたん》のような形をした木製の楽器を、恐る恐る抱えた。なんて軽いのだろう。そして、なんと精巧な作りか。
「……なんと」
 彼女は弦を一本弾いた。ポロン、と澄んだ音が響く。
(これほど小さな箱から、これほど豊かな音が……?)
 漢代の音楽といえば、巨大な編鐘《へんしょう》を叩いたり、長い琴や瑟《しつ》を床に置いて奏でるものが主流だった。一人で手軽に持ち運びができ、かつここまでの音域を持つ楽器など、宮廷の楽師でさえ見たことがない。
「劉さん、ギター触ったことある?」
 隣の席の女子に聞かれ、穆清は首を振った。
「いいえ……このような、小さき奇跡のような楽器は、初めて見ました」
「奇跡……? あはは、大げさだなぁ」
 周囲は笑ったが、穆清は真剣だった。この時代の技術は、音色一つとっても魔法の領域にある。

 そして、5時間目の美術室。これが最大の事件だった。
 今日の課題は「人体の構造」を学ぶためのデッサンだった。美術教師が黒板に貼り出したのは、ルネサンス期の有名な彫刻の写真や、筋肉のつき方が分かるクロッキー画。
 その中には、ダビデ像の写真もあった。
 一糸まとわぬ、筋骨隆々とした男性の全裸像である。
「ひっ……!?」
 穆清はそれを見た瞬間、顔を真っ赤にして両手で目を覆った。
「は、破廉恥な……!!」
 教室がしーんと静まり返る。
 隣に座っていた書文がギクリとして彼女を見た。
「ぼ、穆清? どうした?」
「書文様……! 目を逸らして! あのような……あのような『春宮画《しゅんきゅうが》』を白昼堂々掲げるとは、この学び舎は遊郭か何かなのですか!?」
 穆清の悲鳴に近い声が響き渡る。
「しゅ、春宮画!?」
「何だそれ?エロ本のことか?」
 クラス中がざわめき出す。書文は顔面蒼白になった。
「ち、違う!あれは芸術!芸術作品だから!」
「芸術……?嘘をおっしゃい!男の裸体を晒して喜ぶなど、閨房《けいぼう》の慰みものでしょう!」
「声がでかい!声がでかいよ穆清!」
 書文は慌てて彼女の口を塞ごうとするが、彼女は頑として指の隙間から黒板を見ようとしない。
「穢れます!書文様の目が穢れてしまいます!」
「俺の心配!?いや、俺はもう知ってるから大丈夫だけど!」
「なんと……そなた、既にこのような絵を嗜んで……!?」
 穆清が軽蔑とショックの入り混じった目で書文を見る。
「違う!美術の教科書に載ってるって意味だよ!」
「おーい、そこ。夫婦漫才はいい加減にしろー」
 美術教師の呆れた声が飛び、クラス中がドッと沸いた。
 書文は机に突っ伏し、耳まで赤くして呻いた。穆清は依然として顔を覆ったままだが、その指の隙間から、困り果てた書文の横顔をちらりと見て、胸の奥の「モヤモヤ」が少しだけ晴れるのを感じていた。
 少なくとも今、彼は自分だけを見て、自分だけに慌ててくれている。
 その事実が、なぜか安堵と、くすぐったいような優越感を彼女にもたらしていた。

 午後の日差しが、騒がしくも平和な教室を照らしている。
 第五時限目、体育。
 グラウンドと体育館に分かれて行われる授業は、穆清にとってまさに「未知の祭り」だった。
 乾いた秋風が吹き抜ける運動場で、男子生徒たちが一つの鞠《まり》を追いかけて走り回っている。「サッカー」というらしい。
 彼らは足だけで器用に鞠を操り、相手を抜き去り、網のかかった枠《ゴール》へと蹴り込む。
「蹴鞠《しゅうきく》……に似ているけれど、なんと激しい」
 穆清は木陰のベンチに座り、目を丸くして呟いた。
 当時の蹴鞠は、優雅に鞠を蹴り上げ、落とさずに回数を競うような遊びだった。だが、目の前の光景はどうだ。体ごとぶつかり合い、泥にまみれ、まるで戦場のような熱気ではないか。
 体育館の方からは、キュッキュッという摩擦音と、ドムッドムッという重い音が響いてくる。
 覗いてみれば、女子生徒たちがオレンジ色の大きな鞠を手で突き、高い位置にあるカゴ《バスケットゴール》に投げ入れていた。
「あれは……手を使うのか。なんと背が高い……そしてなんと短い衣ユニフォーム……」
 太ももを露わにした短パン姿で飛び跳ねる女子たちを見て、穆清はまたしても頬を染めたが、それ以上に圧倒されていた。
 長安の宮中では、娯楽といえば宴席での歌舞音曲か、静かに行う盤双六《ばんすごろく》、あるいは投壺《とうこ》のような地味な遊びしかなかった。
 体を動かすこと自体が、貴人にとっては奇異な行いとされていたのだ。
「この時代の民は、なんと溌剌《ハツラツ》としていることか」
 誰もが自由に走り、叫び、競い合っている。そのエネルギーの奔流が、少しだけ羨ましかった。
 自分が生きていた時代、人々は飢えと戦乱に怯え、宮廷の中ですら、常に誰かの顔色を窺って息を潜めていたからだ。
 平和とは、これほどまでに人を自由にさせるものなのか。


 放課後。
 夕暮れのチャイムが鳴り響き、生徒たちが三々五々と帰路につき始める中、穆清は教室に残って書文を待っていた。
 彼は日直の仕事を終えた後、部活のない友人と教室の後ろで何かを囲んでいる。
「そこだ!馬《マー》を跳ねろ!」
「いや待て、それだと砲《パオ》に狙われるぞ……」
 パチン、パチン、という硬質な音がリズミカルに響く。
 穆清は好奇心に引かれ、そっと彼らの背後から覗き込んだ。
 机の上に広げられていたのは、木製の盤と、赤と黒の文字が彫られた円形の駒だった。
「……これは?」
 穆清が小首をかしげると、書文が盤から目を離さずに答えた。
「ん?『象棋《シャンチー》』だよ。知らない?」
「シャンチー……象の、碁……?」
 彼女は盤面を凝視した。
 縦横に引かれた線、その交点に置かれた駒。『将』『士』『象』『車』『馬』『砲』『卒』……。
 見たことのない遊戯だ。碁(囲碁)なら知っているが、これはまるで軍隊の布陣のようである。
「もしかして、君のとこにはないのかな? ……いや待てよ、俺がおかしいのか?」
 書文は駒を持つ手を止めて、はっとしたように穆清を見た。
「穆清、君のいた時代……じゃなくて、長安にはこれ、なかった?」
「はい。存じ上げません。六博《りくはく》や弾棋《だんき》ならば嗜みましたが……」
「マジか……」
 書文は頭を掻いた。
「そうか、象棋の原型ができたのはもっと後の時代か……。いや、でも起源は戦国時代とか言われてたような……うーん、実際はどうなんだろか」
 彼は苦笑いしながら、盤の中央を指差した。
 そこには、駒が置かれていない空白の帯があり、四つの漢字が記されている。
『楚河漢界《そがかんかい》』
「これだよ、これ。このゲームはね、二つの軍隊が戦う模擬戦なんだ」
 書文は、歴史の教科書で得た知識を得意げに披露し始めた。
「この真ん中の川が『楚河』と『漢界』。つまり、楚の国と漢の国の国境線さ。……この二つの国が天下を争った『楚漢戦争』をモチーフにしてるんだよ」
「楚と……漢……」
 穆清の背筋が、ぞくりと震えた。
 その二文字は、彼女にとって単なる遊戯の背景設定ではなかった。血と鉄の匂いが染み付いた、一族の「原点」だ。
「赤の軍が『漢』、つまり劉邦《りゅうほう》。黒の軍が『楚』、項羽《こうう》だね」
 書文は何気なく駒を動かしながら続けた。
「劉邦って知ってるよね?」
「そ、劉邦様……?」
「そうそう。高祖・劉邦。平民から成り上がって、最強の武人と言われた項羽を倒して天下を取った英雄さ。このゲームは、そのお祖父ちゃんの戦いを盤上で再現してるってわけ」
 パチン。
 書文が赤の『車』を敵陣深くに打ち込んだ音。
 その音が、穆清の脳裏にある記憶の扉を叩き開けた。

 ――幼い頃の記憶。
 まだ父・恵帝《けいてい》が生きていた頃の、宮廷の奥深く。
 薄暗いが、炭火の温かさが満ちた部屋で、一人の老齢の宦官が穆清を膝に乗せていた。
 白髪交じりの髪を結い、皺だらけの顔にいつも穏やかな笑みを浮かべていた老人――曹じい。
 彼は、穆清にとって唯一、心を許せる肉親以上の存在だった。実の母は早世。母とされる従姉妹の張皇后は冷たい。祖母・呂后は厳しく冷酷で、父・恵帝は心優しかったが常に祖母の影に怯え、最後は酒と女色に溺れて若くして崩御した。
 孤独な皇女を守り、育ててくれたのは、この忠実な宦官だったのだ。
『姫様、お聞きくださいませ。あのご公(劉邦)は、そりゃあ豪快なお方でございました』
 曹じいは、しわがれた声で、まるで昨日のことのように語ってくれた。
『わしはまだ若造で、陛下の馬の口取りをしておりましたがな……項羽軍の強さといったら、鬼神のごとしでした』
『鬼神? 祖父様は怖くなかったの?』
 幼い穆清が尋ねると、曹じいは目を細めて笑った。
『怖かったに決まっておりますとも!彭城《ほうじょう》の戦いでは、我らは散々に負け、命からがら逃げ出しました。……あの嵐のような逃避行、雨の中を馬車で駆け抜けた夜のことを、今でも思い出しますわい』
 曹じいは、決して語らなかった。
 その敗走の最中、焦った祖父の劉邦が、馬車を軽くするために、実の子である父の恵帝と伯母の魯元公主を何度も蹴り落とそうとしたことを。
 そして、それを命がけで止めた御者・夏侯嬰のことも。
 彼は残酷な真実を、幼い穆清のために「勇壮な冒険譚」へと塗り替えて語ってくれたのだ。
『ですがな、姫様。あのお方は決して諦めなかった。何度負けても、何度泥を舐めても、最後には笑って立ち上がったのです。「天命は我にあり」と。……姫様のお父上、恵帝陛下も、その戦乱の中を生き抜かれた、お強いお方だったのですよ』
 曹じいの大きな手が、穆清の小さな頭を優しく撫でる。
『だから姫様も、これからどんな辛いことがあっても、あのお二人の血を引いていることを誇りになさいませ。……この老骨が、命に代えてもお守りいたしますから』

 その言葉通りだった。
 1ヶ月前、あの地獄のような路地で。
 曹じいは、迫りくるあの怪物のような男――張勇の巨大な斧の前に、その身一つで立ちはだかったのだ。
『姫様、お逃げを……っ!』
 肉が裂ける音。血飛沫。
 最期まで、彼は穆清を逃がすための盾となり、ゴミのように薙ぎ払われて死んだ。
 あの優しい手が、もう二度と自分の頭を撫でてくれることはない。
 盤上の『卒(兵)』が、『車(戦車)』によって取られ、盤の外へと弾き出された。
「あーあ、取られちゃった。兵隊さんは使い捨てだからなぁ」
 対戦相手の友人が軽く言ったその言葉が、心臓に突き刺さった。
 使い捨て。
 盤上の駒遊び。
 現代の彼らにとって、それはただのゲームだ。
 だが、自分にとっては。
 あの『卒』の一つ一つに、曹じいの命が、名もなき兵士たちの絶叫が、こびりついている。
「楚河漢界」と書かれたその河は、インクではなく、数万の死者の血で描かれているように見えた。
「……穆清?」
 書文が異変に気づいた。
 彼女の肩が小刻みに震えている。
 俯いた顔から、ぽた、ぽた、と大粒の滴が盤の上に落ちた。
 滴は『漢界』の文字を濡らし、木目を黒く染めていく。
「えっ……ちょ、ちょっと待って、どうしたの!?」
 書文が慌てて立ち上がる。
 穆清は顔を上げることができない。唇を噛み締め、嗚咽を漏らさないように必死に息を止めているが、涙は止めどなく溢れてくる。
「祖父様は……父上は……」
 絞り出すような声。
「このような……盤の上で……遊ばれるために……血を……」
 悲しみと、悔しさと、そして何より、自分だけがのうのうと生きて、あの優しい老人を死なせてしまった自責の念が、一気に決壊したのだ。

「うわっ、泣いてる!?」
 対戦相手の友人がギョッとして椅子を引いた。
 教室に残っていた他の女子生徒たちが、その騒ぎに気づいて一斉に注目する。
「え、何? 白くん、転校生泣かせた?」
「最低ー! 昨日はあんなに親切ぶってたのに!」
「男のくせに女の子いじめるとか、引くわー」
「ち、違う! 違うんだって!」
 書文は両手を振って必死に弁明しようとするが、状況証拠は真っ黒だ。
 泣いている美少女。
 その前に仁王立ちしている男子。
 盤上には「戦争ゲーム」。
「違うの! 歴史の話をしてたら急に感極まって……いや、俺がいじめたんじゃなくて、えっと、項羽が悪いっていうか!」
「ハァ? 何言ってんのコイツ」
「歴史オタクのDVとか新しいジャンル?」
「うわぁ……」
 冷ややかな視線が矢のように突き刺さる。
「穆清! なあ、頼むから何か言ってくれ! 俺が悪者になってる! 社会的に死にそうだ!」
 書文が縋るように叫ぶと、穆清はようやく涙に濡れた顔を上げた。
「……しょ、書文は……悪くありませぬ……」
 ヒック、と可愛らしいしゃっくりを一つつき、彼女は真っ赤な目で周囲を見渡した。
「ただ……この遊戯が……あまりに……悲しくて……」
「ゲームが悲しい? 弱すぎて負けたから泣いたってこと?」
 友人の一人がトンチンカンな解釈をする。
「やっぱり白くんがボコボコにしたんじゃない! 手加減してあげなよ!」
「してない! まだ一手も指してないよ!」

 教室はカオスと化した。
 涙を拭いながらも、なぜか書文の服の袖をぎゅっと掴んで離さない穆清と、クラス中の女子から「最低男」のレッテルを貼られかけて脂汗を流す書文。


 西安の喧騒は、昼夜を問わず止むことがない。
 だが、その都市の裏側で、焦燥と苛立ちの火花が散っていた。

 市内某所の安アパートの一室。タバコの煙が充満し、重苦しい空気が漂っている。
 ここが、王健らの「仮の前線基地」だった。
 ちゃぶ台の上には、西安市の詳細な住宅地図と、数台の安いスマートフォンが散乱している。
「……見つからん。どういうことだ」
 王健が吸い殻を灰皿に押し付けながら、低く唸った。
 彼は休日返上でタクシーを走らせ、客待ちのフリをして住宅街を徘徊し続けていた。だが、成果はゼロだ。
「あのエリアだというのは間違いないんだ。だが……まるで『霧』がかかったように、特定の区画だけ認識が滑る」
「私もよ」
 李娜がコンビニエンスストアの制服を着たまま、爪を噛んだ。
「近所の老人たちに聞き込みをしたけど、誰も『白家』のことをはっきり覚えていない。あるのは分かる、でも誰が住んでいるか、どんな家かを聞くと、急に話が曖昧になるの」
「これは一体……どういうことなのか」
 張勇がソファに巨大な体を沈め、警備員用の帽子を目深にかぶり直した。
「伍長、いや王健。……もはや一軒ずつ強襲して確かめるしか」
「馬鹿を言え」
 王健が即座に否定した。
「ここは長安ではない。公安(警察)組織の監視網は当時の比ではないぞ。無関係な民家を襲って騒ぎになれば、我々の方が先に狩られる」
 ドンッ、と彼が拳でちゃぶ台を叩く。
「それに、金がない」
 この一言が、かつての精鋭部隊を黙らせた。あまりにも世知辛い、現代の現実だ。
「タクシーのリース料、アパートの家賃、そしてお前のその図体が食う食費……。我々はまず、働かねばならんのだ」
「ぐ……」
 張勇が腹を押さえて呻く。古代の猛将も、資本主義のシステムと空腹には勝てない。
「シフトの時間だ。……行くぞ」
 王健が重い腰を上げ、ジャケットを羽織る。
「だがあの小娘、いつまでも隠れられると思うなよ。この街にはまだ、現代人が忘れた『闇』の抜け道がある」
 彼らは再び、現代社会の歯車としての仮面を被り、それぞれの労働現場へと散っていった。
 ただ、その瞳の奥に宿る殺意の炎だけは、決して消えることはなかった。


 一方、都心部の高層ビル。
 その変哲のないビルに位置する、国家資金で運営されている研究施設「西安先進技術研究所」。
 空調の低い駆動音(ハムノイズ)だけが響く純白の空間で、魏哲は一人、有機ELの大型モニターと対峙していた。
「ふむ……やはり、ただ事ではないな」
 彼は白衣のポケットから、一冊の分厚い専門書を取り出し、デスクの上に置いた。
 タイトルは『優生学と遺伝子工学の倫理的境界』。
 一般的科学者なら眉をひそめるような、あるいは糾弾するために読むような本だ。
 だが、彼が何気なく開いたページに挟まれていたのは、しおり代わりの一枚の古いモノクロ写真だった。
 端正な顔立ちの男が、微笑んでいる写真。
 ヨーゼフ・メンゲレ。
 かつてアウシュヴィッツで「死の天使」と呼ばれ、非人道的な人体実験を繰り返した狂気の医師である。
 魏哲はその写真の男に向けて、親しげにウィンクを送った。
「先輩、どう思います? この美しいデータの異常値を」
 彼が指差したモニターには、白家の周辺で観測された重力波と電磁波のグラフが表示されていた。
 それは自然界にはあり得ない、極めて人工的で、かつ「意図的」に歪められた数値を示していた。
「ハイデの上を、小さな花が咲いている……♪」
 魏哲は鼻歌を歌い始めた。
 軽快なマーチのリズム。ドイツ語の歌詞。
「エリカ」だ。
 かつてナチス・ドイツの兵士たちが愛唱したその旋律を、彼は実験の準備をする際のお気に入りのBGMにしていた。
「Und das heißt……Erika(その名は……エリカ)♪」
 彼はリズムに合わせてキーボードを叩く。
「通常の物理干渉ではない。位相空間そのものをずらしているかのような……実にエレガントな遮蔽だ。魔法使いでも住んでいるのかな?」
 彼の指がエンターキーを強く弾くと、画面上に『解析開始』のプログレスバーが表示された。
 残り時間、720時間以上。
 膨大な時間がかかる計算だが、彼にとっては待つ楽しみが増えたに過ぎない。
 彼はメンゲレの写真を本に挟み直し、満足げに椅子を回した。
「焦ることはない。科学のメスは、どんな厚い皮も切り裂ける」
 画面の青白い光が、彼の眼鏡の奥の冷徹な瞳を照らし出す。
「君たちが隠している『中身』……細胞の一つまで、徹底的に解剖させてもらうよ」

 地上の教室では、穆清が級友たちに囲まれ、涙ながらに象棋の悲しみを訴えている。
 書文が必死に弁解し、平和で騒がしい日常が過ぎていく。
 だが、その足元では。
 過去から来た復讐者たちの執念と、現代の狂気じみた科学者の好奇心が、二つの巨大な顎《あぎと》となって、静かに、しかし確実に彼らを噛み砕こうと迫っていた。
 それはまだ、誰も知らない――水面下の終わりの始まりだった。
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