カオス・ヘブン 皇女が彼女になった

中野八郎

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エピローグ

後日譚其の肆 二千年旅のターニングポイント

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 長安の夏風は幾度も吹き抜け、白書文の部屋の窓辺にあるカレンダーは、目まぐるしくその数字を更新していった。
 西北大学を卒業し、無事に市内の歴史博物館への就職が決まった書文の机の上には、今、彼の人生最大とも言えるプロジェクトの資料が散乱している。
「指輪のサイズ、よし。レストランの予約、よし。フラッシュモブのサクラ……は今回はナシだ、穆清は驚いて腰を抜かすかもしれないからな。そして、これが……『沖縄ハネムーン・青い海と古琉球の旅』のパンフレット……完璧だ」
 書文は椅子に深くもたれかかり、天井を仰いでニヤついた。
 その脳裏には、数年前のあの「真実を明かした日」の記憶が、鮮明な映画のように蘇っていた。


 あれは、二人が高校を卒業した直後のことだった。
 書文と穆清は、白家のリビングで両親と向かい合っていた。
「お父さん、お母さん。実は……大事な話があるんだ」
 書文が穆清の正体を切り出すと、父・白建文は新聞を畳み、母・李静はお茶を淹れる手を止めた。
 最初はいつものように、「また若者の冗談か?」という軽い空気が流れていた。
 しかし、穆清が持参した風呂敷包みを解き、中から深紅の絹織物を取り出した時、その場の空気は一変した。
 それは、現代のどんな高級ブティックにも並んでいない、圧倒的な存在感を放つ漢代の曲裾深衣(きょくきょしんい)。そして、その衣服の間から、彼女は小さな翡翠の印章を取り出した。
 長い時を経てなお、内側から滲み出るような潤いを湛えた、最高級の羊脂玉(ようしぎょく)。
「これは……?」
 白建文が眼鏡の位置を直し、身を乗り出した。歴史マニアの血が騒いだのだろう。
 穆清は何も言わず、ただ静かに懐から絹を取り出し、卓上に広げた。
 慣れた手つきで墨を磨る。その所作一つ一つが、茶道の点前(てまえ)のように洗練されており、無駄がない。
 彼女は筆を執ると、流れるような運筆で、かつての漢王朝で使われていた隷書(れいしょ)で祖父の詩を書き上げた。
『大風起兮雲飛揚
 威加海内兮歸故鄕
 安得猛士兮守四方』
 そして、翡翠の印章に朱肉をたっぷりと含ませ、絹の上の自分の名前の横に、迷いなく押し当てた。
 トン、と。
 重厚で確かな音が、リビングに響いた。
 朱の印影は鮮烈だった。
 その筆跡の剛健さと優美さ、印章の彫りの緻密さ。これらは博物館のガラスケース越しに見るものであり、息子のガールフレンドがリビングで披露するようなものではない。
「こ、この印章は……本物か?」
 白建文の声が震えていた。
 穆清は印章をそっと布で拭いながら、凛とした声で答えた。
「父上……いえ、かつての父、孝恵皇帝が私に下賜してくださったものでございます」
 その一言が、最後のピースだった。
 両親は互いに顔を見合わせ、そして目の前の少女を凝視した。
 今まで「ちょっと古風で変わったお嬢さん」だと思っていた彼女が、実は二千年の時空を超えてきた、正真正銘の皇女であるという事実。
 SF映画の脚本のような話だが、目の前の圧倒的な「本物」の迫力が、すべての疑念をねじ伏せた。
 長い沈黙の後、母がおもむろに立ち上がり、穆清の隣に座った。
 そして、震える手を伸ばし、穆清の小さな手を包み込んだ。
「……大変だったわねぇ」
 その一言に、困惑や恐怖はなかった。ただ、果てしない時間を一人で彷徨ってきた少女への、深い慈愛だけがあった。
「二千年も、一人ぼっちで……。親元を離れて、こんな遠いところまで……」
 母の目から涙が溢れた。
「おじさん、おばさん……」
 穆清が戸惑っていると、白建文もまた、威厳のある顔を崩して目頭を押さえた。
「穆清ちゃん。……いや、穆清」
 白建文は力強く宣言した。
「今日から、君は我が家の娘だ。誰に遠慮することはない。欲しいものがあれば言いなさい。行きたいところがあれば連れて行く。お父さんが、君の失った時間の分まで、何でも叶えてあげるから」
「そうよ。今日から私たちは本当の家族。もし書文があなたをいじめるようなことがあったら、すぐにお母さんに言いなさい。この子のお尻を叩いて、お仕置きしてあげるから!」
「ちょ、母さん!?」
 書文が慌てて抗議する横で、穆清の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 かつて宮廷で受けていた儀礼的な敬意ではない。
 ただの「劉穆清」という一人の娘に向けられた、無償の、温かい家族の愛。
 彼女はその日、二千年越しにようやく「家」に帰り着いたのだった。


 ――そして、現在。
 その「家族」になるための最終段階へ進む時が来た。
 決戦の日は、旧暦七月七日。七夕。
 二千年の時を超えて紡がれてきた、織姫と彦星が年に一度だけ再会を許される特別な夜。
 西安のシンボルである鐘楼(ベルタワー)は、夜空に浮かび上がるように美しくライトアップされていた。広場は、手をつないだカップルや観光客、夜店の光で溢れかえっている。
「書文様、人が多いですね。まるでお祭りのようです」
 隣を歩く穆清の声に、書文は心臓の鼓動を抑えながら頷いた。
「ああ、七夕だからな」
 今日の彼女は、ことさらに美しかった。
 書文がプレゼントした、夏用の薄手の漢服。現代の化学繊維ではない、特注の極薄の絹で作られたそれは、蝉の羽のように軽やかで、夜風を含むたびにふわりと揺らめく。
 淡い水色と白のグラデーションは、夜空を流れる天の川そのもののようだ。
 髪は、漢代の未婚女性が結う「垂雲髻(すいうんけい)」を現代風にアレンジし、一挿しの銀の簪(かんざし)が、街灯の光を受けて星のように瞬いている。
 周囲の人々が、すれ違いざまに思わず足を止め、振り返る。
「見て、あの人……コスプレ?」
「いや、雰囲気が違うわ。女優さんかしら?」
 そんな囁き声が波紋のように広がる中、二人はただお互いの体温だけを感じていた。
 広場の中央、鐘楼が最も美しく見える場所で、書文は立ち止まった。
「穆清」
「はい?」
 彼女が振り返ると、夜風がその長い睫毛を揺らした。
 書文は一度深く息を吸い込み、意を決して片膝をついた。
 ポケットから、小さなベルベットの箱を取り出す。
「あっ……」
 穆清が小さく息を呑み、その両手が口元を覆った。
「穆清。君がこの時代に来てくれて、本当に良かった。……君の過去も、失った時間も、全部僕が背負う。これからの人生、一分一秒、君を一人にはさせない」
 書文は箱を開いた。中には、シンプルなプラチナのリングが輝いている。
「僕と……結婚してください!」
 一瞬の静寂。
 次の瞬間、広場を埋め尽くす人々から、「おおっ!」「ヒューヒュー!」「おめでとうーーッ!!」という、地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こった。
 見知らぬ人々の笑顔、祝福の声、カメラのフラッシュ。
 まるで世界中が二人を祝福しているかのようだ。
「……はいっ!」
 穆清は涙で瞳を潤ませながら、力強く頷いた。
 震える指に指輪が通されると、彼女は感極まって書文に抱きついた。
 書文も彼女を抱きしめ返し、万雷の拍手の中で二人は固く結ばれた。
 この時、鐘の音も鳴り、祝福の音のようにも聞こえた。
 西安の夜空の下、これ以上ないほど完璧なプロポーズだった。


 ……はずだった。
 それからの数週間、二人は夢見心地で過ごした。
 週末にはブライダルフェアを巡り、ウェディングドレスと伝統的な婚礼衣装のどちらにするかで悩み、旅行代理店では沖縄の青い海の写真に胸を躍らせた。
「沖縄……琉球王国ですね。海に囲まれた南の島……素敵です、書文様。私、泳ぎも練習しておきますね」
「ああ、シュノーケリングも予約しよう。パスポートの申請もしなきゃな」
 順風満帆。幸せの絶頂。
 だが、役所の窓口という現実の最前線で、その幸せな夢は、コンクリートの壁に衝突するような衝撃で停止した。
 西安市、区役所の戸籍課。
 窓口の職員は、書類を確認しながら事務的に言った。
「はい、おめでとうございます。……で、新婦様の戸籍謄本と身分証は?」
「え?」
 書文と穆清は、同時に声を上げた。
「い、いえ、ですから……彼女には戸籍がなくて……」
「はあ? 外国籍の方ですか? ならパスポートを」
「いや、その……パスポートもなくて……」
「……不法滞在?」
 職員の目が急に鋭くなった。
 書文は背筋に冷や汗が伝うのを感じた。
 あまりにも恋愛感情と結婚式の計画に夢中になりすぎて、根本的な、そして致命的な「法的欠落」を完全に失念していたのだ。
 大学の聴講生には、教授の推薦と特例措置でなれた。
 病院は、衛佳先輩のお父さんがお世話してもらっている、医療保険もだ。
 だが、婚姻届とパスポート発行は、国家が管理する厳格なシステムだ。「なんとなく」や「特例」で突破できるものではない。

 役所を出た二人は、近くの公園のベンチに力なく座り込んだ。
 先ほどまでのウキウキ気分は消え失せ、どんよりとした空気が漂っている。
「……うっかりしていました」
 書文が頭を抱えた。「戸籍がないと、結婚手続きができない。パスポートも作れないから、ハネムーンで出国することもできない……」
「……」
 穆清は膝の上で拳を握りしめ、青ざめた顔で地面を見つめていた。
 彼女は「戸籍」の重みを、現代人の書文よりも、むしろ深く理解していたのかもしれない。
「書文様……私の時代にも、『戸口(ここう)』はありました。戸籍なき者は流民(るみん)と同じ……。定住も、商いも、結婚も許されず、法の下では『人』として扱われませんでした」
 彼女の声は震えていた。
「まさか、二千年後の世でも、私が……『存在しない者』であることに変わりはないとは……」
 完璧なプロポーズ、祝福の拍手、輝く指輪。
 それらすべてが、分厚い法律の壁の前に、儚い幻のように霞んでいく。
 愛だけでは超えられない「リアリティ」が、今、冷酷に二人の前に立ちはだかっていた。
 公園のベンチで項垂れる二人の間に、重苦しい沈黙が降りていた。
 現代社会という巨大なシステムの前に、個人の愛などあまりにも無力だ。婚姻届一枚、パスポート一冊。その薄っぺらな紙切れがないだけで、二人は夫婦になることも、海を渡ることも許されない。
「……くそっ」
 書文は悔しげに膝を叩いた。歴史や文化には詳しくても、法律の壁を突破する術など彼は持ち合わせていなかった。
 だが、その時、ふと脳裏にある人物の顔が浮かんだ。
 かつて共に悩み、穆清の秘密を共有し、今は法の番人となった頼れる先輩。
「そうだ……!林先輩なら!」
 書文は震える手でスマホを取り出し、祈の番号を呼び出した。
 頼む、出てくれ。祈るような気持ちでコール音を聞く。

『……はい、もしもし?』
 不機嫌そうな、しかし懐かしい声が聞こえた瞬間、書文は堰(せき)を切ったように叫んだ。
「も、もしもし、林先輩!?助けてください! 大変なんです!」
『なんだよ藪から棒に。お前、今日はプロポーズ決行日じゃなかったのか?』
「そ、そうなんですけど……!盲点でした、完全に盲点でした……!穆清に……穆清に戸籍がないんです!!」
 書文の声は半泣きで、ほとんど悲鳴に近かった。公衆の面前で「彼女が幽霊みたいなもんだ」と叫んでいるようなものだが、今の彼はなりふり構っていられない。
 電話の向こうで、数秒の沈黙があった。
 そして、深いため息と共に、呆れと妙な安堵が入り混じった声が返ってきた。
『……やっぱり、そこで詰んだか』
「えっ?」書文は耳を疑った。「し、知ってたんですか!?」
『お前らが浮かれてる間、こっちはいつか来るこの日のために頭を抱えてたんだよ。……とりあえず、今からうちの署に来い。休憩室で話を聞く』


 深夜、派出所の休憩室。
 蛍光灯の冷たい明かりの下、パイプ椅子に座る書文と穆清の姿があった。
 仕事終わりの林祈は、制服のネクタイを少し緩めた姿で、自動販売機の缶コーヒーを二人の前にコトと置いた。数年ぶりの再会だが、今の彼から漂うのは、かつての学生時代の飄々とした空気ではなく、現場で揉まれた警察官特有の鋭さと疲労感だ。
「……さて」
 祈は自身のコーヒーを開け、一口啜ってから切り出した。
「状況は分かってる。穆清さんの身分証明書と戸籍、これがないと何も始まらないって話だろ」
「は、はい……。先輩、何か方法は……」
「結論から言うと、手はある」
 祈の言葉に、穆清がパッと顔を上げた。その左手の薬指には、真新しいプラチナの指輪が光っている。彼女は無意識のうちに、その指輪を右手で強く握りしめていた。まるで、そうしていないと、自分がこの世界から消えてしまいそうな不安に駆られているかのように。
「劉穆清という人間を、法的に『新しく発見された国民』として登録するんだ」
「発見……ですか?」
「ああ。表向きのストーリーはこうだ」

 祈は淀みなく説明を始めた。それは、あまりにも具体的で、恐ろしいほどにリアリティのある「虚構」だった。
「劉穆清は、地方の農村部で生まれた。だが、当時は『一人っ子政策』の締め付けが最も厳しかった時代だ。二人目の子供として生まれた彼女は、罰金を恐れた両親によって出生届を出されず、親戚の家をたらい回しにされて育てられた。……いわゆる『闇の子(ヘイハイズ)』だ」
「闇の子……」
 書文はその言葉を反芻し、息を呑んだ。
 それは歴史の教科書だけの話ではない。現代中国が抱える、影の社会問題。戸籍を持たず、学校にも行けず、公的なサービスを受けられないまま大人になった「存在しない子供たち」。
「親戚が亡くなり、身寄りがなくなって西安に出てきたところを、白家が保護した。……どうだ? これなら、彼女が今まで社会記録に一切登場しなかった辻褄が合う」
「そんな……本当にあり得た話なのですね」
 穆清は悲しげに眉を寄せた。自分と同じように、この時代にも「社会からいないもの」として扱われる人々がいる事実に、胸を痛めたのだ。
「ああ。近年は政府も救済措置に乗り出している。だが……」
 祈は声を潜め、厳しい眼差しで二人を見据えた。
「これは簡単なことじゃない。DNA鑑定による親子関係の不在証明、出身地とされる村の役場への照会、近隣住民への聞き込み調査の偽装、さらには公安局の上層部への説明……。一つでもボロが出れば、穆清さんは『不法入国者』あるいは『身元不明の不審者』として拘束され、最悪の場合は研究機関送りだ」

 祈の脳裏には、膨大な書類の山と、幾重にも張り巡らされた官僚主義の壁が浮かんでいた。
 彼はこの数ヶ月、勤務時間外を使って、信頼できる同僚だけに事情を伏せたまま協力を仰ぎ、架空の証言を集め、精巧な「過去」を捏造する準備を進めてきたのだ。
 それは警察官としての職務規定ギリギリ、いや、完全にアウトな行為かもしれない。だが、彼にとって「タイムスリップして落ちてきた皇女」を守ることは、法律以前の、人としての、そして友人としての道義だった。
「僕がこれから書類を作成し、担当部署に回す。場合によっては、僕の『信用』を担保にして無理を通す場面もあるだろう。……相当な時間がかかるし、何度も署に足を運んでもらうことになる。覚悟はいいか?」
「林先輩……」
 書文は、目の前の先輩がどれほどのリスクを背負おうとしているのかを悟り、目頭が熱くなった。
 ただの先輩後輩という枠を超えた、命がけの友情。
「お願いします……! 僕たちのため、いや、穆清のために……一生かけて恩返しします!」
「頭を上げろよ。……乗りかかった船だ。それに、俺だって二人の結婚式には胸を張って出席したいからな」
 祈はぶっきらぼうに言い、照れ隠しのようにコーヒーを煽った。


 その夜、白家への帰り道。
 タクシーの後部座席で、穆清はずっと黙り込んでいた。
 街灯の光が流れていく中、彼女は自分の左薬指にある指輪を、何度も、何度も指でなぞっていた。金属の冷たく硬い感触だけが、彼女を今この場所に繋ぎ止める唯一の錨(いかり)のように。
「……書文様」
「ん?」
「私、怖いのです。もし、手続きがうまくいかなくて……私が私であることを証明できなかったら……」
 彼女の声は震えていた。
『闇の子』という偽りの過去。嘘をつかなければ生きられない現実。そして、もしそれが露見した時の恐怖。
 書文は何も言わず、彼女の震える肩を強く抱き寄せた。
 そして、彼女の冷たい左手を自分の両手で包み込み、その指輪ごと強く握りしめた。
「大丈夫だ、穆清」
 書文は、彼女の耳元で力強く囁いた。
「紙切れなんて関係ない。国が認めようが認めまいが、君はもう、とっくに僕の妻だ。僕の魂に、君の名前は刻まれている。……誰にも、引き剥がさせはしない」
「……はい」
 穆清は書文の胸に顔を埋め、彼の鼓動を聞いた。
 トクトクと脈打つその音は、どんな公的な証明書よりも確かで、温かい。
「白家の人間として……貴方の妻として、生きていきます。例えどんな嘘をついてでも……この場所を守りたい」
 彼女の瞳に、揺るぎない覚悟の光が灯った。
 それはかつて、動乱の長安を生き抜こうとした皇女の強さであり、そして今、愛する人と共に生きようとする一人の女性の強さだった。
 二人は寄り添い合う。
 法的にはまだ他人同士かもしれない。けれど、その姿は、長い旅路を共に歩んできた老夫婦のように、分かち難く結びついていた。
 運命の歯車は、林祈という強力な味方を得て、再びゆっくりと、しかし確実に回り始めた。


 数週間後、西安市某区役所の戸籍課待合室。
 張り詰めた空気の中、番号札を握りしめる書文の手のひらは、じっとりと汗ばんでいた。隣に座る穆清も、膝の上でハンドバッグのストラップを白くなるほど強く握りしめている。
 天井のスピーカーから、無機質な電子音が響いた。
『整理番号、A-204番の方。3番窓口へお越しください』
「……行こう」
 書文が立ち上がり、穆清の手を取る。その手は氷のように冷たかったが、書文の温もりに触れると、わずかに力がこもり返された。
 3番窓口の担当職員は、分厚い眼鏡をかけた中年女性だった。彼女は手元の書類の山から目を離さず、事務的に言った。
「はい、A-204番。……『劉穆清』さんの新規戸籍登録と、身分証の発行ですね」
 書文は息を止めた。この数週間、林祈とは何度も裏で連絡を取り合っていた。彼が作成した書類――架空の農村での出生証明、親族関係の嘆願書、そして公安局の公印が押された特例許可証――は、すべて提出済みだ。

 だが、最後の最後で「不備」が見つかれば、すべては水泡に帰す。
 職員は書類の束をパラパラとめくり、モニターの画面と照らし合わせた。眼鏡の奥の目が、鋭くデータを精査している。
 カチッ、カチッ、カチッ。マウスをクリックする音が、銃爪(ひきがね)の音のように鼓膜を叩く。
「ふむ……」
 職員が手を止めた。
 書文と穆清の心臓が、早鐘を打った。
「出身地の役場からの照会確認済み。……DNAデータ照合、該当者なし。……保証人は、市警の林祈二級警督ね」
 彼女はちらりと二人を見上げた。
「随分と強力な保証人をつけたものね。……まあ、書類に不備はありません」
 その言葉が聞こえた瞬間、書文は膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
 職員は手元のプリンターを操作し、そして一枚の赤茶色の手帳と、ラミネート加工されたばかりの真新しい身分証をカウンターに置いた。
「はい、これが戸籍謄本と身分証です。写真写り、綺麗ね」
 職員は少しだけ口元を緩めた。「ようこそ、西安市民へ。おめでとうございます」
「あ、ありがとう……ございます……っ!」
 書文は震える手でそれを受け取った。
 ただの紙切れ。わずか数グラムのプラスチックのカード。
 だが、その重みは、穆清が背負ってきた二千年の孤孤独、そしてこれから共に生きる未来のすべてが凝縮された、魂の重さだった。

 役所を出ると、穆清はその手帳を胸に抱きしめ、空を見上げた。西安の青空はどこまでも高く、澄み渡っている。
「書文様……私、ここにいます。許されたのです、この世界に」
「ああ……これで君は、どこへでも行ける。誰に憚ることもなく、僕の妻だと言えるんだ」
 二人は人目も憚らず、強く抱き合った。
 その足で向かったのは、婚姻届の受付窓口だった。
 今度はもう、何の障害もなかった。
 二人の名前が並んだ書類が受理され、受理証明書が手渡される。
 その瞬間、穆清は法的に、そして運命的に、正式な「劉穆清」となったのだ。


 その夜、白家は祝祭の喜びに包まれていた。
 リビングの円卓には、これでもかというほどのご馳走が所狭しと並べられている。
 招かれたのは、この奇跡の立役者である祈と、その妻の衛佳。
「やったな、二人とも! いやあ、今日は酒が美味いぞ!」
 書文の父が上機嫌で高級白酒の瓶を開け、祈のグラスに注ぐ。
「林さん、本当にありがとう。貴方のおかげで、息子たちは救われました」
「いえいえ、お父さん。僕はただ、ちょっと事務手続きを手伝っただけですよ」
 祈は謙遜して笑うが、その横顔には大仕事をやり遂げた男の安堵が滲んでいた。

 テーブルには、西安名物の「羊肉泡饃(ヤンロウパオモー)」、色鮮やかな「涼皮(リャンピー)」、そして穆清の好物である甘い点心が並ぶ中、ひときわ目を引く大皿料理が中央に置かれた。
「さあ、これが今日のメインディッシュだ」
 書文が恭しく蓋を取ると、湯気と共に芳醇な香りが部屋中に広がった。
 現れたのは、黄金色に輝く見事な「菊花魚(チュイホアユ)」だ。白身魚に細かく包丁を入れて揚げ、甘酸っぱいあんかけをたっぷりとかけた一品で、その形は大輪の菊の花のように美しく開いている。
「わあ……綺麗……」穆清が歓声を上げた。
「これはね、『菊花魚』だけど、僕が少しアレンジしたんだ」
 書文は取り分け皿に穆清の分をよそいながら言った。
「普通のあんかけじゃなくて、漢代の調味料と、現代の果物をブレンドした特製ソースを使ってる。……異なる時代の味が混ざり合って、一つの新しい美味しさを作る。まさに、僕たちの家族そのものだと思って」
 彼は少し照れくさそうに笑い、穆清を見つめた。
「穆清、改めて歓迎するよ。白家へようこそ。……ずっと、待っていたよ」
「書文様……」
 穆清は一口、その魚を口に運んだ。
 カリッとした衣の食感と、ふわりとした魚の身。そして、どこか懐かしい酸味と、現代的なフルーティーな甘みが口の中で溶け合う。
 それは、過去と未来が、愛によって調和した味だった。
「……美味しいです。今まで食べた中で、一番……幸せな味がします」
 彼女の目から、またしても涙がこぼれ落ちそうになるのを、衛佳が明るい声で遮った。
「あらあら、花嫁さんが泣いてちゃ化粧が崩れちゃうわよ!さあ、食べて食べて!精力がつくわよ~!」
 衛佳はお茶目な笑顔で、穆清の皿にさらに大盛りの料理を積み上げた。
 その明るさに救われ、食卓は再び笑い声に包まれた。

 宴の後、書文は林祈と衛佳を自分の部屋に招いた。
 リビングの喧騒から離れ、静かな空間で四人は向き合う。
 林祈は窓際で夜風に当たりながら、ふと真面目な顔つきになった。
「さて……。書文、穆清さん。無事に入籍も済んだし、そろそろ話しておかないとな」
「話?」書文が首を傾げる。
「まだ何か手続きが?」
「いや、役所のことじゃない。……俺たちのことだ」
 祈は隣に座る妻、衛佳を見た。彼女はにっこりと頷く。
「俺がなんで、あんな警察内部の危ない橋を渡ってまで、お前らに協力したか。……不思議に思わなかったか?」
「それは……先輩が友達思いだから……」
「それもある。だが、一番の理由は……ある意味で『同類』だからだよ」
「同類?」
 林祈は深く息を吐き、衝撃の事実を告げた。
「俺は実は、転生者なんだ」
「えっ……!?」
 書文と穆清は絶句した。
「正確には、前世の記憶を持ったまま、この現代に生まれ変わった。……俺の前世は、何度も転生してきた。戦乱の中で死んだり、迫害を受け、自害させられたり……そして今は普通の家庭に生まれて、普通に仕事をしてきたんだ」
 林祈の瞳には、年齢に見合わない、数千年分の深淵が宿っていた。
「だから、穆清さんの『時代とズレた感覚』や『孤独』が、痛いほど分かるんだよ。俺は、様々な時代を生きてきたからな」
 呆然とする二人に、今度は衛佳が口を開いた。
 彼女は悪戯っぽく舌を出した。
「で、私はもっと凄いわよ? 祈はただの人間だったけど、私は……ちょっとファンタジー寄りなの」
 彼女は女媧から受け取った補天石で作られたペンダントを取り出した。
 この石は不思議な五色の色の光が内部で変形している。どう見てもこの世の物ではなかった。
「なっ……!?」
「私の正体は『精衛』。……神話に記載された、あの鳥そのものよ」
「せ、精衛って……あの、海を埋めようとした……!?」
 歴史オタクの書文が悲鳴のような声を上げた。
『山海経』に記された伝説の鳥。炎帝の娘が東海で溺れ、鳥となって小石や枝を運び、海を埋め立てようとしたという、あの神話の存在だ。
「まあ、今は神通力と不老不死を手放して、普通の人間になっているんだけどね」
 衛佳はケラケラと笑った。
「だから、書文くんが『不思議な女の子が降ってきた』って相談してきた時、他人事とは思えなくて。……なんか不公平じゃない? 私と祈だけが貴方たちの秘密を知ってるなんて」
 彼女は穆清の手を取り、ウィンクした。
「だから、私たちの秘密も教えてあげる。これで『おあいこ』ね、穆清ちゃん」

 穆清は、目の前の優しい夫婦を見つめ返した。
 自分だけが特別で、孤独な存在だと思っていた。けれど、この世界には他にも、時を超え、あるいは伝説を超えて、ひっそりと生きている仲間がいたのだ。
 その事実は、戸籍という紙切れ以上に、彼女の心を深く安堵させた。
「……ありがとうございます。祈殿、衛佳殿」
 穆清は深く頭を下げた。
「貴方様たちが味方でいてくださるなら、これほど心強いことはありません」
「ま、そういうことだ。だから困った時はいつでも言え」
 林祈は照れくさそうに鼻を鳴らした。「先輩風を吹かせられる相手がいて、俺も嬉しいんだよ」

 帰り際、玄関で四人は握手を交わした。
「結婚式の日取りが決まったら、一番に教えろよ。招待状、待ってるからな」
「はい!絶対に来てくださいね!」
「もちろん!ウェディングドレス姿、楽しみにしてるわ!」

 去っていく林祈と衛佳の背中を見送りながら、書文と穆清は夜空を見上げた。
 星々が瞬いている。
 その光の一つ一つが、過去から届いたメッセージのように見えた。
 転生してきた先輩、伝説の鳥の化身、二千年の時を超えた皇女、そして彼女を愛した現代の青年。
 不思議な縁で結ばれた彼らの物語は、まだ始まったばかりだ。
「さあ、戻ろうか、穆清」
「はい、……あなた」
 二人はしっかりと手を繋ぎ、温かい光の溢れる我が家へと帰っていった。
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