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エピローグ
後日譚其の伍 皇女、結ばる
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西安の古い城壁が落とす長い影が、朝日に照らされて少しずつ短くなっていく。
市内中心部、明代から続く石造りの迎賓館。その重厚な回廊と中庭を利用した結婚式場は、今日、二千年の時を超えた祝祭の舞台へと姿を変えていた。
朱塗りの柱、揺れる赤い提灯、そして現代的な白い花のアーチ。
新郎控室では、白書文が鏡の前で、まるで敵陣に単騎で突っ込む兵士のような悲壮な顔をして固まっていた。
「……曲がってるか? ネクタイ、まだ曲がってる気がする」
「いや、さっきから完璧に真っ直ぐだ。お前が震えてるから曲がって見えるだけだよ」
隣で呆れ声を上げたのは、今日のベストマン(介添人)を務める林祈だ。彼はパリッとしたスーツを着こなし、余裕のある笑みを浮かべているが、その指先がわずかに貧乏ゆすりをしているのを書文は見逃さなかった。
「先輩だって緊張してるじゃないですか」
「馬鹿言え。俺はスピーチの内容を脳内リピートしてるだけだ。……おい、深呼吸しろ。今日はお前の人生で最高の日だぞ。顔色が死刑囚みたいになってる」
「だって、今日なんだ……。本当に、彼女と……」
書文は鏡の中の自分を見つめた。
ただの歴史オタクだった自分が、博物館勤めの平凡な青年が、まさか漢の皇女を娶ることになるなんて。
人生は何が起こるか分からない。だからこそ、最高に面白い。
彼は一度強く頬を叩き、自分に喝を入れた。
「よし……行くぞ!」
一方、新婦控室。
静寂に包まれたその部屋には、息を呑むほどの威厳と美しさが満ちていた。
劉穆清は、身の丈ほどの大きな姿見の前に立ち、己の姿を映していた。
纏っているのは、純白のウェディングドレスではない。
鮮やかな深紅の絹を惜しげもなく使い、伝統的な漢服のしなやかさと、現代のドレスの華やかさを融合させた特注の婚礼衣装だ。
幾重にも重なる袖には金糸で鳳凰の刺繍が施され、動くたびに光を受けて燦然と輝く。
髪は、かつて彼女が長安の宮廷で結っていたのと変わらぬ、未婚の皇女の正装。そこには、書文が贈ったあの簪(かんざし)が挿されている。
「……」
鏡の中の自分を見つめながら、穆清はふと、めまいのような感覚に襲われた。
周囲の音が遠のき、視界が滲む。
(これは……夢なのでしょうか?)
あの時。長安の乱戦の中、王健の斧が振り下ろされたあの一瞬。
自分は本当はあそこで命を落とし、今見ているこの鮮やかな光景は、死の間際に見る走馬灯なのではないか。
あまりにも幸せすぎて、あまりにも満たされすぎていて、現実のものとは思えない。
そっと自分の頬に手を当てる。温かい。心臓がトクトクと脈打っている。
これが現実なのだと、体が教えてくれる。
穆清はゆっくりと瞼を閉じ、心の中で、遠い時空の彼方にいる家族へと語りかけた。
(父上、母上……そちらはお元気でしょうか。親不孝な娘をお許しください。私は、この遠い未来の世で、伴侶を得ました)
脳裏に、優しい面影の父帝、ぼやける面影の母妃、いつも口うるさかった乳母、そして幼い頃から守ってくれた曹(そう)じいの顔が浮かぶ。
(お相手は、白書文様という方です。武芸はからっきしで、少し頼りないところもありますが……誰よりも優しく、私の心を大切にしてくださる、誠実な殿方です。私の、大切な駙馬様です)
まぶたの裏で、懐かしい人々がふわりと微笑んだような気がした。
(どうか、私たちの行く末をお見守りください。……穆清は本日、嫁ぎます)
「穆清ちゃん?」
鏡越しに聞こえた声に、穆清はハッと目を開けた。
後ろに控えていた衛佳が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。自身の正体を知る数少ない理解者であり、今日の介添人だ。
「まあ、なんて綺麗なの……! 本当に、絵巻物から抜け出してきたみたい」
衛佳の瞳が感動で潤んでいる。
その後ろでは、書文の両親も言葉を失い、ただただ涙ぐんで頷いていた。
「……ありがとう、衛佳様。お義父様、お義母様」
穆清は振り返り、満開の花が綻ぶように微笑んだ。
もう迷いはない。その瞳の奥には、二千年の時を超えた女性だけが持つ、深く静かな覚悟の海が広がっていた。
「皆さまのおかげで、私は今日、世界で一番幸せな花嫁になれます」
チャペルの扉が開く。
パイプオルガンではなく、古琴と二胡による荘厳な調べが響き渡った。
祭壇の前で待つ書文の姿が目に入った瞬間、穆清の緊張は解け、胸が熱くなった。
一歩、また一歩。
衛佳にエスコートされ、真紅のバージンロードを進む。
両脇には、王健夫妻及び張勇と李娜夫妻をはじめ、苦楽を共にした友人たちが並び、割れんばかりの拍手を送っている。かつては剣を向け合った者たちが、今は心からの笑顔で祝福してくれている奇跡。
書文が手を差し伸べる。
穆清はその大きな手に、自分の手を重ねた。
温かい。その温もりだけが、彼女をこの世界に繋ぎ止める絶対の真実だった。
「誓います」
二人の声が重なり、指輪が交換される。
プラチナの輝きが、二人の薬指で永遠の約束を結んだ。
披露宴は、笑いと涙の連続だった。
高砂席(たかさごせき)には、西安の名物料理が次々と運ばれ、グラスが触れ合う音が絶え間なく響く。
友人代表のスピーチでマイクを握ったのは、王健だった。
かつて穆清を追い詰めた猛将は、今はすっかり丸くなり(体型も少しだけ)、照れくさそうに頭をかきながら話し始めた。
「えー、新郎新婦、おめでとう。……正直に言うとな、俺は最初、二人が結ばれるなんて思ってもみなかった。住む世界が違いすぎるだろってな」
会場の一部、事情を知る者たちがクスクスと笑う。王健は書文に向かってニヤリと笑った。
「だが、書文。お前はすげぇよ。剣も持てないひ弱な男が、一番大事なものを守り抜いたんだからな。……俺たちが戦場を探し求めても手に入らなかった『普通の幸せ』ってやつを、お前たちは自分たちの手で作り上げたんだ」
王健の声が少しだけ震えた。
「穆清さん、いや、奥さん。こいつを頼むよ。泣かせたら俺が承知しねぇからな!」
「あはは! その時は俺も加勢するぞ!」
張勇が野太い声でヤジを飛ばし、会場は爆笑と温かい拍手に包まれた。
宴もたけなわとなり、いよいよお開きの時間。
新郎新婦退場の直前、司会者が悪戯っぽい声で煽った。
「さあ、新郎!愛する花嫁をしっかりと抱えて、新しい人生へと旅立ってください!ここは男の見せ所ですよ!」
「おー! やれやれ!」
「書文! 落とすなよ!」
冷やかしの声が飛ぶ中、書文は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「よ、よし……!」
彼は腕まくりをし、穆清の前に立つ。
穆清は恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに扇で口元を隠した。
「書文様、腰は大丈夫ですか……?」
「任せろ! 特訓したんだから!」
「せーのっ!」
掛け声と共に、書文は穆清の体をふわりと持ち上げた。いわゆる「お姫様抱っこ」だ。
深紅のドレスの裾が宙に舞い、穆清が驚いて書文の首に腕を回す。
その様は、まさに映画のラストシーンのように完璧で、美しかった。
シャッター音が嵐のように降り注ぐ中、書文は息を切らせながら、満面の笑みで叫んだ。
「どうだ!!結構重いけど……これが『本物(・・)』のお姫様抱っこだぞーー!!!」
会場が一瞬の静寂の後、今日一番の大爆笑に包まれた。
「そりゃそうだ!」「本物だからな!」「座布団一枚!」
林祈が腹を抱えて笑い、衛佳が手を叩いて喜んでいる。
腕の中の穆清も、つられて声を上げて笑った。
こんなにも無防備に、心の底から笑ったのはいつぶりだろう。
長安の宮廷では決して許されなかった、あられもない大笑い。
けれど、今の彼女にとって、それはどんな儀式の賛歌よりも心地よい響きだった。
拍手喝采の中、堂々と退場していく二人。
その背中は、未来への希望に満ち溢れている。
扉の向こうで、書文が穆清をそっと下ろした。
二人きりの静寂が戻ってくる。
まだ会場の熱気が肌に残っている中、二人は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。
「……重かったか?」
穆清が上目遣いで尋ねる。
「いや、世界一軽かったよ」書文は即答し、彼女の手を握りしめた。
「さて、次はいよいよだな」
「はい……!」
穆清の目がキラキラと輝いた。
「『ハネムーン』……でしたか?南の島、青い海!」
「ああ。沖縄だ。パスポートも取ったし、もう怖いものなしだ」
「ふふ、楽しみです。……貴方となら、たとえ地の果てまでも」
「よし、行こう! 俺たちの旅はこれからだ!」
書文と穆清。
時空を超えた夫婦の新たな冒険、新婚旅行編の幕が、今上がろうとしていた。
西安から沖縄へ。
それは単なる地理的な移動ではなく、二千年の時を生きた皇女にとって、天地がひっくり返るほどのカルチャーショックの連続だった。
その洗礼は、まず空の上から始まった。
「しょ……書文様……っ!」
「だ、大丈夫だよ穆清。僕の手を握って」
高度一万メートル。
雲海の上を滑るように飛ぶ機内で、穆清は借りてきた猫のように小さくなり、顔面蒼白でシートに張り付いていた。
彼女の細い指は、血流が止まるのではないかと思うほど強く書文の手を握りしめている。
「こ、これは……なんという……。鉄の鳥の腹に入り、雲よりも高く昇るとは……」
彼女は窓の外を恐る恐る盗み見ては、すぐに「ひいっ」と小さく悲鳴を上げ、目を固く閉じた。
「人間が……天の領域を犯すなど……バチが、雷公(らいこう)の怒りが落ちるのではありませんか……?」
「大丈夫、大丈夫。これは科学の力だから。飛行機は世界で一番安全な乗り物……って統計も出てるし」
書文は必死になだめるが、内心では(漢代の人間に航空力学を説いても無駄だよな……)と苦笑するしかなかった。
穆清は涙目で、ブツブツと何かをつぶやき始めた。
「……天よ、地よ。不肖・劉穆清、今は夫に従い空を駆けております。決して謀反の心にあらず……どうかお見逃しを……」
どうやら必死に天帝への許しを請うているらしい。
その健気で可愛らしい姿に、書文は愛おしさが込み上げてくるのを抑えきれなかった。
「着いたら美味しいものが待ってるから。な? もうすぐだから」
彼は赤子をあやすように、優しく彼女の背中をさすり続けた。
数時間のフライトを経て、那覇空港に降り立った二人を迎えたのは、西安の乾燥した空気とは全く違う、湿り気を帯びた熱風と、むせ返るような南国の香りだった。
「あつ……っ! これが……『沖縄』ですか?」
空港を出た瞬間、穆清は目を丸くした。
目に入る色彩が、あまりにも鮮やかすぎる。
燃えるようなハイビスカスの赤、深く濃い熱帯樹の緑、そして空の突き抜けるような青。黄土色の台地が広がる長安とは、まるで別世界だ。
「そうだよ。ここがかつての琉球王国。中国とも日本とも違う、独自の文化が息づく島だ」
「琉球……。海の向こうにあるという、伝説の……」
送迎のリムジンバスに乗り込み、海沿いの道路へ出た瞬間、穆清は窓に張り付いた。
「書文様!見てください!海が……海の色が!」
視界いっぱいに広がったのは、エメラルドグリーンからコバルトブルーへとグラデーションを描く、息を呑むような珊瑚の海だった。
陽光を受けて宝石のように煌めく水面。遠くに見える白い砂浜。
「なんて……なんて美しい……」
穆清はガラスに手を当て、ただただ圧倒されていた。
「故郷の書物で『東海』の記述を読んだことはありますが……これほどまでに碧(あお)く、透き通っているとは……。まるで、空がそのまま溶け落ちたかのようです」
「気に入ってくれた?」
「はい……!こんな景色、一生のうちに見られるとは思ってもみませんでした」
彼女の横顔は、先ほどまでの飛行機の恐怖などすっかり忘れ、初めて遊園地に来た子供のように輝いていた。
ホテルへ向かう道中も、彼女の興奮は収まらない。
「あの木はなんですか?パイナップル?まあ、あんなふうに実がなるのですか!」
「あれはサトウキビ畑だね。甘い砂糖の原料だよ」
「屋根の上に……獅子? いえ、少し違いますね」
「シーサーだよ。家の守り神だ。西安の辟邪(へきじゃ)獣と似てるだろ?」
異国の風景の一つ一つが、彼女にとっては新鮮な驚きであり、学びだった。
歴史学者として、そして夫として、彼女の純粋な好奇心を満たしていく時間は、書文にとっても至福のひとときだった。
到着したホテルは、恩納村(おんなそん)のリゾートエリアにある最高級ホテル。ロビーを抜けて部屋に入ると、そこはオーシャンビューのスイートルームだった。
バルコニーに出れば、波の音が心地よく響き、潮風が二人の髪を撫でる。
「最高だ……」
書文が呟くと、隣の穆清も深く頷いた。
「ええ……本当に。夢のようです」
二人は手すりにもたれ、しばらくの間、言葉もなく並んで海を眺めた。
ここには、身分も、時間も、面倒な手続きもない。ただ、愛し合う二人と、美しい世界があるだけだった。
だが、リゾート満喫への道には、最後にして最大の試練が待ち受けていた。
それは――「水着」である。
ホテルのブティックに立ち寄った二人は、これから海へ出るための準備をしていた。
書文は自分のトランクスを早々に選び終え、穆清の水着コーナーへ向かった。
「さて、穆清。君の分だけど……」
「……書文様」
振り向くと、穆清が顔を真っ赤にして、陳列棚の前で固まっていた。
彼女が指差しているのは、ごく一般的なビキニタイプの水着だ。
「こ、これは……何かの冗談ですよね? これを……外で着ろとおっしゃるのですか?」
その声は震えていた。
「布が……布があまりにも少なすぎます!これでは……その、下着(・・)よりも破廉恥ではありませんか!?」
漢代の女性にとって、肌を露出することはタブー中のタブー。ましてや、へそを出し、太ももを晒すなど、言語道断の狼藉である。
書文は慌てて手を振った。
「い、いや!違う違う!それはあくまで選択肢の一つで……!」
彼は内心、少しだけ(本当に少しだけだ!)、愛妻のビキニ姿を想像して鼻の下を伸ばしかけていたが、彼女の貞操観念の危機的状況を察し、慌てて「正解」のアイテムを取り出した。
「これ!これを用意しておいたんだ!」
彼が差し出したのは、セパレートタイプだが露出が極めて少ない、ラッシュガード付きの水着と、スカート型のパレオだ。長袖のトップスに、膝上まで隠れるボトムス。これなら現代のスポーツウェアと大差ない。
「これならどう?肌もほとんど出ないし、日焼けも防げるよ」
穆清はそれを手に取り、しげしげと観察した。
まだ不満そうではあるが、先ほどの紐のような布切れ(ビキニ)に比べれば、まだ「衣服」としての体裁を保っているように思える。
「……わかりました。書文様がそうおっしゃるなら……。ですが……は、恥ずかしいです……」
「大丈夫、似合うよ。僕しか見ないから」
「……もう。書文様のえっち」
彼女は蚊の鳴くような声で呟き、試着室へと消えていった。
書文はガッツポーズをした。露出云々以前に、彼女が自分のためにその恥じらいを乗り越えてくれること自体が尊いのだ。
準備を整え、プライベートビーチへ。
しかし、砂浜に足を踏み入れた瞬間、穆清は再び「ひいっ」と悲鳴を上げ、書文の背中に隠れてしまった。
「ど、どうしたの?」
「あ、あれを……見てください……!」
彼女が震える指で示した先には、バカンスを楽しむ他の観光客たちの姿があった。
大胆なビキニ姿の女性、上半身裸で寝そべる男性、走り回る子供たち。現代のビーチでは当たり前の光景だ。
だが、二千年前の淑女にとっては、それは「酒池肉林の地獄絵図」に等しかった。
「な、なんという……!白昼堂々、あのような姿で……!え、宴?これは乱痴気騒ぎの宴なのですか!?」
穆清は両手で顔を覆ったが、指の隙間から恐る恐るチラ見している。
「み、見てはいけません!書文様、あのような……あのような太ももを晒した女子(おなご)を見てはいけませんっ!目が腐ります!」
彼女は慌てて書文の目を自分の手で塞ごうとした。
「痛い痛い!穆清、落ち着いて!現代ではこれが普通なんだよ!誰も変な意味で裸同然なわけじゃないんだ!」
「嘘です!恥を知りなさい、恥を!ああ、なんという世の中なの……孔子様が見たら卒倒されます……」
書文は笑いを堪えるのに必死だった。
文化の違いとは、かくも愛おしいものか。
彼はパニック寸前の彼女の肩を抱き、ひとまずパラソルの下へと誘導した。
「ほら、座って。周りは気にしなくていい。僕たちだけの世界だと思えばいいんだ」
冷たいトロピカルジュースを手渡すと、穆清はようやく少し落ち着きを取り戻した。
彼女の姿は、濃紺のラッシュガードとフリルのついたスカート。肌の露出は最小限だが、濡れた髪が頬に張り付き、体のラインがほのかに分かるその姿は、どんなビキニよりも清楚で、かつ色っぽかった。
書文は思わず見惚れてしまう。
「……変ではありませんか?」
穆清が恥ずかしそうに下を向く。
「いや、最高に可愛いよ。世界一だ」
「……お上手ばかり」
彼女は拗ねたように唇を尖らせたが、その頬は夕焼けのように染まっていた。
しばらくして、二人は波打ち際へと歩み寄った。
寄せては返す白い波。
穆清はおっかなびっくり、素足で海水に触れた。
「冷たいっ……!でも、気持ちいい……」
足元を洗う波の感触に、彼女の表情がふわりと緩んだ。
「海の水って、本当にしょっぱいのですね」
「舐めたの?」
「少しだけ。……ふふ、不思議です。こんなに広いのに、全部塩辛いなんて」
書文は彼女の手を引き、少し深いところまで連れて行った。
「きゃっ!」
水しぶきがかかり、穆清が笑い声を上げる。
「あ!書文様、ひどい!仕返しです!」
彼女はおぼつかない手つきで水をかけ返してきた。
「おっと、やったな!」
二人は子供のようにはしゃぎ、水を掛け合った。
周りの喧騒など、もう気にならなかった。
青い海と空の下、水飛沫の中で輝く彼女の笑顔。
それこそが、書文がこのハネムーンで一番見たかった景色だった。
「楽しいね、穆清」
「はい……! とっても!」
彼女は満面の笑みで、書文に向かって飛びついてきた。
彼がしっかりとそれを受け止めると、二人はそのまま波間に倒れ込み、笑い合った。
陽光が二人を優しく包み込み、沖縄の午後は、穏やかに、そして幸せに過ぎていった。
青い海での戯れは、二人にとって忘れられない思い出となった。
しかし、沖縄の魅力は海だけではない。歴史学者である白書文にとって、そして二千年の時を生きた皇女・劉穆清にとって、この島の「時の層」に触れることこそが、真の旅の醍醐味だった。
翌日、二人は那覇市を見下ろす高台、首里城(しゅりじょう)を訪れた。
朱色に塗り込められた正殿は、かつて火災で焼失し、今は復興の槌音が響く最中だったが、再現された守礼門や石垣の重厚さは健在だった。
「ほう……」
穆清は守礼門を見上げ、感心したように息を漏らした。
「この『守礼之邦(しゅれいのくに)』の扁額(へんがく)。……書文様、この建築様式は、明(みん)や清(しん)の時代のものに似ていますね。しかし、屋根の勾配や石積みの技法には、独自の気風を感じます」
「さすがだね、穆清。よく気づいたな」
書文はガイドブックを開きながら説明した。
「琉球王国は、中国大陸の冊封(さくほう)体制下にありながら、日本や東南アジアとも交易を行い、独自の文化を育てたんだ。君のいた漢の時代からはずっと後のことになるけれど、海を越えて伝わった中華の文化が、ここで花開いたとも言える」
穆清は石垣に手を触れ、遠い海を眺めた。かつて、大学では歴史の授業でも学んでいた知識を、目で見て、手で触れて、新たに歴史の重みを感じた。
「海は隔てるものではなく、繋ぐもの……。かつての父上は北方民族との戦いに明け暮れましたが、南の海にはこのような平和な交流があったのですね」
彼女の瞳には、観光客が見る景色以上の、歴史のレイヤーが見えているようだった。
書文はそんな彼女の横顔を誇らしく見つめた。ただのデートではない。知的な共鳴こそが、二人をより深く結びつけていた。
その後、レンタカーを飛ばして北部へ。
「美ら海(ちゅらうみ)水族館」は、穆清にとって未知との遭遇の連続だった。
「書文様!あ、あれは……『鯤(こん)』ですか!?荘子(そうし)に記された、あの伝説の大魚(たいぎょ)ですか!?」
巨大水槽「黒潮の海」の前で、穆清はガラスに張り付いて叫んだ。
彼女の視線の先には、悠然と泳ぐジンベエザメの姿があった。
「いや、あれはジンベエザメ。世界最大の魚類だよ。……まあ、昔の人が見たら『鯤』だと思ったかもしれないけど」
「なんと……。これほど巨大な生き物が、海にはいるのですね……。私の知る世界など、井の中の蛙だったと思い知らされます」
彼女はポカンと口を開け、頭上を通り過ぎるマンタの影を目で追った。
その純粋な驚きの表情は、幼子のようで愛らしい。
夕刻、那覇に戻った二人は、賑やかな国際通りへ。
土産物屋の呼び込み、三線の音色、ステーキの焼ける匂い。
「これが『ゴーヤーチャンプルー』。苦いけど栄養満点だ」
「ん……苦っ!でも、卵と絡むと美味しいですね。豚肉も、長安のものより脂が甘い気がします」
「こっちは『海ぶどう』。海の宝石さ」
「ぷちぷちして……不思議な食感です!」
穆清は小さな口をリスのように動かしながら、沖縄の味を堪能した。
書文は彼女の口元についたソースを指で拭ってやりながら、至福を感じていた。
何もかもが完璧だ。だが、旅のハイライトは、これから訪れる夜にこそあった。
夕闇が迫る頃、二人は再び恩納村のビーチに戻ってきた。
昼間の喧騒は嘘のように消え、波音だけが静かに響く。
水平線に沈む夕日が、空と海を茜色から深い紫色へと染め上げていく「マジックアワー」。
二人は靴を脱ぎ、素足でまだ温かい砂浜を歩いた。
「穆清」
書文は立ち止まり、彼女の手を取った。
「はい」
「ここに来て、改めて思ったんだ。君が生きていた二千年前の世界と、今の世界。景色も、食べ物も、常識も違う。空を飛ぶ鉄の鳥も、肌を晒す水着も、君には驚くことばかりだったろうね」
「……はい。正直、目が回りそうでした」
穆清は恥ずかしそうに微笑んだ。
書文は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でも、君は逃げなかった。僕と一緒に歩くために、勇気を出して新しい世界を受け入れようとしてくれた。……その姿が、何よりも愛おしい」
彼は指輪の嵌った彼女の左手を、そっと口元に寄せた。
「誓うよ。この先の未来、どんな時代になろうとも、僕が君の道標になる。君が寂しくないように、怖くないように。……一生、君を守り抜くよ」
穆清の瞳が潤み、夕日を反射してきらりと光った。
「書文様……」
彼女は書文の胸にそっと身を寄せた。
「私は……故郷も、家族も失いました。時という巨大な河に流され、独りぼっちでした。でも、流れ着いたこの岸辺に、貴方様がいてくださった」
彼女は書文のシャツをぎゅっと握りしめた。
「貴方様こそが、私の新しい故郷です。私の世界です。……愛しています、書文様。千年、万年先までも」
二人の影が重なり、長い口付けを交わした。
波が足元を洗い、引いていく。
それは、二人の魂が完全に一つになった瞬間だった。
ホテルのスイートルームに戻ると、夜は静かに、しかし熱を帯びて深まっていった。
部屋の照明は落とされ、間接照明の柔らかな光だけが灯っている。
「シャワー、浴びてくるね」
「はい……私も、後ほど」
書文が先にバスルームへ向かい、さっぱりとした状態でベッドに腰掛け、ミネラルウォーターを飲んでいた時だった。
バスルームの扉が、カチャリと開く音がした。
「……書文様」
「あ、上がったの?髪、乾かそうか……」
書文が振り返った瞬間、持っていたペットボトルが手から滑り落ちそうになった。
「ぶっ……!?」
そこに立っていたのは、昼間のラッシュガード姿の穆清ではなかった。
湯上がりの火照った肌に纏っているのは、なんと、あのブティックで彼女が「破廉恥です!」と顔を真っ赤にして拒絶したはずの、極小面積の白いビキニだったのだ。
濡れた黒髪が、透き通るような白い肩にかかり、雫が鎖骨を伝って胸の谷間へと滑り落ちる。
華奢な腰、なだらかなヒップライン、そして白く輝く太もも。
漢代の装束の下に隠されていた「皇女の肢体」が、現代の最も大胆な意匠によって、惜しげもなく晒されている。
「ぼ、穆清……!?そ、それ……!」
書文の声が裏返った。
穆清は顔をリンゴのように赤らめ、両手で自分の体を隠そうとおどおどしている。指の隙間から見える肌が、さらに煽情的だ。
「あ、あの……ブティックで、こっそり買っておいたのです……」
彼女は震える声で告白した。
「昼間、周りの女性たちを見て……思いました。この時代の妻は、夫のために……その、美しく装うものなのだと。……それに、書文様が、少し残念そうにビキニを見ていらしたので……」
彼女は意を決したように、隠していた手を離し、書文の前に一歩進み出た。
その瞳は、恥じらいで潤んでいるが、夫を喜ばせたいという一途な決意に燃えている。
「似合いますか……?私の、旦那様」
理性の弦が、ブチンと音を立てて切れた。
「穆清……ッ!」
書文は彼女を引き寄せ、ベッドに押し倒した。
「きゃっ……」
「似合うなんてもんじゃない……。綺麗だ、気が狂いそうなくらい」
至近距離で見下ろす彼女の顔は、湯気と恥じらいで艶めいている。
書文は震える手で彼女の頬を撫で、唇を重ねた。
最初は優しく、宝石を扱うように。
しかし、穆清の熱い吐息と、柔らかな肌の感触が、彼の中の「男」を目覚めさせた。
「書文様……あぁ……」
彼女の甘い声が、耳元で囁く。
「私を……貴方のものにしてください。もう、壊れるほどに……」
その一言が、最後の一押しだった。
歴史学者の理性は消し飛び、ただの愛に飢えた獣が解き放たれた。
「愛してる……穆清……!」
この後、二人は滅茶苦茶セックスした。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む沖縄の強力な朝日が、書文の瞼を射抜いた。
「ん……」
重いまぶたをこじ開けると、視界に入ってきたのは、白いシーツから覗く穆清の華奢な背中だった。
「あ……」
書文の脳裏に、昨夜の記憶がフラッシュバックする。
羞恥に染まる穆清の表情、乱れた吐息、そして止められなかった自分の衝動。
朝の容赦ない光の下で、穆清の雪のように白い肌には、昨夜の激しさを物語る「痕跡」が、首筋から肩、そして背中にかけて、点々と、まるで赤い花びらが散ったかのように残されていた。
「やって……しまった……」
書文は青ざめ、頭を抱えた。
彼女はこんなにも小さくて、繊細なのに。
二千年前の深窓の姫君に対して、現代人の自分がなんて乱暴な真似を。
(痛かっただろうな……。嫌がられなかっただろうか……。俺はなんて野蛮な……)
歴史的な罪悪感と、個人的な後悔が彼を襲う。
その時、穆清の体は小さく身じろぎした。
彼女はゆっくりと起き上がり、眠たげに瞳を擦りながら振り返った。
シーツが滑り落ち、その無防備な姿が露わになる。
「ん……おはようございます、書文様」
彼女は、朝日に負けないくらい輝くような笑顔を向けた。
そこには、痛みや嫌悪の色など微塵(みじん)もなかった。
むしろ、愛された喜びに満ちた、艶やかな色香が漂っていた。
「よく眠れましたか? ……ふふ、私のあ(・)な(・)た(・)」
彼女は悪戯っぽく、昨夜何度も呼んだ「駙馬」ではなく、現代風に甘く囁いた。
その瞬間、書文の中の「反省」は、再び「欲望」へと上書き保存された。
「穆清……」
書文は彼女を後ろから抱きしめた。
今度は優しく、壊れ物を扱うように。
「ごめん……昨日は、ちょっと激しすぎた」
「いいえ」
穆清は首を振り、彼の手を自分の胸元に引き寄せた。
「嬉しゅうございました。……貴方様の情熱を、この身いっぱいに感じられて」
彼女の体温が、直接伝わってくる。
昨夜の獣のような交わりとは違う、朝の穏やかで、しかし濃厚な甘い時間。
「……もう一回、いいかな?」
書文が耳元で囁くと、穆清は耳まで真っ赤にしながら、しかし小さく頷いた。
「……はい。優しく、お願いしますね?」
南国の朝、チェックアウトの時間までには、まだたっぷりと余裕があった。
市内中心部、明代から続く石造りの迎賓館。その重厚な回廊と中庭を利用した結婚式場は、今日、二千年の時を超えた祝祭の舞台へと姿を変えていた。
朱塗りの柱、揺れる赤い提灯、そして現代的な白い花のアーチ。
新郎控室では、白書文が鏡の前で、まるで敵陣に単騎で突っ込む兵士のような悲壮な顔をして固まっていた。
「……曲がってるか? ネクタイ、まだ曲がってる気がする」
「いや、さっきから完璧に真っ直ぐだ。お前が震えてるから曲がって見えるだけだよ」
隣で呆れ声を上げたのは、今日のベストマン(介添人)を務める林祈だ。彼はパリッとしたスーツを着こなし、余裕のある笑みを浮かべているが、その指先がわずかに貧乏ゆすりをしているのを書文は見逃さなかった。
「先輩だって緊張してるじゃないですか」
「馬鹿言え。俺はスピーチの内容を脳内リピートしてるだけだ。……おい、深呼吸しろ。今日はお前の人生で最高の日だぞ。顔色が死刑囚みたいになってる」
「だって、今日なんだ……。本当に、彼女と……」
書文は鏡の中の自分を見つめた。
ただの歴史オタクだった自分が、博物館勤めの平凡な青年が、まさか漢の皇女を娶ることになるなんて。
人生は何が起こるか分からない。だからこそ、最高に面白い。
彼は一度強く頬を叩き、自分に喝を入れた。
「よし……行くぞ!」
一方、新婦控室。
静寂に包まれたその部屋には、息を呑むほどの威厳と美しさが満ちていた。
劉穆清は、身の丈ほどの大きな姿見の前に立ち、己の姿を映していた。
纏っているのは、純白のウェディングドレスではない。
鮮やかな深紅の絹を惜しげもなく使い、伝統的な漢服のしなやかさと、現代のドレスの華やかさを融合させた特注の婚礼衣装だ。
幾重にも重なる袖には金糸で鳳凰の刺繍が施され、動くたびに光を受けて燦然と輝く。
髪は、かつて彼女が長安の宮廷で結っていたのと変わらぬ、未婚の皇女の正装。そこには、書文が贈ったあの簪(かんざし)が挿されている。
「……」
鏡の中の自分を見つめながら、穆清はふと、めまいのような感覚に襲われた。
周囲の音が遠のき、視界が滲む。
(これは……夢なのでしょうか?)
あの時。長安の乱戦の中、王健の斧が振り下ろされたあの一瞬。
自分は本当はあそこで命を落とし、今見ているこの鮮やかな光景は、死の間際に見る走馬灯なのではないか。
あまりにも幸せすぎて、あまりにも満たされすぎていて、現実のものとは思えない。
そっと自分の頬に手を当てる。温かい。心臓がトクトクと脈打っている。
これが現実なのだと、体が教えてくれる。
穆清はゆっくりと瞼を閉じ、心の中で、遠い時空の彼方にいる家族へと語りかけた。
(父上、母上……そちらはお元気でしょうか。親不孝な娘をお許しください。私は、この遠い未来の世で、伴侶を得ました)
脳裏に、優しい面影の父帝、ぼやける面影の母妃、いつも口うるさかった乳母、そして幼い頃から守ってくれた曹(そう)じいの顔が浮かぶ。
(お相手は、白書文様という方です。武芸はからっきしで、少し頼りないところもありますが……誰よりも優しく、私の心を大切にしてくださる、誠実な殿方です。私の、大切な駙馬様です)
まぶたの裏で、懐かしい人々がふわりと微笑んだような気がした。
(どうか、私たちの行く末をお見守りください。……穆清は本日、嫁ぎます)
「穆清ちゃん?」
鏡越しに聞こえた声に、穆清はハッと目を開けた。
後ろに控えていた衛佳が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。自身の正体を知る数少ない理解者であり、今日の介添人だ。
「まあ、なんて綺麗なの……! 本当に、絵巻物から抜け出してきたみたい」
衛佳の瞳が感動で潤んでいる。
その後ろでは、書文の両親も言葉を失い、ただただ涙ぐんで頷いていた。
「……ありがとう、衛佳様。お義父様、お義母様」
穆清は振り返り、満開の花が綻ぶように微笑んだ。
もう迷いはない。その瞳の奥には、二千年の時を超えた女性だけが持つ、深く静かな覚悟の海が広がっていた。
「皆さまのおかげで、私は今日、世界で一番幸せな花嫁になれます」
チャペルの扉が開く。
パイプオルガンではなく、古琴と二胡による荘厳な調べが響き渡った。
祭壇の前で待つ書文の姿が目に入った瞬間、穆清の緊張は解け、胸が熱くなった。
一歩、また一歩。
衛佳にエスコートされ、真紅のバージンロードを進む。
両脇には、王健夫妻及び張勇と李娜夫妻をはじめ、苦楽を共にした友人たちが並び、割れんばかりの拍手を送っている。かつては剣を向け合った者たちが、今は心からの笑顔で祝福してくれている奇跡。
書文が手を差し伸べる。
穆清はその大きな手に、自分の手を重ねた。
温かい。その温もりだけが、彼女をこの世界に繋ぎ止める絶対の真実だった。
「誓います」
二人の声が重なり、指輪が交換される。
プラチナの輝きが、二人の薬指で永遠の約束を結んだ。
披露宴は、笑いと涙の連続だった。
高砂席(たかさごせき)には、西安の名物料理が次々と運ばれ、グラスが触れ合う音が絶え間なく響く。
友人代表のスピーチでマイクを握ったのは、王健だった。
かつて穆清を追い詰めた猛将は、今はすっかり丸くなり(体型も少しだけ)、照れくさそうに頭をかきながら話し始めた。
「えー、新郎新婦、おめでとう。……正直に言うとな、俺は最初、二人が結ばれるなんて思ってもみなかった。住む世界が違いすぎるだろってな」
会場の一部、事情を知る者たちがクスクスと笑う。王健は書文に向かってニヤリと笑った。
「だが、書文。お前はすげぇよ。剣も持てないひ弱な男が、一番大事なものを守り抜いたんだからな。……俺たちが戦場を探し求めても手に入らなかった『普通の幸せ』ってやつを、お前たちは自分たちの手で作り上げたんだ」
王健の声が少しだけ震えた。
「穆清さん、いや、奥さん。こいつを頼むよ。泣かせたら俺が承知しねぇからな!」
「あはは! その時は俺も加勢するぞ!」
張勇が野太い声でヤジを飛ばし、会場は爆笑と温かい拍手に包まれた。
宴もたけなわとなり、いよいよお開きの時間。
新郎新婦退場の直前、司会者が悪戯っぽい声で煽った。
「さあ、新郎!愛する花嫁をしっかりと抱えて、新しい人生へと旅立ってください!ここは男の見せ所ですよ!」
「おー! やれやれ!」
「書文! 落とすなよ!」
冷やかしの声が飛ぶ中、書文は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「よ、よし……!」
彼は腕まくりをし、穆清の前に立つ。
穆清は恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに扇で口元を隠した。
「書文様、腰は大丈夫ですか……?」
「任せろ! 特訓したんだから!」
「せーのっ!」
掛け声と共に、書文は穆清の体をふわりと持ち上げた。いわゆる「お姫様抱っこ」だ。
深紅のドレスの裾が宙に舞い、穆清が驚いて書文の首に腕を回す。
その様は、まさに映画のラストシーンのように完璧で、美しかった。
シャッター音が嵐のように降り注ぐ中、書文は息を切らせながら、満面の笑みで叫んだ。
「どうだ!!結構重いけど……これが『本物(・・)』のお姫様抱っこだぞーー!!!」
会場が一瞬の静寂の後、今日一番の大爆笑に包まれた。
「そりゃそうだ!」「本物だからな!」「座布団一枚!」
林祈が腹を抱えて笑い、衛佳が手を叩いて喜んでいる。
腕の中の穆清も、つられて声を上げて笑った。
こんなにも無防備に、心の底から笑ったのはいつぶりだろう。
長安の宮廷では決して許されなかった、あられもない大笑い。
けれど、今の彼女にとって、それはどんな儀式の賛歌よりも心地よい響きだった。
拍手喝采の中、堂々と退場していく二人。
その背中は、未来への希望に満ち溢れている。
扉の向こうで、書文が穆清をそっと下ろした。
二人きりの静寂が戻ってくる。
まだ会場の熱気が肌に残っている中、二人は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。
「……重かったか?」
穆清が上目遣いで尋ねる。
「いや、世界一軽かったよ」書文は即答し、彼女の手を握りしめた。
「さて、次はいよいよだな」
「はい……!」
穆清の目がキラキラと輝いた。
「『ハネムーン』……でしたか?南の島、青い海!」
「ああ。沖縄だ。パスポートも取ったし、もう怖いものなしだ」
「ふふ、楽しみです。……貴方となら、たとえ地の果てまでも」
「よし、行こう! 俺たちの旅はこれからだ!」
書文と穆清。
時空を超えた夫婦の新たな冒険、新婚旅行編の幕が、今上がろうとしていた。
西安から沖縄へ。
それは単なる地理的な移動ではなく、二千年の時を生きた皇女にとって、天地がひっくり返るほどのカルチャーショックの連続だった。
その洗礼は、まず空の上から始まった。
「しょ……書文様……っ!」
「だ、大丈夫だよ穆清。僕の手を握って」
高度一万メートル。
雲海の上を滑るように飛ぶ機内で、穆清は借りてきた猫のように小さくなり、顔面蒼白でシートに張り付いていた。
彼女の細い指は、血流が止まるのではないかと思うほど強く書文の手を握りしめている。
「こ、これは……なんという……。鉄の鳥の腹に入り、雲よりも高く昇るとは……」
彼女は窓の外を恐る恐る盗み見ては、すぐに「ひいっ」と小さく悲鳴を上げ、目を固く閉じた。
「人間が……天の領域を犯すなど……バチが、雷公(らいこう)の怒りが落ちるのではありませんか……?」
「大丈夫、大丈夫。これは科学の力だから。飛行機は世界で一番安全な乗り物……って統計も出てるし」
書文は必死になだめるが、内心では(漢代の人間に航空力学を説いても無駄だよな……)と苦笑するしかなかった。
穆清は涙目で、ブツブツと何かをつぶやき始めた。
「……天よ、地よ。不肖・劉穆清、今は夫に従い空を駆けております。決して謀反の心にあらず……どうかお見逃しを……」
どうやら必死に天帝への許しを請うているらしい。
その健気で可愛らしい姿に、書文は愛おしさが込み上げてくるのを抑えきれなかった。
「着いたら美味しいものが待ってるから。な? もうすぐだから」
彼は赤子をあやすように、優しく彼女の背中をさすり続けた。
数時間のフライトを経て、那覇空港に降り立った二人を迎えたのは、西安の乾燥した空気とは全く違う、湿り気を帯びた熱風と、むせ返るような南国の香りだった。
「あつ……っ! これが……『沖縄』ですか?」
空港を出た瞬間、穆清は目を丸くした。
目に入る色彩が、あまりにも鮮やかすぎる。
燃えるようなハイビスカスの赤、深く濃い熱帯樹の緑、そして空の突き抜けるような青。黄土色の台地が広がる長安とは、まるで別世界だ。
「そうだよ。ここがかつての琉球王国。中国とも日本とも違う、独自の文化が息づく島だ」
「琉球……。海の向こうにあるという、伝説の……」
送迎のリムジンバスに乗り込み、海沿いの道路へ出た瞬間、穆清は窓に張り付いた。
「書文様!見てください!海が……海の色が!」
視界いっぱいに広がったのは、エメラルドグリーンからコバルトブルーへとグラデーションを描く、息を呑むような珊瑚の海だった。
陽光を受けて宝石のように煌めく水面。遠くに見える白い砂浜。
「なんて……なんて美しい……」
穆清はガラスに手を当て、ただただ圧倒されていた。
「故郷の書物で『東海』の記述を読んだことはありますが……これほどまでに碧(あお)く、透き通っているとは……。まるで、空がそのまま溶け落ちたかのようです」
「気に入ってくれた?」
「はい……!こんな景色、一生のうちに見られるとは思ってもみませんでした」
彼女の横顔は、先ほどまでの飛行機の恐怖などすっかり忘れ、初めて遊園地に来た子供のように輝いていた。
ホテルへ向かう道中も、彼女の興奮は収まらない。
「あの木はなんですか?パイナップル?まあ、あんなふうに実がなるのですか!」
「あれはサトウキビ畑だね。甘い砂糖の原料だよ」
「屋根の上に……獅子? いえ、少し違いますね」
「シーサーだよ。家の守り神だ。西安の辟邪(へきじゃ)獣と似てるだろ?」
異国の風景の一つ一つが、彼女にとっては新鮮な驚きであり、学びだった。
歴史学者として、そして夫として、彼女の純粋な好奇心を満たしていく時間は、書文にとっても至福のひとときだった。
到着したホテルは、恩納村(おんなそん)のリゾートエリアにある最高級ホテル。ロビーを抜けて部屋に入ると、そこはオーシャンビューのスイートルームだった。
バルコニーに出れば、波の音が心地よく響き、潮風が二人の髪を撫でる。
「最高だ……」
書文が呟くと、隣の穆清も深く頷いた。
「ええ……本当に。夢のようです」
二人は手すりにもたれ、しばらくの間、言葉もなく並んで海を眺めた。
ここには、身分も、時間も、面倒な手続きもない。ただ、愛し合う二人と、美しい世界があるだけだった。
だが、リゾート満喫への道には、最後にして最大の試練が待ち受けていた。
それは――「水着」である。
ホテルのブティックに立ち寄った二人は、これから海へ出るための準備をしていた。
書文は自分のトランクスを早々に選び終え、穆清の水着コーナーへ向かった。
「さて、穆清。君の分だけど……」
「……書文様」
振り向くと、穆清が顔を真っ赤にして、陳列棚の前で固まっていた。
彼女が指差しているのは、ごく一般的なビキニタイプの水着だ。
「こ、これは……何かの冗談ですよね? これを……外で着ろとおっしゃるのですか?」
その声は震えていた。
「布が……布があまりにも少なすぎます!これでは……その、下着(・・)よりも破廉恥ではありませんか!?」
漢代の女性にとって、肌を露出することはタブー中のタブー。ましてや、へそを出し、太ももを晒すなど、言語道断の狼藉である。
書文は慌てて手を振った。
「い、いや!違う違う!それはあくまで選択肢の一つで……!」
彼は内心、少しだけ(本当に少しだけだ!)、愛妻のビキニ姿を想像して鼻の下を伸ばしかけていたが、彼女の貞操観念の危機的状況を察し、慌てて「正解」のアイテムを取り出した。
「これ!これを用意しておいたんだ!」
彼が差し出したのは、セパレートタイプだが露出が極めて少ない、ラッシュガード付きの水着と、スカート型のパレオだ。長袖のトップスに、膝上まで隠れるボトムス。これなら現代のスポーツウェアと大差ない。
「これならどう?肌もほとんど出ないし、日焼けも防げるよ」
穆清はそれを手に取り、しげしげと観察した。
まだ不満そうではあるが、先ほどの紐のような布切れ(ビキニ)に比べれば、まだ「衣服」としての体裁を保っているように思える。
「……わかりました。書文様がそうおっしゃるなら……。ですが……は、恥ずかしいです……」
「大丈夫、似合うよ。僕しか見ないから」
「……もう。書文様のえっち」
彼女は蚊の鳴くような声で呟き、試着室へと消えていった。
書文はガッツポーズをした。露出云々以前に、彼女が自分のためにその恥じらいを乗り越えてくれること自体が尊いのだ。
準備を整え、プライベートビーチへ。
しかし、砂浜に足を踏み入れた瞬間、穆清は再び「ひいっ」と悲鳴を上げ、書文の背中に隠れてしまった。
「ど、どうしたの?」
「あ、あれを……見てください……!」
彼女が震える指で示した先には、バカンスを楽しむ他の観光客たちの姿があった。
大胆なビキニ姿の女性、上半身裸で寝そべる男性、走り回る子供たち。現代のビーチでは当たり前の光景だ。
だが、二千年前の淑女にとっては、それは「酒池肉林の地獄絵図」に等しかった。
「な、なんという……!白昼堂々、あのような姿で……!え、宴?これは乱痴気騒ぎの宴なのですか!?」
穆清は両手で顔を覆ったが、指の隙間から恐る恐るチラ見している。
「み、見てはいけません!書文様、あのような……あのような太ももを晒した女子(おなご)を見てはいけませんっ!目が腐ります!」
彼女は慌てて書文の目を自分の手で塞ごうとした。
「痛い痛い!穆清、落ち着いて!現代ではこれが普通なんだよ!誰も変な意味で裸同然なわけじゃないんだ!」
「嘘です!恥を知りなさい、恥を!ああ、なんという世の中なの……孔子様が見たら卒倒されます……」
書文は笑いを堪えるのに必死だった。
文化の違いとは、かくも愛おしいものか。
彼はパニック寸前の彼女の肩を抱き、ひとまずパラソルの下へと誘導した。
「ほら、座って。周りは気にしなくていい。僕たちだけの世界だと思えばいいんだ」
冷たいトロピカルジュースを手渡すと、穆清はようやく少し落ち着きを取り戻した。
彼女の姿は、濃紺のラッシュガードとフリルのついたスカート。肌の露出は最小限だが、濡れた髪が頬に張り付き、体のラインがほのかに分かるその姿は、どんなビキニよりも清楚で、かつ色っぽかった。
書文は思わず見惚れてしまう。
「……変ではありませんか?」
穆清が恥ずかしそうに下を向く。
「いや、最高に可愛いよ。世界一だ」
「……お上手ばかり」
彼女は拗ねたように唇を尖らせたが、その頬は夕焼けのように染まっていた。
しばらくして、二人は波打ち際へと歩み寄った。
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穆清はおっかなびっくり、素足で海水に触れた。
「冷たいっ……!でも、気持ちいい……」
足元を洗う波の感触に、彼女の表情がふわりと緩んだ。
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「きゃっ!」
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彼女はおぼつかない手つきで水をかけ返してきた。
「おっと、やったな!」
二人は子供のようにはしゃぎ、水を掛け合った。
周りの喧騒など、もう気にならなかった。
青い海と空の下、水飛沫の中で輝く彼女の笑顔。
それこそが、書文がこのハネムーンで一番見たかった景色だった。
「楽しいね、穆清」
「はい……! とっても!」
彼女は満面の笑みで、書文に向かって飛びついてきた。
彼がしっかりとそれを受け止めると、二人はそのまま波間に倒れ込み、笑い合った。
陽光が二人を優しく包み込み、沖縄の午後は、穏やかに、そして幸せに過ぎていった。
青い海での戯れは、二人にとって忘れられない思い出となった。
しかし、沖縄の魅力は海だけではない。歴史学者である白書文にとって、そして二千年の時を生きた皇女・劉穆清にとって、この島の「時の層」に触れることこそが、真の旅の醍醐味だった。
翌日、二人は那覇市を見下ろす高台、首里城(しゅりじょう)を訪れた。
朱色に塗り込められた正殿は、かつて火災で焼失し、今は復興の槌音が響く最中だったが、再現された守礼門や石垣の重厚さは健在だった。
「ほう……」
穆清は守礼門を見上げ、感心したように息を漏らした。
「この『守礼之邦(しゅれいのくに)』の扁額(へんがく)。……書文様、この建築様式は、明(みん)や清(しん)の時代のものに似ていますね。しかし、屋根の勾配や石積みの技法には、独自の気風を感じます」
「さすがだね、穆清。よく気づいたな」
書文はガイドブックを開きながら説明した。
「琉球王国は、中国大陸の冊封(さくほう)体制下にありながら、日本や東南アジアとも交易を行い、独自の文化を育てたんだ。君のいた漢の時代からはずっと後のことになるけれど、海を越えて伝わった中華の文化が、ここで花開いたとも言える」
穆清は石垣に手を触れ、遠い海を眺めた。かつて、大学では歴史の授業でも学んでいた知識を、目で見て、手で触れて、新たに歴史の重みを感じた。
「海は隔てるものではなく、繋ぐもの……。かつての父上は北方民族との戦いに明け暮れましたが、南の海にはこのような平和な交流があったのですね」
彼女の瞳には、観光客が見る景色以上の、歴史のレイヤーが見えているようだった。
書文はそんな彼女の横顔を誇らしく見つめた。ただのデートではない。知的な共鳴こそが、二人をより深く結びつけていた。
その後、レンタカーを飛ばして北部へ。
「美ら海(ちゅらうみ)水族館」は、穆清にとって未知との遭遇の連続だった。
「書文様!あ、あれは……『鯤(こん)』ですか!?荘子(そうし)に記された、あの伝説の大魚(たいぎょ)ですか!?」
巨大水槽「黒潮の海」の前で、穆清はガラスに張り付いて叫んだ。
彼女の視線の先には、悠然と泳ぐジンベエザメの姿があった。
「いや、あれはジンベエザメ。世界最大の魚類だよ。……まあ、昔の人が見たら『鯤』だと思ったかもしれないけど」
「なんと……。これほど巨大な生き物が、海にはいるのですね……。私の知る世界など、井の中の蛙だったと思い知らされます」
彼女はポカンと口を開け、頭上を通り過ぎるマンタの影を目で追った。
その純粋な驚きの表情は、幼子のようで愛らしい。
夕刻、那覇に戻った二人は、賑やかな国際通りへ。
土産物屋の呼び込み、三線の音色、ステーキの焼ける匂い。
「これが『ゴーヤーチャンプルー』。苦いけど栄養満点だ」
「ん……苦っ!でも、卵と絡むと美味しいですね。豚肉も、長安のものより脂が甘い気がします」
「こっちは『海ぶどう』。海の宝石さ」
「ぷちぷちして……不思議な食感です!」
穆清は小さな口をリスのように動かしながら、沖縄の味を堪能した。
書文は彼女の口元についたソースを指で拭ってやりながら、至福を感じていた。
何もかもが完璧だ。だが、旅のハイライトは、これから訪れる夜にこそあった。
夕闇が迫る頃、二人は再び恩納村のビーチに戻ってきた。
昼間の喧騒は嘘のように消え、波音だけが静かに響く。
水平線に沈む夕日が、空と海を茜色から深い紫色へと染め上げていく「マジックアワー」。
二人は靴を脱ぎ、素足でまだ温かい砂浜を歩いた。
「穆清」
書文は立ち止まり、彼女の手を取った。
「はい」
「ここに来て、改めて思ったんだ。君が生きていた二千年前の世界と、今の世界。景色も、食べ物も、常識も違う。空を飛ぶ鉄の鳥も、肌を晒す水着も、君には驚くことばかりだったろうね」
「……はい。正直、目が回りそうでした」
穆清は恥ずかしそうに微笑んだ。
書文は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でも、君は逃げなかった。僕と一緒に歩くために、勇気を出して新しい世界を受け入れようとしてくれた。……その姿が、何よりも愛おしい」
彼は指輪の嵌った彼女の左手を、そっと口元に寄せた。
「誓うよ。この先の未来、どんな時代になろうとも、僕が君の道標になる。君が寂しくないように、怖くないように。……一生、君を守り抜くよ」
穆清の瞳が潤み、夕日を反射してきらりと光った。
「書文様……」
彼女は書文の胸にそっと身を寄せた。
「私は……故郷も、家族も失いました。時という巨大な河に流され、独りぼっちでした。でも、流れ着いたこの岸辺に、貴方様がいてくださった」
彼女は書文のシャツをぎゅっと握りしめた。
「貴方様こそが、私の新しい故郷です。私の世界です。……愛しています、書文様。千年、万年先までも」
二人の影が重なり、長い口付けを交わした。
波が足元を洗い、引いていく。
それは、二人の魂が完全に一つになった瞬間だった。
ホテルのスイートルームに戻ると、夜は静かに、しかし熱を帯びて深まっていった。
部屋の照明は落とされ、間接照明の柔らかな光だけが灯っている。
「シャワー、浴びてくるね」
「はい……私も、後ほど」
書文が先にバスルームへ向かい、さっぱりとした状態でベッドに腰掛け、ミネラルウォーターを飲んでいた時だった。
バスルームの扉が、カチャリと開く音がした。
「……書文様」
「あ、上がったの?髪、乾かそうか……」
書文が振り返った瞬間、持っていたペットボトルが手から滑り落ちそうになった。
「ぶっ……!?」
そこに立っていたのは、昼間のラッシュガード姿の穆清ではなかった。
湯上がりの火照った肌に纏っているのは、なんと、あのブティックで彼女が「破廉恥です!」と顔を真っ赤にして拒絶したはずの、極小面積の白いビキニだったのだ。
濡れた黒髪が、透き通るような白い肩にかかり、雫が鎖骨を伝って胸の谷間へと滑り落ちる。
華奢な腰、なだらかなヒップライン、そして白く輝く太もも。
漢代の装束の下に隠されていた「皇女の肢体」が、現代の最も大胆な意匠によって、惜しげもなく晒されている。
「ぼ、穆清……!?そ、それ……!」
書文の声が裏返った。
穆清は顔をリンゴのように赤らめ、両手で自分の体を隠そうとおどおどしている。指の隙間から見える肌が、さらに煽情的だ。
「あ、あの……ブティックで、こっそり買っておいたのです……」
彼女は震える声で告白した。
「昼間、周りの女性たちを見て……思いました。この時代の妻は、夫のために……その、美しく装うものなのだと。……それに、書文様が、少し残念そうにビキニを見ていらしたので……」
彼女は意を決したように、隠していた手を離し、書文の前に一歩進み出た。
その瞳は、恥じらいで潤んでいるが、夫を喜ばせたいという一途な決意に燃えている。
「似合いますか……?私の、旦那様」
理性の弦が、ブチンと音を立てて切れた。
「穆清……ッ!」
書文は彼女を引き寄せ、ベッドに押し倒した。
「きゃっ……」
「似合うなんてもんじゃない……。綺麗だ、気が狂いそうなくらい」
至近距離で見下ろす彼女の顔は、湯気と恥じらいで艶めいている。
書文は震える手で彼女の頬を撫で、唇を重ねた。
最初は優しく、宝石を扱うように。
しかし、穆清の熱い吐息と、柔らかな肌の感触が、彼の中の「男」を目覚めさせた。
「書文様……あぁ……」
彼女の甘い声が、耳元で囁く。
「私を……貴方のものにしてください。もう、壊れるほどに……」
その一言が、最後の一押しだった。
歴史学者の理性は消し飛び、ただの愛に飢えた獣が解き放たれた。
「愛してる……穆清……!」
この後、二人は滅茶苦茶セックスした。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む沖縄の強力な朝日が、書文の瞼を射抜いた。
「ん……」
重いまぶたをこじ開けると、視界に入ってきたのは、白いシーツから覗く穆清の華奢な背中だった。
「あ……」
書文の脳裏に、昨夜の記憶がフラッシュバックする。
羞恥に染まる穆清の表情、乱れた吐息、そして止められなかった自分の衝動。
朝の容赦ない光の下で、穆清の雪のように白い肌には、昨夜の激しさを物語る「痕跡」が、首筋から肩、そして背中にかけて、点々と、まるで赤い花びらが散ったかのように残されていた。
「やって……しまった……」
書文は青ざめ、頭を抱えた。
彼女はこんなにも小さくて、繊細なのに。
二千年前の深窓の姫君に対して、現代人の自分がなんて乱暴な真似を。
(痛かっただろうな……。嫌がられなかっただろうか……。俺はなんて野蛮な……)
歴史的な罪悪感と、個人的な後悔が彼を襲う。
その時、穆清の体は小さく身じろぎした。
彼女はゆっくりと起き上がり、眠たげに瞳を擦りながら振り返った。
シーツが滑り落ち、その無防備な姿が露わになる。
「ん……おはようございます、書文様」
彼女は、朝日に負けないくらい輝くような笑顔を向けた。
そこには、痛みや嫌悪の色など微塵(みじん)もなかった。
むしろ、愛された喜びに満ちた、艶やかな色香が漂っていた。
「よく眠れましたか? ……ふふ、私のあ(・)な(・)た(・)」
彼女は悪戯っぽく、昨夜何度も呼んだ「駙馬」ではなく、現代風に甘く囁いた。
その瞬間、書文の中の「反省」は、再び「欲望」へと上書き保存された。
「穆清……」
書文は彼女を後ろから抱きしめた。
今度は優しく、壊れ物を扱うように。
「ごめん……昨日は、ちょっと激しすぎた」
「いいえ」
穆清は首を振り、彼の手を自分の胸元に引き寄せた。
「嬉しゅうございました。……貴方様の情熱を、この身いっぱいに感じられて」
彼女の体温が、直接伝わってくる。
昨夜の獣のような交わりとは違う、朝の穏やかで、しかし濃厚な甘い時間。
「……もう一回、いいかな?」
書文が耳元で囁くと、穆清は耳まで真っ赤にしながら、しかし小さく頷いた。
「……はい。優しく、お願いしますね?」
南国の朝、チェックアウトの時間までには、まだたっぷりと余裕があった。
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そんな彼女は誤解から好意を抱いていた幼馴染に軽蔑されてしまう。その場面を偶然目撃した佐野将隆は絶好のチャンスだと立ち上がった。
千夏に好意を寄せていた将隆だったが、彼女には生まれた頃から幼馴染の男子がいた。半ば諦めていたのに突然転がり込んできた好機。それを逃すことなく、将隆は千夏の弱った心に容赦なくつけ込んでいくのであった。
徐々に解されていく千夏の心。いつしか彼女は将隆なしではいられなくなっていく…。口うるさいツンデレ女子が優しい美少女幼馴染だと気づいても、今さらもう遅い!
※他サイトにも投稿しています。
※表紙絵イラストはおしつじさん、ロゴはあっきコタロウさんに作っていただきました。
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