ルミナス・ヘブン 神と人の愛憎の物語

中野八郎

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弐 変わりゆく日常

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 広い居間が、今ほど小さく感じられたことはないだろう。
 空気は重く澱み、掛け時計の秒針が刻む音だけが、不自然なほど大きく響く。
 祈がソファの真ん中に縮こまり、その隣には精衛が、まるで借りてきた猫のようにちょこんと座っている。そしてローテーブルを挟んだ向かい側には、仏頂面で腕を組んだ姉の願が鎮座していた。その背後には、目に見えない不動明王の炎が燃え盛っているようにすら見える。
「で、どういうこと? 姉ちゃんが仕事で必死に働いている間に、知らない女の子を連れ込んで、しかも着せ替え人形遊びまでしていたのは、どういうこと?」
 願の声は低く、滑らかだった。それが逆に恐ろしい。営業先で見せる愛想の良い笑顔はどこへやら、今は完全に「弟の非行を追及する姉」の顔だ。
「どういうことって……その……」
「事情を説明しなさい。祈にも思春期があるのは認めるわ。彼女ができてもいい。でもね、挨拶もなしに家に住まわせるのは、姉として、いや保護者として流石に大目に見れないわよ」
「だから、そういうやましい関係じゃないんだって!」
 祈は窮地に追い込まれていた。額から冷たい汗が滲む。怪我をした正体不明の鳥を助けたら美少女の神様だった、なんて真実を話せば、頭がおかしくなったと思われて精神科に連れて行かれるのがオチだ。かといって、納得のいく嘘など、この土壇場で思いつくはずもない。
 祈が言葉に詰まり、視線を彷徨わせていた、その時だった。
 精衛がスッと立ち上がり、凛とした仕草で右手を胸に当てた。その瞳には、妙な使命感が宿っている。
「お姉さん、どうか彼を責めないでください。これは私が望んだことなのです」
 精衛は透明感のある声で、真っ直ぐに願を見据えた。
「私は、勝手に祈くんの妾《めかけ》になると決めたのですから。すべては私の独断、祈くんは悪くありません」
 時が、止まった。
 精衛はまだ、現代社会の常識――いや、人間界の倫理観というものを欠片も理解していない。彼女が知識として持っているのは、数千年前の古代中国の記憶だけだ。「妾」という言葉が、現代においてどれほどの爆弾発言になるかなど、知る由もない。
 祈と願、二人の目が限界まで見開かれる。
 当の精衛は、「上手く彼を庇えた」とでも言いたげに、満足そうに微笑んで祈に視線を送った。そのドヤ顔が、今はただただ痛々しい。
 祈が「お前、何言ってるんだ!?」と叫ぼうと口を開きかけた、その刹那。
「祈……!」
 願が、地獄の底から響くような声で祈の名を呼んだ。彼女は両手で顔を覆い、肩を震わせ始めた――かと思えば、突然、大女優も顔負けの泣き演技に入った。
「うっ、ううっ……!祈をこんな色欲に溺れる子に育てた覚えはないのに……! 妾ですって?まだ高校生が、なんて破廉恥な……!」
「おい、人の話を聞け! こいつが言葉分かってないだけだ!」
 祈はたまらずツッコミを入れるが、願の暴走は止まらない。
「お姉さん、泣かないでください」精衛がここぞとばかりに追い打ちをかける。「祈くんは器の大きな、いい男ですよ。私は大丈夫、二番目でも三番目でも、彼に仕えられるなら幸せなのです」
(何が「どうだ、私上手いでしょう」だ!火に油を注いでるのが分かんないのか!?)
 祈は心の中で絶叫した。
「君……なんて健気なの……」願は涙を拭う仕草をしながら、精衛の手を取った。
「こんな純粋ないい子を、言葉巧みに騙して妾にするなんて……祈、あんたいつの間にそんな鬼畜になったの?」
「だから人をクズ呼ばわりするな! 俺は何もしてない!」
「いいえ、祈さんはどうあれ、私にとっては命の恩人であり、愛すべき主君なのです」
「お前もノリノリで設定に乗っかるな! ややこしくなるだろうが!」
 祈はソファに深々と沈み込み、天を仰いだ。この場を収めるには、自分の精神力が足りなすぎる。

「……しんどかった……」
 嵐が過ぎ去った後のリビングで、祈は魂が抜けたように呟いた。
 結局、願を納得させるのに一時間近くかかった。
「精衛は昔からのネット友達で、両親が海外出張に行って一人ぼっちになったから、寂しくて家出してきた」
「チャットの冗談で『妾』とか呼び合ってたのが癖になってた」
 という、これまた苦しい言い訳を並べ立て、なんとか願を自室へと帰らせたのだ。願も最後には「まあ、祈がそこまで言うなら」と、渋々ながらも引き下がってくれた。半分は、面白がっていただけかもしれないが。
「ごめん。まさか今の時代、『妾』がそんなに不道徳な存在だなんて知らなかったの」
 精衛は、祈のあまりの憔悴ぶりに、ようやく自分が失言をしたことを悟り、しょんぼりと肩を落とした。
「いや、もういいよ……。悪気がないのは分かってる。ただ、頼むから現代のドラマとかを見て勉強してくれ」
「うん、善処する」
「あと、姉さんの前でああいう時代がかった口調も禁止な」
「分かったわ」
 祈は重いため息をつきつつ、これからのことを考えた。
「ところで、ひとまず両親が海外出張だと言ったけど、学校に通わないのは流石にバレるよな。姉さんは鋭いし」
「そうね。私が一日中家に引きこもっているのは、確かに不自然だわ」
 精衛は人間ではなくとも、外見はどう見ても可憐な15、6歳の少女だ。義務教育ではないにしろ、学校に行っていない少女が家に居座り続けるのは、ご近所の目も含めてリスクが高い。
「じゃあ、私が祈と一緒に出かければいいんじゃないの?」
「いいんだけど、その後はどうする? 僕が授業を受けている間、どこかで時間潰すのか?」
「まあ、古都の観光でもして……」
「いやいや、怪我してるのにそれはなしだ。あの男がまたいつ襲ってくるかも分からないのに、不用意に出歩くのは危険すぎる」
 祈は即座に却下した。
「では、出かけるフリをすればいいわ」精衛は人差し指を立てた。
「朝、祈と一緒に家を出て、祈が学校に向かったら、私は透明化して窓から部屋に戻る。そして下校時間になったら、また外で待ち合わせて一緒に帰れば、願お姉さんには『学校に行った』ように見えるはずよ」
「……なるほど。灯台下暗し、か」
「でしょ?」
 精衛は得意げに胸を張った。
「とりあえず、その作戦でいこう。家の中なら結界も張りやすいしな」
 祈は、当面のその場凌ぎとして、その提案に乗ることに決めた。

 翌朝、通学路の風景はいつもと変わらず、冷たい冬の空気が漂っていた。だが、校門をくぐった瞬間、日常に小さなひびが入った。
「よ! おはよう、林くん」
 爽やかな声と共に、腕に「風紀委員」の腕章をつけた少年が手を挙げてきた。
 李宅《りたく》。別のクラスの生徒だが、なぜか入学当初から祈に懐いてくる不思議な少年だ。色素の薄い髪を後ろで赤い紐で束ね、いつも飄々とした笑顔を浮かべている。
「おっす、李くん」
 祈が短く返すと、李はすっと距離を詰め、声を潜めた。
「昨日は大変だったな、買い物」
「――えっ?」
 祈の足が止まる。心臓がドクンと跳ねた。
 ショッピングモールでの買い物は、誰にも見られていないはずだ。しかも、李が言う「大変だった」のニュアンスには、単に荷物が重かったという意味以上のものが含まれているように聞こえた。
「なんで知ってるんだ!? まさか、尾行でもしてきたのか?」
「さぁね」
 李は悪戯っぽく笑うだけで、肯定も否定もしない。その笑顔は無邪気なようでいて、瞳の奥に底知れぬ闇を隠しているようにも見える。
(さぁね、じゃない! こいつ、やっぱり何か知ってるのか? それともカマをかけてるだけか?)
 祈の警戒レベルが一気に跳ね上がる。
 精衛のこと、契約のこと、あの神狩りの男のこと。昨夜から始まった非日常は、まだ誰にも——姉にすら——明かしていない秘密だ。それを、この一見普通の同級生が少しでも感知しているとしたら?
 だが、李はそれ以上の追及はせず、「じゃあ、また後で」と手を振って校舎へ消えていった。
 冬の寒さとは違う種類の悪寒が、祈の背筋を走った。

「……、……で良かった……」
 授業中、まどろみの中で少女の声が聞こえた気がした。あの夢の少女だろうか。
「林祈! お前はいつまで優雅に午睡を貪っているつもりだ!」
 バシンッ! と教科書で教卓を叩く音が響き、祈は現実に引き戻された。
 顔を上げると、女性教師の公孫夏夜《こうそん かや》が、吊り上がった眼鏡の奥から冷たい視線を突き刺していた。
「ひぃっ!」
「おはよう、林くん。夢の続きは放課後の説教部屋で聞こうか?」
 クラス中からドッと笑いが起こる。
「あいつまた寝てたぜ」
「余裕だなー、天才は」
 そんな野次が飛ぶ。
 祈がこの「落ちこぼれクラス」にいるのは、成績が悪いからではない。入学試験で名前を書いてなかったため、皮肉なことに、このクラスで唯一、学年トップの成績を維持し続けているのは彼だった。
「成績がいいからといって、私の授業をBGMにしていい権利はないわよ」
「す、すみません……」
 祈は小さくなって頭を下げる。
 公孫先生もそれ以上は追求しなかった。最近の祈が、目の下のクマを濃くして何かに悩んでいるのは明白だったからだ。
(精衛のこと、李のこと……考えなきゃいけないことが多すぎて、脳が休まらないんだよ……)
 祈は溜息をつき、窓の外の空を見上げた。あの空の向こうに、まだ見ぬ敵がいるのだろうか。

 一方、祈の部屋。
 留守番中の精衛は、祈のデスクトップパソコンの前に座り、キーボードを叩いていた。
「ふふん、この『いんたーねっと』という網、構造さえ理解すれば術式と何ら変わりないわね」
 彼女の指先が動くたび、画面上の文字列が滝のように流れていく。
 本来なら高度なハッキング技術が必要な操作だが、彼女は「情報の流れ」そのものに神通力で干渉していた。電子の海もまた、自然界のエネルギーの一形態に過ぎない。
「ここをこうして、データを書き換えて……」
 カチャッ、と小気味良い音を立ててエンターキーを押す。画面には『登録完了』の文字。
「よし、これで準備万端。さすがに祈もびっくりするでしょう」
 精衛は満足げに椅子の上でくるりと回った。
「ああ、暇だなあ。今頃祈は学校で勉強しているのよね。私も早く行きたいな~」
 そう呟くと、彼女はベッドの上で座禅を組み、目を閉じた。
 薄紅色の光の粒子が彼女の体を包み込む。神通力を循環させ、傷ついた霊核を修復していく。その回復速度は、常人の治癒能力を遥かに凌駕していた。

 それから数日が過ぎた。
 日常は表面上、平穏を取り戻していた。だが、祈の周囲に漂う違和感はむしろ濃くなっていた。
「よ、林くん、今日暇?」
 放課後の下駄箱で、またしても李が声をかけてきた。
「暇じゃねえよ。部活もないし、帰って寝るんだ」
「つっめた~い。てかさ、最近、林くん変わってない?」
 李が鼻をひくつかせ、祈の周りの匂いを嗅ぐような仕草をする。
「何が変わったよ?」
「匂いだよ。昨日から、なんというか……いろんな、いい匂いがする。それも、一人分じゃないような、女物の柔軟剤とか、香水とか……もしかして、彼女だけじゃなくてハーレムでも作ってる?」
「ぶっ!!」
 祈は盛大にむせた。
 確かに、精衛の服を選んだり、洗濯物を扱ったりはしている。だが、そこまで露骨に匂いが移っているはずがない。
「な、何言ってんだバカ! 猫でも飼い始めたんだよ!」
「猫ねぇ……。まあ、そういうことにしておこうか」
 李は意味深に口角を上げ、それ以上追求しなかった。だが、その瞳は明らかに「嘘を見抜いている」色をしていた。
「……じゃあな、俺は用事あるから!」
 祈は逃げるようにその場を去った。背中に張り付く李の視線が、物理的な重みを持っているように感じられた。
 家の近くの路地裏。
 精衛が、空間の歪みからふわりと現れた。
「おかえり、祈」
「うわっ! 出るなら出るって言ってくれよ」
「ごめんごめん。神通力で祈の気配が近づいたのが分かったから、迎えに来たの」
「便利なセンサーだな……」
 祈はため息をつきつつ、先ほどの李との会話を話した。
 精衛の表情が、ふっと真剣なものに変わる。
「……祈、その李という少年、ただ者ではないかもしれない。気をつけたほうがいいわ」
「やっぱりそう思うか?」
「ええ。普通の人間には、契約による微細な霊力の変化や、私の残り香なんて感知できないはず。彼には『視る』か『嗅ぐ』か、特殊な知覚がある」
 精衛の警告に、祈は喉を鳴らした。
 ただのクラスメートだと思っていた李宅。あの飄々とした態度の裏に、何が潜んでいるのか。

 精衛が来てから、一週間があっという間に過ぎた。
「これでよし」
 祈が精衛の肩の包帯を慎重に解く。傷口は驚くほど綺麗に塞がり、薄い跡が残る程度になっていた。
「ありがとう、祈。毎日、包帯を替えてくれて」
「気にするなよ。同居人としての義務みたいなもんだ」
「ふふ、義務か。祈らしいね」
 精衛は柔らかく微笑む。出会った頃の危うさは消え、今は年相応の少女の愛らしさが戻っていた。
 二人は、ベッドに並んで腰掛け、窓から差し込む月明かりを眺めた。
「人間って、やっぱり大変だな……。毎日同じ場所に行って、勉強して、評価されて」精衛がぽつりと漏らす。
「天界も大変だろ? 規則とか厳しそうだし」
「そうね。天界の者は不老不死だけど、その分、永遠に続く責務がある。楽しいことも少ないし……唯一、女媧様が母のように私を慰めてくれる時だけが安らぎだった」
 精衛の横顔には、遠い故郷――あるいは遥か過去――を懐かしむような哀愁が漂っていた。
「精衛は怪我が治って、あの神狩りを倒したら、天界に戻るのか?」
 祈は、恐れていた問いを口にした。
 いずれは戻ってしまう。それは分かっている。だが、この一週間の奇妙な共同生活が、彼の中に「精衛がいる日常」を根付かせてしまっていた。
「ええ、そうなると思う。……私が帰ったら、寂しくなる?」
 精衛が上目遣いで覗き込んでくる。
「さあな。部屋が広くなってせいせいするかもよ」
「もう、素直じゃないんだから」
 精衛は少し拗ねたように口を尖らせたが、その声色は温かかった。
 祈もまた、自分の言葉とは裏腹に、胸の奥がチクリと痛むのを感じていた。
「……明日は月曜日だ。早く寝よう」
「うん。おやすみ、祈」
 精衛の寝顔を見届けてから、祈は自分の布団に潜り込んだ。
 明日はまた、いつも通りの憂鬱な月曜日が始まる。そう思っていた。

 だが、翌朝。
 カーテンの隙間から差し込む冬の朝日が、部屋の中に微細な塵を踊らせていた。静寂に包まれた空間で、祈は自分の目を疑うような光景に息を呑んだ。
 ベッドの上には、精衛が無防備に眠っている。
 布団が乱れ、肩までさらけ出されたその寝姿は、ここが現実の自室であるという感覚を麻痺させるほどに幻想的だった。透き通るような白い肌は朝の光を吸い込んで淡く輝き、閉じられた瞼から伸びる長い睫毛が、頬に繊細な影を落としている。
 その顔立ちは、数千年の時を生きる「精」としての艶かしさと、今の器である十五、六歳の少女としてのあどけなさが、奇跡的なバランスで同居していた。半開きになった濡れた唇から、微かな寝息が漏れるたび、甘い花の香りが漂ってくるような錯覚を覚える。
 祈の視線は、無意識のうちに下へと滑り落ちた。
 薄手のパジャマ越しに、彼女の控えめな胸が、規則正しい呼吸に合わせて上下している。大きくはないが、柔らかく膨らんだその曲線が、小さな生命の鼓動を刻むように波打つ様は、神聖でありながら、同時にどうしようもなく扇情的だった。
(……っ!)
 祈の心臓が早鐘を打つ。顔がカッと熱くなるのを感じた。
(何を考えてんだ俺は! 相手は怪我人……いや、神様の使いだぞ!?)
 祈は激しく頭を振り、湧き上がる邪念を必死に振り払った。心の中で般若心経を唱えながら、慎重に、かつ迅速に手を伸ばし、はだけていた掛け布団を彼女の肩まで引き上げる。
「ん……」
 精衛が小さく身じろぎし、温かい布団に顔を埋めた。その仕草がまた、無防備な子猫のようで胸を締め付ける。
 祈は深呼吸をして平静を装い、登校の準備を整えた。「よし」と自分に気合を入れ、彼女に声をかける。
「精衛、朝だぞ。学校に行く時間だ」
「んん……」
 布団の塊がモゾモゾと動き、隙間から目元だけが覗いた。まだ眠気が残る瞳が、ぼんやりと祈を捉える。
「……ごめん、今日も一緒に学校に行けないんだ。先に行っていいよ」
「あれ? 今日は一緒に待ち合わせしないのか?」
 昨夜の「お出かけ作戦」を実行するなら、一緒に出るはずだった。祈は不思議に思って首を傾げる。
「うん、ちょっと用事があって。……後でね」
 精衛は布団から顔半分だけ出し、とろんとした瞳を細めると、悪戯っぽくパチンとウインクをした。その表情には、どこか企みを含んだような楽しげな光が宿っていた。
「?……まあ、無理はするなよ」
 祈は釈然としないまま頷き、部屋を後にした。
 冷たい朝の空気が火照った頬を冷やす。まさか、その「後で」の意味が、数時間後に自分の心臓を止めるほどの驚愕をもたらすことになろうとは、この時の祈は知る由もなかった。

 1時間目のチャイムが鳴り、担任の王植偉《おう しょくい》が教室に入ってきた。いつもより声が弾んでいる。
「はーい、みんな静かに。HRを始めるぞー」
「なんだよ先生、朝からニヤけて」
「ふふふ、実はな、この時期には珍しいが、転校生を紹介する!」
 ざわめく教室。
 ガラリ、とドアが開いた瞬間、教室中の空気が一変した。
「うおおおおッ!?」
「なんだあの子、めちゃくちゃ可愛いぞ!?」
「アイドルか!? アイドルが来たのか!?」
 そこに立っていたのは、完璧に着こなした制服姿の美少女だった。
 黒曜石のような瞳、雪のような肌、そして誰もが息を呑むような神秘的なオーラ。
 祈は、自分の目を疑った。顎が外れるかと思った。
 それは間違いなく、今朝布団の中にいたはずの精衛だったのだ。
 彼女は黒板の前に立ち、チョークで流麗な文字を書く。
『姜 衛佳《きょう えいか》』
「はじめまして。姜衛佳です。今日からこのクラスで勉強することになりました。不慣れなことも多いですが、よろしくお願いします」
 鈴を転がすような声で挨拶をした後、彼女は教室中を見渡し――真っ青になっている祈を見つけると、パチンとウインクを飛ばした。
 教室中の男子の視線が、一斉に祈に突き刺さる。
「あいつ、今ウインクされたぞ!?」
「林!? なんであいつが!?」
 祈は机に突っ伏した。
「な、なんじゃこりゃー!!」

「で、これどういうことか説明してくれ!!」
 昼休みの屋上。祈の絶叫が冬空に吸い込まれていく。
 精衛――今は姜衛佳――は、手作り(といっても祈の家の冷蔵庫のありあわせだが)のサンドイッチをモグモグと頬張りながら、涼しい顔をしている。
「説明って、普通に転校生として編入したのよ」
「いやいやいや! 『普通』の定義が壊れてる! そもそも書類はどうしたんだ? 親の同意書とか、戸籍とか、身分証明書とか!」
「そんなの、祈のパソコンでちょちょいと細工したわ」
「ちょちょいって……それ、公文書偽造じゃねーか! いや、不正アクセス禁止法違反もセットか!?」
 祈は頭を抱えた。神様がハッカーで犯罪者。属性が多すぎて処理しきれない。
「大丈夫、神通力で認知阻害もかけてあるから、先生たちも事務の人も『正式な手続きだった』と思い込んでるわ。完璧でしょ?」
「完璧の方向性がおかしい!」
「それにね」精衛は真剣な表情に戻る。
「怪我も治ったし、あの男も動き出すかもしれない。家で待っているより、祈の側で護衛をしている方が安全だと思ったの。学校なら結界も張りやすいし」
 その言葉に、祈は反論の言葉を飲み込んだ。
 無茶苦茶な理屈だが、根底にあるのは「祈を守りたい」という純粋な思いなのだ。
「……はぁ。分かったよ。もう共犯者だもんな」
「ふふ、よろしくね、共犯者さん。あ、学校では『衛佳《えいか》』って呼んでね」

 午後の授業、そして放課後。
 祈の受難は続いた。
「おい林、あの子とお前、どういう関係なんだよ!」
「朝一緒だったって噂聞いたぞ!?」
「抜け駆けすんなよ!」
 休み時間のたびに男子生徒に囲まれ、尋問責めに遭う。
 精衛は精衛で、休み時間のたびに祈の席まで来ては「ねえねえ、次の教室どこ?」などと馴れ馴れしく話しかけてくるのだ。そのたびに周囲の殺気レベルが上がっていく。
「視線が痛い……物理的に痛い……」
「あら、モテモテでいいじゃない」
「違う種類のモテ方だろこれ! 刺されるぞ!」

 ようやく放課後になり、逃げるように昇降口へ向かった二人。
 それを待ち受けていたのは、やはりあの男だった。
「よ、林くん」
 李宅が、壁にもたれかかって待っていた。
「これが噂の、今日来た転校生ちゃん?」
 李の視線が、ねっとりと精衛に絡みつく。
 その視線に、精衛の背筋がスッと伸びたのが分かった。彼女の纏う空気が、鋭い刃物のように変質する。
「はじめまして。李宅です」
「……はじめまして。姜衛佳です」
 当たり障りのない挨拶。だが、二人の間には火花のような緊張感が走っていた。
「可愛いねぇ。なんだか、ずっと前から知ってるような気がするよ」
「そうですか? 私は初対面だと思いますけれど」
「はは、そうだよね。……ふうん」
 李は鼻を鳴らし、意味ありげに祈を見た。
「林くん、羨ましいなぁ。こんな綺麗な『鳥』をカゴに入れておけるなんて」
 一瞬、時間が凍りついた。
『鳥』。確かにそう言った。
「……行くぞ、衛佳」
「ええ」
 祈は李の言葉を無視し、精衛の手を引いて早足で歩き出した。
 李は追いかけてこなかった。ただ背後で、クツクツと低く笑う声が聞こえた気がした。
 通学路を半分ほど歩いたところで、精衛が息を吐いた。
「……祈」
「ああ、分かってる。あいつ、やっぱりタダモノじゃない」
 祈の手には汗が滲んでいた。李の最後の言葉は、明らかにこちらの正体を知った上での挑発だった。
「彼、人間じゃないわ」
「えっ!?」
「さっき対面して確信した。彼は妖気……あるいはそれ以上の異質な気を纏っている。人間の皮を被っているけれど、中身はもっとドス黒い何かよ」
「それって、神狩りの仲間ってことか?」
「可能性は高いわ。でも、今のところ直接的な攻撃をしてこないのが不気味ね。まるで、私たちを観察して楽しんでいるような……」

 二人は無言で歩いた。
 夕闇が迫る中、街の影が濃くなっていく。
 ふと、祈が振り返った。
 遠く、通学路を見下ろす一本の電柱の上。
 カラスが一羽止まっている――いや、違う。
 人影だ。
 逆光で顔は見えない。だが、その場所、電線の交差する高い場所に、李宅がしゃがみ込んでこちらを見下ろしていた。
 夕陽を背負ったその影の顔には、二つの光が灯っていた。
 人間のものではない。
 血のように赤く、禍々しく輝く、二つの呪いの瞳が。
「…………」
 李の口元が、三日月のように裂けて笑ったのが見えた。
 非日常は、もう完全に日常を侵食していた。
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 桐生由弦は高校進学のために、学校近くのアパート「あけぼの荘」に引っ越すことに。  しかし、あけぼの荘に向かう途中、由弦と同じく進学のために引っ越す姫宮風花と二重契約になっており、既に引っ越しの作業が始まっているという連絡が来る。  風花に部屋を譲ったが、あけぼの荘に空き部屋はなく、由弦の希望する物件が近くには一切ないので、新しい住まいがなかなか見つからない。そんなとき、 「責任を取らせてください! 私と一緒に暮らしましょう」  高校2年生の管理人・白鳥美優からのそんな提案を受け、由弦と彼女と一緒に同居すると決める。こうして由弦は1学年上の女子高生との共同生活が始まった。  ご飯を食べるときも、寝るときも、家では美少女な管理人さんといつもいっしょ。優しくて温かい同居&学園ラブコメディ!  ※特別編11が完結しました!(2025.6.20)  ※お気に入り登録や感想をお待ちしております。

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