不要だと言われたので、王都の結界更新をやめて辺境へ参ります

なかすあき

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1話

 王宮の大広間は、今夜も美しかった。

 高い天井から吊るされた幾重ものシャンデリアは、魔石灯の光を砕いて降らせ、磨き上げられた床に星屑のような輝きを散らしている。壁を飾る金の蔦模様も、赤い絨毯の上を行き交う貴婦人たちの衣装も、すべてがこの夜を祝うためにあるように見えた。

 けれど私には、そのどれもがひどく遠いもののように思えた。

 もともと、こういう場所は得意ではない。
 視線が集まるところも、笑顔の裏に意味がいくつも隠れている会話も、きらびやかな音楽に合わせて感情まで軽やかに踊らせるような空気も。

 私の手に馴染むのは、扇子ではなく工具だ。
 ドレスの生地より、魔力を通したときの金属のわずかな癖のほうがわかる。
 社交界では無愛想と呼ばれる沈黙も、工房ではただ集中しているだけの時間になる。

 それでも今夜ここにいるのは、私がフォルクハルト伯爵家の娘であり、第一王子レオンハルト殿下の婚約者だからだ。

 ……そのはずだった。

 広間の中央、わずかに人だかりが割れた場所に立つ彼を見たとき、私はすでに何かを察していたのかもしれない。

 レオンハルト殿下は、いつも通り非の打ちどころなく美しかった。
 磨いた金細工のような金髪、ひと目で人を惹きつける碧い瞳、誰に見せても恥ずかしくない王子の立ち姿。生まれたときから、注目されるために存在しているような人だ。

 その隣にいるのは、セラフィーナ・ルミエール嬢。
 最近とみに評判を高めている聖女候補で、柔らかい蜂蜜色の髪と、灯をともしたように明るい微笑みが印象的な令嬢だった。彼女が祈ると、光属性の魔力が花びらのように舞う。神殿でも、王都の人々の間でも、「見ているだけで心が明るくなる」と人気らしい。

 絵になる二人だ、と私は思った。
 おそらく、誰が見ても。

 その考えが胸の奥に冷たい針のように落ちた瞬間、レオンハルト殿下が口を開いた。

「リュシエンヌ・フォルクハルト」

 名を呼ばれ、私はゆっくりと顔を上げた。

「今宵をもって、私はそなたとの婚約を解消する」

 ざわ、と空気が揺れた。

 息を呑む音は小さいのに、集まれば波のようになる。
 周囲の貴族たちが一斉にこちらへ意識を向けたのがわかる。驚き、好奇心、憐れみ、面白がる気配。そうしたものが幾重にも重なって、肌の上を薄く撫でていく。

 やはり、と思った。

 まったく予想していなかったわけではない。
 ここ数か月の殿下は、私よりもセラフィーナ嬢に寄り添う時間のほうが長かったし、公の場で私に向ける言葉も、以前よりずっと減っていた。婚約者というより、そこに置かれた調度品のひとつのような扱いを受けていると感じたことも、一度や二度ではない。

 だから婚約破棄そのものは、いずれ訪れるものだったのかもしれない。

 それでも、胸のどこかに、本当に小さな、情けないほど小さな期待が残っていた。
 婚約が終わるのは仕方がない。けれど、せめて。せめて私の仕事だけは、否定しないでほしい。工房にこもり、記録を見直し、結界塔の調律式を書き換え、眠る時間を削って守ってきたものだけは、軽く扱わないでほしい。

 その期待がまだ息をしていたから、私はその場で泣かずに立っていられたのだと思う。

 けれど殿下は、迷いなくその最後の一線に刃を入れた。

「未来の王妃には、国を明るく照らす華やかさが必要だ」

 よく通る声が、大広間の隅々まで届く。

「王都を導くには、工房にこもって記録帳と向き合うような地味さではなく、人々に希望を示す光が要る」

 誰にでもわかる言葉だった。
 つまり、私には王妃にふさわしい華がないということだ。

 実際、その通りなのだろう。
 私は人前で気の利いた言葉を紡げるわけでもないし、舞踏会の中心で誰もが見とれるような笑顔を作ることもできない。セラフィーナ嬢のように、その場にいるだけで空気を柔らかく明るく変える力も持っていない。

 けれど、それでも。

 それでも私は、この国に必要なものが何かを、自分なりに考えてきた。
 夜が静かであること。
 人々が、自分たちの暮らしを脅かされる不安なく眠れること。
 子どもたちが泣かずに朝を迎えられること。
 華やかな祝福ではなく、何事も起こらない平穏のほうが、どれほど多くの手間と注意の上に成り立っているか、私は知っている。

 でも、殿下は違うのだ。
 守りの大切さを知らないわけではないだろう。守護結界の重要性などというものは、王族なのだから当然理解していると思う。
 ただ、その上にさらに置かれるべきものとして、彼は「希望を見せる力」を選んだ。人々の目に映り、心を高揚させ、未来を信じさせる明るい光こそが、国を導くのだと。

 そしてきっと、彼の中ではそれが私よりずっと上位の価値なのだ。

 私は、何も言えずにいた。
 反論の言葉はいくつもあったのに、口の中でうまく形にならなかった。言い返したところで、この場ではどれもみじめに響くだけだとわかってしまったからかもしれない。

 そんな私の沈黙を、殿下は肯定と受け取ったのだろう。

 彼は侍従が持っていた小箱から、ひとつの魔道具を取り上げた。

 銀色の細い輪に、淡い青の魔石を三つ埋め込んだ、ごく控えめな意匠の補助具。結界塔の中継式を安定させるための、試作を重ねた制御補助具のひとつだ。大広間に飾られた豪奢な装飾品と比べれば、たしかに地味だろう。見ただけで価値がわかるものではないし、光り輝くわけでもなければ、人を感嘆させる形でもない。

 けれどそれは、私が何度も術式を書き直し、魔力流の癖を確かめ、ようやく完成に近づけたものだった。

 殿下はそれを指先でつまみ上げ、わずかに眉を寄せた。

「守護結界は、王家の宝珠と魔術局が維持している」

 その言葉に、私は息を止めた。

 それは違う、と喉元までせり上がる。
 いや、違わない。半分は正しい。
 宝珠は確かに結界の核だ。王宮魔術局が管理しているというのも表向きには正しい。けれど、それだけでは足りない。宝珠に蓄えた魔力を王都各所の中継塔へ流し、その位相を揃え、劣化部品を交換し、季節や天候で生じる微細な歪みを毎日のように調整し続けて、ようやく結界は“何も起こらない夜”を保てるのだ。

 そしてその実務のほとんどを、私は担ってきた。

 でも殿下の目には、そこが見えていない。
 結界は王家の宝珠と“魔術局”という大きな仕組みで動いていて、私はその末端で補助具をいじっているだけ。きっとその程度にしか映っていないのだろう。

「君の作るこんな補助具など、なくてもどうにかなるだろう」

 次の瞬間、からん、と乾いた音が床に落ちる。

 殿下の手から、魔道具が大理石の床の上に転がった。

 その音は、驚くほど小さい。
 なのに私には、何かが決定的に割れた音のように聞こえた。

 たぶん、私の中の最後の期待だったのだと思う。

 婚約が壊れることよりも、こちらのほうが堪えた。
 あなたは私を愛していない。
 それはもう、ずいぶん前から知っていた。
 けれど、せめて私が何をしてきたかくらいは、わかっていてほしかった。好きでなくていい。選ばれなくても仕方ない。でも、守ってきたものを無価値だとは言わないでほしかった。

 それすら叶わないのだと知った瞬間、胸の痛みは、かえって静かになった。

 私は、ゆっくりとしゃがみ込む。

 床に散った光がドレスの裾に映り、魔道具の銀の輪郭が冷たく光っていた。
 拾い上げた指先は、不思議なくらい震えなかった。怒りで熱くもならない。ただ、ひどく冷えているだけだった。

 立ち上がり、魔道具を掌に包み込む。
 それから、私は殿下に向かって一礼した。

「承知いたしました」

 自分の声が、思ったより穏やかに響いた。

 会場は静まり返っていた。
 誰もが、これから私が泣くか、縋るか、あるいは言い募るのを待っているのだろうか。婚約を破棄され、しかも新しい女性を隣に置かれた令嬢なら、そうして当然だと思っている顔が並んでいた。

 でも、もうそのどれもする気になれなかった。

 私は顔を上げ、言葉を続ける。

「では婚約の解消とあわせ、王家との守護結界保守契約も、本日をもって終了いたします」

 今度こそ、空気が止まった。

 一瞬、誰も意味を飲み込めなかったのだと思う。
 夜会の真ん中で婚約破棄を告げられた令嬢が、感情的な抗議ではなく、まるで役所に提出する文書のような声音で「守護結界保守契約の終了」を口にするなど、誰も予想していなかったのだろう。

 ざわめきが起こるまでに、ほんの数拍の間があった。

「ほしゅ、けいやく……?」
「何を言っているの?」
「結界、って王宮の……?」

 戸惑いの囁きが広がる中、レオンハルト殿下だけが薄く笑った。

「ふん、負け惜しみか」

 その声音には、わずかな苛立ちと、理解できないものを軽く扱うための冷たさが混じっていた。

「そなた一人がいなくなった程度で、王都の守りがどうこうなるものか。大げさなことを言うな」

 やはり、わかっていない。

 わかっていないことが、もう痛みにはならなかった。
 ただ、ああ、本当にそうだったのだなと確認するだけだ。

 隣に立つセラフィーナ嬢もまた、困ったように目を瞬かせていた。彼女は悪意から何も理解していないのではない。ただ、結界保守という言葉の重みを、自分の知る「祈り」や「祝福」と同じ秤で測っているのだろう。だから、この場の不穏さに気づいてはいても、その中心がどこにあるのかは見えていない。

「リュシエンヌ様……」

 彼女が遠慮がちに何か言いかける。

 けれど私は、それを聞かなかった。

 もう、この場で言葉を交わす意味はない。
 説明したところで、誰に届くだろう。届くべき相手に届かない言葉は、たいていその場を余計に虚しくするだけだ。

 私はもう一度だけ礼をして、踵を返した。

 背後ではざわめきが少しずつ大きくなっていた。
 王子の婚約破棄よりも、私が残した「保守契約終了」という言葉のほうが、遅れて人々の耳に引っかかり始めているのがわかる。

 けれど、もう振り返らない。

 広間の扉へ向かう道は長く、誰も塞がなかった。
 左右に並ぶ貴族たちの視線が、まるで舞台から降りる役者に向けられる最後の明かりのように降り注ぐ。憐れみも、好奇心も、値踏みも、今の私にはひどく薄いものに感じられた。

 扉が開く。
 外の夜気が頬に触れた瞬間、ようやく息がしやすくなった。

 冷たい空気の中で、私はそっと掌を開く。
 拾い上げた魔道具は、傷こそついていないものの、青い魔石のひとつにかすかな曇りが生じていた。あとで調整し直さなくてはならないだろう。

 そう思った自分に、少しだけ笑いそうになる。
 婚約を破棄されたばかりなのに、最初に考えるのが魔石の状態だなんて。

 でもたぶん、それでいいのだ。
 恋が終わるより先に、誇りを踏みにじられたのだとしても。
 私にはまだ、自分の手で守ってきたものがある。

 そのとき、ふと空を見上げた。

 王都を覆う半透明の結界は、いつも通り夜空に溶け込んで見えない。見ようと意識して、ようやく淡い膜のような輪郭を感じる程度だ。人々がその下で安心して暮らしているのに、誰もその存在を気に留めないのと同じように。

 けれど今夜、その表層にごく細い線が走っているのに、私は気づいた。

 誰にも気づかれないほど細い、おそらく、髪の毛一本ほどのひび。
 まだ小さい。致命的ではない。今すぐどうにかなるものでもない。

 ただ、それはたしかに、始まりの傷だった。

 私はしばらくそのひびの方向を見つめ、それから静かに歩き出した。

 もう王宮の灯は、私の帰る場所ではない。
 そう思うと胸は少し痛んだが、不思議と足取りは迷わなかった。

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