不要だと言われたので、王都の結界更新をやめて辺境へ参ります

なかすあき

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2話

 翌朝、私はまだ王宮の離れに残していた私物を引き払うため、夜明けとともに工房へ向かった。

 王宮の朝は、いつだって妙に静かだ。
 夜会の余韻を残した廊下には人気が少なく、窓から差し込む薄い光が長く床を這っている。磨かれた石の床は冷たく、靴音だけがやけに大きく響いた。

 昨夜のことが夢だったとは思わない。
 けれど、何かを決定的に失った翌朝というのは、案外あっけないものなのだと知った。空はいつも通り白み、侍女たちは決められた時間に仕事を始め、王宮は王宮として何事もなかったように動いている。

 私だけが、その流れから外れたのだ。

 工房の扉を開けた瞬間、金属と薬液の混じった、慣れ親しんだ匂いが鼻先をかすめた。
 その途端、張り詰めていた胸の内が少しだけほどける。昨夜、あんな形で終わったあとでさえ、ここだけは私を裏切らない。

 棚の上に並んだ調整用器具、机に積まれた記録帳、分解途中のまま置いてあった中継塔用の位相板。すべてが昨日までと同じ姿でそこにあるのに、もう私の仕事場ではないのだと思うと、ひどく奇妙だった。

 私は、黙って荷をまとめ始めた。
 持ち出すのは自分の私物と、個人管理分の記録帳、それから試作段階の補助具だけでいいかな。王宮の備品にまで触れるつもりはなかった。契約を終了したのだから、こちらから線を曖昧にするべきではない。

 けれど、結界中枢の監視盤だけは、扉の正面にあるせいでどうしても視界に入る。

 普段なら淡く均質な青を保っているはずの流路表示が、ほんのわずかに揺れていた。
 ぱっと見ではわからない程度だ。魔術理論を知らない者が見れば、ただの光の揺らぎにしか見えないだろう。けれど私は、その細かな脈の乱れに見覚えがあった。

 中継塔のどこかで位相がずれている。
 しかも一か所ではない。宝珠から供給された魔力が均一に回っていないときの揺れ方だ。

 私は思わず監視盤の前に立ち尽くした。

 昨夜、表層に入っていたひびは、ごく軽微なものだった。だから一晩でここまで露骨な乱れが出るのは少し早い。いや、正確には、早いのではなく、もともと綱渡りに近い状態だった。私が毎日細かくつなぎ直していた箇所が、昨日の契約終了とともに一斉に顔を出した形だろう。

 指先がかすかに動く。
 工具を取れば直せる。
 少なくとも、今すぐ崩れない程度には戻せる。

 でも私は、その手を止めた。

 昨夜、私ははっきりと告げたのだ。
 婚約の解消とあわせ、王家との守護結界保守契約を本日をもって終了すると。

 あれは感情的な捨て台詞ではない。
 私にとっては、最後に残った仕事の線引きだった。踏みにじられた誇りを、これ以上こちらから差し出さないための。

 だから私は監視盤から目を離し、荷造りを続けた。

 そのとき、廊下の向こうからばたばたと慌ただしい足音が近づいてきた。
 やがて勢いよく工房の扉が開き、局員のひとりが顔を覗かせる。まだ若い技師で、いつもはずいぶん落ち着いた男なのに、今朝は顔色を変えていた。

「あっ、リュシエンヌ様……いえ、フォルクハルト、さん」

 呼びかけを言い直した、その一瞬だけで十分だった。
 もうここで私は“様”と呼ばれるべき立場ではないのだと、彼自身も理解している。

「どうしましたか」

「監視盤に乱れが出ています。第三塔から第七塔までの位相差が規定値を超えかけていて……局長が、至急記録を確認しろと」

 私は目を伏せた。

「日次記録帳なら棚の左二段目です。略号の対応表はその隣、塔ごとの補足手引きは青い背表紙の冊子にまとめてあります」

 若い技師は、そこでひどく言いづらそうに口ごもった。

「はい……ですが、その……」

「手引きでは足りませんか」

「いえ、資料は揃っています。ですが、照合の仕方に慣れている者が局におりません。どの乱れをどの事例に結びつけるのか、そこから先の判断が……」

 そこで彼は言葉を切った。
 苦しそうな顔をしている。責めるつもりはないのに、責められているように感じている顔だった。

 無理もない。
 私の残してきたのは、場当たり的な走り書きではない。日次記録、略号表、塔別の補足、交換部品の規格一覧、季節ごとの注意点。必要な資料は分けて整えてきた。
 けれど、それを実際の乱れと結びつけ、優先順位を判断するには、文字を読むだけでは足りない。現場で何度も塔を見て、魔力流の癖を身体で覚えていくしかない部分がある。

 そしてそのための引き継ぎ講習を、私は何度も願い出てきた。

 けれど王宮魔術局は、いつも忙しかった。
 急ぎの案件が先だ、今は人員を割けない、お前がいるあいだは問題ない。
 そうして後回しにされ続けた結果、資料はあっても、それを使って判断できる者が育たなかったのだ。

「……申し訳ありません」

 ぽつりと漏れたのは、若い技師のほうだった。

「私どもは、あなたがいらっしゃるのを当然と思っていました」

 胸の奥を、細い針がすっと撫でていく。
 謝られる資格がこちらにあるとも思わない。ただ、その言葉は、昨夜の侮辱より少しだけまっすぐに傷へ触れた。

「局長にお伝えください。私は、もう契約の外におります」

 なるべく穏やかにそう言うと、彼は唇を噛んだ。
 何かを言いたそうにして、結局は深く頭を下げ、扉の向こうへ消えていく。

 その背を見送ってから、私はそっと息を吐いた。

 王宮魔術局は大きい。
 所属する技師の数も多いし、表向きは組織として結界を管理していることになっている。だから殿下は、私が抜けたところで代わりはいくらでもいると思ったのだろう。それは、ある意味では自然な認識だ。巨大な仕組みは、個人ではなく組織で回っているように見えるものだから。

 でも、実際には違う。

 王都守護結界は、王家の宝珠だけで完成するものではない。
 あれは心臓にすぎない。そこから送られた魔力を各中継塔へ正しく巡らせ、ほんのわずかな位相差を埋め続けて、初めて“王都全体を均質に覆う結界”になる。
 宝珠が止まればもちろん終わりだ。けれど宝珠が無事でも、巡らせるための手を失えば、やがて全体は歪む。

 私がやってきたのは、まさにその“歪みを毎日なかったことにする仕事”だった。

 そしてその仕事は、うまくいっている限り、誰の目にも映らない。

 しばらくして、工房の外がさらに騒がしくなった。
 局員たちの行き来が増え、抑えた声のやりとりが廊下越しに聞こえてくる。

「局長、第四塔の応答が鈍いです」
「記録はどこだ、前回の交換部品は」
「それが、表記が……」
「魔力流を均せ――均せと言っているだろう!」
「均し方がわからないんです!」

 最後の声は、半ば悲鳴だった。

 私は手を止めないよう努めながら、記録帳を木箱へ収めた。
 胸のどこかが冷たいのに、別の場所はひどく静かだった。驚きも、怒りも、もう昨夜のうちに使い切ってしまったのかもしれない。

 やがて、今度は低く押し殺した声が、扉の向こうで交わされるのが聞こえた。
 オズヴァルト局長の声だ。

「……殿下にご報告を」
「しかし局長、この程度で?」
「この程度だからだ。今ならまだ、軽微な乱れで済むかもしれない」

 その“今ならまだ”という言い方に、私は目を閉じた。

 局長は知っている。
 少なくとも、ここから先がまずいことはわかっているのだ。
 わかっていて、けれどずっと見ないふりをしてきた。王都が無事である限り、誰も中身を詳しく問わなかったから。結界があるのは当然で、それを誰がどう維持しているかは、成果として表に出すには地味すぎたから。

 しばらくして、私は荷を持って工房を出た。

 そのころには王宮全体に、薄く張りつめたような空気が広がっていた。
 何かまずいことが起きているらしい。けれどまだ誰も、その輪郭を掴めていない。そんな種類のざわめきだ。

 廊下を折れた先で、大広間の前に人が集まっているのが見えた。
 完全に通り過ぎるつもりだったのに、開いた扉の向こうからレオンハルト殿下の声が響いてきて、思わず足が止まる。

「宝珠が無事なら問題あるまい。魔術局で代わりの者を回せ」

 冷静さを装った声音だった。
 けれど、その奥にかすかな苛立ちが混じっているのを、私は聞き逃さなかった。

 やはり、そうなのだ。

 殿下にとって結界とは、王家と魔術局という“仕組み”が管理する国家設備でしかない。個人の専門技術に支えられているとは考えていない。だから、ひとり抜けたくらいで揺らぐはずがない、と本気で思っている。

 私は扉の影に立ったまま、息を潜めた。

 中ではオズヴァルト局長が、珍しく強張った声で何か説明しているようだったが、殿下は途中で遮ったらしい。

「記録があるのだろう。ならば読めばいい。局に人間が何人いると思っている」

 返す言葉が詰まる気配。
 局長は今さらそこで、「その記録を読める者がいないのです」とは言いにくいのだろう。表向きの組織が立派であればあるほど、中身がひとりに依存していた事実は見苦しい。

 そのとき、もうひとつ、柔らかな声がした。

「殿下」

 セラフィーナ嬢だった。

 私はわずかに視線を上げ、扉の隙間から室内を見た。
 彼女は昨日と同じように、明るい色のドレスに身を包み、けれど今は夜会のときの無邪気な華やかさよりも、少しだけ真剣な顔をしていた。

「わたくしが祈れば、光の加護で安定するはずですわ」

 その言葉に、場の空気が変わるのがわかった。
 希望、というものはいつだって人を安心させる。まして彼女は、実際に光を呼べる人間だ。神殿でも王都の広場でも、彼女の祈りに救われた気持ちになった人は多いだろう。

 だから、その申し出自体を笑うことはできなかった。

 彼女は無知なのではない。
 彼女の力は本物だ。局所的な浄化も、心を和らげる祝福も、たしかに人を救う。
 ただ、それは私の扱ってきたものと、役割が違う。

 光を満たすことと、歪みを正すことは同じではない。
 祈りで人の心を支えることと、中継塔ごとの魔力流を均一に保つことは、別の仕事なのだ。

 けれど、それをこの場で誰が説明できるだろう。
 説明したところで、光が実際に空に満ちれば、多くの人はそちらを信じたくなる。

 案の定、レオンハルト殿下の声が少し和らいだ。

「……頼む、セラフィーナ」

 次の瞬間、大広間の空気がふっと変わった。

 彼女が目を閉じ、両手を胸の前で組む。
 白い指先の間から、柔らかな金色の光がこぼれ、それが春の花粉のように広がっていった。光はすぐに数を増やし、ふわりと天井近くへ舞い上がる。見上げた人々の顔に、そのあたたかな色がやさしく落ちた。

 きれいだ、と私は思った。
 素直にそう思えるほど、彼女の祈りは美しかった。

 王都上空に満ちた光は、一瞬だけ、結界の輪郭を明るく照らした。
 揺らいでいた膜が、表面だけはなめらかに見える。周囲から安堵の吐息が漏れ、やがて歓声に変わる。

「やはり聖女候補様だ」
「見て、光が……!」
「これでもう安心ですわ」

 その声の中に、レオンハルト殿下の安堵も混じっていた。
 ああ、本当に信じたのだなと思う。目に見える光が満ちれば、それで十分だと。

 私は扉から離れた。
 これ以上見ていても仕方がない。セラフィーナ嬢を責める気持ちは不思議となかったし、殿下の安堵にいちいち傷つくほど、もう私の心は新しくなかった。

 ただひとつだけ、胸の奥に重い石のような予感が残った。

 表面をなめらかに見せることはできても、歪んだ術式そのものは直っていない。
 むしろ余分な光属性の魔力を重ねたことで、流路の偏りが別の場所に押し出される可能性すらある。

 だから私は、その日のうちに王宮を出た。

 馬車を使う気にもなれず、必要な荷だけ抱えて、王都の外れにあるフォルクハルト家の別邸へ向かう。街はいつもと変わらず穏やかだった。露店は開き、子どもは走り、パン屋の煙突からはいい匂いのする煙が上がっている。

 この何でもない日常を守るために、私はどれだけ記録帳に向かってきただろう。
 そのことを考えると胸が痛んだが、同時に、それが「ガラクタ」と呼ばれた場所へ戻る気にはなれなかった。

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