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氷のゆりかご ―― 最適化の頂点
しおりを挟む午前七時四十二分。地下鉄の車内は、死んだように静かだった。
空調の駆動音すら「環境ノイズキャンセリング」によって逆位相の音波で打ち消され、乗客たちは真空パックされた標本のように整列している。彼らは皆、沈黙を金よりも重い価値として共有していた。会話などという非効率な情報交換は、暗号化されたチャットツールの中で行えばいい。ここでは、呼吸音すら罪なのだ。
私の網膜には、AR(拡張現実)グラスが投影する薄青いグリッドが、車内の空間を正確に分断していた。それは世界を「管理可能なデータ」へと変換する魔法のフィルターだ。
『平均心拍数:安定。ストレス値:32・低。ドーパミンレベル:標準』
『現在位置:区画C-04。定刻通り進行中』
視界の端に自分のステータスが流れる。佐藤健一(四十二歳)の朝は、この数値の確認から始まる。人間という不確定で脆い有機体が、今日もシステムのエラーなく、予測可能な範囲内で稼働していることの証明。それは何よりの精神安定剤だった。不測の事態、感情の起伏、体調のゆらぎ――それらはすべて「バグ」であり、この世界には存在してはならないのだ。
その時、視界の左端で赤いアラートが点滅した。
『聴覚的公共侵害を検知。音源特定中……対象ロックオン』
『推奨アクション:即時通報』
ターゲットは、向かいの席に座る学生服の少年だ。見た目は静かに端末を操作し、模範的な乗客を装っている。だが、彼の耳にねじ込まれた安物のイヤホンから、わずかに高周波のビートが漏れ出しているらしい。私の鼓膜には届かないレベルだが、ARの高感度マイクは0・1秒の遅延もなくそれを拾い上げ、彼をこの清浄な空間を汚す「汚染源」として赤く縁取った。
私は吊革を掴んだまま、右手の人差し指をわずかに動かす。親指で空中の仮想ボタンを弾く、そのストロークわずか二ミリ。誰にも気づかれない、洗練された断罪の儀式。
《申請受理。執行完了》
少年の頭上に浮かんでいた市民スコア『82・4』が、瞬時に『81・9』へと書き換わる。同時に、彼が支払うことになる罰金の一部が「公衆衛生貢献配当」として、私の電子口座にチャチャリと軽快な音を立てて振り込まれた。
0・5クレジット。日本円にして約五十円。
少年は眉をひそめ、不快そうに耳を押さえた。システムからの警告通知が、人間が最も不快に感じる周波数で鼓膜を震わせたのだろう。彼は怯えたように周囲を睨みつけたが、誰が通報したかなんて分かるはずもない。ここでは全員が「監視カメラ」であり、全員が「裁判官」であり、そして誰もが「処刑人」なのだから。
私は口元を緩めないよう、表情筋を厳格に制御した。これは正義ではない。もっと即物的で、洗練された快楽だ。部屋の隅の埃を粘着テープで一気に取り除くような、あるいはテトリスのブロックが完全に消滅する瞬間のような、脳髄が痺れるほどの「整頓」の悦び。
「今日も、世界は清潔だ」
私は心の中で呟き、次の獲物を探して視線を走らせた。この社会という巨大なサーバールームには、除去すべきバグがまだ無数に潜んでいる。それらを見つけ出し、処理することこそが、私の存在意義だった。私はこの街の白血球なのだ。
***
帰宅したのは、午後九時ジャストだった。
スマートロックが解除される電子音だけが響く、2LDKのマンション。玄関の空気清浄機が、私の帰宅に合わせてフル稼働し、外気という不純物をろ過していく。その音すらも、すぐにノイズキャンセリングで消し去られた。
リビングは、モデルルームのように片付いている。物はすべて壁面の収納に収まり、生活感というノイズは徹底的に排除されていた。妻が出て行ってから三年、息子が家を出てから二年。この空間は、私の手によって完璧に最適化されていた。乱れなど、許されない。埃ひとつ落ちていないフローリングは、まるで氷の湖面のようだ。
私はキッチンで「完全栄養食」のパウチを手に取った。銀色の無機質なパッケージを開け、ゼリー状のそれを喉に流し込む。味気ないケミカルな甘みと、計算された微量の苦味。だが、ビタミン、ミネラル、タンパク質の配分は完璧だ。
かつてこの場所にあった食卓を思い出す。出汁の染みた煮物の匂い、焦げた魚の煙、皿がぶつかる音、妻の笑い声、息子の食べこぼし。それらは「栄養価の低い非効率な思い出」として、私の脳内ストレージの奥底に圧縮保存されている。解凍する必要などない、過去の遺物データだ。今は、この静寂こそが最も栄養価が高い。
パウチをゴミ箱に捨て、私は書斎のデスクに向かった。
引き出しを開ける。そこには、この完璧な部屋で唯一、計算が合わない「異物」が入っている。
画用紙だった。
端が黄ばみ、クレヨンの粉が定着せずに浮いている。十四歳になる息子・拓海が、まだ小学生だった頃に描いたものだ。
描かれているのは、ひまわり。
だが、それは私の知る植物学上のひまわりとは似ても似つかぬ代物だった。花弁の数は素数ですらなく、中心の種の部分はどす黒く渦を巻き、茎は今にも折れそうに歪曲している。太陽に向かうどころか、地面を睨みつけるようなその姿は、植物というよりは叫び声に近い。
「……ひどい構図だ」
二年ぶりに見るその絵に、私は改めて吐き捨てるように呟いた。
当時、十二歳だった息子に、私は言ったのだ。『拓海、これはひまわりじゃない。ただのエラーだ』と。
私はすぐに教育用タブレットを開き、AIが生成した「黄金比に基づいた完璧なひまわり」の画像を見せた。鮮やかで、対称的で、非の打ち所がないデータ。
『いいか、自然界は数学でできている。美しいものには正しい角度があるんだ。この角度を修正しなさい。お前の絵は、ノイズが多すぎる』
息子は何も言わず、ただ唇を噛んで絵を背中に隠そうとした。その時の、理解力に乏しい怯えた瞳。自分を否定されたことへの、言葉にならない拒絶。
あれが、決定打だった。
その後、息子は私の推奨する「論理的思考強化プログラム」に適応できず、原因不明のストレス性胃炎を患った。数値は嘘をつかないはずなのに、息子の体調というパラメータだけが乱れ続けた。
そしてある朝、彼は「パパの言う正解にはなれません」という置手紙一つ残して、別居中だった元妻の実家へと逃げ出したのだ。
論理的には、この絵はシュレッダーにかけるべきだ。過去のデータ、それも「教育的失敗の記録」になんの価値もない。この紙一枚が占有する空間コストすら無駄だ。
私は画用紙を掴み、デスク脇のシュレッダーの投入口へと近づけた。センサーが紙を感知し、ウィーンと刃が回転を始める。
だが。
指先が、止まった。
ARグラス越しに見る画用紙には、何のタグも、何の数値も表示されない。システムが認識しない、ただの紙切れ。それなのに、指先に伝わるクレヨンの凹凸が、妙に生々しく、熱を持っているように感じられた。それはまるで、息子の脈動がそこに残っているかのような錯覚だった。ざらりとした感触が、指紋を通じて脳に直接信号を送ってくる。
「……後で処理する」
誰に言い訳するでもなく呟き、私は画用紙を引き出しの最奥、パスワードのかかった「重要書類」の下へと押し込んだ。
心拍数がわずかに上昇していることを、視界のステータスバーが冷徹に告げていた。
喉が渇いていた。完全栄養食のゼリーでは満たされない、奇妙な渇きだった。
私はARグラスの通知を「スリープモード」に切り替え、逃げるように寝室の明かりを落とした。
闇の中でも、あの歪んだひまわりの黒い渦が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
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