最適化世界のバグ ―― 向日葵を抱いた父の残響

端野ゼロ

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禁忌の接触 ―― 1ビットの崩壊

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翌日の深夜、二十三時四十八分。

地下鉄の終電は、まるで巨大な医療機器のように白く清潔だった。
残業で疲弊した肉体を、この空間は完璧な空調と間接照明で包み込み、労働力を「明日に向けて回復(リカバリー)」させる。

私はいつものように吊革を握り、目の前で項垂れるサラリーマンの頭皮から発せられる微細な油臭を、ARの嗅覚フィルターでシャットアウトしていた。
この街は完璧だ。不快なものは全てデジタル処理され、視界には美しい広告と、整然とした数値だけが流れていく。誰もがシステムの一部として、静かに機能している。誰かが躓けば、誰かがそれを報告し、システムが修正する。その円環の中にいる限り、私たちは安全だ。

『異常検知。推奨アクション:距離の確保』

不意に、視界中央に黄色い警告が表示された。
プラットホームに滑り込む電車内から見えたのは、ベンチでうずくまる人影だった。

扉が開く。冷たい風と共に、異様な空気が流れ込んでくる。
ホームの中ほど。誰もいないベンチで、制服姿の少年が胸を押さえて倒れていた。
周囲の乗客たちは、まるで訓練された兵士のように一斉にスマートフォンを構えた。

「AED位置情報、送信完了」
「救護要請ログ、アップロード」
「状況証拠の保全、開始。タイムスタンプ確認」

口々に呟きながら、誰も少年に近づこうとはしない。彼らのARグラスには、『感染リスク:不明』『接触による法的責任回避』『介入推奨度:E』という文字が踊っているはずだ。
完璧なマニュアル対応。
倒れた人間を助けるのは「専門家」の仕事であり、我々一般市民の役割は「正確な通報」と「現場の記録」だ。直接触れることは、リスク管理の観点から推奨されていない。万が一、助け起こした際に容態が悪化すれば、訴訟リスクが生じる。誰もその責任を負いたくはない。

私もまた、条件反射で通報アプリを起動しようとした。
だが。

『……う、あ……』

呻き声と共に、少年が痙攣した手で何かを握りしめた。
通学鞄からこぼれ落ちた、泥だらけのキーホルダー。
プラスチック製の、安っぽいカエルのキャラクター。片目が剥げ落ち、手足は擦り切れている。

心臓が、早鐘を打った。
あれは。

かつて、小学生だった拓海が、私の誕生日にくれたものだ。
『パパ、これあげる。無事カエル、だって』
照れ臭そうに笑った息子の顔が、フラッシュバックする。
私は当時、それを即座にゴミ箱へ捨てた。『拓海、こんな非科学的な語呂合わせに頼るな。帰宅時間はGPSとダイヤで管理されている。お守りなど、統計的優位性はない』と。

捨てたはずのものが、なぜここにある?
いや、違う。あれは大量生産品だ。偶然の一致に過ぎない。世の中にありふれたガラクタだ。
論理的思考がそう叫ぶ。だが、視界の数値が激しく明滅し始めた。

『心拍数上昇:危険域。推奨アクション:深呼吸』
『視線解析:ターゲットへの過剰な執着を検知』

うるさい。
少年の指先が、あのカエルのキーホルダーを求めて、冷たいタイルの上を彷徨っている。
まるで、すがりつくような弱々しさで。助けを求めるように。

よく見れば、少年の制服の袖口は擦り切れ、彼がシステムから見放された『経済的低位層(アンダークラス)』であることを示唆していた。ARが表示する彼の頭上のスコアは『42・0』。危険水域だ。
システムはこの少年を、助ける価値のない「損耗品」と判断しているのだ。周囲の人間が近づかないのは、感染リスクのためだけではない。「価値のない人間」に関わっても、スコアが上がらないからだ。

「……たく、み」

無意識に、名前を呼んでいた。
あの時、私が捨てたのはキーホルダーだけじゃない。
息子の「優しさ」という非効率なバグを、私は論理という名のもとに修正(デリート)したのだ。
逃げ出すしかなかった息子の、最後のSOSさえ、私は騒音として処理してしまった。この少年もまた、誰かに見捨てられ、ただのデータとして記録されている。このまま専門家を待てば、彼は助かるかもしれない。だが、その間の孤独は? その間の恐怖は誰が処理する?

足が動いた。
『警告:物理的接触は感染症予防法により制限されています』
『警告:法的リスク増大』
『警告:市民スコア減点の可能性』

視界を埋め尽くす赤い文字。鼓膜を劈くアラート音。
それらを全て無視して、私は少年の元へ駆け寄った。

「おい! 大丈夫か!」

伸ばした手が、少年の肩を掴む。
その瞬間。
バチッ、と静電気が走ったような衝撃と共に、私の世界が反転した。

熱い。
恐ろしいほどに、熱い。
制服越しに伝わる体温。汗の湿り気。不規則に波打つ筋肉の痙攣。
それは、私がこの数年間、一度も触れてこなかった「有機的な生」の感触だった。数値化されない、圧倒的な質量のリアリティ。ガラス越しではない、生身の人間がそこにいる。その熱量が、私の腕を伝って凍り付いた心を溶かしていくようだ。

『CRITICAL ERROR』
『深刻な接触違反を確認。生体認証IDを一時凍結(サスペンド)します』

視界が真っ赤に染まった。
文字通り、世界の色が失われた。
ARグラスが緊急モードに移行し、周囲の風景を極端なコントラストで塗り潰していく。美しい広告も、清潔な駅のタイルも、すべてが毒々しい赤と黒の警告色に変わる。

「……あ、あ……」

少年が薄目を開けた。その瞳は焦点が合わず、怯えに満ちている。
私のARグラスには、彼の顔の上に『接触禁止対象』という巨大な×印が焼き付いている。システムは彼を「少年」ではなく「汚染物質」と定義した。

周囲から、一斉にシャッター音が響いた。
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ。
無数のレンズが、私に向けられている。

「うわ、マジで触ったぞ」
「接触感染リスク、レベル5だって」
「動画撮った? これバズるぞ」
「通報ボーナス確定だな」

嘲笑と、恐怖と、興奮が入り混じった声。
彼らはもう、私を「人間」として見ていない。
社会の規律を乱した「バグ」、あるいは「面白いコンテンツ」として消費し始めている。彼らの瞳には、私が破滅していく様がエンターテインメントとして映っているのだ。私が今まで彼らと同じ側にいたことが、今では信じられないほど遠い過去に思えた。

私は少年の肩を抱いたまま、動けなかった。
指先に残る熱さが、まるで火傷のようにヒリヒリと痛む。
遠くでサイレンの音が聞こえたが、それは私を助けに来るものではなく、私を「処理」しに来るシステムの音だった。
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