摩耗の閾値

端野ゼロ

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第2章 泥の聖域 —— 棄てられた街の質量

デジタル・スノーと「井戸水の洗礼」

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デジタル・スノーと「井戸水の洗礼」


思考が再起動するより先に、網膜を焼く光のグリッドが、エラーコードの赤い残像となって視界を切り刻んでいた。

『地域間同期失敗:座標の整合性が確保できません』

 その無機質なテキストは、行政から「同期を拒絶された土地」への転落を告げる、静かな死刑宣告のように見えた。
 BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)から脳幹に流れ込んだ、電流のような灼熱の余韻。
 神経を麻痺させる黄金の光に依存しきった脳にとって、それは世界との繋がりを証明する唯一の体温であり、依存症患者が抱く心地よい痺れでもあった。
 だが、その熱が今、鋭い拒絶の痛みへと変質し、頭蓋の内側を執拗に炙っている。

 ゆっくりと瞼(まぶた)を押し上げた。

 視界を埋め尽くしていたのは、あらゆる色彩と輪郭を剥奪する、均質な砂嵐だった。
 デジタル・スノー。
 デバイスが致命的な演算エラーを起こした際に表示される、電子の死化粧だ。

 V-Assistが提供していた「最高級ホテルの内装」という黄金の皮膜は、跡形もなく霧散している。
 大理石の床も、柔らかな間接照明も、知覚の裂け目へと吸い込まれて消えた。
 いまや佐登の世界は、座標を失った無数の光の粒子によって、白一色に塗り潰されていた。

 だが、視覚という最大の情報チャンネルがノイズに支配されたことで、抑圧されていた他の感覚が、飢えた獣のように牙を剥き始める。

 鼻腔を突く、濃密な腐敗の予兆。
 それは「シトラスと白木」の合成香料で常に上書きし、無理やり殺してきた現実の臭いだ。
 湿った土が発する、肺を圧迫するような重い匂い。
 その直下に、粘りつく黒い拒絶のように潜む、澱んだ水の腐臭。
 永い時間、陽の光を奪われ、行政の地図から抹消されたコンクリートが吐き出す、陰鬱なカビの吐息。

 それらが嗅覚のフィルターを突き破って浸入し、彼の胃を不快に攪拌(かくはん)する。
 V-Assistという殻の中で守られていた佐登の精神は、このあまりに生々しい「悪臭」の前に、ただ狼狽するしかなかった。

 背中には、硬くて冷たいアスファルトの感触。
 だが、その表面はぬるりとした粘膜のような何かに覆われている。
 身体を動かそうとして指先を立てると、足首を掴む湿った重力がまとわりついた。
 アスファルトを侵食する汚濁の奔流――泥が、もはや情報ではなく、回避不能な物理的質量としてそこにあった。

 雨が降っていた。
 冷たい雫が頬を打ち、強制終了によって剥き出しになった皮膚を、鞭のように打擲(だちょう)する。
 BMIが放つ疑似的な多幸感に慣れきった身体にとって、この物理的な「冷たさ」は、それ自体が耐えがたい暴力だった。

「……ここは、どこだ」

 掠れた声が自分の喉から漏れたことに、佐登はわずかに驚いた。
 そうだ、自分は擁壁の補修作業をしていた。
 古谷(フルヤ)が「膝の痛み」という使い古された嘘を吐いて押し付けてきた、システムから見捨てられた現場。
 デバイスのオーバーヒート。ストロボ現象。地盤の限界が発する、あの低い唸り。そして――。

 記憶の断片が、デジタル・スノーの向こう側で明滅する。

 その時、砂嵐の向こうから「現実の音」が近づいてきた。
 ザッ、ザッ、と泥濘(ぬかるみ)をゆっくりと、だが確実に踏みしめる、重い足音。
 そして、バケツの取っ手と本体が擦れ合う、鈍い金属の摩擦音。

 それは、思考を先回りする冷徹なアルゴリズムが生成する、滑らかな合成音ではない。
 不規則で、不純で、それゆえに圧倒的な存在感を放つ音。

 足音は佐登のすぐそばで止まった。
 デジタル・スノーの向こうに、ぼんやりとした人影が浮かび上がる。
 不意に、影が何かを高く振りかぶった。

 佐登が身構える間もなく、凄まじい衝撃が彼の顔面を直撃した。

 それは殴打ではなかった。
 皮膚を刺し貫き、神経の奥底まで凍らせるような、暴力的な冷たさ。
 網膜の裏を焼いていたBMIの残熱が、その一撃によって一瞬でかき消される。

 思考が、呼吸が、心臓の鼓動までもが、その絶対的な冷徹さの前に停止した。
 ぶちまけられた水は、重たい泥の匂いと、鉄を噛み砕く赤褐色の鱗――錆の味がした。

「……ッ、が、あ……っ! げほっ、……っ!」

 喉が、肺が、強烈な拒絶反応を起こす。
 汚濁に満ちた水が気管に入り込み、佐登を溺れさせる。

 その瞬間、脳裏に封印していた幼少期の記憶が、鮮烈なカラーでフラッシュバックした。
 2038年の「黄金の朝」が来る前の、あの暗い記憶。
 停電し、インフラが死に絶えた体育館の避難所。
 他人の汗と排泄物の臭いが混じり合う不潔な空気。
 皮膚病を患い、ひび割れた自分の腕を洗うための、あの、冷たくて濁った水の感触。

 忘れたはずの、そして必死で「上書き」してきたはずの「生理的な嫌悪」が、物理的なショックを伴って、泥の中から引きずり出される。
 佐登は泥の中に這いつくばりながら、内臓を吐き出すような勢いで激しく痙攣した。

「目が覚めたか、若いの。システムの夢は、水に溶けるのが早くていけねえな」

 しわがれた、だが芯のある声が頭上から降ってきた。

 佐登が顔を上げると、視界を覆っていたデジタル・スノーが、水をかけられた絵の具のように乱れ、薄れていくのが見えた。
 強烈な物理的ショックが、一時的に視界を支配する黄金の皮膜を無効化し、知覚の同期を強制的に切断したのか。

 砂嵐の向こうに、ゆっくりと現実が焦点を結んでいく。

 そこに立っていたのは、一人の老人だった。
 深い皺が幾重にも刻まれた顔。
 その皺の一本一本、溝に溜まった汚れのひとつひとつが、V-Assistで見ていたどんな高精細なテクスチャよりも雄弁に、時間の残酷な経過というものを物語っていた。

 老人の手には、構造体を蝕む酸化の記憶を纏った、赤錆だらけのブリキのバケツが握られている。
 かつては機能的な工業製品だったであろうその物体は、今や歪み、汚れ、しかし「今、ここに在る」という揺るぎない確信を放っていた。

 佐登は呆然と老人を見上げた。

 V-Assistが作り出す完璧な美しさは、どこまでいっても「清潔で無機質なデータ」に過ぎなかった。
 それは他者が用意した都合の良い幻影であり、触れようとすれば指をすり抜ける。

 だが、目の前にある老人の皺だらけの手や、使い古されて歪んだバケツの質感は。
 そして、今も自分の体温を奪い続けている泥水の冷たさは。

 データでは決して表現できない「質量」と「歴史」を伴って、佐登の知覚を一方的に蹂躙していた。

 解像度の逆転。
 情報量の洪水。

 佐登は、生まれて初めて、デジタルが現実の前に無残に敗北する瞬間を。
 その濁った水と泥の味を通じて、全身の毛穴から享受していた。
 「不快」という名の現実が、かつてないほど鮮やかに、彼の生を証明していた。
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