摩耗の閾値

端野ゼロ

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第1章 黄金の繭 —— 加工された幸福の対価

廃棄エリアへの強制転送

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 視界の端で、赤い警告灯が脈動するように不気味な点滅を繰り返している。

 それは心拍数と同期し、佐登の脳内に直接「終わりの予感」を流し込んでいた。

 廃棄対象エリアへの境界線は、デバイス上では「立ち入り禁止」を示す砂嵐の壁として描かれていた。
 それは行政が「見ないこと」に決めた領域と、欺瞞に満ちた日常を分かつ、絶対的な断絶の象徴だった。

 この先に広がるのは、地図から抹消され、デジタルの光さえ届かない「棄民」の土地。
 かつては人々の営みがあった場所だが、今やそこは、維持コストという冷徹な計算式によって、世界の表舞台から切り捨てられた情報の暗黒だった。

 和久井から付与された特権アクセス・キーが、その壁を一時的に無効化し、透明な膜を形成する。

 佐登がその膜をまたいだ瞬間、BMIはこれまで経験したことのない激しい演算負荷に悲鳴を上げた。
 保護回路が過熱し、こめかみの奥に焼き付くような鈍痛が走る。

 「不具合報告:地域間同期失敗。外部サーバーとの接続が遮断されました。自律補正モードへ移行します……」

 V-Assistの声が、砂を噛んだようなノイズ混じりの電子音へと変質していく。
 それはまるで、死にゆく者が最後に絞り出した掠れた声のようだった。

 佐登は本能的な恐怖に駆られ、黄金の光が漏れる市役所の方角へ戻ろうと踵を返した。
 だが、その直後。
 足元から世界を根底から揺るがすような地鳴りが突き上げてきた。

 それは、パッチが「重低音のBGM」に翻訳しきれないほどに生々しく、破壊的な、地盤の断末魔だった。
 地表の裏側で何かが砕け、崩落し、重力そのものが泥の中に沈み込んでいくような、逃れようのない感覚。

 物理的な崩壊の速度が、デジタルの上書き速度を完全に追い越した瞬間だった。

 「……っ、何だ、今の音は!」

 叫んだ瞬間に、佐登の視界が突如としてデジタル・スノーに覆われた。

 網膜を焼く光のグリッドが制御を失って暴走し、数万の極小の光子が視覚神経を直接、過電流のように走り抜ける。
 脳が情報の奔流に耐えきれず、ショートを起こしかけていた。
 情報の洪水は、もはや意味をなさない光の暴力となり、彼の意識を蹂躙した。

 これまで「世界の体温」だと信じ込んでいた心地よい熱は、瞬時に脳を焼き焦がすような暴力的な灼熱へと変わった。

 熱い。
 眼球の裏側で、幾千もの針が同時に爆発したような痛みが走り、視神経が焼き切れるような感覚に襲われる。
 黄金の皮膜という名の「麻薬」が切れた禁断症状のように、全身の神経が剥き出しの刺激に悲鳴を上げていた。

 「エラーコード:地域間同期失敗。致命的な例外が発生しました。強制再起動を開始……」

 視界が完全にブラックアウトした。

 これまで彼を保護していた黄金の空も、最高級ホテルの内装を模した欺瞞の街並みも、すべてが漆黒の虚無へと吸い込まれていく。
 最高解像度の天国は、一瞬にしてゴミ捨て場のような暗闇へと反転した。

 視覚という最大の入力回路を遮断されたことで、佐登は闇の中で、自分が立っている場所の「質感」が劇的に、そして残酷に変化するのを感じた。

 磨き抜かれた磁器タイルの幻が霧散し、足裏に伝わってきたのは、粘りつく黒い拒絶——底なしの泥の感触だった。

 高級ブランドの革靴を模していたデジタル・テクスチャが剥がれ、安物の合成皮革が不潔な泥水に浸かっていく。
 靴の隙間から、冷たくて重い液体の質量がじわりと侵入してくる。
 その不快な生々しさは、パッチが提供していたどんな高精細な感覚よりも「真実」に近いものだった。

 デバイスの保護を失った剥き出しの鼓膜に、パッチで消去されていた「雨の音」が洪水のように、直接なだれ込んでくる。

 それは祝福の音楽などではない。
 崩落したアスファルトと、死を待つ建物の残骸を叩く、無慈悲なドラムの連打だった。
 遠くで鉄骨が軋む音や、コンクリートが崩れる低いうなりが、増幅された恐怖となって耳の奥を震わせる。

 冷たい。

 シトラスの香りは消え失せ、代わりに鼻腔を貫いたのは、カビと鉄錆、そして腐敗した大気の死臭だった。
 行政が「無臭」として処理していたはずの世界には、これほどまでに濃厚な死の気配が充満していたのか。

 かつて幼少期に嗅いだ、あの体育館の絶望の記憶が、より濃厚な臭気となって蘇る。

 佐登はあまりの寒さと悪臭に肺が拒絶反応を起こし、激しく咳き込んだ。
 喉の奥まで、重金属を含んだような不潔な湿気が侵入し、肺の奥を鋭く刺す。

 「あ……、あぁ……」

 佐登は言葉にならない声を漏らし、汚濁の奔流の中に膝をついた。

 手のひらに触れるのは、かつての文明の残骸であるひび割れたコンクリート。
 その割れ目から這い出してくる、冷酷な泥の冷たさだけだ。
 指先は感覚を失い、ただ「質量」という名の重圧に押し潰されそうになる。

 意識の輪郭が、激しい眩暈と眼球の痛みと共に溶けていく。

 最後に網膜に焼き付いたのは、砂嵐の隙間から覗いた、酸化の記憶にまみれた「棄てられた街」の剥き出しの骨組みだった。
 それは、パッチという化粧を剥ぎ取られた、この世界の本当の貌(かたち)。

 和久井たちが「効率的」に切り捨てた、この街の剥き出しの死体だった。

 彼を繋ぎ止めていた黄金の繭は、今、無慈悲に引き裂かれた。

 後に残されたのは、重力と寒さに震えるだけの、無力な「生身」の肉体。

 熱に浮かされた多幸感は消え去り、そこには意識を刈り取る寸前の脳を貫く、逃れようのない絶対的な「冷たさ」だけが支配していた。

 佐登は泥の中に沈み込みながら、自分がこれまで「何を食べて生きてきたのか」という根源的な恐怖に包まれ、深い昏睡へと落ちていった。

 (第1章 完)
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