摩耗の閾値

端野ゼロ

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第1章 黄金の繭 —— 加工された幸福の対価

ストロボ現象:亀裂の予兆

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 市役所の重厚な自動ドアが背後で閉まった瞬間、佐登の視界から「聖域」の解像度が一段階落ちた。

 ロビーを支配していた完全無欠の演算リソースが切り離され、BMIは市街地の汎用サーバーへと接続を切り替える。
 それは、高純度の酸素から、排気ガスの混じった薄汚れた大気へと放り出されるような、不快な感覚の転落だった。
 通信のホップ数が増えるたび、視界の端々にわずかなレイテンシが生じ、世界の「塗りつぶし」が追いつかなくなる。

 網膜に投影される世界が、わずかに、だが確実に濁り始めた。

 B指定区域——。
 行政が「静止している物体」のみの上書きを許可したこのエリアでは、歩道の亀裂や街路樹の枯死は隠されているが、動的なノイズまでは処理しきれない。
 風に舞う古いレジ袋、あるいは側溝から溢れ出した汚水が、思考を先回りする冷徹なアルゴリズムを嘲笑うように「加工されない現実」として視界を横切る。
 美しく整えられたホログラムの街路樹の背後で、力なく垂れ下がった本物の枝が、幽霊のように時折その姿を覗かせた。

 「……っ」

 佐登は眩暈を堪えるように、街路灯の柱に手を触れた。

 視覚情報は、それを「磨き抜かれたアール・デコ調の街灯」として描き出し、その表面には繊細な彫刻さえ施されているように見せていた。
 しかし、掌が捉えたのは、剥がれかけた塗装のザラつきと、指先にこびりつく鉄を噛み砕く赤褐色の鱗の感触だった。
 冷たく、硬く、そして生命を拒絶するような酸化のざらつき。

 視覚という「嘘」と、触覚という「真実」が、脳内で激しく火花を散らす。
 BMIはこの矛盾をエラーとして処理し、整合性を保つために網膜を焼く光の出力を強制的に引き上げた。
 それはただ佐登のドライアイを悪化させ、眼球の奥に針を突き刺すような鋭い拍動を刻む。
 慢性的な睡眠不足を物語る隈はいっそう濃くなり、彼の精神を内側から削り取っていく。

 駅へと続く大通りは、視界を支配する黄金の皮膜を通せば、今なお輝かしい未来都市の貌(かたち)を保っている。
 透き通るような青空の下、窓ガラス一つ曇っていない高層ビル群が建ち並び、ホログラムの広告が色彩豊かに空間を彩る。
 行政が「維持されている」と言い張るための、視覚的な虚栄。

 だが、その完璧なテクスチャの端々で、奇妙な「ノイズ」が走り始めていた。

 一瞬だった。
 極彩色の世界が、ストロボのように激しく明滅した。

 「……今、のは」

 脳が認識を拒絶するほどの速度で、風景が裏返った。
 美しい青空の裂け目から、鉛色の湿った雲が覗き、豪奢なビルの壁面が一瞬だけ、鉄筋が剥き出しになったコンクリートの残骸へと変貌した。
 街全体が巨大な、死を待つ病人のように見えた。

 それは単なるバグではない。
 物理的な崩壊の速度が、デジタルの上書き速度を追い越し始めた証左だ。
 構造体を蝕む酸化の記憶が、黄金の虚飾を力ずくで剥ぎ取ろうとしている。
 インフラそのものが、その物理的な限界点を超え、パッチという名の皮膜を内側から食い破ろうとしている断末魔の閃光だった。

 住民たちは、このストロボ現象を「軽微な通信障害」として無視して歩き続けている。
 彼らはもう、美しく加工された「結果」だけを食べることに慣れきってしまい、その背後にある「腐食」を想像する力を失っていた。
 しかし、佐登の視界には、明滅の合間に、アスファルトの底を走る巨大な断層が焼き付いた。
 それは昨日よりも数ミリ広がり、まるで大口を開けてこの街を呑み込もうとしているかのように見えた。

 佐登は激しい吐き気を覚え、膝をつきそうになった。
 胃の腑から込み上げる酸っぱい拒絶感が、鼻腔を満たす合成シトラスの香りを汚していく。

 「不具合報告:地域間同期、遅延発生。視覚補正レベルを調整中……」

 耳元でV-Assistの声が、事も無げに囁く。
 その合成音声の無機質さが、かえって事態の深刻さを際立たせていた。
 システムは問題を「解決」しているのではなく、ただ「不可視化」しているに過ぎない。

 調整? 違う。
 これは、この街を覆っている黄金の皮膜が、もはや現実の腐食を隠しきれなくなっている証拠だ。
 予算を切り捨て、物理的な修繕を放棄し続けた代償が、網膜の裏側でスパークを起こしている。
 和久井たちの世代がスマートに「切り捨て」たインフラの死が、物理的な重みとなって佐登の足首に絡みついている。

 足元から、再びあの重い響きが伝わってきた。
 それは地下鉄の振動などではない。

 地盤の限界が発する、低く、湿った、破壊の予兆。
 パッチがどんなに「快適な環境音」に翻訳しようと、足首を掴む湿った重力までは誤魔化せない。
 その微かな揺れは、市役所で和久井が操作していたホログラムのグラフ——「戦略的撤退」の冷徹な曲線と重なり、佐登の神経を逆撫でする。
 グラフが下降するたびに、この街の地面は物理的に沈み込んでいるのだ。

 佐登は荒い呼吸を繰り返しながら、デバイスの出力を無理やり引き上げた。

 「見たくない。見せてくれるな。黄金のままでいいんだ」

 彼は心の中で呪文のように唱え、網膜を焼く光のグリッドに、その脆い意識を委ねた。
 脳が焼かれるような多幸感が恐怖を塗り潰し、現実感を希薄にさせていく。
 だが、その安寧は、沸騰する泥水の上に張った薄氷を渡るような危うさを孕んでいた。

 再び視界が安定し、黄金の世界が戻ってくる。
 だが、一度見てしまった剥き出しの廃墟の残像は、網膜の傷のように、瞬きをするたびに浮かび上がる。
 それは彼の脳内に深く寄生し、パッチが提供する幸福な偽証を、内側からじわじわと侵食し始めていた。

 「和久井さん……。あそこは、本当にパッチが届かない場所なんですか」

 和久井から転送された座標データは、視界の端で赤く、血のように点滅し続けている。
 管理区域の外——廃棄対象エリア。

 そこは行政が「維持コストが受益を上回る」と断定し、住民の網膜からさえも消去した棄民の土地だ。
 公共サービスとしてのデジタル・パッチすら解約された、情報の暗黒。
 そこへ行くことは、神経を麻痺させる黄金の光を捨て、冷たく、不潔な、剥き出しの「質量」に触れることを意味していた。
 それは佐登にとって、自分を繋ぎ止めている繭を無理やり引き剥がされ、幼少期のあの暗い体育館——混じり合う体臭と冷たい水——へと引き戻されるような絶望に近い。

 佐登は震える足を動かし、灰色の地図が示す方向へと歩き出した。

 頭上では、黄金の太陽が燦々と輝いている。
 だが、彼の眼球にこびりついた熱は、もはや恐怖を焼き消してはくれなかった。
 一歩踏み出すたびに、アスファルトを侵食する汚濁の奔流を予感させる地鳴りが、彼の鼓膜を直接揺らし始めていた。
 その音は、システムが奏でる祝福の音楽を、無慈悲に掻き消していった。

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