摩耗の閾値

端野ゼロ

文字の大きさ
3 / 13
第1章 黄金の繭 —— 加工された幸福の対価

市役所の空洞と、古谷の「嘘の痛み」

しおりを挟む


 N市役所の中央ロビーは、BMIの視界において「A指定区域」としての矜持を保っていた。
 佐登が自動ドアをくぐった瞬間、デバイスは外部サーバーと同期し、空間の解像度を一気に引き上げる。

 吹き抜けの天井からは存在しないはずの柔らかな陽光が降り注ぎ、ひび割れた大理石の床は、一分の隙もない鏡面仕上げの磁器タイルへと書き換えられた。
 このエリアに割り振られた膨大な演算リソースは、微細な塵の一粒さえも「舞い踊る光の粒子」へと変換し、住民たちに「この街はまだ健在である」という視覚的な偽証を突きつけている。

 ここには、不快なものは何一つ存在しない。
 ロビーの隅で、雨漏りを受けるために置かれたプラスチックのバケツは、豪華なクリスタルの彫刻へと姿を変えている。
 現実には予算不足で枯れ果て、藻がこびりついた噴水も、黄金の光を帯びたデジタル・アクアが永遠に循環する癒やしの装置として機能していた。
 それは行政が提供する「最も安価な公共サービス」——すなわち、物理的修繕を放棄し、人々の網膜を甘美な嘘で満たすという選択の帰結だった。

 「おはよう、サト君。三秒遅刻だ」

 背後から声をかけてきたのは、地域計画課の実務責任者、和久井(ワクイ)だった。
 三十四歳の彼は、BMIの出力を常に「最適化」しており、その身のこなしには一切の無駄がない。

 完璧な直立不動。シワ一つないスーツ。
 彼はデバイスが提供する「最も効率的なルート」をトレースして歩くため、その足取りはまるで氷上を滑るように滑らかだった。
 和久井の視界では、ロビーの柱の傾きも、壁の裏で進行する腐食も、すべては「修正済みのデータ」として処理されている。
 彼にとっての現実は、網膜に投影される整然とした数式とグラフの中にしか存在しないのだ。

 「申し訳ありません、和久井さん」

 「謝罪は不要だ。その三秒を埋めるための効率的な代替案を、脳内のタスク表に書き込んでおけ」

 和久井は佐登の目を一度も見ることなく、空中に投影されたホログラムの進捗グラフを指先で弾いた。
 彼にとって、部下もまたシステムを構成する一つのパラメータに過ぎない。
 和久井の視界には、佐登の背後に広がる「灰色の現実」など映っていないのだろう。
 彼はシステムそのものに魂を預けた、痛みを知らない観測者だった。
 その冷徹な合理性は、同世代が介護や終わらない労働に摩耗していく中で、自分だけは「壊れない歯車」として生き残ろうとする、一種の防衛本能の裏返しでもあった。

 「……おはよう、佐登」

 和久井の背後から、低い、擦り切れたような声がした。同期の真壁(マカベ)だ。
 彼女の姿は、この洗練されたロビーの中で、ひどく異質だった。

 真壁は現場保守担当として、デバイスのパッチ機能を最小限に絞っている。
 彼女のBMIが映し出すのは、黄金の幻影ではなく、湿ったコンクリート、錆びた鉄筋、そして「崩壊の予兆」としての現実だ。
 「視界が腐る」と嘯き、黄金の皮膜を拒絶する彼女の瞳は、常にこの街の断末魔を直視し続けている。
 そのせいか、彼女の作業服の裾には、昨夜の雨で跳ねた粘りつく黒い拒絶——泥が、乾かぬままこびりついている。

 「真壁、またその格好か。ロビーのテクスチャを汚すなと言っただろう」

 和久井が眉をひそめる。

 「テクスチャじゃなくて、これはただの土です。和久井さんの綺麗な地図からは消されてるかもしれませんけど」

 真壁は皮肉を込めて返し、自身の爪の間を覗き込んだ。
 そこには、物理的な修繕に明け暮れた証としての黒い汚れが、消えない刺青のように深く入り込んでいた。
 彼女が掻き出しているのは、システムの隙間から漏れ出す「現実の澱」そのものだった。
 その指先は常に荒れ、小さな切り傷からは、加工されていない生の血が滲んでいる。

 その時、執務室の奥から、わざとらしい溜息と共に一人の男が歩み寄ってきた。再雇用職員の古谷(フルヤ)だ。
 かつて土木技師としてこの街の基礎を築いたはずの男は、今やその基礎を食いつぶす側に回っていた。

 「ああ、痛てて……。どうも最近、この膝が言うことを聞かなくてなぁ」

 古谷は仰々しく右膝をさすりながら、手近な椅子に腰を下ろした。
 その動きは緩慢だが、眼球の奥にある狡猾な光までは隠せていない。
 彼は最新のBMIライセンスを役所の経費で更新し、自分だけは常に「最も解像度の高い天国」に身を置いている。
 彼が享受する「天国」の維持費は、本来なら真壁が求める擁壁の修繕費に回されるべき予算から捻出されていた。

 「和久井君、悪いんだが今日の廃棄エリアの現調、私はパスさせてもらえんか。この通り、物理的な移動が厳しくてね。代わりに若いサト君に行ってもらおう。彼なら足腰も軽いだろうし、現場を学ぶいい機会だ」

 古谷の言葉には、抗いがたい「世代の重み」が乗っていた。
 彼は知っている。自分が積み上げてきた「過去の負債」を、若者が肩代わりするのがこの世界の暗黙のルールであることを。
 彼らの世代が、百年の耐久性を謳うインフラ基礎を捨て、目先のライセンス更新料という名の「見かけの快適さ」に予算を注ぎ込んだ。
 そのツケは、常に現場を歩く若者の肉体へと転嫁される。

 和久井は無機質な視線を古谷に向け、一瞬の演算の後、短く頷いた。

 「承知しました。古谷さんはデスクでライセンス管理のバックアップを。サト、指示を聞いたな」

 佐登の網膜の裏側で、不快な熱が跳ねた。
 古谷が「膝の痛み」という嘘を吐くたびに、自分たちの未来が少しずつ削られていく。
 その嘘は、若者の時間を、視力を、そして精神を「燃料」として燃やすための点火スイッチだった。

 「……わかりました。行ってきます」

 佐登が声を絞り出すと、古谷は満足げに目を細めた。

 「助かるよ。いやぁ、今の若い人は頼もしい。私たちの頃はもっと過酷だったが、君たちはデバイスがあるから楽でいいな」

 古谷の言葉が、佐登の脳内で生理的な嫌悪へと変換される。
 楽? 眼球を焼き、脳を麻痺させ、現実の腐敗から目を逸らし続けるこの「黄金の繭」のどこが楽だというのか。
 古谷のような「逃げ切り世代」が、自分たちの痛みを若者に押し付け、その若者がデバイスなしでは生きていけないほどに精神を摩耗させていく。
 彼らは「自分たちが作った世界」の責任を負うことなく、デジタル・パッチの奥へ隠居し、残された「質量」の処理を佐登たちに押し付けている。

 佐登は拳を握りしめた。
 手のひらに食い込む爪の感触だけが、唯一の生々しい真実だった。
 真壁が隣で、悲しげに、あるいは憐れむように佐登を見つめていた。
 彼女の爪の間にある泥と、佐登の網膜を焼く光。そのどちらがより残酷な「現実」なのか、今の彼には判断がつかなかった。

 「サト、準備しろ。廃棄予定エリアの座標を転送する。あそこは……パッチの届かない場所だ」

 和久井の言葉と共に、佐登の視界に赤く点滅するエラー・コードが割り込んできた。
 管理区域の外。地図から消された「灰色」の土地。
 行政が「維持コストに見合わない」と断定し、生存権のパッチを剥ぎ取った棄民の地。
 そこへ向かうことは、佐登にとって、自分を繋ぎ止めている「黄金の皮膜」を強制的に剥ぎ取られることと同義だった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【アラウコの叫び 】第4巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日19:20投稿】 4巻は、序盤は「推理もの」、中盤から後半は「ロマンスもの」が展開されます。 ・サンティアゴで起こる「事件」と「裁き」 ・「アンデスの悪魔」として悪名を轟かせた狂気の老人カルバハルの存在感 ・ニドス家の兄妹の「行く末」 ・イネスとバルディビアとの「出逢い」と「結末」 大きく分けてこの様な展開になってます。 ------------------- 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

 【最新版】  日月神示

蔵屋
歴史・時代
 最近日月神示の予言本に不安を抱いている方もあると思うがまったく心配いらない。  何故なら日月神示では「取り越し苦労や過ぎ越し苦労はするな!」 「今に生きよ!」  「善一筋で生きよ!」  「身魂磨きをせよ!」  「人間の正しい生き方」  「人間の正しい食生活」  「人間の正しい夫婦のあり方」  「身も心も神さまからお借りしているのじゃから夜になって寝る前に神さまに一旦お返しするのじゃ。そうしたら身と心をどのようにしたらよいか、分かるじゃろ!」  たったのこれだけを守れば良いということだ。  根拠のない書籍や情報源等に惑わされてはダメだ。  日月神示も出口王仁三郎もそのようなことは一切言っていない。  これらの書籍や情報源は「日月神示」が警告する「臣民を惑わすものが出てくるから気をつけよ!」 という言葉に注目して欲しい。  今回、私は読者の皆さんに間違った解釈をされている日月神示を分かりやすく解説していくことにしました。  どうか、最後までお読み下さい。  日月神示の予言については、私が執筆中の「神典日月神示の真実」をお読み下さい。    

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

処理中です...