摩耗の閾値

端野ゼロ

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第1章 黄金の繭 —— 加工された幸福の対価

デバイスが作る「黄金の朝」

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 網膜を焼く光のグリッドが、強制的に意識を覚醒させた。

 「おはようございます。サト様。本日も、あなたにとって最も最適な一日を」

 耳元で囁くV-Assistの合成音声は、母の愛撫よりも甘く、そして機械特有の冷徹さを孕んでいる。
 佐登(サト)は、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)が眼球の裏側で発する微かな熱を、愛おしい体温のように受け入れた。

 このBMIは、2030年代後半に普及した視神経直結型のナノインプラントだ。脳内の視覚野と嗅覚野へ、網膜投影と連動した微弱な信号を送り込み、限定的に「現実を上書きする」。後の2081年に完成する、意識そのものをデータへと亡命させる「完全な救済」には程遠い、未だ肉体の重力に縛られた不完全な代物でしかなかった。
 今の彼らにできるのは、視覚と嗅覚という二つの入力回路を占拠し、脳に「そうである」と解釈させる程度のコントロールに過ぎない。肌に纏わりつく不快な湿気、地盤の限界が発する物理的な震動、そして何より「肉体そのものが発する不快なノイズ」——それらを完全に消し去る力は、このデバイスには備わっていない。

 それでも、22歳の佐登にとって、この不完全な「黄金の皮膜」こそが、絶望的な現実から目を逸らすための唯一の、そして最強の盾であった。

 瞬きをひとつ。
 視界を支配する光の層が、現実という名の「腐敗」を塗り潰していく。

 数秒前まで天井の隅で黒々と広がり、不吉な領土を広げていたカビの斑点は、豪奢な白木の梁へと姿を変える。湿気で無惨に剥げ、建物の寿命を露呈させていた安普請の壁紙は、シトラスの香りを放つ最高級ホテルのテクスチャに書き換えられた。窓の外に広がるはずの、予算を打ち切られ、行政から見捨てられて灰色の残骸と化した街並みは、デバイスによって「永遠の朝を享受する理想郷」へと加工されている。

 「……っ、ああ……」

 佐登は背筋を走る微かな戦慄に身を震わせた。
 起動と同時に視界の端々へ流れ込んでくる膨大な情報の奔流。ニュース、スケジュール、天候、そしてSNSのタイムラインが、鮮やかな光の粒子となって網膜の上で踊る。
 それは脳そのものをハックするような洗練された技術ではない。しかし、極彩色に加工された情報の濁流は、視覚という窓口を通じて脳の報酬系を執拗に叩き、擬似的な多幸感を誘発する。新しい情報を「見る」たびに、脳は渇きを癒やすように次の刺激を求めてしまう。情報の洪水そのものが「生理的な快楽」として学習され、いつしかそれなしでは一秒の沈黙にも耐えられない、情報の熱への「中毒」へと変質していた。

 静かで、暗く、カビ臭いだけの「情報のない現実」を直視することは、今の彼には死にも等しい。情報の熱に浮かされ、視覚が甘美な嘘に占拠されている状態こそが、彼にとっての唯一の生存戦略となっていたのだ。

 「完璧だ……。これで、今日も生きていける」

 佐登はベッドから身を起こし、細く、隈の刻まれた指で空(くう)を撫でた。指先が触れたのは、宙に浮くホログラムの洗面台だ。
 現実の彼は、築40年のアパートの錆びた蛇口から出る、鉄を噛み砕く赤褐色の鱗を孕んだ冷水で顔を洗っているはずだった。だが、視覚と嗅覚への限定的な介入は、その濁った水を「聖域の湧水」に見せかけ、鼻を突く鉄臭さを「最高級石鹸の芳香」へとすり替える。

 脳は、手のひらに触れる水の「冷たさ」という物理的な情報を無視できない。触覚までは誤魔化せないのだ。しかし、視覚から入る強烈な「黄金の光」と、鼻腔を満たす「清潔な香り」が、その冷たさを「清涼感」という好意的な意味へと脳内で無理やり翻訳させる。不完全なデバイスが、欠落した触覚補正を補うために、他の感覚器を使って脳を力ずくで誘導しているのだ。その歪な感覚のねじれこそが、2038年を象徴する「摩耗」の正体であった。

 だが、その不自然な調和の隙間に、暴力的なノイズが走った。

 「……?」

 黄金の壁紙が一瞬だけ、ストロボのように激しく明滅する。
 書き換えられた白木のテクスチャの裂け目から、剥き出しになったコンクリートの「深い亀裂」が覗いた。それは網膜に焼き付くような残像を残して消えたが、佐登の脳は、その亀裂が建物の構造を根本から破壊しようとしている事実を一瞬だけ捉えてしまった。システムが演算を放棄した、現実の「質量」の露出。

 デバイスの過負荷か。あるいは、この街のインフラそのものが上げている断末魔か。

 佐登は激しい眩暈と共に、不快なデジャヴに襲われる。
 停電した暗い体育館。重く湿った空気に混じり合う、数千人もの他人の体臭と、絶望の混じった吐息。そして、劣悪な衛生環境で皮膚病を患った自分の腕を洗うための、冷たくて濁った、泥の粒子を孕んだ水の感触。
 それは幼少期、デバイスという「救い」がまだこの世界を覆い尽くしていなかった頃の、呪わしい記憶だ。あの頃の自分は、パッチという嘘を知らず、ただ剥き出しの苦痛の中にいた。

 「……キャンセル。思考、ノイズ・キャンセル! 消えろ、消えろ!」

 彼は激しく首を振り、アルゴリズムに命じて記憶の断片を強制的にアーカイブの奥底へ追いやった。
 あんな不潔な肉体の苦痛には、二度と戻らない。
 情報の熱に浮かされ、黄金の皮膜に守られている限り、自分は価値のある人間として、清潔な世界の一部でいられる。現実の自分がどれほど安アパートの湿気に蝕まれていようと、パッチが身を包んでいる限り、それは「存在しない」ことと同義なのだ。

 その時、足元から物理的な振動が伝わってきた。
 V-Assistはそれを「爽快な朝を告げる地下鉄の心地よい響き」として解釈するよう視覚的なエフェクトを強調し、脳に多幸感を促して不快感を粉飾する。
 しかし、触覚への介入を持たない不完全なBMIは、その下層に眠る不吉な地鳴りまでは消し去れない。実際には地盤の限界が発する、低く、重い、破壊の予兆。足首を掴む湿った重力が、確実にこの部屋を、この街を、底なしの泥濘へと引きずり込もうとしていた。

 佐登は鏡(という名の空中の映像)に向かい、自身の隈を隠すようにデバイスの出力を最大まで上げた。
 視界が情報の濁流に埋め尽くされるほど、不安は忘却の彼方へ押し流されていく。網膜を焼く光が強まれば強まるほど、彼は自分が「肉体」という重荷から少しずつ解き放たれていくような錯覚に浸ることができた。

 この「黄金の仮面」を完成させなければ、あそこには立てない。効率と最適化という冷徹な論理が支配する、市役所という名の戦場には。

 今日の業務は、市役所での棄民計画「戦略的撤退」の補助だ。それは、地図上の「赤字区画」を「灰色」に塗りつぶし、そこに住む生身の人間の存在をデジタル上の統計データへと変換する冷徹な儀式に他ならない。上司である和久井の指示に従い、住民たちの不満というノイズを「最適化」という言葉で濾過していく、魂を削るような単純作業。

 佐登は震える指先を整え、外の世界へ踏み出すための「黄金の仮面」を完成させた。鏡の中に映る自分は、非の打ち所がないエリート職員の貌(かたち)をしている。だが、その滑らかな虚像の裏側で、彼の眼球は充血し、過剰な視覚情報に焼かれ続けていた。狂おしいほどの熱が脳を蹂躙し、現実の不快さを「見ない」ことへの代償を、絶え間ない拍動として刻みつけていた。
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