摩耗の閾値

端野ゼロ

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第2章 泥の聖域 —— 棄てられた街の質量

山の悲鳴と、古き土木の幽霊

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荒木が足を止めたのは、巨大な垂直の絶壁の前だった。

高さは、およそ5メートル。 かつては斜面の崩落を防ぐために築かれたはずの擁壁(ようへき)だ。 だが、その表面はもはや土木構造物としての尊厳を、無残に剥奪されている。

 コンクリートの割れ目。  そこから覗く鉄筋は、酸に冒された巨人の肋骨(ろっこつ)のように歪(いびつ)に折れ曲がっていた。 金属の表面を覆うのは、長年の湿気が凝縮した、構造体を蝕む酸化の記憶だ。 崩壊を告げる金属の剥離音が、風に乗って佐登の鼓膜を微かに叩く。 剥がれ落ちた無機物の欠片(かけら)が、足元の泥濘(ぬかるみ)の中に、墓標のように散らばっていた。

「……これを見ろ」

荒木が、節くれだった指で壁を指し示した。

壁面の中央を縦に引き裂く、巨大な裂け目。 そこから、赤錆びた汚濁が、粘膜のように執拗に滲み出している。  ドクン、ドクン。  大地の断末魔に合わせて、濁った液体の奔流が壁の表面を伝い落ちる。 それは、行政システムが隠蔽(いんぺい)しきれなくなった都市の「出血」そのものだった。

佐登の視覚野に、再びV-Assistの通知が暴力的に割り込んだ。

『周辺構造物:異常なし。耐用年数:余裕あり。』 『推奨:このまま直進してください。』

網膜を焼く光のグリッドが、網膜投影の限界出力を維持しようと、神経細胞を過電流で焼き切る勢いで明滅する。 システム上では、この擁壁は「最新の耐震補強済み」の、滑らかで清潔な石壁として描かれている。 現実にある苔(こけ)むした湿気も、崩落したコンクリートの欠片も。 すべては思考を先回りする冷徹なアルゴリズムによって、甘美な光の粒子で覆い隠されていた。

「……おかしい。データでは、ここは完全に補強されているはずです」

佐登の声は、激しい眩暈(めまい)とともに震えた。

「データ、データか」

荒木が鼻で笑った。 彼はその枯れ木のような指を、壁の深い亀裂(きれつ)へと無造作に差し込んだ。

「ほら、触ってみな。お前の機械が『安全』だと抜かしている場所の、本当の温度を」

佐登は躊躇(ちゅうちょ)した。 だが、荒木の射抜くような視線に押され、泥に汚れた右手を壁に伸ばした。 指先が、視界の中では「磨き抜かれた大理石」であるはずの場所に触れる。

 ひび割れの奥。  指先が触れたのは、湿った冷たさではない。  生物の死に際の体温を模したような、異常な「熱」だった。

 地質学的な圧力。  背後の膨大な土砂が、崩壊の閾値(しきいち)を超えようと、壁を内側から押し潰している。 その巨大な質量が、コンクリートの粒子同士を執拗(しつよう)に擦り合わせ、悲鳴のような摩擦熱を発していた。 指の腹を伝わる、ザラザラとした骨折の感覚。 それはBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)が提供する、どんな高精細な触覚フィードバックよりも生々しく、佐登の脳に「死」の予感を叩き込んだ。

「熱い……!? これ、中が動いてるのか」

「崩れる寸前だ。中蔵が限界を超えてやがる」

荒木の言葉と同時に、足元から地鳴りが響いた。 ズズ、という低い、空間そのものが歪(ゆが)むような振動。  それはデバイスが作る擬似的な震動ではない。  足の裏の皮膚、膝の関節、そして内臓を直接揺さぶり、本能的な恐怖を呼び覚ます、物理的な破滅の予兆。

佐登は反射的に手を引いた。 手のひらには、鉄を噛み砕く赤褐色の鱗がこびりつき、指の間には粘りつく黒い拒絶が入り込んでいた。 この「汚れ」こそが、パッチによって隠蔽されていた、この街の真の貌(かたち)なのだ。

「和久井さんは……市役所は、これを知っているはずだ」

佐登の脳裏に、冷徹な合理性で「戦略的撤退」を説く上司の顔が浮かんだ。 彼らが予算を削ったのは、人がいないからではない。 物理的な修繕コストが、全市民の視覚を支配する黄金の皮膜を維持する「ライセンス更新料」を下回ったからだ。

だから、見ないことにした。 視界を占拠する虚構の光で覆い隠し、崩れるその瞬間まで、データ上では「安全」であると定義し続ける。 それが、彼らの言う「最適化」の正体だった。

「奴らにとって、この壁が崩れるのは『予定通り』なのさ」

荒木が壁から手を離す。 その動作一つにも、重力に従って生きる者の諦念と、わずかな抵抗が混じっていた。

「人が死のうが、街が埋まろうが、記録を書き換えりゃ『無かったこと』にできる。……そうだろう、行政様?」

 佐登は何も言い返せなかった。  視界を占拠する情報の濁流が、執拗に「ALL GREEN」の文字を網膜に焼き付けてくる。 目の前で、壁の一部が音を立てて剥落した。 アスファルトを侵食する汚濁の奔流とともに、コンクリートの塊が、佐登の靴をさらに汚していく。

彼は、自分が立っている地面の「質量」が、自分を飲み込もうとしている恐怖を、鮮明に自覚していた。 神経を麻痺させる黄金の光は、もうこの崩壊の鼓動をかき消してはくれなかった。

 視界の端。  2038年10月14日。  時計の数字だけが、無機質に時を刻み続けていた。

「行くぞ。ここに長居すりゃ、お前も『消された記録』の一部になる」

荒木が再び泥濘(ぬかるみ)を踏みしめ、歩き出す。 佐登は、剥がれ落ちたコンクリートの残熱を指先に残したまま、重い足取りでその後を追った。 一歩歩くごとに、足首を掴む湿った重力が、世界の終わりの秒読みのように聞こえていた。
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